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おかえりなさい、はもう言わない

作者: 入多麗夜

 陽光が柔らかく差し込む午後の謁見室。

 白い大理石の柱と金色の飾縁が、静かな威厳を漂わせる中で、彼女は静かに立っていた。


「――久しいな、セシリア」


 数年ぶりに耳にするその声に、セシリア・ロズベルグは眉一つ動かさずに応じた。


「お招きに与り、光栄に存じます。アドリアン殿下」


 丁寧で整った言葉遣い。だがその声音には、何の揺らぎも、懐かしさもない。

 それがかえって、王太子アドリアンの胸に冷たい刃のように突き刺さった。


 かつて――確かに彼女は、彼の婚約者だった。


 幼い頃からの許嫁。社交界でも並び立つ姿は理想と謳われ、誰もが“王太子妃になるべき令嬢”と認めていた。

 だが、彼はそれを壊した。自分の意思で。迷いなく。


 ――あの日の出来事は、セシリアにとって決して癒えることのない記憶だった。


 それは、初夏のはじまりを告げる王宮の舞踏会。

 華やかな装いと音楽に包まれる中、突如として、王太子アドリアンは彼女の前で言い放った。


「セシリア・ロズベルグとの婚約を、ここに正式に解消する」


 ざわめきが広間を駆け巡る。

 だが、その場の誰よりも驚いたのは、他でもない当の本人――セシリアだった。


 理由も、事前の通告もなかった。

 ただ、一言の弁明すら与えられず、彼女の人生は、その場で切り捨てられた。


 そして、彼は続けた。


「王妃に求められるのは、従順さと柔和さだ。

 だが、彼女は違った。自分の意見を持ちすぎる。議場に口を出し、政策にも干渉する。

 まるで私より上に立とうとしているかのようだ」


 瞬間、広間の空気が凍りついた。

 セシリアの頬が、かすかに引き攣る。けれど彼女は、唇を噛みしめて立っていた。


 ――その言葉が、人生最大の屈辱だった。


 自分の誇り、信念、努力、すべてを「余計なこと」と切り捨てられたのだ。

 少女として、令嬢として、そして人として、決して言われてはならない言葉だった。


 だが、それでもセシリアは、頭を下げた。


「御判断、確かに承りました。殿下の御即位と未来に、幸多からんことを」


 その声は震えてなどいなかった。

 ただ、その夜のことを、彼女は一生忘れることはないだろう。


 今、彼女は再び目の前にいる。だが、もう王太子妃としてではない。


 一人の人間として、女性として、この場に立っていた。


「今日は……ただ挨拶に呼んだわけじゃない」


 アドリアンは口を開いた。ためらうことなく、本題を告げる。


「君を――セシリアを迎えに来た。もう一度、私の隣に戻ってきてほしい」


 その言葉に、重々しい沈黙が降りた。

 セシリアはすぐに答えなかった。ただ、まっすぐに彼を見つめていた。


 そして数拍ののち、彼女は微笑んだ。

 けれどその微笑みは、あの頃のような優しさを含んではいなかった。


「“私”のどの部分を、迎えに来られたのですか?」


「……どういう意味だ?」


「過去の私ですか? それとも、今の私?」


 静かな問いかけに、アドリアンは言葉を失った。

 セシリアは、淡々と続ける。


「殿下が私との婚約を破棄されたとき、私は“昔の私”も、立場も、未来も、すべて失いました。

 その代わりに、私は“私自身”を得ました。そうしてここに戻ってきただけです」


 声は穏やかだった。だが、どんな詰問よりも厳しく、冷ややかだった。


「……私が間違っていた。あの時、私は愚かだった。君を傷つけたことを、ずっと悔いている」


 アドリアンは目を伏せ、真摯な声で言う。

 だが、それをセシリアが受け入れることはなかった。


「悔やんでいただかなくて結構です。あのとき、殿下が私を選ばなかったこと。それは、殿下の選択であり、私はそれを尊重しました」


 淡々と語る彼女の瞳は、一片の未練も映していなかった。

 まるで、彼がただの公務相手であるかのように。


「私は、殿下の隣に立つために生きてきたのではありません。殿下に選ばれなくなって初めて、“私”という人間を形作る時間を得たのです」


 彼女は、手元に持っていた手帳を閉じた。

 それは、王国の地方政策に関する実務案。今回の召喚は、その報告のためのものだった。


「今日、ここに参じたのは任務の一環です。殿下の個人的な感傷には、お応えしかねます」


 ――冷たく、しかし礼儀を失わず。

 その“拒絶”は、かつての彼女には不可能だった振る舞いだった。


「……でも、私は君を――」


「いいえ。もう“おかえり”は、言っていただかなくて結構です」


 ぴしゃりと切るように、セシリアは言った。

 かつての少女は、もうどこにもいなかった。


 扉の向こうから、控えていた人物が一歩踏み出す。

 それは、かつてセシリアが地方で共に働いた青年――今の婚約者だった。


「お待たせしました、セシリア様」


 柔らかい笑みとともに差し出された手に、彼女は自然に自分の手を重ねた。


 初めて彼と会ったのは、王都を離れて間もない頃だった。


 左遷に近い扱いで送り出された地方の政務院。

 肩書きのない人間に対して冷淡な者も少なくない中で、彼――エドガー・リースだけは違っていた。


「お名前、何でしたか? 一応、配属の連絡きてたと思うんですが……」


 机に積み上がった資料の山を崩しながら、彼はまるで相手の地位など気にも留めていないように話しかけてきた。

 それが、妙に心地よかった。


 後日、深夜まで残って書類を読み込んでいた彼女の机に、そっと置かれた干し肉の包み。

 見上げれば、少し気まずそうに目を逸らした彼がいた。


「……夕飯、抜いたでしょう。俺も同じです。分かります」


 そのひと言が、どれほど胸に沁みたことか。


「あなたは、どうして私に敬語を?」


 そう尋ねた夜、彼は迷わずに答えた。


「相手がどこの出でも、真面目に働いてる人には敬意を払う。それだけです」


 言葉は少ないが、誠実さのにじむ声だった。

 それからの日々、彼の隣で働くことは、不思議と苦ではなかった。

 対等な存在として意見を交わせる相手がいるというだけで、人はこんなにも心強くなれるのだと、彼女は初めて知った。


 季節が変わり、いくつもの視察と提案を共に乗り越えたあと――

 彼は小さな箱を手に、真っ直ぐな目でこう言った。


「よければ、ずっと俺の隣にいてほしい。過去に囚われず、未来を歩いていけるように」


 そのとき、セシリアは静かに頷いた。


 ――あの夜、自分の価値を否定された私が。

 今は誰かの隣に、“自分として”立っている。


「行きましょう。無駄な時間を取らせてしまいました」


 セシリアが言うと、エドガーは微笑みながら頷いた。



 廊下を歩きながらも、彼女は一度たりとも後ろを振り返らなかった。

 扉の奥、呆然と立ち尽くす王太子の姿を見届けることなく。







  後に王太子アドリアン・ルヴェールの名は、皮肉にも、別の呼び名で王宮中に広がっていくこととなる。


「ただの政務官に令嬢を奪われた愚かな王太子」



 そう――彼は今や、*“ロズベルグの薔薇に袖にされた男”*として、しばらくの間、貴族たちの酒宴の肴にされ続けることになる。


 それが、すべてを失わせたあの日から、何年も遅れて返ってきた、たった一度の“報い”だった。

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― 新着の感想 ―
そうやって辛苦を経験して王太子も成長して大成していくのかな。 最近のなろう系は女性無双による男性蔑視が蔓延っていてる感じ。 内容も実際そんな男性いないだろうと言うものが多い。
セシリアの怜悧な美しさと対を成す王太子の愚かさが際立っていました。 というか重鎮たちには静かに見放されてそうだしこのアホさでよく王になれたな…。
面白かった! シンプルで潔い! ただ、王子が再度セシリアを求めた理由を2行で良いから欲しかった。 そしたら完璧!
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