006 世界が嫌い
今日から3日間、学期末試験であり、オレは珍しく朝、制服に袖を通し、学校に登校するべく駅までの道を歩いていた。試験の日は学校に行くことにしている。
もう数日で夏。すでにその顔を覗かせはじめていて、朝の7時台といえど気温は高く日差しも強い。
背の高い建物が多い街のなかで影は多いが〝私〟は日傘をさして歩く。
こんな太陽の下など日傘もなしに歩けない。太陽は〝私〟の敵だ。
なんて、吸血鬼みたいだな、と思いながら。梅雨明けはまだ宣言されておらずやや不快なじっとりとしたものを含んでいる空気に辟易したものをおぼえながら。
オレは歩みを止めた。立ち止まった。
この鬱陶しい気温が、湿度が、空気が、嫌になったからか。そうじゃない。空気はいつだって嫌だ。嫌いだ。そこに人間がいて、人間が呼吸しているから。
元気な太陽が嫌になったからか。そうじゃない。太陽は夏でも冬でもいつだって嫌だ。嫌いだ。敵だ。
登校するのが嫌になったからか。試験が嫌だからか。そうでもない。高校2年生1学期末の試験なんてオレには児戯に等しい。高校入学時点で高校卒業過程までの学習は終えている。成績は学年トップ――日本の現在高校2年生のなかでトップだ。試験を受けるために学校に行くのは嫌だが試験そのもは嫌なわけではない。
では、なぜか。なぜ、足を止めたのか。――この先に、なにがある。
最近ずっと、思っていることがある。
『復讐』を終えた……女よりも女らしい男になってから、思っていることがある。
この先。未来。将来。なにがあるのか。オレはどうするのか。どうしたいのか。
オレはなよなよしてることが嫌いだ。だからその答えはすでにある。もっている。――オレは、存在理由がほしい。レーゾンデートルと呼ばれるもの。
オレは、オレの……いや〝私〟の、存在理由がほしい。
女よりも女らしい男、その〝私〟の、存在理由というものが。
これまでたとえば勉強をしてきたのも、そこに〝私〟の存在理由がほしかったからだ。
だが、それは無理だとオレは悟ってしまった。すでにわかってしまった。
たとえ学年トップの成績を修めようが。
――でも男なのに女の格好してる変な人。
――頭いいんだけど、頭おかしいよね。
――推薦をやりたいが先の大学に彼を……彼女をどう言うか実際困ってしまう。
そう言われていることを知っている。
このまま勉強を極めたところで……大学に進学し、果てに、たとえば学者、たとえば研究者、たとえば教授になったとしても。
そこには〝私〟である理由が、女よりも女らしい男である理由が、ない。あるのなら教えてほしい。きっと、たぶん、ない。
違う未来として、現実的な将来として、プロのヴァイオリニストになるというこの先もある。だが、それも、きっと言われることは同じ。
――でもなんで女の格好してるの?
――演奏はいいんだけどね。
――ファンを騙してる。いや、騙してファンを得てる。
〝私〟が現在動画投稿サイトに投稿している『ヴァイオリン弾いてみた』の動画のコメント欄には『演奏やば。うっま』『それに美人すぎる』『弓で俺を弾いてほしい』『私は弦になりたい』と称賛――一部おかしいものがあるが――認めてくれるものばかりだ。
だが、それは、〝私〟が男だと公開していないからだ。
女よりも女らしい、けれど男であることを彼らは知らないから。
男だと明かしたら男だと知ったら、きっとオレの想像通りのコメントが溢れる。
騙してたな、と。
〝私〟は彼らに求められていない。きっと、ヴァイオリンの道でも、プロのヴァイオリニストになったとしても、そこに〝私〟の存在理由は、女よりも女らしい男である存在理由は、ない。
動画のなかだけじゃない。現実でも〝私〟を求める人間はいる。日頃ナンパしてくる人間のことだ。
しかし、それは違う。それも違う。そうじゃない。
結局は、同じだ。彼らに『本当は男です』と言えば、きっと〝私〟の前から立ち去る。
――なんだ男かよ、女じゃないのかよ。騙しやがって。
――なんで女の格好してんだよ。気持ち悪いな。
と。
女よりも女らしいけれど男である〝私〟は、彼らに求められてはいない。
彼らが求めるのは異性で、同性ではない。
そこにも、〝私〟の存在理由は、ないのだ。
吸う空気が、こんなにも汚いと感じるのは、きっとオレが人間嫌いというだけでは、潔癖病ゆえのものだけでは、ない。――この世界に〝私〟の居場所はない。
存在理由とはつまるところ、誰かが〝私〟という存在を認めてくれる、受け入れてくれる、求めてくれることであり、そんな人間は、この世にはいない。わかってしまった。わかっている。そんな人間はいないと。
そしてそもともとして、オレは人間が嫌い。もし誰かが〝私〟を認めて、受け入れてくれて、求めてくれたとしても、オレはきっとそれに応えられない。
最初から詰んでいるのだ。最初から終わっている。どうしようもない。本当に。
じゃあお前が変われば、女よりも女らしい男ではなくただの男になればいいだろ、という話。しかし、それは嫌だ。ありえない。
オレの『復讐』は『女よりも女らしい男になる』ことであり。
女よりも女らしい男になったことで『復讐』は果たした、果たしたが、終わってはいない。これは生涯をかけての『復讐』だ。オレは女よりも女らしい男であり続ける。〝私〟がオレなんだ。
そもそも、ここで変わるなんてありえない。他人に認められない受け入れられない求められないからと、他人が理由で変わることはありえない。死んでも嫌だ。死んだほうがいい。ああそうだ。オレが〝私〟でなくなるとき、それはオレの死だ。〝私〟の死ではなく、オレの。オレはそのとき死ぬだろう。
わかってるよ本当に。他人が、なにより自分が、どうしようもないことは。
だが、これが、〝私〟が、オレなんだ。オレは〝私〟を愛している。オレだけは〝私〟を愛していて……――あぁ、息苦しい。
こんなにもこの世界は……〝私〟が生きるこの世界は、息苦しい。
呼吸が浅くなる。視界が明滅する。体が折れる。――あなた大丈夫!? という声をかけられている気がするが、どんどん小さく……聞こえなくなっていく。
ついに、何も聞こえなくなって、視界は真っ暗になる。
はぁはぁ、という荒い呼吸の音だけが、耳に聞こえる。
自らの呼吸の音のみが――
――――?
なにかが、おかしい。――街の雑踏はどこへいった?
呼吸も、おかしい。――先ほどまでとは違う、純粋な、息苦しさ。
オレは目を見開いた。オレは道路の上にいて、視界に映るのは黒いアスファルトであるはずだった。――こんな、煤茶けた砂が映るのはおかしいだろう。
顔を上げた。
「――――――」
オレを囲むようにあった高い建物が、なかった。
照りつけていたはずの憎き太陽も、なかった。
そして――あれだけいたはずの棒人間――人ひとり、視界にはなかった。
汚れた茶色の世界だった。砂と岩の世界。
多くひび割れている地面は、土ではない、砂だ。いかにも栄養がなさそうで、こんな砂の地面じゃ雑草どころか生えないと思わせる。実際に、視界内のどこにも、植物らしきものは見あたらない。
代わりにあるのは、岩だ。大小様々――大きなものは目測東京ドームよりも大きい――大小のたくさんの岩が転がっているというよりは、超巨大な岩がいくつかに砕かれあるいは削られてできた地形。そう思われた。
高低差の大きな地平が、きっとずっと向こうまで、おそらく地平線まで広がる。
しかし、その地平線は。その向こうは。――四方どこかに見えるはずの太陽は、見えない。
周囲はとても薄暗い。一寸先も見えない夜の闇とまでじゃないが、まるで灰色の霧に覆われているように。景色が濁っている。
空を見あげても、そこにあるのは鼠色の靄で、まるで空との間に分厚い雲があるよう。
だが、それは雲でも、靄でも、霧でもない。もっと違う、なにかだ。
朝だったはずなのだが、朝なのかもわからない。昼と言われればそうかと思ってしまうし、いっそ夜だと言われても不思議じゃない。
景色が違う。世界が違う。
「……どう、なってんだ」
〝私〟の姿でありながら思わず素の声、素の喋り方で言葉が転がりでてしまうくらい、オレは動揺していた。動揺しないわけがない。なんだこれ。
とりあえずなにかしないと、動かないと、精神が、正気がどうにかなってしまいそうだった――オレは。
金縛りにあったように動けずにいた足を、一歩踏みだそうとして――
「――はぁ、っ、はぁ……っ!?」
自らのひどく荒い呼吸に気がついた。
おかしい。――この呼吸は、この空気は、おかしい。
運動をするときもマスクを外さないオレが、マスクをつけて呼吸をするのがしんどい、無理――それだけで、この異常事態がわかるだろう。
マスクを外そうと口元に手を伸ばす――その上げた腕が、やけに重かった。そこでこれも気づいたが、体が……全身が、怠い。ひどい倦怠感。
持っていた学生鞄が手から離れ、地面に落ちて砂が舞った。
感覚的に、わかる。これは、ヤバい。
行動するための元気、活力というものが奪われていく感覚ではない。――生命を、吸われ奪われていく感覚。
死ぬ。その2文字の単語が脳裏にはっきり現れる。
オレという……〝私〟という人間の存在理由が見つからない人生。それをここで終えてもいいのか。もう終わってしまっていいのか。
もう――諦めてしまっていいのか。
否だ。言っておく。
オレは、自室のベッドの上で死にたい。死ぬなら自室のベッドの上でだ。
こんな、よくわからん、病持ちのオレにとっては膝すらつきたくないと思うような、砂の上で死ねるか。横になるわけにはいかない。
オレは目の前の砂を睨みつけ、蹴るようにして一歩前に足を踏みだす。
ここで諦めるわけにはいかない。オレだけは〝私〟を愛す。オレがオレを愛す。オレがオレを見捨てるわけにはいかない。
それは命という意味でも。――まだどこかであるんじゃないかと思っている、どこかにあるんじゃないかと思っている――存在理由を見つけるという意味でも。
(まだ、死ねない――)
一歩、と足をだすと、やたらパラパラとした砂が舞う。本当に栄養がないみたいで。死にそうな、死んでいると言ってもいい砂。
だが、オレもすぐにそうなるだろうと……意思とは裏腹に、一体あと何歩歩けるだろうか。
(ク、ソ……っ)
息を吸っているのか吐いているのかもわからないほど呼吸は乱れ、足を引きずるようにして歩きだしたオレは……
そこで。
「――本当に、叶うのですね」
もはや眼球すら動かすことが怠い、しかし、オレは顔を、首を、体を動かして、それを見た。
「ああ、まさか、存在するなんて……存在して、くださるのですね」
大きな岩と岩の隙間。――ふと、なぜか、奥の細道という言葉が浮かんだ。
まるで道の、この世界の終点であるかのような。
そこにいる、それを。そこに転がっている、それを。
「はじめまして。単刀直入なのですが、私を助けていただけないでしょうか?」
それは、その存在は、彼女は、言った。
「私は、吸血鬼なのですね。――貴方の血を、飲ませてはいただけないでしょうか?」