つめたいあなた
婚約者を毛嫌いしていると噂の伯爵令息とその婚約者の話。
麗らかな日差しに照らされた学園の廊下にて明るい話し声が絶えない集団が向こう側から歩いてきます。その中心にいらっしゃる方は焦茶色の柔らかなセミロングの髪を黒茶地のストライプリボンで緩く結び、真朱色の瞳を細めて穏やかな笑みを浮かべておりました。
彼の名前はデニッシュ・チキンソテー伯爵令息。頭が良く、顔も良く、気さくで人当たりの良い彼は今日もたくさんのご友人方に囲まれてなんとも楽しそうです。誰に対しても分け隔てなく接する優秀な彼には自然と人が寄りつきお近付きになりたいと望む者は後を絶たず、ご学友はもちろん熱い視線を送ってしまう令嬢だって少なくありません。
──彼には定められた婚約者がいるというのに、です。
通常であれば令嬢方のその様な振舞いは褒められたものではありません。婚約者のいる方にあからさまに懸想するなどと常識で考えれば男女問わず顰蹙ものです。ですがそれは、そんな『誰にでも優しい彼』に例外が存在するからに他ならず……。
「ごきげんよう、デニッシュ様」
「………ああ、ごきげんよう。マーブル」
それまで穏やかな表情を浮かべていた彼がそう声を掛けられた途端、視線を合わせる前から顔を顰めて素っ気ない挨拶を返しました。あまりにもあからさま過ぎるその態度に、遠目から見ていた彼狙いの令嬢達はヒソヒソと楽しげに、この場にいる彼のご友人達もなんとも言えない表情を浮かべるばかり。
居心地の悪い空気が蔓延する前にさっさと通り過ぎれば、また後方からじわじわと盛り上がる気配。
はてさて何を話しているのかしら……。
私は一つ溜め息を吐きつつ、それらを振り切るように歩き出しました。
何を隠そうこの私、マーブル・クロワッサンこそが彼の婚約者であり、彼の『例外』なのですから。
「お嬢様、お手紙が届いております」
「ありがとう」
王都のタウンハウスに帰宅しあれこれ済ませて漸く一息ついた頃、侍女からいつもの手紙が渡されました。
相変わらず分厚いこと。
色付きだったり香りや押し花があしらってあったりの違いはあれど、最早そらで模様を描けそうな程に見慣れた封蝋から、誰が送ってきたかなんて差出人を見ずとも明白です。
本当に困った人だと思いながらその封を切れば、中からビッシリと文字の書かれた便箋が幾つも幾つも出てきます。今日はいつもより少し多いかしら?
きっとアレの所為ね、とあたりを付けながら読み進めれば……案の定。
そこには『親愛なるマーブルへ』から始まり時候の挨拶が美しい筆跡で続けられたあと、長々と、本当に長々と、今日の謝罪が三割、私への賛辞と情熱的な言葉が五割、今日は時間が取れず申し訳なかったけれど明日会えるのが楽しみで仕方ないという内容が二割の、ほぼ恋文が綴られておりました。
一体誰からの手紙かと言えば、婚約者のいる令嬢に堂々と恋文を送って来られる相手なんて一人しか存在しません。
そう、私の婚約者──デニッシュ様です。
彼は今日学園でお会いした時はあんな態度でしたが、手紙の上では途端に饒舌かつ情熱的になるのです。因みに当初は謝罪が五割でしたがわかっているから減らして頂戴と進言してこの配分に落ち着きました。
普段もこの手紙くらいの態度で接して欲しい……とはちょっとそのかなりご遠慮したいので言えませんが、せめてご友人と接する時くらいの対応をしてもらいたいところ。けれど、それがどうにも難しい。
彼は別に二面性があるとか、本当は私のことを毛嫌いしているけど婿入り先の心象を良くするために形として残る手紙でだけ綺麗事を並べているだとか、巷のロマンス小説のようなドロドロとした思惑があるのかと言えばそういうのは一切ありません。驚いたことに。
彼は私のことをきちんと愛しているのです。
それは呆れてしまう程によくよく知っております。
両家の家族全員だって周知の事実です。
ただ、愛しすぎて愛しすぎて──あんな風になってしまっているから、こちらは呆れる事しかできないのです。
彼との出会いは、我がクロワッサン辺境伯領に顔合わせとしてご両親と共に来訪なさった三年前に遡ります。
彼の領地であるチキンソテー伯爵領は王都を挟んで反対側、国境の守護を任されているクロワッサン辺境伯領とはかなり離れておりますけれど、利害も一致して私と同い年、尚且つ一人娘に婿入りしてくれる次男以下の優秀な人物という事で、デニッシュ様との縁談が持ち上がりました。親同士が学生時代に仲が良かったというのも要因の一つかもしれませんね。
ほぼ決まりきった婚約ではありましたが当事者同士の相性もあるからと、遠路遥々こちらまで何とか都合をつけてチキンソテー当主夫妻共々出向いてくださったのです。
当然我が家は最大限のおもてなしと一緒に御家族を暖かく出迎えました。そんな屋敷の庭園で、
「妖精さん……妖精さんがいる…………父上、母上、ここは妖精の国なのでしょうか? あちらに妖精さんがいます」
と、デニッシュ様が当時の私を見てぽーっとそんな事を言ったものですから、両家の親達は大笑いして安心したのです。相性も問題なさそうだと。
事実、この時のデニッシュ様はしばしば私の挙動に見惚れてぼんやりする事はあっても応対にも問題ありませんでした。「こんな素敵な人の元に婿入りするのであれば、もっと相応しい人物にならねばなりませんね」と決意を新たにして、顔合わせ以後実際に「前より何事にも精力的に取り組んでいる」とチキンソテー伯爵家からお父様宛てに嬉しそうな報告があったくらいですし。
私とデニッシュ様の婚約はなんの問題もないと、寧ろ良縁だったかもしれないと、誰もがそう思いました。
しかしここで、現在の状況に至る二つの問題が出てきます。
まずは距離。
クロワッサン辺境伯領とチキンソテー伯爵領、両家の現当主夫妻は揃って学生時代とても仲がよろしく、「卒業の時『いつか領地に遊びに行くよ』と約束したけどやっと叶えられた」と久々の再会に熱い抱擁を交わすくらい、互いの領地はおいそれと行き来できる距離ではありません。顔合わせから一年半後くらいに、一度だけデニッシュ様と再び会う機会が得られそうでしたけれど、情勢が悪かったり我が領地への主要な道の途中で大規模な土砂崩れが発生し暫く使えなくなったりと様々な要因からそれは叶わず、顔合わせから三年間、私とデニッシュ様は手紙のやり取りだけで交流しておりました。
次に成長期。
顔合わせのあと私はすこし早い成長期を迎えて、どんどん背が伸びて体つきも大人びていきました。「顔合わせ当時は花畑でふわふわ舞っている妖精さんだったのが、この三年間でその妖精達を統べる妖精の女王になった。きっとデニッシュ君も驚くだろう」と両親からもニコニコ自慢げに言われてしまう程には。一人娘だからかお母様もお父様も親バカな面があるので、その時は大袈裟ですわねぇとしか思いませんでしたけれど、大袈裟ではなかったらしいのを後ほど私は身をもって理解する事となります。
──三年間です。
三年間、私とデニッシュ様は手紙のやり取りだけをしました。その間私とデニッシュ様がお会いする事は一度としてなかったのです。
そうして国中のほとんどの貴族子女が通うことになる王立オードブル学園に通学する為に入学式よりも一ヵ月以上早く王都に上がって準備を整え終えた私達の元に一通の手紙が届きました。それは同じく王都に来ていたチキンソテー伯爵家からのお誘いで『もし良ければ入学式の前に我が家でパーティをしないか』という内容でした。私も両親ももちろん喜んで承諾して、実に三年ぶりにクロワッサン辺境伯家とチキンソテー伯爵家両家集まってのパーティを行いました。
そしてそれは発生してしまいました。
デニッシュ様が、私を一目見るなり突然お倒れになったのです。
何を仰っているのかと言われるかもしれませんが、私達も何が起きたのかわかりませんでした。
私は普通に、挨拶をしただけ。
なのにデニッシュ様は「ミ゜ッ」と名状し難いお声を発したあと、顔を真っ赤にしてお倒れになりました。慌てて駆け寄って抱き起せば、まるでのぼせたのかのようなご様子と、その高い鼻からは血がたらり。
血相を変えた私達は急いで医師を呼んで、安静にできる場所へとご案内しました。パーティはもちろんお開きとなり心配で後ろ髪を引かれながらも私達が帰宅した後に、ようやく起きたデニッシュ様はぼんやりとした夢見心地の顔で開口一番にご両親にこう言ったとか。
「女神様……女神様がいらっしゃったんだが、ここは神の国だろうか……?」
流石に今回はだれも笑えませんでした。
どうも彼にとって私は、好みすぎて好みすぎて刺激が強過ぎるみたいなのです。「お声も、天上の調べとはきっとこんな風なのだろう」としみじみと語っていたらしいので、あの時の私の挨拶は全てが彼には劇物だったようなのです。挨拶をしただけなのに……。
そして、あんな一瞬で意識を失ったにも関わらず目に焼きつけていたのか彼は私の美しさを滔々と語ったあとに「神がなぜそのお姿を我々になかなか見せてくださらないのか、よくわかった。我々にはそのお姿が、存在が、あまりにも眩しすぎるからだ」と謎の悟りすら開いていたようでして。私はっ、挨拶をした、だけなのに……!
その後、快復したデニッシュ様をお見舞いに訪ねれば「ワァ……」と呟いてまたお倒れになり、それを二度ほど繰り返したことで両家共に確信しました。これはマズイかも、と。
夫婦仲が良いのは好ましい事ですが、妻が近付いただけで倒れる夫なんて、あまりにも外聞が悪過ぎます。デニッシュ様の体調も不安視されますし、私が呪いかなにかに掛かっているとも捉えられかねません。
そんな互いの家としてもよろしく無い事態をなんとかせねばならんと、大急ぎであれこれ実験と対策が行われました。
まずはとにかくデニッシュ様に今の私を慣れさせようと連日彼のタウンハウスに赴きましたが、馬車から私が降り立つのを出迎えることすら困難でした。なんでも侍従が扉が開いた瞬間から眩しいので心の準備ができない、と。なので次にデニッシュ様がこちらに出向く形にしましたが、今度は私の待つ部屋の扉を薄く開いては閉じ、薄く開いては閉じを繰り返して一向に進みません。どうやらそれでも近過ぎてダメで私が扉から一番遠い場所でお待ちしてみてもダメでした。仕方がありませんので屋敷で一番長い廊下の端と端でなんとかやり取りしてみたり、私の顔を布で隠したり体型が隠れるローブを羽織ってみたりと、入学式までの期間に多くの実証実験を経て、漸く出来ることと出来ないことがわかりました。
まずは距離。
二十メートルくらい離れていれば私の姿を見ていられるようになり、それ以上近付く場合は薄目でぼんやりとさせれば何とか大丈夫という事がわかりました。しかしそれでも三十秒以上私が側にいると私の天上の香り(?)でデニッシュ様がダメになってしまうので長くは側にいられません。
次に会話。
こればかりは最初、距離をあけてもデニッシュ様が私の声に蕩けてしまって全然言葉を出せず、また発声できたとしても激しく吃ってしまってまるで打楽器のような有り様になってしまい…………しかし、ここに関しては何度も何度も根気強く練習して、ようやく口数少なめに要点だけならば会話が可能という所まで持っていけました。けれどもこちらも同様に三十秒以上お話をしているとデニッシュ様が壊れてしまうのであくまで手短かに、です。
この時の私達は、あまりにも必死でした。
入学式まで時間がありませんでしたし、対外的にもデニッシュ様と私が婚約しているのは隠しておりませんでしたから、そんな二人が同じ空間にいるのは勿論、会話すらままならないなど以ての外だったのです。
しかし必死だったからこそ、私達は失念しておりました。
会話ができたとて、こんな有り様の私達が一体周りにはどのように映るのか、という事を。
──薄目でしか私を見れないデニッシュ様のお顔は、傍目には顔を顰めているようにしか見えず。
──口数少なく手短かに対応している様は、まるで早く会話を終わらせたいと考えている様にしか思えず。
──三十秒しか同じ空間にいられないというのは、同じ空間に長くいたくないと距離を取っているようにしか映らず。
何も知らない第三者からすれば、『デニッシュ・チキンソテー伯爵令息は婚約者のマーブル・クロワッサン辺境伯令嬢を毛嫌いしている』と噂されてしまうのは、至極当然のことでした。
入学してから程なくこの噂を聞きつけたデニッシュ様は、それはもう嘆き悲しみ即座に謝罪してきました。「自分のせいで貴女を苦しめてしまっている」と、「これなら自分が不名誉を被った方が何倍もマシだ」と、「学園で自分が鼻血を吹いて倒れる様を皆に見せつけてやる」と切々と、涙ながらに訴えてきたのです。
けれど私はそれらに首を横に振りました。
「貴方の謝罪は受け入れましょう。けれどそれ以外は認められません。私達のこれまでの時間を、努力を、無に帰すものです。もし、私に傷がつくのをどうしても嫌とお思いならば、その分だけ励めばよろしい事です。私も幾らでも付き合いましょう。だって、このままでは結婚式など夢のまた夢ですわ」
「ケッ……!?」
「私、どうせなら世界で一番美しい花嫁になって貴方の前に立ちたいと思ってますの」
デニッシュ様も見たいのではなくて? と続けたところで、ふとよくよくデニッシュ様を見れば土下座の体勢で気絶しておりました。先ほど一瞬顔を上げてらしたからその所為かしら? 前途多難ですわ……。
チキンソテー伯爵家も必死に噂を消そうと努力してくださいましたが、多くの学生達や先生方が通う学園にてこの現状が続くかぎりどうしようもない事でした。一応お互いに友人達との会話で婚約者を讃える話題を出してみたり、揃いのリボンをしてみたりと良好な関係をアピールしてはいるものの、現状では焼け石に水といった有様。根本的な解決をしない事にはどうにもならないとわかっていても、すぐ様どうにかできる事ではありませんのでつい気が滅入ってしまいます。
自室の椅子に座り「はあ……」と思わず漏れた息を吐き出してふと姿見を見ればミルクティー色をベースにチョコレートブラウンが所々筋状に入ったツートンカラーの縦ロールの女性が、ハニーゴールドの瞳を翳らせていました。その長い髪をハーフアップにさせた部分にはデニッシュ様と同じ黒茶地のストライプリボンが揺れております。少しでも噂を払拭しようと二人で選んだ思い出のリボンです。……勿論十分に適切な距離を取って、ですが。
あの時のなんともおかしな状況と戸惑った商人の顔を思い出して、つい笑みが溢れてしまいながら弱気を振り払って頭を切り替えます。
焦ったところで仕方ありません。
デニッシュ様はあれからずっと諦めずに日々努力なさっています。私だって諦めたくなどありません。私達の努力はたとえ少しずつだとしても着実に進歩していて、望む未来は確かに近付いているのですから。
それからもデニッシュ様と共にたくさん努力を重ねて、デニッシュ様がしっかり目を開いた状態で私を見ていられる距離も一メートル、二メートルと縮まっていき、お喋りの際の単語数もすこしずつ増え、お側にいられる時間も徐々に長くなっていきました。そして何よりも素晴らしい事は──
「…………はい、これで二十秒ですわ。デニッシュ様、素晴らしい進歩です!」
「ああ、だけどまだ二十秒だ」
微笑みを湛えつつもまだまだ向上心に燃える瞳に嬉しくなりながら、私は繋いでいた手を離します。
──そう、デニッシュ様が私と手を触れていられるようになったのです!
私を見るだけで倒れてしまうデニッシュ様に、私と接触するというのはとても……とても難しい事でした。それどころか初めてデニッシュ様が倒れた時最初に抱き起こしたのは私ですよとお話ししただけで「ぴぇ……」と昏倒してしまったぐらいなのです。互いに手袋をして手に触れるだけでも困難を極めました。けれど手すら握れないという事はエスコートも出来ないという事。これは由々しき事態です。
まだ成人前の学生の身分である私達は夜会などの参加は原則できず必要に応じて参加したとしても親同伴が基本であり、婚約者を伴ってパーティへ行く事はほぼありません。けれど学園の授業の一環として夜会の予行演習があります。文字通り、実際の夜会を想定したパーティを企画から実施まで通して学ぶのですがその際、既にパートナーのいる生徒はパートナーを伴っての参加が推奨されております。例えばパートナーと歳が離れており多忙や不調、その他参加できない事由があるとなればその限りではありませんが、私とデニッシュ様は同い年で学生同士ですからその手は使えません。どちらかが当日病欠するという手もありますが、やはりこの状況でそれをするのは悪手でしょう。であれば実際にパートナーとして参加し、私達の仲は問題ないと示さねばなりません。
「この調子で時間が長くなっていけば、ダンスのカリキュラムにもきっと間に合いますよデニッシュ様…………あら?」
ふと彼を見ればカタカタと震えて、顔から耳から手首から、肌が見えている場所すべてが茹でたシュリンプのように……。
「まあ! もうそんなにお時間経っておりましたのね!」
すみませんデニッシュ様! と即座に離れれば彼の症状は徐々に治っていきました。「自分が本当に情けない……」と私に謝罪しながらさめざめ泣く彼に苦笑しつつ、私はついしみじみとしてしまいました。
今、私がいる場所は彼からおよそ十メートルの位置です。これが現在のデニッシュ様が私と普通に接する事ができる距離なのですがもしかしたらもう少し近いかもしれません。最初の二十メートルの頃と比べたら、随分な進歩でございます。
「大丈夫ですよデニッシュ様。私は何度だってお付き合いします。十回だって千回だって十万回だってあなたのその努力に私は寄り添いましょう。あなたが諦めない限り、私達が気兼ねなくずーーっと一緒にいられる日もきっと、もうすぐですよ」
そう微笑みながら伝えればデニッシュ様はいたく感激して「ありがとうマーブル、ありがとう……」とまた泣き出してしまいました。あらあら、そんなに泣いたら瞳が溶けてしまいますよ。
どうにも私相手だと泣き虫になってしまう未来の旦那様に呆れてしまいながら、その涙を手ずから拭ってあげられない今が寂しくもありました。…………手以外の場所に触れるのは、まだ難しいのです。
私達の特訓はそれからも日々幾度となく行われました。
「デニッシュ様、もうそろそろ……」
「いやまだだ、まだいけるッ!」
「全身真っ赤ですわよ!? 頑張るのは素晴らしい事ですが無理はよくありま、……ああデニッシュ様ーー!」
「いきなりダンスを一通り行うのは時期尚早かと思います。またデニッシュ様は急に距離が縮まる──特に顔同士が近付くのにまだ慣れないご様子。ですから、まずはそこから慣らしていきましょう」
「苦労を掛けて申し訳ない。よろしく頼むマーブル」
「謝罪は不要ですと、何度も言ったはずですよデニッシュ様」
「そ、そうだったな。どうも君に迷惑ばかり掛けているという思いが強くて……ありがとうマーブル」
「ふふふ、どういたしまして。それに、これはデニッシュ様の為でもありますが、私の為でもあるのです」
「君の為?」
「はい。私も女の子ですから、早く好きな人とイチャイチャしてみたいんですの」
「すッ?! イ……!?」
「学園でも既に婚約者の決まっている方々の仲睦まじい姿や、友人達の話がどうしても羨ましくて……だからこれは私の夢のためでもあるのです。…………デニッシュ様?」
「だ、だ、大丈夫だ。だいじょ、大丈夫……うう、絶対頑張る一日でも早くやり遂げる」
「そうですか? では一緒に頑張りましょうね」
「あともう少し、あともう少しのところまで来ましたよデニッシュ様!」
「ああ、だがその少しが惜しい」
「ふふふ、もっと喜んでも良いのではなくて? 始めたての頃と比べたら見違える程ですのに」
「確かに、それもそうだね。全部君のおかげだマーブル。本当にありがとう」
「婚約者として当然ですわ。そして何よりも貴方の変わりたいと願う努力があってこそ。どうされますか? もう少し休みますか?」
「いや、君さえ良ければもう一回だけ付き合って欲しい。絶対に間に合わせたいし、いっそ余裕たっぷりなくらいを目指したいからね」
「ええ、勿論ですわ!」
──そうして幾日の夜を超え、宝石のように輝く満月と星々が美しい決戦の夜。
学園内にある豪奢なホールの真ん中で、シャンデリアの煌めきと楽団の華やかな演奏を受けながら私達はひとつの生き物のようにくるくると舞い踊っておりました。私をしっかりと見つめて微笑むデニッシュ様に私も微笑みで応えて、軽やかにステップを踏みながら曲の波にふたり優美な鰭を持つ魚のように泳ぎ回ります。
私達と同じように踊っている方々はもちろん、生徒とは離れて御子息御息女の成長を見にきた父母の方々といった観客の皆様からも驚きの目線がチラチラと注がれているのがわかりました。
それはそうでしょう、ずっと不仲と囁かれていた私達がこうも仲睦まじそうに踊っているのですから!
「とても楽しいわデニッシュ様。息が続くのならば、ずっとこうしていたいくらい」
「ああ、僕も同じ気持ちだマーブル。この世で一番愛しい人をこうして素晴らしい舞台で披露しながら腕に閉じ込めておけるのだから」
「まあ、困った独占欲が出てしまっていてよ?」
「見せびらかしたいし閉じ込めておきたいのさ。矛盾してるけど今だけは許しておくれ」
「ふふふ! 仕方のない人ね!」
くるくるとターンを踏みながらふと視界にお父様とチキンソテー伯爵の姿を捉えました。二人とも目に涙を浮かべて、なんならチキンソテー伯爵に至っては腕で顔隠しながら号泣してるようでお父様に宥められております。そのお姿にどうにも気が緩んでしまって、緩んだその隙間から温かなものが染み込んで身体中に広がっていくよう。デニッシュ様もお二人の存在に気付いたようで共に目を合わせたあと、そっと溢れるように微笑み合いました。
煌びやかな夜会の一時は、そうしてあっという間に過ぎていったのです。
私達の不仲説がほぼ払拭されてからもデニッシュ様とは特訓を重ねて、普通の婚約者のように日々を過ごす事が出来るようになりました。手を繋いでもお側にずっといても、もう時間を気にする必要もないくらい、と言えばわかって頂けるでしょうか。デニッシュ様も嬉しくて仕方ないようで、学園においても今までなら私に迷惑を掛けないようにと泣く泣く私と鉢合わせるのを避けていらしたのですけど、今となっては何かと一緒にいたがるようになってしまってそのはしゃぎ懐く様は大きな子犬のようだとデニッシュ様と私の双方の友人達から揶揄われておりました。
ただ不意打ちの至近距離はまだダメなようで、転びかけた私を抱き止めるもそのまま一緒に倒れてしまった時など私の下敷きになったデニッシュ様は久々に茹でシュリンプになって硬直してしまいましたし、私がイタズラな思いつきで耳元に息を吹き掛けるように囁いてみた時も「キュッ」と鳴いて倒れてしまわれたのでまだまだ注意が必要なようです。……面白いのでちょっと残っている分には良いかしら、と考えているのはデニッシュ様には内緒ですよ。ふふふ!
華やかで充実した日々に浸っている内に気が付けば年も明け、学年も一つ上がって青葉がのびのびと枝葉を広げて生茂る頃。
生憎の曇天となった空の下、私達は王都を離れて馬車に揺られていました。学園の夏の長期休暇に避暑を兼ねて我がクロワッサン領で共に過ごそうという話になり、一緒に向かっている所でございます。
夏季休暇も一緒に過ごしたいという話からそれならばどちらかの領に行くのはどうか、自分は婿入りする立場だからもう一度クロワッサン領を実際に見て回って勉学の励みにしたいとデニッシュ様からの熱い要望を受けて今回我がクロワッサン領に向かう事になりました。
デニッシュ様は久しぶりに私の両親に挨拶するからと張り切って贈り物を用意してくださった様で「荷馬車がパンパンになってしまった」と仰っていたのですが今から中を検めるのが怖いくらいです。既にチキンソテー伯爵夫妻からも「息子がお世話になるから」と沢山素晴らしい物を頂いたと両親から手紙が届いていたのですが……?
故郷に戻れるのは嬉しい筈なのに着くのが怖いというなんとも不思議な心境になりつつ私とデニッシュ様、侍従と護衛の騎士達、そして少々恐ろしい積荷を伴って私達は出発しました。
「今回は途中で運河を経由するんだろう? 実は船に乗るのが初めてだから今からドキドキしているんだ」
「ええ、途中にあるスコーン領で船に乗り換え、クロテッドクリーム運河を下ってクロワッサン領を目指しますわ。私も初めて乗った時は船酔いしてしまって、一応酔い止め薬を多めに持ってきてますから気分が悪くなったらすぐ仰ってくださいね」
運河の計画はかなり前から進められていたもので、歴史的にも何かと難癖を付けてくる隣国への警戒も勿論ありましたが、陸路だと地理的に遠回りになってしまう領地同士を繋ぐことが主目的でした。されど穏健派だった隣国の王が病に伏せった事によって激化した王位継承争いに伴う情勢の変化と、国境を守るクロワッサン領と他領を繋ぐ主要道路の土砂崩れによる流通の停滞を危険視した国の支援のもと迅速に工事が進み、私が学園に入る数ヶ月前にようやく開通したのがクロテッドクリーム運河です。複数の領に跨る大きな運河ですからこれによりさらに交易が活発になると完成前から期待されており、開通後は大きな利益を各領に齎しております。
運河はクロワッサン領に一部沿う形で流れているので領都に近い河港から再度馬車に乗り換え我が家を目指す旅程です。急ぎでもありませんし道中すこしの観光も兼ねて休息を取りつつ進もうとデニッシュ様とは話し合っていて、およそ十日前後で着く予定で両親にも伝えております。
そうして私達は運河への道中で名物料理に舌鼓を打ったり素晴らしい景観やその土地の歴史を楽しんだりしながら、予定通りスコーン領の河港に辿り着きました。
やはり慣れない船旅でデニッシュ様は体調を悪くされてしまい暫く伏せっておりましたが、すぐに耐性も付いたのか航路の中頃には元気を取り戻されて、一緒に景色を楽しむ余裕すらありました。やはり殿方はこういった事にお強いですね。
午前の遅くにクロワッサン領の河港に船が着岸し、待機していた自領の馬車に積荷共々乗り換えてから私達は領都を目指します。ここから領都まではそこまで掛かりませんから、途中の街で一泊して翌日の昼前には着く予定です。
冬の長期休暇の時にも一度帰郷しているとはいえ、約半年ぶりの故郷の景色に馬車の中から懐かしさと安心感を覚えていると「ご両親と会えるのももうすぐだね」と微笑ましそうなデニッシュ様に声を掛けられてつい顔に熱が集まってしまいました。そんなにわかり易く表情に出てしまっていたかしら……お恥ずかしい限りです。
車窓から見える風景を元にデニッシュ様へ我が領の解説などを改めてしつつ和やかに会話を楽しんでいると、突如馬車がガクンと急停車して、先頭を行く護衛騎士から「敵襲ーー!」という鋭い声が飛びました。
「マーブル!」
「デニッシュ様……!」
デニッシュ様は私に抱き付いて共に窓から見えない位置へと隠れると「一体何事だ!」と御者に尋ねます。
「どうも盗賊団に待ち伏せされていた様です!」
「こんな時に……! 数は!?」
「すでに接敵しておりその数、一、五……約一〇! しかし森からも矢が飛んで来ているのでもっと多い可能性がありまっ……うわっ!」
「大丈夫か!?」
「は、はい! 掠っただけでッ……ひぇぇ!」
「ッ!」
ドスドスと矢が馬車に刺さる音が続き、外では剣戟の音が鳴り響いております。
森の中を通るこの道は両側に木々が生い茂っており、襲撃者からすれば格好の狩場なのでしょう。こんな事もあろうかと護衛を連れてはおりますが数も多く対応に苦慮している様です。
「……デニッシュ様」
私は一つ息を吐いて、デニッシュ様をしかと見詰め、寄り添っていたその体を離します。
「マーブル、まさか」
「ええ、勿論。今この時に動かずにいては勇壮なるクロワッサンを名乗れませんわ」
念の為にとこの馬車に共に持ち込んだ物が活躍しない事を祈っておりましたが、こうなっては仕方ありません。私は急いで荷を解き、デニッシュ様に後ろを向いている様に言ってドレスを脱ぎ捨てそれらを身に付けていきます。そうして相棒を手に持つとデニッシュ様の肩を叩いて「それでは行って参りますね」と不安を滲ませるその頬に口付けを送り、馬車から飛び出しました。
「我が名はクロワッサン辺境伯が娘、マーブル・クロワッサン! この名を畏れぬ者よ、掛かってくるがいい!!」
口上と共に剣を構えて、近くにいた護衛騎士に背後から斬りかからんとする不届者を斬り捨てます。盗賊達は私の登場にも動じた風すら見せず、森から飛んでくる矢も幾つか標的を私に絞った様です。
──やはり、そういう事ですか。
飛来する数々の矢を躱して弾いて逸らしながら、その軌道から射手の位置を見極め森へと分け入り、薮や木の上に潜んでこちらを狙う者達をどんどん斬り伏せ、時に気絶させてその数を減らしていきます。
「クソッ! バケモノめ!」
「そのバケモノとわかっていて仕掛けてきたのはあなた方でしょう? 黙りなさい」
「ヒッ」
樹上に隠れていた往生際の悪いゴロツキを木の幹を踏み台に、最後の跳躍と共に蹴落とし昏倒させ、軽く縛って転がします。
厄介な遠距離攻撃が無くなっていけば我が領の護衛騎士達も押されてばかりではおりません。どんどんと優勢に転じていき、ついには最後の一人を地に沈める事に成功しました。
「マーブルお嬢様、助太刀ありがとうございます」
護衛騎士達を束ねる隊長が近寄って声をかけてきました。
「ええ、皆もよく働きました。怪我人は?」
「一人、矢が足に刺さった者がいますがそれ以外は軽傷です」
「わかりました。毒が塗られている可能性もあるから経過をよく見て安静に。それとどこの手の者か調べたい。私の方でも何人か生かして転がしているが一応死体も回収して詰め込んでおけ。生きてる者は自害せぬよう注意せよ」
「はっ! 了解しました!」
「残党もいる可能性がある。街に着くまで皆気を抜かない様に」
「「「はっ!」」」
倒した敵の位置を伝えた後、敬礼する護衛騎士達を背にして私はデニッシュ様の待つ馬車へと向かいます。後ろからは「あれが我らが剣姫の実力……すげえ」「本当に舞うように敵を沈めていったぞ」「不謹慎だってわかってるけど一緒に戦えたの嬉し過ぎる」「本当に不謹慎すぎるだろ! でもわかる」などなど、本人達はヒソヒソ話をしているつもりでしょうがバッチリ聴こえております。全く、普段から声を張り上げていると声量の調節も難しくなるのかしら? 困ったものだわ。
窓から私が戻って来るのがわかっていたのでしょう、護衛騎士が開けてくれた馬車の扉の先でデニッシュ様が手を伸ばしてくれました。
「おかえりマーブル、お疲れ様」
「ただいま戻りましたデニッシュ様」
微笑んで迎えてくれるその姿に、大切なものを取り零さずに守れた事を実感してついほっと張り詰めていた息を吐いて私は、馴染んだ温もりに手を重ねます。
その時でした。
「──ッ危ないマーブル!!」
「え?」
デニッシュ様が力強く私を引き寄せたかと思うと私と位置を入れ替えたのです。
ドスッ!
「……え」
不自然な衝撃。そして、
「ッ残党ーー!」
近くの護衛騎士が叫んで森に飛び込みました。周囲の騎士達も集まり馬車の周りを固め、何やら叫んでおります。
「デニッシュ様……?」
わずかに震える手でその背にゆっくりと腕を回せば、あるはずのない物が、あってはならない物が肌に当たりました。貴方の、背から、そんな、矢が、血が、どうして、なんで。
「……マーブル」
「デニッシュ、様」
「どこも、怪我はないか……? 痛いところは……」
「ッありません、ありません! あっても私は慣れてますから! 大丈夫ですから、それよりもデニッシュ様、貴方の方がッ! 貴方は戦になど慣れておりませんのにどうして! なんでぇ……!」
ごふっと嫌な音とともに咳き込んだデニッシュ様の口元からは赤い液体が溢れて、互いの服がじわじわと染まっていき私は頭が真っ白になります。
「良かった君に怪我が、なくて……」
「よくありません! 貴方が、怪我をしてはッ、私、私は……!」
護衛騎士の一人が何事かを叫びながら馬車に乗り込むと私からデニッシュ様を引き剥がそうとします。私は半狂乱でデニッシュ様に手を伸ばして、他の騎士達から押さえられてそれで、デニッシュ様が、私を見て微笑んで──
「マ……ブル……。マーブル、僕の…………」
「デニッシュ様……? なにデニッシュ様……ねえ、デニッシュ様ッ!? いや、いや、イヤァァァアアアア!!」
瞳を閉じゆく彼に何もできず愚かにも私は、ただ泣き叫ぶ事しか出来ませんでした。
針のような雨がざーざーと静かな部屋に響いて窓を濡らしております。
ランプが一つ灯るだけの部屋はその殆どを薄闇に沈めていて、その暖かく照らされた範囲にはベッドに横たわる麗しい男性の寝顔と、それを側の椅子に腰掛け見詰める私をボウっと浮かび上がらせていました。
デニッシュ様はあれから、眠ったままでございます。
あの後、騎士達が応急処置をしながら馬車を飛ばして街に着き、早馬でお呼びした領主邸付きの医師に即座に診てもらいました。
「……矢傷自体は運良く急所を外しており大丈夫なのですが、問題は矢に塗られていた毒になります」
「ああ…………その毒とは、やはり」
「はい、隣国の一部地域に自生している植物から作られた毒で間違いないかと。解毒剤は投与しましたが、塗られていた量と時間が経っている事から寧ろここまで保っているのが奇跡的なくらいです。しかし予断を許さないのは変わりません。今夜が峠となるでしょう」
「……そう、ですか。わかりました。ありがとうございます先生」
「姫様、私共が診ていますから姫様はお休みになられては……」
「…………」
「……わかりました。それでは私共は隣室で控えております。なにかあればすぐお呼びください。……どうか、どうかご無理なさらず」
「…………」
どうにか笑みだけを浮かべる私に、先生は目を伏せ黙礼すると、そっと扉を締めて行かれました。
宿に着く前から降り出した雨が、衣擦れの音すらせぬこの場を支配します。
私は僅かに扉に向けていた体を緩慢に戻し、目を開けぬままの彼へと向き直ります。思えば寝ている彼をこうしてじっくりと見るのは随分と久しぶりかもしれません。彼との特訓が始まって間も無い頃は度々倒れる彼の看病すらままなりませんでしたが、特訓後半にはそれも可能になって眠る彼を側で世話をする事が出来るようになりました。それすらも今は殆どなくなり少しだけ寂しく思っている私がどこかにいました。だけどこんな形で、その機会を得たくなどなかった。
「…………デニッシュ様」
浮かぶのはずっと、後悔ばかり。
どうしてあの時油断したのか。直前に騎士達に言った事も自ら守れぬ弱さが憎くて。
どうして何も出来なかったのか。応急処置ならば何度もやってきた筈なのに、彼を失うのかと思うと無力な子供のようにただただ硬直して泣き叫ぶしか出来なかった己の不甲斐なさが憎くて。
どうしてあの時。
どうして私は。
どうして。
どうして、どうして、どうして──!
止まぬ悔恨が全身を浸して、どれほどの時間が過ぎたでしょう。どんどんと激しくなる天候は嵐の様相を呈して、風が吹き荒れ、空が唸り、真っ黒な雲が時折光を孕んで、私の嘆きと同調するようにどんどんと、どんどんと渦を巻いていった──その瞬間。
ピシャーーンッと大きな音と光が部屋中を照らし出し、ある物が視界の端に浮かび上がりました。
それは、私がいる場所からはベッドを挟んで反対側のサイドチェストの上に置かれた見慣れた装飾品──デニッシュ様のリボンでした。
「…………」
ベッドに横たえる際、恐らく先生か看護師の方に外されたのだろう私とお揃いのストライプリボンがそこには鎮座していました。黒茶地のそれはランプが灯す範囲ギリギリ外側にあって暗闇に溶けて見え難くなっていましたが、雷の落ちたその一瞬だけ視界に飛び込んできたのです。
大荒れの雷雨の中、何度も瞬くように部屋が照らされる度にそのリボンは都度存在を際立たせます。
お揃いのリボン。元の色より少しだけ褪せてしまっているけれど、それでもずっと大事に使われていた事がわかる私達の思い出のリボン。
『このリボンを結ぶ時、心がしゃんとするんだ。マーブルと繋がっている気がして』
とある日の、彼の声がふと心に蘇ります。
『そして難題にぶつかった時もこのリボンの存在を強く感じるんだ。君がもしここにいたとして、君に恥じぬ自分はどんなだろうと。格好いい姿を君に見せたいと思えばね、僕はなんでも頑張れるんだ』
まあ情けない姿ばっかり見せてしまっているから説得力はないかもしれないけど……と、眉を下げて苦笑するデニッシュ様を、私は鮮やかに思い出して。
「ッ……!」
潤みそうになる目にぐっと力を入れて唇を噛み締めます。もうこれ以上の無様を晒すのはごめんでした。
私はなんと愚かだったのでしょう。
今一番お辛いのはデニッシュ様です。
側にいる私がこんな気を弱くしていてどうするのでしょうか。彼は絶対に無事だと、無事に目を覚ましてまた微笑みかけて名前を呼んでくれるのだと、私が信じて待たずにどうするというのでしょうか。
自分の事ばかり考えていた自分を追い払うように首を振って、私はデニッシュ様の手を握りました。
彼の温もりを知っているからこそ恐れて出来ずにいた彼の手を、今は別人みたいに冷えてしまっているその手を両手で包み込みます。
「デニッシュ様」
語り掛けても返事をくれぬ貴方。でも確かにまだ呼吸をしている、死に抗い続けている強い貴方。そんな貴方の手を掴んで支え、時に引っ張らずにいて、なにが未来の妻を名乗れましょうか──!
「デニッシュ様、負けないでください。どうか目を覚ましてください」
静かに眠る貴方に語りかけます。
「このまま寝ていてはいけません。私を置いて行くなどもっといけません」
嵐に負けぬ声で語りかけます。
「私と結婚できなくなっても良いのですか? 私の晴れ姿を、貴方ではなく他の殿方が一番近くで見てしまっても良いのですか? 私の肌に触れる権利を、別のだれかに譲っても良いのですか?」
彼の反応を少しでも見逃さぬ様にじっと見つめながら語りかけます。
「デニッシュ様」
包み込んだ手をギュッと、祈るように握り締めます。
「私が…………泣いてしまっても、良いのですか……?」
気が付けばあれほど吹き荒れていた風は落ち着いていて、ポツリと溢すようになってしまったその声は存外大きく部屋に響きました。
ザーザーと降り頻る雨と遠雷の微かな轟きだけが私達をこの場に閉じ込めます。
このまま嵐は通り過ぎて行くのかしらと、つい少しの恥ずかしさもあって窓の外に視線をやった時、手のひらが握り返される感触しました。
「!」
「マー……ブル」
「デニッシュ様! デニッシュ様! ああ……!」
視線を戻せばこちらを見つめる愛しい真朱色がそこにはあって、私は彼の手を握り直しました。
「良かった、デニッシュ様が目を覚まして……私、私……ッ」
「マーブル、泣かないで……心配掛けてごめん」
「本当です! 私、沢山心配して、沢山後悔してッ、いっぱい、謝りたくて、胸が張り裂けそうで……。でもこれは嬉し涙ですわデニッシュ様。うれ、嬉しくて私、デニッシュ様、ごめんなさいデニッシュ様、デニッシュ様ぁ……!」
「マーブル……」
結局わんわんとはしたなく泣き喚いて覆い被さり無様を晒す私を、デニッシュ様は空いている方の手でゆっくり撫でさすって抱き締めてくれました。そしてそんなみっともない私の声が隣室にまで聞こえていたのでしょう。先生達が程なくやってきて、目を覚ましているデニッシュ様に驚かれた後にそのまま問診へと移っていったのでした。
「寝ている間に夢を見てね」
「夢、ですか?」
「ああ、君との結婚式の夢を見ていて、自分は何度この夢を見るんだろうと控え室で思ったのも束の間、式場に真っ黒いドラゴンが襲ってきてマーブルを攫ってしまうんだ」
「まあ」
「しかもその時のアイツと来たら僕でさえ至近距離で見れていない綺麗に着飾ったマーブルを掴んでしげしげ眺めた後に、あろう事か大きな舌でベロリと舐め上げやがって……!」
「それは……私も嫌ですわね」
「マーブルも凄く嫌だったのか目に涙を浮かべていたものだから僕も怒り心頭で叫んじゃってさ、そしたら目が覚めたんだ」
嵐の夜から一転、爽やかな光が差し込む部屋の中、ベッドで上体を起こして座るデニッシュ様がポツポツと語ってくれます。あれから先生に奇跡的な回復だと診断を受けてからすぐにもう一度お休みになられたデニッシュ様は、まだ立ち上がったりなどは難しいものの顔色も随分と良くなられていました。
きっとその夢というのは私が語り掛けたせいかしらと思いつつ、自分の声が確かに彼に届いて生きる力になれたのならば素晴らしい事だと思い、ニコニコ会話を楽しみます。
デニッシュ様が再度起きられた後にもう一度先生の問診があってわかった事なのですが、デニッシュ様は毒に耐性があるという事でした。
なんでも私と婚約が整った後に自分に求められるモノはなんであろうかと考えて、お父様であるチキンソテー伯爵と相談して我が家の歴史や隣国の歴史、近年の情勢を調べ上げた末に隣国の暗部の存在に行き当たり、医師の指導の下に毎日色んな毒に耐えられる様に服毒していたというのです。
「自分には武術の才は無かったから有事の際はきっと後方支援に徹する事になるだろう? だけど隣国では後方から崩す手段がよく用いられるとあっては自分にもその矛先は向くと思ってね。対策しておくに越した事はないかなと」
君が気に病むんじゃないかと思って伝えそびれていたんだけどこんな事なら伝えておくべきだったねと、デニッシュ様は困った様に笑いました。
その後もう一日安静にしたあとにデニッシュ様の希望もあって領都に移動した私達は、両親に大いに心配され労わられました。デニッシュ様は本当に耐性があるようで毒の心配は殆ど無くなっていて、どちらかというと矢傷の方が辛いと溢すくらいでした。当初の予定から大分変わりましたが傷に障らぬ範囲で領を見て周り、楽しそうに、それでいて時折真剣な表情でクロワッサン領に向き合う彼に、私の強張った心もどんどん解けていきました。チキンソテー伯爵夫妻からも手紙が届き、息子のことだから第一報が届いた時に無事だろうと信じていた事、マーブル嬢のウェディングドレス姿を見ずに死ぬなどあの息子に限って絶対にないからな! だからどうか休暇を楽しんできて欲しいと結ばれたその内容は、私への思い遣りにも溢れていて少し涙ぐんでしまいました。私達を襲った賊にしても、お父様達騎士団の方々が厳しく尋問しやはり隣国からの手先だった事と有用な情報を幾つか吐いていてどうも王位継承争いで優位を取るため手柄を焦った王子の内の誰かの差し金らしいと話してくれました。「このまま何もせず終わらせるつもりは無い」と皆が恐れ敬う英雄の顔で言うお父様に「当然です。私もこのまま黙ってなどいられません」と伝えて作戦会議に出席したりもしました。
私達の夏季休暇はそうして、始まりこそとんでもありませんでしたが後は和やかに時に不敵に、有意義に過ぎていったのです。
どこまでも澄み渡り、雲一つない青空の下。
どの家も軒先に色とりどりの花を飾り、風が吹けばそれらの花びらが舞い上がって、キャーキャーと騒ぐ子供達や領民の楽しげな声が至るところから響いています。
そんな喧騒から少し離れた教会の控え室で、私は侍女達に囲まれ手入れをされて、最後の調整に入っておりました。
「あらあらまあまあ! マーブル、なんて綺麗なの……!」
「お母様」
入室してきた両親を見やればお母様が感嘆を上げて近付いてきて、お父様は「おお……」と呟いたあと目を潤ませて何やらその場で頷いておりました。
「これはちょっと心配になってしまう出来ね」
「デニッシュ君は耐えられるだろうか……」
そんな感想がすぐ飛び出してきて私は「相変わらず大袈裟ですわ」と言おうとして、ちょっと悩みました。……大丈夫ですわよね?
「一応、今日までデニッシュ様が耐性を付けられるようにと沢山着飾って見せたのですから大丈夫ですわよ。……多分」
「多分なのよねえ」
「多分なんだよなあ」
いきなり晴れ姿をぶっつけ本番で浴びるのはデニッシュ様が無事では済まないのでは? と当然の未来予測を元に、この数ヶ月着せ替え人形のようにデニッシュ様の前でファッションショーをした日々を思い出します。「本番の衣装は本番にこそ見たい!」と本人の要望もあって結局ぶっつけ本番なのは変わりませんが、似た様な系統の衣装を着て、本番さながらの化粧を施してもらって、あまつさえ本番と変わらぬロケーションでリハーサルしたので大丈夫だと信じたいです。
「だけどやっぱりこう、今日は特別な日でしょう? マーブルも美容に力を入れていたし、今日なんて気合いも違うからかオーラも凄いことになっているのよ? これは女神と言われても納得しちゃうわ」
「オーラ……」
「まあまあ、これはもうデニッシュ君の成長に期待するしかない。ここで倒れたらマーブルに恥をかかせる事になると思えば、なんとか踏み止まってくれるだろう! 多分!」
ガッハッハッと笑うお父様に「私もそう信じたいですわ」としみじみ返していると、「そろそろお時間です」と係の者が声掛けに来ました。
「準備は良い? マーブル」
「はい」
「では貴方、マーブルを頼みましたよ。私は先に行ってますから」
「ああ、任せておけ。マーブル、さあ」
「はい、お母様また後で。お父様、よろしくお願いします」
控え室を後にするお母様を見送って、私はお父様の腕に手を回します。
チラリとお父様の顔を窺えば少しだけ緊張しているのか動きがぎこちなくて、面映くなってしまいます。私が笑っているのに気付いたのか「私だって初めての事だ、緊張もする」とちょっとばつが悪そうに言う姿には、敵から恐れられる勇壮なるクロワッサン辺境伯の面影などどこにも無くて、私はなんだか沢山の思い出が溢れて胸がいっぱいになってしまいました。
お父様と一緒に通路を歩きます。言葉はなく進みながらきっとお父様も私と同じく在りし日の出来事が幾つも去来しているのだろうなとぼんやりと思いました。程なく目の前に迫ってきた扉をスタッフが開いて風が通り抜けた先には、初めて歩くバージンロードと多くの列席者の方々。
思わずきゅっと力を込めた私にお父様が腕に少し力を入れて応えてくれるのに安心して、そのまま静かに歩き出します。
光に満たされた荘厳な広間の下、ステンドグラスに鮮やかに照らされた場所に愛おしい人が待っているのをヴェール越しに捉えます。
──デニッシュ様。
今日のために私と同じ様に全身を隙なく仕立て上げた彼の姿を見て、胸を駆け抜けていくのはこれまでの日々。
長かったような短かったような、大変だったようなそうでもなかったような、数々の記憶が春風のように心を包み撫でていきました。
──デニッシュ様。
私の目はもう彼から離れなくて、彼もまた私だけを見詰めてくれているのがわかります。
そうして私の手はお父様からデニッシュ様へと渡って──
その後デニッシュ様が無事だったかどうかは、それはあの場にいた者だけの秘密にしておきますわね。ふふふ!