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1.

 海。暗くて冷たくて、孤独な場所。

 それが、私――アイリス・トリトニアの育った世界の全てだった。


 太陽の光は水面に反射して煌めく。だけれど、その光が海の底まで届くことは滅多にない。光の届かぬ深みでは、すべてが静止しているかのように思える。水の流れさえ重く、冷たい。


 自由なんてものは存在しない。

 私の周りにあったのは、ただ規律のみ。群れを乱すことは許されず、誰かに寄り添うことも、心を分け合うことも禁じられる。


 ――ここは、秩序に支配された牢獄。


 王族として生まれた私は、ただその中で生きることを義務づけられた存在にすぎなかった。

 与えられた役割を果たし、数多ある危険から生き延びていずれ出会う自身のパートナーと交わり、血を残し、冷たい群れの一部として生きる。それが人魚の世界。


 けれど、私は幼い頃から知っていた。

 心の奥に、海が与えてくれない何かを求める自分がいることを。


 ――愛。

 ――温もり。

 ――そして、自由。


 それは、海には存在しない概念だった。

 けれど私は、それを知らずにはいられなかった。


 ある日、いつものように光につられて海面近くを泳いでいた時のこと。波間に、見慣れぬ影が揺れていた。上半身は私たちと同じなのに、下半身が違う。本来鰭があるはずの場所に、二本の奇妙な肢が伸びている。息ができないのか、口から泡を溢れさせながら必死にもがいていた。


 ――あぁ、これが人間だ。


 直感でそう理解した。かつて姉が語ってくれた恋物語。人間と結ばれた人魚姫の伝承。その特徴は目の前の彼と一致していた。

 そして思い出す。人間は、海では息ができない存在。


 次の瞬間には、私は動いていた。

 沈みゆく少年の身体を抱きとめ、冷たい海を駆け上がる。


 そして――水面を突き破った。


 頬を打つ風。肌を包む乾いた空気。

 頭上には、これまで想像すらしたことのない広がりがあった。


 空。

 それは、海の底でどんなに目を凝らしても見えなかった色だった。


 眩い光が一面に弾け、世界は途端に色が浮き出た。

 海の中ではすべてが青と影の濃淡に沈んでいたのに、ここには数えきれないほどの色彩が。白く砕ける波頭、金色に揺れる砂浜、そして目を焼くほど澄み切った空の青。


 あまりの鮮烈さに、胸が苦しくなる。

 私はただ、腕に抱いた少年の重さを確かめながら、この広大な世界に飲み込まれそうになっていた。


 どうにか彼を砂浜の際まで引き摺り、頭が波に呑まれない位置に横たえた。それでも時折、打ち寄せる波が彼の身体を揺らし、彼の濡れた黒髪を砂に貼りつかせていく。

 細かくざらついた砂の感触は、岩や貝殻とも違い、私にはあまりにも異質で――思わず身じろいでしまう。


 私はその隣に身を寄せた。

 下半身はまだ海の中にある。けれど、上半身だけを水面の外に出すと――ずしりとした重みが肩や腕にのしかかった。

 初めて知る感覚だった。海の中では当たり前に浮かんでいた自分の身体が、今は水に支えられず、自分自身の重さに押し潰されそうになる。


 息は出来ないわけではないけれど、するだけで苦しく、肌にまとわりつく空気は乾きすぎていて痛い。

 砂のざらつきも、波に揺れる身体の重さも、何もかもが異質で――私はただ呆然とした。


 けれど、そんな驚きや戸惑いよりも、私の意識を奪ったものがある。


 静かに眠るその少年の顔。

 その胸が、かすかに上下するたび、私は深い安堵を覚えていた。


 やがて、彼が小さく呻き声を漏らした。

 閉じられていた瞼が震え、指先がかすかに砂を掻く。


 私は思わず息を呑む。

 どうすればいいのかわからない。ただ見守るしかできなかった。


 少年はゆっくりと目を開いた。

 濡れた前髪が視界を遮っていたが、自分の手でそれを払いのけ、ぼんやりと周囲を見渡す。

 打ち寄せる波、見知らぬ砂浜、そして――私。


 視線が絡んだ瞬間、世界が止まったように感じた。


 彼の瞳は、私の知る海のどの青とも違っていた。

 今日初めて見た、澄み切った空そのものを閉じ込めたような、あまりにも鮮烈な青。


 胸が、きゅうと締めつけられる。

 初めて水面に顔を出した時よりも、初めて重力を知った時よりも、もっと大きな衝撃。


 ――あぁ、これが恋なのだ。


 気づけば頬が熱くなっていた。心臓が速く打ち、息をするのも苦しいほど。

 私は耐えきれず、彼の視線から逃げるように身を翻した。

 浅瀬の水飛沫が弧を描き、私は慌てて海の底へと潜り込む。


 ただひとつ確かだったのは、私の心は、あの青い瞳に捕らわれてしまった、ということ。


 けれど――海の中に戻ると、その感覚はすぐに禁忌のように胸を締めつけた。

 人魚は、群れ以外に愛を向けてはならない。

 ましてや、人間に心を奪われるなど言語道断。

 それを知りながらも、私はどうしても彼を忘れることができなかった。


 彼の顔。彼の青い瞳。

 砂浜に溢れていた光と色彩。

 気づけば、夢の中でも何度も思い出していた。


 ――あの日から、私の時間は止まってしまったのだ。


 そして、五年の月日が過ぎた。

 忘れられぬ恋心に耐えきれず、私はついに“海の魔女”のもとを訪ねることになる。


 魔女の棲む洞は、深海の裂け目に穿たれた暗い洞窟だった。

 光も届かず、ただ無数の燐光生物が壁に張りついて、不気味にまたたいている。

 冷たい水の流れの中、私は震える心を抑えて中へ進んだ。


「おや……珍しいねぇ。」


 低く湿った声が闇の奥から響いた。

 影のようにゆらめく髪をした八本の足を持つ女が、ゆっくりと姿を現す。

 魔女が蛸の人魚であるという話は本当だったらしい。

 その瞳は紫に光り、笑みを浮かべていた。


「王族の娘じゃないか。もしや――また人間になりたいとでも言いに来たのかい?」


 胸が跳ねた。どうして知っているのかと訝しむより先に、私は迷わず答えていた。


「……はい」


 魔女はふっと笑った。


「やっぱりね。王族は時折こうして私を訪ねてくる。何百年も前にね、一人の人魚姫が人間の王子と結ばれたことがあった。その血は今も濃く残ってるんだねぇ。」


 指先で水をかき混ぜながら、彼女は楽しげに続ける。


「本来なら、人魚が群れ以外に愛を向けることは有り得ない。生まれながらにそういう仕組みになってるからさ。けど――王族には時々、例外が生まれるのさ。あの人魚姫の血を受け継いだ、“欠けた者”がね」


 ぞくりと背筋が震えた。

 欠けた者。

 その言葉に、自分の心臓が強く打つのを感じた。


「……それが、私」


「そうさ」魔女は薄く笑う。「だからお前は、恋なんてものを知ってしまった。海には存在しないはずのものをね」


 私は拳を握りしめた。

 たとえそれが“欠陥”だとしても、この想いを捨てることはできない。


「お願いします。人間にしてください。あの人に、もう一度会いたいんです」


 魔女は水面の揺らぎを指で撫でるようにして言った。


「いいかい、王族よ。人間になるということは、代償を伴う。覚えておきな。」


「……代償、ですか?」


「一つ、海には二度と戻れないこと。水の中で自由に泳ぐことは、もう二度とできない。二つ、人間にお前が人魚であることを話してはいけないこと」


 なんだ、そんなことか。と私は少し拍子抜けしたような気持ちで、その話を理解した。


「わかりました。構いません」


 魔女は楽しげに笑った。


「ふふふっ、そうか。では薬を渡そう。あの場所で飲みなさい、あの日お前が彼を抱き上げた浅瀬で」


 薬を受け取り、私はあの砂浜へと急ぐ。心臓が高鳴る。波のさざめきが、まるで私を呼んでいるかのようだ。


 浅瀬までやってきて、薬を口に含むと、すぐに全身に鋭い痛みが駆け巡る。胸の奥まで針が突き刺さるような、激しい感覚――そして意識が遠のき、目の前の世界がぐらりと揺れた。


 水の温もりと冷たさが入り混じり、光が瞬く。身体が引き裂かれるように感じながら、私は深い闇に落ちていった。

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