最終ラウンド:時代が私に遺したもの、私が時代に遺したもの
あすか:(ラウンド3の激しい議論の余韻が残るスタジオで、クロノスを静かにテーブルに置く。その眼差しは、四人の魂の奥底を見つめるように、深く、そして優しい。背景のスクリーンは、再び、全ての始まりであった静かな星空に戻っている)
あすか:「さて、長きにわたる対話も、いよいよ終わりの時が近づいてきました。皆さんは、時代に理解されなかった苦悩を語り、魂の最高傑作を掲げ、そしてあり得たかもしれない現代というIFの世界を旅してきました。…その、全ての旅路の果てに、今、皆さんに最後の問いを投げかけます」
(あすかは、ゆっくりと一人一人の顔を見渡し、静かに、しかし、心の芯に直接響くような声で問いかける)
あすか:「皆さんの人生は、果たして、“不幸”だったのでしょうか? …ゴーギャンさん。あなたから、結論をお聞かせください」
ゴーギャン:(あすかの問いに、フンと鼻で笑う。その表情に迷いは一切ない)「不幸? 冗談じゃない。その言葉ほど、俺に似合わんものはないな。俺は描きたいものを描き、行きたい場所へ行き、生きたいように生きた。妻子を捨てただの、友を裏切っただの、世間の連中は好き勝手言うだろう。だが、そんなもの、俺の知ったことか」
(ゴーギャンは立ち上がり、まるで世界を見下ろすかのように両腕を広げる)
ゴーギャン:「俺の人生そのものが、俺の意志で選び取った、俺だけの最高傑作なんだ。時代がどう評価しようが、後世の連中が何を言おうが、傑作は傑作だ。俺は、俺の人生に、一片の悔いもない。以上だ」
(そのあまりに揺るぎない自己肯定に、スタジオは静まり返る。あすかは静かに頷き、次に賢治へと視線を移す)
あすか:「ありがとうございます。では、賢治さん。あなたの結論は?」
賢治:(穏やかに微笑み、静かに語り始める)「わたくしの人生は、ゴーギャンさんのように輝かしいものではありませんでした。病に倒れ、理想は届かず、誰かを本当に幸せにできたかどうかも、分かりません。デクノボーのように、ただ、役に立たずに終わったのかもしれない。…ですが」
(賢治は、慈しむように自分の胸に手を当てる)
賢治:「不幸だったとは、どうしても思えないのです。風の声を聴き、雲の形に心を躍らせ、星々と語り合いながら物語を紡いだ時間。冷害に苦しむ農民の痛みに寄り添い、涙した夜。その一つ一つが、わたくしにとっては、かけがえのない宝物でした。わたくしは、たくさんのものを頂きました。この命と引き換えにしても余りあるほどの、幸いを。わたくしの人生は、それで、満ち足りておりました」
あすか:(賢治の言葉に深く頷き、ディキンソンに向き直る)「ディキンソンさん。あなたの結論を聞かせてください」
ディキンソン:(閉じていた瞼をゆっくりと開ける。その瞳は、内なる宇宙の輝きを宿している)「世界は、私のために扉を開けてはくれませんでした。だから、私は、私の中に、もう一つの世界を創りました。そこでは、一輪の花が、どんな王様よりも雄弁でした。一匹の蜂が、どんな軍隊よりも勇敢でした。一滴の夜露が、大海よりも深かったのです」
(ディキンソンは、そっと自分の肩を抱く)
ディキンソン:「世界に拒まれたからこそ、私は、誰にも侵されない私の王国を持つことができた。孤独は、私を詩人にしてくれた、最高の戴冠式でした。ですから…ええ。私は、私の人生を、愛しています」
(三者三様の、力強い肯定。スタジオの全ての視線が、最後に残された一人…俯き、肩を震わせるゴッホに注がれる)
あすか:「フィンセントさん。あなたの声を、聞かせてください。あなたの人生は…不幸でしたか?」
ゴッホ:(顔を上げられないまま、か細い声で答える)「……不幸…だった…。苦しくて、寂しくて、惨めで…。誰にも理解されず、狂人と呼ばれ、愛する弟に迷惑ばかりかけて…。こんな人生、幸福なはずがない…」
(ラウンド1と同じ、絶望の言葉。しかし、ゴッホは続ける。一言一言を、絞り出すように)
ゴッホ:「……だが」
(その一言に、ゴーギャンが、賢治が、ディキンソンが、息をのむ)
ゴッホ:(ゆっくりと顔を上げる。その頬には涙が伝っているが、瞳の奥には、これまで見せたことのない、穏やかな光が灯っていた)「…だが…。あの燃えるようなアルルの太陽も、吹き荒れるミストラルの風も、夜空で爆発する星々の輝きも、麦畑の黄金色も…この僕の目が見たものは、この僕の心が感じたものは、すべて、すべてが本物だったんだ…!」
(ゴッホは、立ち上がる。その姿は、もう震えてはいない)
ゴッホ:「絵を描いている瞬間だけ…黄色と青の絵の具をカンヴァスに叩きつけている、その瞬間だけ、僕は、確かに生きていた!苦しみも、悲しみも、孤独も、全てがあの絵の中にある!そして、その痛みの中から生まれたひまわりは、やっぱり、美しかったんだ!」
(ゴッホは、涙を拭い、目の前の三人を、そしてあすかを見つめる)
ゴッホ:「だから…もう、いいんだ。幸福ではなかったかもしれない。だが、無駄じゃなかった。僕の人生は、この燃えるような色彩があった。…それで、よかったんだ」
(魂の全てを振り絞った、肯定の言葉。それは、ゴッホの魂が、100年の時を超えて、ようやく救われた瞬間だった。ゴーギャンは、そっぽを向きながらも、その口元にかすかな笑みを浮かべていた)
あすか:(その光景を、万感の思いで見つめ、深く、深く頷く)「ありがとうございました。皆さんの魂の結論、確かに、お聞きしました」
(あすかは、ゆっくりと立ち上がる)
あすか:「『時代が私に追いつくまで』…。もしかしたら、本当は、皆さんが時代を待っていたのではなかったのかもしれません。時代の方が、皆さんのそのあまりに純粋で、強靭な魂に、追いつくのを待っていた…。私たちは、今、ようやくその入り口に立ったばかりなのでしょう」




