007 吸血鬼
いま、目の前のそれは、目の前のその存在は、なんと言っただろうか。
「吸血、鬼……?」
身体の状態を警告するかのようにチカチカする目を見開いて、オレはそれを見る。
オレが〝私〟になって、はじめてだった。はじめてのことだった。
はじめて――棒人間ではなかった。
「そうです。吸血鬼です」
オレの自問とも言える呟きに、それは答えた。
教科書でも、聖書でも読むかのような、落ち着いた静謐な女の声だった。
〝私〟という存在がいるので、声が女の声でも女とは言えないが、たぶん、おそらく、女だ。
なるほど。耳はある。確かに見える。口もある。確かに見える。
本当に、棒人間ではなかった。
「驚くのも、無理はないのですね」
オレが驚いているのは、きっと彼女が思っていることとは違う理由だが。
呆然とするように固まっているオレに、彼女は続ける。
「吸血鬼です。――こんな姿ですが」
そう。
棒人間として見えなかったのは、きっとそれが人間だと思わなかったからだ。
吸血鬼だからだろう? いや、そうじゃない。
視覚的に、物体的に、それは人間には見えなかった。
着ているのは服とは呼べない1枚のローブ――いや、着ているとも言えないし、ローブとも言えない、襤褸とすら言えない――それは布だ。砂や埃で黄ばんだように汚れた布。
その布の端から、冬枯れの木の枝みたいな四肢が覗く。骨と皮しかない四肢。筋肉すらないようで。現に、その四肢は、肢体は、動くことはない。死体のよう。
死体否肢体に下敷きにされているのは、一体何年切らずにいたらその長さになるのかという髪。これも砂や埃にまみれてボロボロだ。色も本来の色が何色であるのか定かにならない。目もあてられない髪。
いっそ、出来の悪い人形だと言われたほうが納得し、安心する。それほどだ。
だが、人形ではない――顔。その顔。
まるで深い隈が刻まれているかのような落ち窪んだ目元、ひどく痩せた頬、唇は色の悪すぎる紫色でこの大地のようにひび割れていて。
しかし、窪んだ目元の奥にあるその蒼氷色の瞳――眼球がぎょろりと動き。頬骨の浮かんだ頬がわずかに吊りあがって、そして小さな口が痙攣しながら開くのを見て。
それは確かに人間であると――いや、吸血鬼らしいが。
生きているものであると確認できる。
「恥ずかしい姿で、申し訳ないのですね」
布1枚の、あられもない姿。たとえ人間でなくても、たとえ吸血鬼でも、女は嫌い。女の肢体を凝視するなんてありえない。吐く。が、こんな得体の知れないものの前で目線など外せるわけがない。
オレは彼女を、その肢体を瞬きを堪えるほど見ている。しかし。
吐けない。吐かない。吐く気力がない。
「っ……」
オレは立っていられる気力さえなく。膝を折って……片膝を地面につけてしまう。
息をするのさえしんどい……倦怠感。疲労感。
これは……ここは、おかしい。――この環境は、おかしい。
目の前の存在が『吸血鬼だ』と言っても、それに対してあまり驚かなかったのは、ここはオレのいた街じゃないと、日本じゃないと、オレのいた世界じゃないと、そう直感していたから。
だってこんな景色、ありえないだろう。
別世界。――別の世界に飛ばされた。別の世界に転移した。
異世界転移。と考えるのがもっともだ。ありえない、と思うが、目の前の景色こそありえない。地球にこんな場所はない。
これまで様々な知識を蓄えてきたオレには、異世界転生や転移を題材にした作品の知識もある。これはきっと、それだ。
それに、ありえないだのなんだのと考えている余裕はオレにはなかった。
片膝をついたオレは、それでも体を支えていられず、片腕を、片手を地面につく。最悪だ。タイツ越し、手袋越しとはいえ、地面に触れてしまった。
病が疼く。気持ち悪い。吐き気がこみあげる。だが、やはり、吐けない。
身体を襲う倦怠感により、吐くという行為、それもできないのだ。めちゃくちゃ気持ち悪いのに吐けない。それがまた気持ち悪い。とんでもなく気持ち悪い。
目の前の存在、その眼球がオレの様子を見て、口にする。
「貴方が、一体どこから来たのか、どこから来てくださったのか、わかりませんが、人間が――魔力のない者がここにいては、命を落とすのですね」
魔力――? その言葉もそうなのだが。
彼女の言葉に、彼女の言いまわしに、不自然なもの、引っかかるものをおぼえるが、考えられない……頭が、くらくらする。
「ごめんなさい、と謝るしかないのですが、お詫びに、と言いますか。――私なら貴方を助けることができます。その状態を、なんとかすることができるのですね」
彼女の声がまるで水中にいるかのようにぼわんぼわんとする。
「申し訳ないのですが、私はこの有様でして、動くことができないのですね。助けるなんて言っておいて本当に情けないのですが、私も助けてください。こちらに、来ていただけないでしょうか」
脳に届くまでが遅い……届く言葉をやけに遅れて脳が理解し。
果たして声が、言葉がでているのかわからない……呼吸さえできているのかわからない口を、動かす。
「はい。私なら貴方を助けることができます。どうやって? それは貴方の血を吸うことですね」
もはや膝立ちを保てなくなり四肢を地面につけたオレは、距離は変わっていないはずなのに少しずつ遠くなっていく彼女の声を聞こうと、這ってズルズルと前に進んでいたその腕が、止まる。
「私は吸血鬼です。貴方の血を吸ってほんのいくらかでも力を取り戻せば、なんとかなります。なんとかするのですね。え? どうやって血をあげればいい? 指先でも切ればいい? いえ、貴方はただ首を差しだしてくださればよいのですね。物騒な言い方になりましたが、もちろん命は保証します。――吸血鬼は、異性の首、そこに牙を刺して血を飲むのですね。……え? 無理? ダメ、なのですね?」
そりゃ、無理だ。ダメだ。首に牙を突きたてられるなんて……他人に触れられるなんて無理に決まってる。ダメに決まってる。
他人――人ではないのかもしれないが、吸血鬼だって。鬼だって犬だって猫だってなんだって。触れられるのは嫌だ。無理だ。ダメだ。それに――
彼女はいま、もっと聞き逃せないことを言った。――異性の。
それは、どういうことか。オレは、逃避する。その思考を逃避する。
彼女はやはり彼女ではなかったのか。彼女は彼だったのか。――〝私〟を見て、男だと思うはずがない。なら彼女は彼女ではなく男ということ。
「私が男、ですか? いえ、私は女なのですね」
そうではなかった。彼女は彼女。女らしい。それならば。まさか。
彼女は、〝私〟が男であることに気づいている――
「はい。貴方が男性であることは知っているのですね。吸血鬼は異性の血を吸う、異性からしか吸血できないという性質上、相手が、目の前の存在が、男か女、どちらなのかを知らなくてはいけない。吸血鬼には、それがわかるのですね。相手の匂いで、目の前の存在の匂いで。――血の匂い、とでも言うのでしょうか」
なるほど。であるなら。
〝私〟の見た目に騙されず〝私〟は男であることがわかるだろう。
しかしなら。それなら。――彼女は一体、どう思うのか。どう思っているのか。
オレを。〝私〟という存在を。
意識もはっきりしなくなってきた。もはや明瞭でない頭に。
だがはっきりと、言葉が現れる。蘇る。
それは、何度も言われてきた言葉。そして、先ほど逃避した思考――
――なんで女の格好してるの?
――おかしい。
――気持ち悪い。
きっと、彼女も、目の前の存在も。
いままでと同じことを……彼らと同じことを言うと身構える。身構えたところで、変わらないが。
世界が変わろうとも。人間じゃなく吸血鬼に変わろうとも。
きっと、言うことは同じ。変わらない。
そう思うオレに、彼女は。
「だから、貴方しかダメなのですね」
目の前の存在は、言う。
「貴方は、無理、ダメ、と言いますが。私は、貴方しか無理、貴方しかダメ、なのですね。男性でありながら、女性の姿をしている――いいえ。女性よりも女性らしい、貴方しか」
果たして、オレの耳は正常に働いているんだろうか。オレの脳は正常に機能しているんだろうか。もうおかしくなってしまったか。
「貴方の血を、私に飲ませてください。私を、助けてください」
だが、これだけ繰り返されたら、きっと、その言葉は間違っていないのだろう。
「貴方しか、ダメなのですね」
それは一体……オレしかダメ、とは、一体どういうことなのか。
それを聞こうとして――しかし、そこで限界だった。
気づけば、あと少しで彼女に届く――そんな所まで彼女へと這っていたオレは、だが、そこまでだった。そのあと少しは、彼女には、届かなかった。
腕が動かない。体が動かない。たぶん、呼吸ができていない。酸欠だろう。茫茫としていく意識……あぁ、ダメだ。もう、ダメだ。
オレは、死ぬ――
もうろくに思考することもできないなかで。
だが、ひとつだけ。灰色の意識に、はっきりとこびりつく思いがあった。
――このまま、死ねない。
絶対に、いまここでは、このままでは、死ねない――。
――わかった。お前を助けるから、だから、オレも助けてくれ。
果たして、その言葉が本当に言えたのか、彼女に届いたのかわからないまま――
オレの意識は、灰色の向こうに――闇に、落ちた。