クロちゃん、逃げて!
*
――九十九本ならどうして魔獣になってしまったのかしら。いいえ、そもそも、あの似せ物師の決め事自体が腑に落ちないのだけれど。ナイは密かに首を捻る。
しかし、眼前で鎌首をもたげている魔獣を目の前にしては、いまさら否定のしようもない。視界の向こうで、石化の解けた勇者がぎこちなく動き始めた。
「……グゥ……」
「あれ? クロちゃん?」
ふとナイは、いつもなら先陣切って戦うはずの大猫が、あまり活躍していないことに気づいた。注意深く観察してみると、アンデッドキメラの首のひとつが蜘蛛の巣状の投網のようなものを吐き出し、大猫を捕らえようとしているように見える。その粘つく網で、勇者やマシューが狙われることはないようだ。
「どうして、奴らはクロちゃんを?」
「いかんっ!」
ナイの呟きに答えるように、似せ物師ロブが叫んだ。
「いまは九十九個の異なる魔物の頭を持つただの魔王の出来損ないかもしれないが、頭が百個になると、闇の生命を持つ真の魔獣となってしまうのだっ!」
「そんな話っ、聞いたこともねぇぞっ! だいたい、そんな危険なものになるとわかっていて、どうして九十九本まで付けちまったんだっ!」
マシューの非難などものともせず、ロブはまるで自分とは無関係であるかのように、我々、似せ物師の言い伝えだと淡々と語った。
「普段なら魔物がそんなに集まるわけねぇ。お前らがせっせと狩ってくるもんだから、つい似せ物師の性が。九十九本で止めておけば問題ないと思ったんだ」
「じゃあ、武具屋のオヤジさんっ、奴らはクロちゃんを取り込んで、本物の魔獣になろうとしてる……ってコト!?」
影の薄くなっていた勇者が、存在を誇示するように叫ぶ。
「そうだ、奴らは大猫の首を求めているのだ」
重々しく頷くロブに、当の本人以外は顔を見合わせ、嫌そうに眉根を寄せる。
似せ物師であるロブが魂を込めて制作した魔王の似せ物が、魔王の封印が解けて強まった魔の気を吸収し、本物の魔獣となるべく最後の魔物の頭を求めてアンデットとして甦ったとしか、現段階では考えられなかった。
「とにかく、クロちゃんは戦線離脱させましょう!」
ナイの提案を受け戦闘から下がるよう勇者が指示すると、大猫は狂喜して舞台の裏に走っていく。巧みに避けてはいたものの、毛皮に貼り付く粘液が大猫にとっては致命的だったようだ。身繕いしたくて、戦闘どころではなかったのだろう。
だが、刈り入れ間近の雑穀の穂のように垂れ下がっていたアンデッドキメラの頭達が、一斉に舞台の裏の大猫のあとを追ってクネクネと伸びていくではないか。
「あっ、奴ら、僕達を無視してクロちゃんの方に――!」
勇者が心底悔しそうに言ってから、はっと何かを思いついたような顔をした。
そしていきなり、アンデッドキメラの本体に向かって走り出す。
「勇者さまっ? いったい何を!?」
ドラゴン型の大振りな鱗に覆われた本体に取り付いた勇者は、手にした鉄の剣を奴らの首の根本にあてがった。そして鋸よろしく、ギコギコと挽き始めたではないか。それを見たマシューと渋々といった感じのロブも、勇者の元へ走っていく。
「ああ、そうか。今のうちに切っちゃえば!」
アンデッドキメラが大猫に気を取られている間に、少しでも首を切り離してしまおうという勇者の腹積もりに、遅ればせながらナイも気付いた。
頭の数が九十九個より減ってしまえば、たとえアンデッドキメラが大猫の頭を手に入れたとしても百個には満たない。つまり、首を一本失っただけで真の魔獣となる機会が失われるのだ。少なくとも、これ以上強くなることは防げるに違いない。
主の意図を汲み取ったのか、アンデッドキメラの頭達をつかず離れずかく乱し始めた大猫を見ながら、ふとナイの胸に去来する思いがあった。勇者が積極的に戦闘へ参加し、大猫も主の意図を正確に汲み取って連携する。ふたり――ひとりと一匹だが――とも、こんなに立派になって。ナイは人知れず目頭を熱くしていた。
*
「なかなか、切りにくいなぁ」
「鉄骨製だからな。魔物の皮や鱗も丈夫だ」
「いや、そんな頑丈に作るこたぁねぇだろう、燃やしちまうんだし」
「頑丈でなければ、村を練り歩くことに耐えられない。そもそも倒れたら危険だ」
「倒れたら危険って、もうすでに十分危険だろ、このクソオヤジっ!」
「二人とも、こんな状況で喧嘩しないでよ」
厚い鱗にびっしり覆われたアンデッドキメラの首に、新品の鉄剣の刃が潰れるのも構わず挽き続ける勇者は難渋しているようだ。
斬りつける、たたき切る、突き刺すならいざしらず、この場合の適した得物は斧やノコギリだろう。しかし、本体に向かう時もそうだったが、手斧を持ったロブは今ひとつやる気がないように、ナイの目には映った。
魔獣と化しつつあっても、自分の作品を手にかけるのが辛いのだろうか。
ただ、ナイ達にとって不幸中の幸いは、アンデッドキメラの動きが物凄く遅いということだった。長い首は糸で天から吊ってあるかのように器用に動くが、本体はナイが勇者を呼び戻しに行った一刻(二時間)の間、舞台から降りただけだった。
尻尾や羽根はお飾り同然であったし、そもそもひとつの身体に首が百本近く生えているのだから、均衡が取り辛くて当たり前である。
とはいえ、いかに鈍いアンデッドキメラでもさすがに気付くのではとナイが心配し始めた頃、それまで静観していた村人達が、にわかに広場へ集まり始めていた。
「……み、みんなっ!?」
自警団員達と共に、男達は斧やノコギリを、女達は鉈や包丁などを持ち寄り、恐る恐るアンデットキメラに近付いて、勇者達の隣りで首を切り離すのを手伝い始めたではないか。ナイが目を瞬いていると、
「おいおい、血まみれじゃねぇか、ナイちゃん。ちょっと休んでなさい」
「ナイちゃんや勇者さま達だけに、この村で起きたことの面倒は掛けられねぇ」
「勇者さまの前で、筋書き外のことやっちゃいけないって司祭さまに言われてるけんども、こうなっちゃ仕方ねぇからなぁ。首を切り落としゃあ、いいんだろ?」
そう言いながら、酒場の年寄り常連客達が手に手に何らかの得物を持って通り過ぎる。そして、通り掛けにナイの頭を撫でた派手派手しい人物が、まるでナイを守るように踵の高い靴で、カッっとアンデッドキメラとの間に立ちはだかった。
「――ナイ、薬の追加、持ってきたわよ」
それは、銀髪にエメラルド色の瞳の、美しい幼友達の後ろ姿だった。