第11話 リハーサルの夜
ライブハウス「森ノ音」のステージは、
長年の音と熱が染みついたような独特の匂いに包まれていた。
壁には古いポスター、床は靴跡で削れ、照明の焦げ跡が天井に残る。
狸たちが人間に混じって夢を追うには、ちょうどいい夢と現実の境目みたいな場所だった。
「じゃあ、音出しますねー」
PAスタッフの声に、片桐さんが軽く手を上げる。
「お願いします!」
狸バンド《腹鼓ブラザーズ》が作った音源が流れ出す。
太鼓のようなビートがホールの壁を震わせ、三人の体を包み込んだ。
片桐さんを中心に、理沙、ふたばが並ぶ。
イントロ、ターン、手の振り。
一瞬、三人の動きが揃いかけた――そのとき。
ふたばの足が止まった。
リズムがずれ、手の動きも追いつかなくなる。
「……ごめんなさい」
ふたばはマイクを下ろし、うつむいた。
「やっぱり私、ダメです。
片桐さんみたいにうまく踊れないし、
理沙ちゃんみたいに堂々とした顔もできない……」
片桐さんはすぐに隣へ歩み寄り、そっと肩に触れた。
「焦らなくていいよ。ふたばはふたばのままで、ちゃんと可愛いんだから」
「でも……」
涙が滲み、ふたばの声が震える。
理沙は小さく息をついて、ふたばの背中を軽く叩いた。
「ステージってね、自信のあるフリから始まるんだよ。最初はみんな、堂々としてる“フリ”しかできないの」
……気づけば、僕はステージに上がっていた。
「……ふたばちゃん」
三人の視線がこっちを向く。
喉がひどく乾いていたけれど、引き返せなかった。
「君はさ、確かに踊りはまだぎこちないかもしれない。でも、君は一番“愛嬌”があるじゃないか」
ふたばが顔を上げた。
「愛嬌……?」
「そう。見てる人を思わず笑顔にしちゃう力がある。それって、君にとって一番の武器だろ?」
一瞬、空気が柔らかくなった。
ふたばの目が、ほんの少しだけ光を取り戻す。
僕は思わず声を張った。
「俺も最初、狸腹鼓保存会に入ったとき何もできなかったけど、木村先輩が言ってた。“狸は腹で語る”って!」
そう言って、腹を叩いた。
ぽん!
ステージに響く間の抜けた音。
「……聡くん、さすがにアイドルはお腹叩けないよ」
片桐さんが笑いながら呆れる。
理沙が肩を揺らして笑い、ふたばが泣きながら笑った。
「なんか……元気出ました」
「でしょ?」
僕は腹を張った。
「完璧より、狸らしい“ぽんぽこ”でいいんだよ」
片桐さんが静かに頷いた。
「そうだね。私たち“ぽんぽこトリオ”なんだから。失敗したって、笑いに変えられたら、それで勝ち」
ふたばは涙を拭いて、再び立ち上がる。
片桐さんがPAに合図を出し、音楽がまた流れ出す。
今度のふたばは、笑っていた。
ステップもまだ不揃いだったけど、見ている方まで笑顔になるような、そんな笑いだった。
片桐さんが、ふと僕を見て言った。
「……ありがと、聡くん」
「片桐さん応援隊隊長ですから」
「……バカ」
小さく呟いて、髪を耳にかけた。
ライトの下、彼女の尻尾がかすかに揺れて見えた。
ステージの音が止んでも、僕の胸の中では
ぽんぽこぽん、という鼓動がずっと鳴り続けていた。




