薬草師の業(ごう)
激しく打ち鳴らされる教会の鐘の音に、ナイは薬草を洗う手を止めた。
村の中央にある教会の鐘は通常一刻ごとに鳴らされるが、まるで魔物が大挙して襲って来たかのような激しい非常呼集は大変珍しい。
夏祭りまではあと二週間。この時期、他に何か大切なことなどあっただろうか。心ここにあらずといった風情のナイは、再び薬草の根の泥を落とし始めた――。
ナイは五年前に流行り病で母親を亡くした。
そして家業の道具屋を継ぎ、十七歳の今日までひとりで暮らしてきたのだ。
それより以前に、実の父親は行商に出掛けた先で魔物に襲われたらしく、村には噂だけで何一つ戻ってこなかった。村外れの墓地の棺は、今でも空っぽのままだ。
別に仕事が嫌なわけでも――村人の生活には必須で、自身の生活も支える――ないので、生来の気質もあってか、そんな境遇でもおっとりと日々を過ごしていた。
日も傾き始めたつい先ほど、背負いカゴ一杯に摘んだ薬草を背負ったナイは、ようやく西の野原から村に戻って来たばかりだった。それからずっと、村の大通りに面した道具屋兼自宅の裏に流れる小川で、採れ立ての薬草を洗っていたのだ。採取してから時間が経過するごとに、品質が低下していく。手早い作業が必須だ。
荒れ野に自生する一部の野草には、魔物溢れる大地に日の光のごとく降り注ぐ創世の女神の慈愛の力の影響を、より強く受けるものがある。それらを採取して適切な方法で煎じると、魔物に抵抗する有効な手段のひとつとなり得るのだ。
つまりナイは、道具屋の主兼、薬草師でもあった。
道具屋に並んでいる薬類は、魔物退治必須の体力回復薬から風邪を引いた時の熱冷ましに咳止めから二日酔いの酔い覚ましまで、大抵はナイが作った代物である。母親直伝の製法を受け継ぐ、いつもと変わらぬ常備薬は村人に評判が良かった。
「よっこらしょっと」
気合いを入れて立ち上がり、洗い終えた薬草を種類ごとに選り分け、乾燥させるための板に手早く張り付けていく。その作業の最中も、ともするとナイは昼間の出来事を思い出してしまい、顔が自然とにやけてくるのを抑えられないでいた。
――『怪我はない?』と言いながらナイを振り返った少年勇者の、額から血を流した黒髪黒目の幼さの残る顔には爽やかな微笑みが浮かぶ……。
何故だか紗が掛って美化マシマシである。もっと残念でガッカリ感満載な状況であった気もしたが、ナイの頭の中では、魔物に襲われていた自分を勇者が救ってくれたっぽいという記憶に、ともするとすり変わってしまいそうになる。
しかし誰が責められるだろう、ナイは花も恥らう十七歳であった。
ちなみにこの世界での成人は十六歳で、ナイはすでに婚姻可能な年齢でもある。十八歳で適齢期、二十歳になっても独り身だと行き遅れと影で囁かれ始めるのだ。貴族女性ほど厳格ではなくとも、未婚の女性にとっては風当たりが厳しかった。
暮れゆく裏庭で、ナイがどっぷり乙女妄想に浸っていると、
「ナイっ、いるのっ?」
銀色のつむじ風のような美少女が駆け込んで来て、ナイを現実に引き戻した。
引っ詰めにした、癖のない銀色の長い髪が残照を受けて淡く輝く。辺境には稀なあか抜けた容姿ときゅっと締まった腰にたわわなお胸、はすっぱな物怖じしない言動で酔客から有り金すべて搾り取る、酒場の看板娘シシィであった。
年はナイよりひとつ上の十八歳、目下婿養子募集中の幼友達である。
「ナイってば、またなにぼんやりしてるのっ! 早く教会にいかなくっちゃ!」
しゃがみ込んでいるナイの手を引っ張って、強引に起き上がらせる。
だが連れて行こうとするシシィの手を、ナイはとっさに振り払ってしまった。
ナイは前掛けの紐に挟んでおいた手袋を、急いで自分の、薬草の煮汁に漬け込んだような暗緑色の両手にはめる。娘らしく挽き立ての小麦のように真っ白なシシィの手を目の当たりにして、思わず過敏に反応してしまったのだ。
両の手が奇妙な色合いに染まることは、薬草に携わる者にとって逃れられないことだった。生前の母親も、両手首から先は緑が深過ぎて、まるで何かに呪われたように黒々としていた。邪気のない幼い頃、どうしてそんな色なのか何度も訊ねたものだが、母親は決まって魔法の手よ、私の可愛い子猫ちゃん、と言って微笑んだ。
もっとも、魔法の手も自身の流行り病には、まるで効果がなかったのだが。
流行り病は毎回症状が異なる上にあっという間に広がるので、対処療法と体力に頼るしかないのが、村で唯一の薬草師として辛いところではあった。
「ゴメンなさい……」
ナイが震える声で謝ると、シシィは微塵も気にした様子はなく、むしろ何か別のことに気を取られているのか、きょとんとして『なにが?』と返してくる。
幼い頃のナイは、薬作りの手伝いを始めて手が緑色に染まっていくのを、よく近所の男の子達にからかわれた。そんな時、シシィが酒場で覚えたばかりの聞くに堪えない下品な言葉で男の子達を追い散らしてくれたことを思い出し、ナイは人知れず微笑んだ。年頃になり美しくなっても、中身は昔のシシィのままだったからだ。
そのこともあって、ナイは同世代の異性がどうにも苦手だった、はずなのだが。
「少しでも遅れたら、あの神経質な司祭さまから大目玉よ。急ぎましょ」
自らの両手に引け目を持つナイにとって、この幼友達の大らかさがむしろありがたい。シシィは躊躇なくナイの手袋越しに手を取り、大通りに連れて行った。
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