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「君を愛することはない」と言った直後に溺愛が始まっていました

「キューブリック伯爵家の娘イルゼと申します。よ、よろしくお願いいたします」

 婚姻届けを提出した後の、初顔合わせ。

 もっと長い挨拶を教えられていたような気もするが、緊張のあまり名前を言うので精いっぱいだった。

 今日からここ…ガルシア侯爵家で暮らすことになる。

 本当に?

 実感はまったくないし婚姻届けにサインをした覚えもないが、家長が決めた婚姻を取り消すことは難しい。

 実家の馬車に放り込まれて十日の旅。馬を休ませるための休憩はあっても、私が休む時間はなかった。

 侯爵家の門の前で小さな鞄と共に放り出されて、今は広々とした玄関ホールに辿り着いたところ。

 一人で心細いが、実家からついてきてくれるような使用人はいない。執事もメイドも…私をかばい助けようとした使用人達はすべて屋敷から追い出されてしまった。

 キューブリック伯爵家に私の居場所はない。

 お父様はお母様が存命の時から男爵家のご令嬢と通じており、私が八歳の時…母が亡くなった翌日にはその男爵家のご令嬢…義母パメラと義姉ミシェルを伯爵家に迎え入れていた。

 突然、現れた義母と義姉に混乱していると、『態度が悪い』と叱られて罰として屋根裏の物置部屋へと追い払われた。

 それきり母と私の部屋には入っていない。その時はまだ味方がいたので、母の日記と愛用していた手鏡だけはなんとか手元に隠すことができた。

 手鏡は古びた小さなもので緻密な装飾が施されているが宝石はついていない。ただ母が『これはとても大切なもの』だと何度も言っていた。高価なものではなさそうだが、私が大切にしているとわかれば取り上げられるだろう。

 母の死を嘆き、何故、狭くて汚い部屋に閉じ込められているのかもわからず泣き暮らしているうちに、伯爵令嬢としての生活が終わった。

 気づいた時には何も残っていなかった。

 母と私の部屋は片付けられ、新たに義母と義姉の部屋に改装された。

 泣いても、訴えても、何も変わらない。むしろひどくなる。

『役立たずなのだから働きなさい。それくらいしかできないでしょう』

 義母の命令で使用人達に混ざって働くようになった。

 怒鳴られて叩かれて、罰として食事を抜かれるうちに何も考えないほうが楽だと気がついた。余計は事は言わず、淡々と命じられた仕事をこなすだけ。最初は掃除や洗濯、厨房の手伝いにも慣れてくると庭仕事や馬の世話を命じられた。

 できない…とは言えない。

 やらなければ生き残れない。

 この婚姻でそんな生活から脱出できたのか、それとも…。

 疲労はピークに達していたがここで倒れるわけにはいかない。挨拶が終われば少しくらいは休めるだろうか。

 床で良いから眠りたい。

 姿勢を正し立っていることだけに意識を集中させていると。

「私がオーランド・ガルシアだ」

 正面に立っていた体格の良い男性が一歩前に出てきた。そして。

「これは政略結婚だ。私が君を愛することはない。嫁いできたからといって、勘違いをしな…、いっ」

 スパーンッと気持ちがいいほどきれいな音が響いた。

 ガルシア侯爵の横に立っていた黒髪の美しい女性が扇子を手に震えていた。扇子で殴ったようだ。そんなことをする貴婦人が、義母以外にもいるとは…。

 意外と一般的なことなのだろうか?

「あ、姉上、何をするのですか、いきなりっ」

「それはこちらの台詞です、この馬鹿っ、脳筋、朴念仁、あぁ、今、血も涙もない冷血漢というのも加わりましたね」

「な、何を…」

 周囲にいる使用人の方達も激しく頷いている。

 老若男女、十人くらい。伯爵家の使用人よりは少ない。

「確かに、私も事前に耳にした噂話を警戒しておりました。警戒していたから、嫁いだ身ではありますがここに来ております」

 噂話…とは、おそらく『キューブリック伯爵家の悪女』に関するものだろう。

 社交に出ない私には関係がないと気にしないようにしてきたが、それでもわざわざ耳に入れてくる人がいる。

 義姉ミシェルのメイド達だ。

 ミシェルお姉様がいかに素晴らしく社交界で認められているか、妹である私がどれほど嫌われているか。

 宝石やドレスを買い漁り、気に入らないことがあればメイドに暴力をふるう。身持ちも悪く複数の男性と夜な夜な遊び歩いている女。男に媚びることと着飾ることしか考えられない下品な令嬢。

 義母達が来てから買い物をしたことはなく、働きづめで屋敷の外に出る自由もない。メイド達には逆に殴られている。

 噂が嘘だと誰よりも知っている人達が、大きな声で『あんたは嫌われ者なんだよ』と言ってくる。

 残念ながら、私には訂正する手立てはない。屋敷の外に出られず、外部の人間と会う機会もない。なくもないが、出入りの行商人は…、義母達と付き合えるような人達だ。近寄れば何をされるかわかったものではない。

 ぼんやりと激高している女性を見ていると。

「女遊びもろくにしたことのない貴方が『悪女』に騙されては侯爵家の一大事。そう思って来てみれば…」

「で、ですから、最初にガツンと…」

「馬鹿なの?」

 氷点下の声。

 自分が怒られているわけでもないのに思わず震えてしまう。

「悪女とか、政略結婚とか、全部、きれいさっぱり頭の中から追い出して、まっさらな状態でイルゼ嬢を見た感想を端的に述べなさい」

「え?」

「早く」

 ガルシア侯爵は顔を赤くして、しばらくためらった後、小さな声でつぶやいた。

「妖精…のようだなと」

「声が小さい、もっと大きな声で」

「妖精のような可愛らしい方だと思いました!な、なんか、小さいし華奢だし細いし、背中に羽根が見えるし…」

 いえ、羽根はついてません…、よね?思わず自分の背中を確認してしまう。

「わかっているのならよろしい。さぁ、旅でお疲れなのですから、お部屋に案内なさい」

「はいっ」

 やっと部屋に行けるようだ。もちろん長くは休めないだろうが…、すこしだけでも眠りたい。




 確かに疲れていた。途中から意識は朦朧としていたし、ふらふらではあったが、初日から情けない姿など見せられない。

 と、気を張っていたはずなのに熟睡してしまった。

 湯をすすめられたことは覚えている。その頃には歩くのも困難でメイドに手伝ってもらいながら湯に浸かった。他人に髪を洗ってもらうのも久しぶりなら、お湯に浸かるのも何年振りだろうか。

 気持ちいいなぁ…と思ったあたりで記憶が飛んだ。

 とても可愛らしいワンピースタイプの寝間着を着ているのだが、着た覚えがない。そしてこんな可愛くて着心地の良い寝間着は持っていない。

 今、何時なのだろうか。

 ふかふかの布団の上で茫然としていると。

「おはようございま~す、メイドのエリカです」

「アイラです、入りますよ」

 ノックの後、同年代…十六、七歳に見えるメイドが二人入ってきた。

「起きてますね、顔を洗いますよ~」

「終わったらこれを飲んでくださいね」

 手際よく顔を洗われ、勧められた緑色のジュースを飲む。ほのかに甘い。首を傾げると。

「それは野菜や果物のジュースですよ」

「ダイエットをしていてその体型ではないですよね?」

 すこし迷ったが頷く。虐待されていたとは言いづらいが頷くくらいはいいだろう。

「だと思いましたよ」

「あと、本日のドレスはこちらでご用意いたしました」

 淡いピンク色のドレスを見せられた。新品のようにも見える。春の装いに相応しい色合いで装飾も少なめで着心地が良さそう。ウエストを締め付けないタイプのワンピースだ。

「私が着てもよいのですか?」

「はい、こちらはリアーナ様が幼少の頃、着ていたドレスで、今は着る人もいませんから」

 正直、助かった…。と、ホッと息をつく。

 実家から持ってきた服は二枚しかなく、つぎはぎのある着古したものだ。ここのメイド達の制服のほうがきれいに見える。使用人よりもみすぼらしい格好はさすがに良くないのでは…と思っていた。

「あと、昨日、着ていたドレスですが…、思い入れのあるものですか?」

 ドレス…、一応、あれもドレスではあった。

 『侯爵家に嫁ぐのだから、それっぽいドレスを着て行け』と、押し付けられたものだ。作った当初は鮮やかなイエローだったようだが、今はくすんで黄土色になり刺繍があちこちほつれていた。何よりサイズが合わず、裏から縫い合わせて胴回りや袖丈をなんとか合わせていた。しかし丈はどうにもならず引きずっていたので、歩くのに危なくて仕方なかった。

 作った当初はそれなりに高価なものだったかもしれないが、残す価値があるかと言えば…ない気がする。お母様のドレスでもないし。

「いいえ…、特には」

「持っていらっしゃった荷物で、残しておきたいものはございますか?」

 エリカさんが旅行鞄をサイドテーブルに乗せた。

「中に母の形見…日記帳と手鏡があります」

 あとは着古した服と下着、タオルくらいしか入っていない。母が所持していた宝石類やドレスはすべて取り上げられ、なんとか守れたものは価値のなさそうな日記と手鏡だけ。

「それ以外のものはいりませんか?」

「…そう、ですね。あの、お恥ずかしい話、着る服が他にないのですが…、貸していただけるのならば、持ってきた服はいりません」

「では不用品はお預かりしますね~」

「奥様のお洋服は今、手配しております。リアーナ様のお洋服も良い状態のものが残っておりますから、クローゼットットに運んでおきますね」

 普段着は貸してくださるようだ。

「ありがとうございます」

「当然のことですよ。あと、私達に敬語は使わないでくださいね。名前も呼び捨てで、リアーナ様をお手本に命令口調でお願いします」

 それは…、そのほうが良い事は理解している。簡単にはできそうもないけど。母が亡くなるまではできていたことだ。慣れれば、できる、はず。

「はい、頑張ります」

「では練習しましょう」

「練習…」

「私達の名前、覚えてますか?」

「エリカさんとアイラさん」

「それ、呼び捨てで、元気よく、はいっ」

「エ、エリカ、アイラ…」

 さん。と、つけたくなるのを我慢する。

「この屋敷では侯爵様のことをオーランド様、リアーナ様とお名前で呼ぶことが許されています。お客様がいらっしゃっていたり、公の場ではガルシア侯爵様、リアーナ様のことはラティナ子爵夫人と呼ぶこともありますが、領内ではそんなにかしこまらなくても大丈夫です」

「イルゼ様の事は奥様とお呼びするかイルゼ様とお呼びするか悩ましいところですが…」

「多数決で『奥様』に決まりました。どうしても嫌だったら言ってください」

 嫌ではないが、本当に『奥様』になれるのだろうか?

 オーランド様は結婚に納得がいってないようだった。その時は…、使用人としてこの城で働かせてもらえないか頼んでみよう。

 ガルシア侯爵領がどんな土地かはまだわからないが、実家に帰るよりひどいことにはならない。そんな気がしていた。


 エリカ達と話していると部屋に食事が運ばれてきた。

 美味しそうなパンとスープ、サラダに…、ここ何年も目にしたことのない卵料理…オムレツがある。

「た、食べてもいいのですか?」

「もちろんですよ。食べられそうなものを少しずつでもかまいませんからね」

 できることならば全て食べたい…が、胃の大きさには限りがある。ここは思い切って一番食べたいものからだろう。

 おそるおそるふわふわのオムレツをフォークで切り分けて一口。

 美味しい…。二口、三口…と食べ進めるとチーズが現れた。しかし半分くらい食べたところでおなかがいっぱいになってしまった。スープとサラダは少し食べられたけど、パンは入りそうもない。

「はい、頑張って食べましたね。すこし休んだらお仕度をして、起きていられそうならオーランド様に改めてご挨拶しましょうね」

 今すぐに向かわなくていいのだろうか?そう思ってみたものの、お腹がいっぱいになったらまた眠くなってしまった。うとうとしているうちに午後になり、医師の診察を受けた後はまた眠ってしまった。




 翌朝。

「この、寝心地の良すぎる布団が駄目な気がする…」

 何もせずに眠り続けていることを反省していると、いつの間にかそばに来ていたエリカが『寝心地、気に入りませんか?』と聞いてきた。

 熟睡できない布団に交換してください。とは言えないか。

「寝心地が良すぎて…、眠りすぎてしまいました。初めてのお屋敷でこんなに眠り続けてしまうなんて…」

「大丈夫ですよ。スペンサー様も今は眠りたい時に寝て、食べたい物だけを食べていいっておっしゃっていましたから」

 そうしなければいけないほど体が弱っているとのことだった。

 診てくださったのは高齢の女性…スペンサー様で、医者であり魔法治癒師でもあった。


「生活をするために必要な筋肉がほとんどついていないね。これじゃ歩くのもしんどかっただろう」

 一日一食、堅いパンとほとんど具のないスープ。掃除や洗濯で水を使う時にこっそりと水を飲み、庭仕事の時に食べられそうな野草や果実を探した。

 空腹で動くのもつらかったが掃除や洗濯、庭仕事をしないと一日一個のパンももらえなくなる。

 生きるために必死になって体を動かしているうちにふっと何かが変わった。

「お嬢さんは身体強化系の魔法を使えるようだね」

「はい、そういった類のものを使っていると思います。魔力が少しあるようで…」

 身体を楽に動かせるだけでなく、殴られた時には痛みも伝わりにくくなる。とても便利な魔法だ。

 一番良かったと思う点は、他の人には魔法を使っているようには見えないこと。

 魔力は誰にでも備わっているものだが、使える人は一握りしかいない。

 日常的に私が魔法を使いこなしていると知られたら、絶対にもっと扱いがひどくなるか魔法を使えないように制限をかけられていた。

「無意識に使いこなしているようだねぇ。いきなり使えなくすると生活に支障をきたすだろうから、寝ている間だけ魔法禁止にしようか。体が慣れてきたら、少しずつ、魔法を使う時間を短くして体力と筋力をつけよう」

 身体強化魔法を無意識に使ってしまうと、身体がますます弱ってしまう。夜は魔封じのマジックアイテムを使うことになった。


 私の体は思っていた以上に大変なことになっていた。

 自覚はなかったが『寝たきりでもおかしくない病人』だったせいでエリカ達がとても優しい。

 一晩眠っているうちに体を締め付けないタイプのふわっとしたドレスが何着も用意され、食事の時間以外にもフルーツやお菓子が用意されている。

 実際、そんなに食べられないが、腐ったもの、カビたものを食べなくてよいのは嬉しい。

 のんびりと朝食を食べ、身支度を整えたところで改めて侯爵様と顔合わせをすることになった。




 オーランド・ガルシア侯爵様。現在、二十六歳。貴族の…それも既に家を継いでいる男性にしては遅い結婚だ。

 広々とした客間に置かれた立派なソファセット。大きなソファなのに、オーランド様が座るとちょうど良いサイズに見える。

 立派な体格な上に黒髪、黒目、日焼けした肌。威圧感がある…はずなのだが。

 立派すぎる体格を縮こませていた。

「嫁の来てがなくて困っていた男がまだ十六歳のお嬢さんと結婚できるのだから、素直に喜べばいいものを…」

 扇子をパチン、パチンと鳴らしながらリアーナ様が肩をすくめる。

「岩石みたいな見た目のせいで王都のご令嬢達に避けられ続けていたくせに」

「あ、姉上だって『悪女』の噂を信じていたではないですかっ」

「でも、私は…いいえ、オーランド、貴方以外は皆、噂がおかしいことにすぐに気づいたわ」

「しかし、これほど可愛らしければ男を手玉に取るのも簡単だと…、そう思ってしまったのですっ、仕方ないでしょう」

「まぁ、可愛いってことだけしか目に入らなかったのね、それは仕方ない…なんて思うわけないでしょう、お馬鹿さん」

 向かいのソファに並んで座った姉弟は、仲がとてもよろしいように見えた。

 私は一人で座り、そして改めて使用人達も集められている。

「そうは言いますが…、大体、見ただけでわかるものですか?」

 そこは私もちょっと思う。

「わかります。確かにイルゼちゃんの性格まではわからないけれど…、浪費家で男好きではないことは一目瞭然です」

 リアーナ様が私の背後に立つエリカに視線を送った。

「では私から衣装について説明させていただきます。あの型のドレスはおそらく五十年以上前に流行ったもので、保管状態が悪かったせいでかなり傷んでおりました。しかもサイズがまったくあっておりません。男を篭絡するために着るドレスとしては下の下、あれで落ちる男がいるとすれば特殊性癖を疑うレベルです」

 ぐぅ…とオーランド様が胸を押さえた。

「また髪や手がありえないレベルで荒れています。荒れに荒れまくっています。元の状態に戻すためには治癒師の力を借りても半年かかるかもしれません」

 これには私もぐぅ…と呻って胸を押さえた。確かにありえないほど傷だらけの手をしている。髪もバサバサで老婆のようだ。

「ドレスや宝石を買い漁っている令嬢が、アクセサリーをひとつもつけず、古いボロボロのドレスで来るわけないでしょう。エルトンも何かある?」

 執事服をカチッと着込んだ年配の男性が頭を下げた。

「はい、まずお屋敷に到着した時からかなり異様でした」

 キューブリック伯爵家の馭者は門番に挨拶をすると、私だけをポンッと置いて帰ってしまった。

 私も困ったがそれ以上に困ったのが門番達だ。

 困惑しきった門番の一人が屋敷まで付き添ってくれた。そういった仕事はやらなくてもよいのに旅行鞄も運んでくれて、歩いている間中、すみませんと謝り続けるしかできなかった。

「いくら『悪女』でも…いえ悪女ならばなおのこと監視役をつけるはずですが、完全に一人で来た上に、似合わないドレスに古びた鞄。しかも本人は門番にペコペコと頭を下げている。あれが芝居だとすれば国一番の大女優になれますよ」

 貴族令嬢は使用人に頭など下げない。下げることもあるが、人目がある場で簡単に下げない。

 昔、そういった事を聞いた気もするが、八年間の使用人生活で、誰にでも頭を下げるようになってしまった。

「あの~、あっしからもひとつ、いいですか?あ、あっしは庭師のカルロスで、こっちは息子のバートです」

 七歳、八歳くらいだろうか。男の子が泣きそうな顔で頭を下げた。

「オレ、王都から『悪女』が来るって聞いたから待ち伏せしてたんだ」

 馬車で屋敷の玄関まで来ていたら難しかったが、何故か歩いている。こっそりと近づいてぶつけるために小石を投げた。

 怪我をするような大きな石ではないが、当たればわかる。石は左腕に当たり地面に落ちた。

「怒るかなって思ったけど…、オレに気づいて困ったように笑ったんだ。泣いちゃうかもって顔にも見えて…、それで、なんか、すごく悪いことをしちゃったんだなって…。ごめんなさい、イルゼ様」

「申し訳ございません。クビになっても仕方のない事を息子がしでかしました」

「いえ…、ご領主様を想ってのことでしょう。私は怪我もしておりませんから大丈夫ですよ。今後は人に石など投げないようにね」

 前半はカルロスに、後半はバートに言ったのだが、何故かオーランド様が額に手をあててうつむきながら『今後、貴女に石を投げる者がいたら私が斬る』などと物騒なことを呟いている。

「あたしもイルゼ様を見た瞬間に、これが悪女?って思ってましたよ」

「おう、オレも変だなって」

「ねぇ、やっぱり変だよねぇ」

 そう話し出したのは料理担当のゲイルとその妻ドリス。

「悪女としての遊び…、酒や薬を続けていれば顔色や肌に影響が出るからねぇ。人によっては声が枯れたり、息が臭かったり」

「悪女としての美貌を維持するために酒も薬もやってないなら、もっとこう、メリハリのある体や、華奢な路線でいくにしても必要なところには肉をつけるもんだ」

 必要なところにお肉…。見下ろすと、きれいに何もない、更地。

 いえ、お母様は背も高く素晴らしいプロポーションをお持ちでしたもの。私も成長すれば、きっとっ。

 ともかく『悪女』というものは不健康な病的ボディになるか、男を手玉にとるための悩殺ボディになるらしい。

 私の場合、病的ボディではあるが、ここまで痩せていると指先が震えたり目つきがおかしくなったり…、もっと別の症状も現れているとのこと。

 本物の悪女にも病で苦労している人がいるようだ。

「痩せすぎていることを除けば、普通のお嬢さんに見えるよねぇ」

「だな。こんなガリガリに痩せた子、教会に保護されている子供達の中にだって滅多にいねぇよ」

「これからはいっぱい、美味しいものを作ってあげるからね」

 それはとても嬉しい。思わず笑顔になる。

「ありがとうございます」

 ゲイルとドリスに向かって言ったのに、オーランド様がまた胸を押さえてまたはぁはぁしている。

「私は最後まで厳しい目で見極めようと思ってましたよ」

 そう切り出したのはメイド長のブレンダ。

「病的に痩せているとか、おどおどしているとか…、そういったことを武器にした悪女もいないこともないので。ただねぇ…」

 玄関ホールで立っていた時、部屋に案内した後、旅の疲れを癒すためにと入浴をすすめて…その辺り、記憶がなかったのだが、ブレンダ達が入浴から着替えまですべてしてくれたようだ。

 一挙手一投足を観察した結果、完全に『シロ』だと確信した。

「そういった女は男性と女性に対する態度がまるで違うんですよ」

「あぁ、酒場のコリンとか」

 アイラにも心当たりがあるようで頷く。

「そう、あの子も見た目は妖精のように華奢で可愛らしいけど…」

「給仕仲間が失敗したり怒られている時、すっごく嫌な顔で笑ってますものね。すぐに男性客のテーブルに座り込んで仕事をサボるし、女性相手だとマウントとりにくるし。損得計算して行動しているの、まるわかり」

「嫌な笑い方をする子だから、十年、二十年後には顔が歪むんじゃないかしら」

 女性達の辛辣な意見にオーランド様が『あの子、本当にそんな子なのか…?』と首を傾げている。

 ともかく…と、ブレンダが断言する。

「イルゼ様はオーランド様に脅えるでもなく媚びるでもなく…、無関心?と思えるほど興味がなさそうです」

「興味が、ない…」

 オーランド様がショックを受けている横でリアーナ様が頷く。

「イルゼちゃんにとってはオーランドが岩石でも年上でも、たぶん美青年でもどうでもいいことなのよ」

 その通りだ。正直、見た目よりも…、ここでは布団で眠れるのか、ご飯を食べさせてもらえるのか…、生きることが許されるのか。

 死にたいと思うほどつらい日々を乗り越えた先が、新たな地獄…ではさすがに心が折れる。

 母のためにもいつか幸せになりたいと頑張ってきたが、これ以上は心も体ももちそうにない。

「使用人達だって察していたというのに…、オーランド、本当に何も思わなかったの?」

「それは…、し、仕方ないではありませんかっ」

 大きな声で言い切った。

「イルゼ嬢が可愛らしすぎて、頭の中がパーンッと真っ白になってしまったのですっ!」

「よく見れば頬もこけているし腕なんか骨と皮しかなさそうよ?」

「だとしても、可愛いっ、すごく、可愛いっ!膝の上に乗せて、餌付けしたいっ!」

 そ、そうですか?

 お母様に似ていると言われた白金の髪は艶を失い老婆のようだと言われ、グリーンの瞳も『澱んだ湖のような色』とよくわからない貶され方をしてきた。

 顔立ちも…、げっそりとやつれていることはごまかしようがない。

 こんな骸骨みたいな女がお好みなのかしら?

「じゃあ、イルゼちゃんがしっかりとご飯を食べて健康的な身体になったら?勢いのまま食べ過ぎて、ぽっちゃりしちゃったら?」

「は………、ぽっちゃ…り……?」

 オーランド様はしばらく考えた後。

「え、選べない、健康のためには普通もいいが…、ぽっちゃりも捨てがたいっ。むしろぽちゃっとした頬をもっちもちしたいっ。羽のように軽いイルゼ嬢は間違いなく妖精だが、ちょっと丸くなってもまた別の趣があるに違いないっ」

 何やらおかしなことも言われているような気もするけど、ご飯は今後も食べさせてもらえるようだ。

「イルゼちゃんはこの朴念仁と夫婦としてやっていけそう?」

「それは…、わかりませんが」

 生前、母に言われていたことを思い出す。

 父と母は一応、恋愛結婚で、祖父の反対を押し切って結婚した。お互い一目惚れというやつで、しかし顔で選ばれた父は、母が思っていたよりもクズだった。

 結婚したら落ち着くどころかますます女遊びが激しくなり、苦言を呈せば逆ギレ逃亡。

 母が病に倒れてからは家に寄り付きもしなかった。

 亡くなったと報告されてやっと帰ってきたと思ったら、後妻と義姉同伴。義姉ってどうなの、結婚当初から裏切っていたってことよね?

 母はあからさまに父の悪口を言わなかったが…、『結婚相手は性格で選びなさい』と何度か言っていたので、まぁ、そういうことだろう。

「オーランド様はとても体が大きくてお顔も厳めしいので、ごく普通に令嬢として育っていたら…ちょっとわかりませんが。実際の私は貴族の令嬢とは程遠い生活をしていたので、お顔よりも性格だと思っています。穏やかな夫婦関係を築いていけるのなら、この婚姻を前向きに受け入れたいです」

 オーランド様は椅子から崩れ落ち、床に手をついた。

「天使だ…、ここに天使がいる…。イルゼ嬢との結婚を邪魔するヤツは全て、潰す…」

「いや、貴方が真っ先にこの結婚を潰そうとしていたよね?」

 リアーナ様のツッコミを無視して、勢いよく立ち上がった。

「やることができた、憂いはすべて晴らさねば!」

 そう言うと、部屋を飛び出していってしまった。




 嫁ぎ先は侯爵家。本来ならば侯爵家夫人としての仕事があるが、今は体調が万全ではないため免除されていた。八歳の時に家庭教師も解雇されてしまったので、改めて手配をお願いした。

 今は勉強、体力作りが日課となっている。

 それから午後にオーランド様とティータイム。オーランド様の『一日一回、二人で話したい』という希望で、私も賛成した。

 婚姻が成立していると言っても、相手のことを何も知らない。今はお見合いの後、婚約期間中…に近い。

 一カ月も過ぎればさすがに生活にもオーランド様とお話するのにも慣れてきた。

 迫力のある体格とお顔だが、言動はいたって普通、とても優しい方だと思う。

「ここでの生活で困ったことはないか?」

「はい。皆様、とてもよくしてくださっています」

「足りないものがあれば我慢せずに言うように。イルゼのための予算もあるからな」

「は、はい。では…、元気になったら街を散策したいです」

 身の回りの品はすべて整えてもらったので買いたいものはないが、この領地がどういった雰囲気なのかは見てみたい。

「今後は城の外に出ることもあるか…。そろそろ護衛騎士も決めないとな」

 護衛騎士…、なんだか響きがかっこいい。そういえばエリカ達が『オーランド様は見た目のまんま、めちゃくちゃ強い』と話していた。

「オーランド様も剣をふるうことがあるのですか?」

「そうだな。普段から騎士達を鍛えているし、魔物によって領民が危険にさらされるようなことがあれば、出陣している」

「お強いのですよね?」

「そう…だな。この領地…というか、国一番とも言われている」

「凄いですね!」

 どうやって決めるのだろうかと思ったら、年に一度、騎士達を集めた剣術大会があるそうだ。

「参加者の頂点に立った者が、前年の優勝者に挑み、その年の頂点が決まる」

「オーランド様も参加されるのですか?」

「あぁ。こういった戦いはあまり好きではないが…、優勝するとそれなりに褒賞が出るし領地の宣伝にもなる。十八の年に優勝してから王座を守り続けているせいか、ガルシア侯爵領には腕に自信のある者が集まってきている」

 強い者の下で働きたい…とか、部下になれば日常的に手合わせしてもらえるかも…とか。

 大会は秋頃、王都で行われる。

「秋は社交シーズンの終わりで、王城開催の夜会もある。昨年までは一人で参加していたが、今年は一緒に参加してくれるか?もちろんイルゼの体調をみて無理はさせないつもりだ」

 社交界デビューもしていないのに、侯爵夫人として王城での夜会。

 想像しただけで倒れてしまいそうだけど。

「行きます。ガルシア侯爵夫人としての責務から一生、逃げ回ることはできませんから」

「私の妖精は頼もしいな」

 笑って、ひょいっと私を持ち上げると自分の膝の上に乗せてしまった。

「オーランド様、マナーがなっていませんよ」

「まだ羽根のように軽いなぁ。ほら、もっとお食べ」

 笑いながら口元にクッキーを運ぶ。ドライフルーツが入ったサクほろクッキーだ。

「もう~、食べますけど。美味しいから」

「だろう?」

 オーランド様は確かにちょっと大きくてお顔も厳めしい。黙っていると怒っているようにも見えるが、笑うと目尻に皺が寄って柔らかな雰囲気になる。

 あのお美しいリアーナお姉様の弟ですもの。顔立ちは整っているのよ。ただ…、それ以上に威圧感というか近寄りがたい雰囲気が勝っているだけで。

「オーランド様にもクッキー、食べさせてあげましょうか?」

「そ、そうか!?」

 嬉しそうに笑ってパカーンと口を開ける様は、思った以上に可愛らしかった。




 嫁いでから半年。毎日がとても充実していた。

 ストレスのない生活のおかげで体力もつき、身体強化魔法を使わなくても生活できるようになった。

 嬉しいことに背も伸び、お胸もほんの少し育った、気がする。

『生存本能ってやつだね。大きくなっちまうと、その分、栄養も多く必要だ。魔力で体の成長を止めていたんだろう』

 とは、私の体を診てくださっているスペンサー様の推測。思っているよりも魔力量が多そうなので、魔法に関してもきちんと学んだほうが良いとすすめられた。


 魔力は誰にでもあるものだが、それを仕事にできる人はとても少ない。

 ガルシア侯爵領は物理で殴る系の人が多いため、特に魔法使いが少ないと聞いていたがいないわけでもない。

「身体強化魔法は難易度の高い魔法なんですよ」

 ガルシア侯爵領の魔法師ロドヴィックが言う。

「部分的に硬化させるのではなく、常に全身に…なんて、聞いたこともありません」

 魔力には適性がある。きちんと調べたことがなかったため、確認してもらったら無属性とのことだった。

 地水火風、それに聖属性が主な属性で、どれにも属さないのが無属性。国民…特に庶民の大半が無属性で、使いこなせる者は滅多にいない。そのため『使えない』と同義の属性だった。

 魔道具…、ランプに灯りを灯したり、カマドに火をつけたり。そういった魔道具を使えるだけで、これといった特徴がない。

「無属性の者が身体強化を使えることはわりと知られています。しかし、どうやって魔法を発動させればよいのかわからない。そのため本人が一番イメージしやすい形で発動されます。騎士なら盾、拳闘士なら拳…といった具合です」

 なるほど?

「私も部分的に硬化させたほうが良いのでしょうか?」

「いえ、既にできていることを、できなくする必要はありません。せっかくなので、身体強化を全身に使ったまま、強度をあげましょう。最終的には剣を弾くくらいが理想です」

 オーランド様がそばにいれば守ってもらえるが、そういった機会ばかりではない。暴漢に襲われたり、誘拐されそうになったり。

「ないのが一番ですが、絶対にないとは言い切れないのがつらいところですねぇ」

「特に…、私のような見た目だと、もう、誘拐してくださいと言ってるようなものですよね。さすがにわかってきました」

 まだ痩せてはいるものの病的な細さではなくなってきた。オーランド様に『私の妖精』と呼ばれるのは恥ずかしいが、確かに白金の髪と緑の瞳はちょっと妖精っぽい。背中に羽根はないけど、おそらく透明感のある羽根とか衣装、とても似合うと思う。

「ガルシア侯爵領は魔物が多く、荒くれた冒険者もいますからねぇ」

「魔物に襲われても、冒険者に襲われても、大騒動になりそうですよね…、オーランド様が暴れて」

「そうなんですよ。奥様に何か起きたら…、城のひとつも吹っ飛ばしそうな気がします」

「まさか、そこまでは」

 顔を見合わせてため息をつく。

 ない。と言い切れず、本当に自分の身くらい守れるようになろうと誓った。




 そして秋…、オーランド様と一緒に王都へと向かった。

 ガルシア侯爵領から王都までは急いでも十日はかかる。今回は三週間かけて観光もしながら移動した。

 どこの領主も王都にいるか、今、向かっているところ。他領を通っているがめんどうな挨拶はしなくてもよさそうだ。

 普通に美味しいものを食べて、お買い物をして、景色を眺めながら進む。

 前回は馬車からほとんど外に出られずとても不便で屈辱的な旅だったが、今回はそんな記憶も吹き飛ぶほど楽しい。

「オーランド様、野生の鹿がいます!」

「あぁ、そうだな。見てもよいが身を乗り出しては駄目だ」

 そう言って、ひょいっと私を自身の膝の上に乗せた。

「もう…、さすがに落ちたりしませんよ?」

「本当に?」

「大丈夫です、落ちても身体強化魔法がありますから」

 鍛錬を続けたおかげで、自分の意思で発動できるようになったし、部分的に硬くすることもできる。

「駄目だ。魔法は万能ではない。私と同格なら、強化を突き破って貫通させることができる」

 そんな人、いませんよ。と思ったが、おとなしく腕の中におさまっておく。

 なんとなくオーランド様の目尻を指でつついた。

「なんだ?」

「王都に行くの、ちょっと怖いけど、それ以上に楽しみです」

「そうだな。心配しなくてもイルゼはガルシア侯爵夫人で、キューブリック伯爵家ごときにとやかく言われ…」

 そういえば…と苦笑いしながら言う。

「キューブリック伯爵家から何度か金の催促があったな。すべて断ったが」

「え、お金…ですか?なんの?」

 結婚前に嫁入りの支度金は渡しているとのこと。それも少なくない額で。

 しかし、私は身一つの嫁入りで、かかった費用は馬車の往復代のみ。それもキューブリック伯爵家の馬車だから、全額を着服したことになる。

「なんだったかなぁ…、あぁ、そうだ。『嫁の実家に援助することは当然』とか『大切な娘をやったのに、音沙汰ないのはどういったことか』とか書いてあったな」

 政略結婚とは家同士の契約だ。貴族としての名前を貸す、資金提供を受ける、事業協力など…、結婚する前にきちんと契約書を交わし、結婚後も関係を維持する。

「しかし、今回は事前の打ち合わせも何もなく、いきなり王城に呼ばれて婚姻届けにサインをしろと第二王子殿下に迫られた」


『懇意にしているキューブリック伯爵家のミシェル嬢が妹に婚約者がいないことを心配していてね。ガルシア侯爵はまだ結婚していないし、相手も決まっていないのだろう?だから私が世話してやろうと思ったんだ』


 腹は立ったが、独身のままだと周囲が見下してきてうっとおしい。国王陛下と顔を合わせる度に『結婚はまだか』と聞かれるのも地味にストレスだ。

 とにかく『嫁』がいれば面倒事も減るかもしれないとサインした。

「結果、少なくない支度金を払わされた挙句、来るのは顔合わせもしていない悪女。腹が立ってさっさと領地に帰ってしまったのだが…、あの時、イルゼを迎えに行ってそのままさらってしまえば良かったな」

「オーランド様…、仕方のないことです。迎えに来てくださったとしても、すんなり受け入れてもらえたかどうか…」

 むしろ、領地の皆がいる時で良かった。リアーナお義姉様がいなければ、打ち解けるまでに時間がかかったかもしれない。

 それにしても第二王子殿下の仲介とは。

「第二王子殿下に何か言われたりしないでしょうか?」

「言われたとしても従う義理はない。私からイルゼを取り上げようとするのならば…、国王陛下だろうと抗議する」

 婚姻届けの書類は受理されている。その確認はしているとのこと。

「おそらく第二王子殿下は何も考えてなく、言われるがままに…だと思うぞ?」

 それは…、こんな感じだろうか?


『素行の悪い妹が心配なのですぅ』

『そうか、そうか、よし、私が嫁ぎ先を見つけてやろう。お、ちょうど良さそうな独身男がいるな。こいつはご令嬢達に嫌われているし、領地も遠い。問題のご令嬢も田舎に引っ込めば悪さなどできないだろう』

『まぁ、あの岩のような侯爵と…(変態老人の後妻が理想的だけど、まぁまぁ、嫌な結婚相手よね。田舎だし)』

『侯爵家と伯爵家なら釣り合いもとれている。早速、本人に確認だ』


 そして確認も婚約期間もすっ飛ばして、婚姻に至る。

 オーランド様が『ありそうだろ?』と苦笑している。

「その第二王子殿下は…、王族として大丈夫なのですか?」

「さぁ…、大丈夫ではないか?何かあれば国王陛下に進言するが…、その前に別の人物が動くだろうな」

「別の人、ですか?」

「あぁ、王都に着いたらイルゼにも紹介しよう。だが、驚かせたいから誰なのかは内緒だ」

 王都まであと少し。知り合いなどいないはずだが…。

 楽しそうに笑うオーランド様のお顔を見れば、私にとっても『良い人』だとわかる。

 だから会うことを楽しみに待つことにした。




 ガルシア侯爵家も王都にタウンハウスがある。

 外観は領地の城と同じく重厚な雰囲気のお屋敷だったが、内装は絵画や花が飾られ、私の寝室も可愛らしいインテリアだった。

 カーテンや小物が白と淡いピンクで揃えられている。

「領地からの情報をもとに、イルゼ様のイメージで準備いたしました」

 王都の屋敷で家政を取り仕切っているシンディが部屋について説明をしてくれる。

「ありがとうございます。とても可愛らしい…」

 出窓やベッドサイドにはうさぎや猫のぬいぐるみもある。子供っぽいかと思うが、やはり可愛いものは可愛い。

「おぉ、こんな感じなのか。イルゼのイメージ通りだな」

「オーランド様、邪魔だからドアの前に立たないでください」

 エリカと侍従のデリックが荷物を運んできてくれた。

 真っ先にベッドの上に抱えるサイズの熊のぬいぐるみを置く。

「あら、わざわざ領地から持ってきたの?」

「この子はオーランド様の代わりです」

 そう…、オーランド様も私も気持ちの上では『夫婦』になる気満々なのだが、スペンサー様に止められているのだ。

 オーランド様は見上げるほど大きな体で、私は小柄な上に体力に不安がある。背も伸び始めたところで、不安定な状態が続けている。しばらくは無理をしないでおこう…と。

 お互いの代わりにオーランド様の寝室には白うさぎ、私の寝室には黒熊のぬいぐるみが置かれていた。

 オーランド様と二人、顔を赤くしていると。

「あら…、あらあらあら。まぁ、本当にこんな可愛らしいお嬢様がオーランド様と?」

「今のイルゼ様なら婿なんて選び放題だから、皆で必死に餌付け中ですよ」

「エリカ、私はオーランド様との生活に不満はないし、むしろこの大きな体も安心感というか安定感があるし…、出ていきませんからね?」

 コホン…と咳払いしてオーランド様も頷く。

「その通りだ。相思相愛なのだから、別れる理由などない」

「あら、あら、やだ、これって惚気られたのかしら?」

「リアーナ様にかなり叱られたようですよ~。女性を口説く言葉と褒める言葉は出し惜しみするなって」

 話しながらも荷物をテキパキと片付けてくれて、その日は屋敷で働く皆と一緒に夕食を楽しんだ。


 翌日は朝から来客があり、私も気合を入れて支度をした。

 ご年配のお客様だと聞いていたので、落ち着いた深緑色のドレスにアクセサリーはシンプルなものにした。髪もきちんと結いあげる。

 準備が整ったところでタイミングよく執事が来客を告げた。オーランド様と玄関まで出迎えに行く。

 いらっしゃった方は白金の髪に緑色の瞳。背筋がピンッと伸びた老紳士が立っていた。顔立ちに懐かしさを感じる。

 紳士もそう思ったようで、私を見て涙を浮かべた。

 オーランド様を見上げれば、優しく微笑みながら小さな声で教えてくれる。

「イルゼの祖父、マクファーソン公爵閣下だ」

 私は淑女の礼も忘れておじい様に抱き着いていた。


「ガルシア侯爵、連絡くれたこと、イルゼを保護してくれたことに感謝する。本当にありがとう」

「いえ…、当然のことです。キューブリック伯爵家でのイルゼの扱いはとても見逃せるようなものではありませんから」

 オーランド様はかなり早い時点で母の生家を調べ、マクファーソン公爵家に連絡を入れた。以降は何度も手紙や人のやり取りをしていたとのこと。

 キューブリック伯爵家の行いは非道なものだが、私の証言だけで糾弾することはできない。また婚姻したといっても、伯爵が父である事実は変えられない。完全に縁を切るためには物的証拠や証言をしてくれる人が必要だと考えて、準備をしていた。

 憂いをすべて晴らすため。

 伯爵家には第二王子殿下がついているが、公爵家と侯爵家が結託すれば王家にだって対抗できる。

「連絡をもらってすぐに調査に入った。今は公爵家としてキューブリック伯爵家に圧力をかけている」

 私は知らなかったが、お母様のドレスや宝石など、高価な所持品はすべて公爵家から伯爵家に貸し出したものとされていた。

 嫁ぐ時におじい様が『結婚を許す条件』として書類を用意し、母も同意した。物品は母、そして母の実子が受け継ぐものとし、母、実子に何かあった時は公爵家に返却するものとする。

 亡くなった知らせが公爵家に届いたのはすべてが終わった後。すでに葬式も終わり、孫娘は今、新しい生活に馴染むのに必死だからと面会を拒否された。

 孫娘を人質にされていたため、押しかけることもできずに我慢していたが、いつの間にか嫁に出されていたのだからこれ以上の我慢は必要ない。

 公爵家の管財人や弁護士、王宮に所属している立会人がキューブリック伯爵家に出向き、回収できるものは全て回収してきた。

 ないものについては弁償するように請求中。

 ガルシア侯爵家にお金の無心もするわけだ。本当に困窮しているのかもしれない。

「宝石類はイルゼにも分けようと思っているが、まだクリーニングやリメイクが終わってなくてな。終わり次第、どれが良いか一緒に選ぼう」

「ありがとうございます」

 母がよく身につけていたものをひとつでいいから欲しいと思っていたので、これは本当に嬉しい。

 オーランド様が『良かったな』と言いながら、おじい様に向かって言う。

「金銭的な制裁だけでなく、伯爵家の悪辣な行いも暴けると良いのですが…。二度とイルゼに関わってこないようにしたいのです」

「そのことだが、イルゼ、古い手鏡を持っていないかい?」

 もちろん今も大切に持ち歩いている。

「母が生前、これだけは絶対に手放さないようにと言っていたので、手元にあります」

 エリカを呼び、取ってきてもらう。

「おぉ、あったか。確かにこれだ。しばらく預かってもいいかい?」

「はい。理由をお聞きしても?」

「この手鏡はマジックアイテムで魔力を流すと周囲の音を録音する。機能を知らなかったのならば、そう都合よく魔力を流し込んでいないとは思うが、魔力に触れただけでも録音してくれるからね。何か記録が残っているかもしれない」

 魔力に触れただけでも…。

「あの…、その手鏡は絶対に奪われたくなくて、肌身離さず持っておりました」

「そうか、大切にしていたんだね」

「はい、それで…、いつ頃から…とは断定できませんが、無意識のうちに身体強化魔法を使っていて、ここ二、三年は確実に常時発動中でした」

 発動していないと働けないから。

 おじい様が首を傾げる。

「身体強化魔法?いや、あれはそう簡単に使えるものではないと聞くよ?」

「イルゼ嬢は命の危機に瀕して使えるようになったようです」

 何故かオーランド様が答える。

「命の、危機、だと?」

「ガルシア侯爵領に着いた頃は折れそうなほど細い手足で、歩けないほど衰弱していました」

 おじい様のお顔が怖いことになっております。

「何故…、そうだ、イルゼ。何故、手紙でその窮状を私に訴えなかった?一言、会いたいと書いてくれていれば、すぐに迎えに行ったのに」

 手紙?

「その、外への連絡手段は全て絶たれていたので…」

「そんなはずは…。娘が亡くなった後、後妻が入ったと聞きイルゼを公爵家で引き取りたいと申し出たのだ」

 しかし、『イルゼ』から、『今後は父を支えたい』断りの手紙が届き、以降、年に何度か近況など当たり障りのない報告があった。

「それは全て偽物ですね」

 同時に、思い出す。そういえば…、屋根裏部屋に閉じ込められていた時、父に『母の実家に行きたい』と訴えたが、却下されたことを。

『公爵には結婚を反対され、おまえの母親は勘当されている。せっかく、公爵家の娘と結婚したのに…、なんの役にも立たなかったな』

 吐き捨てるように言われた。

 母の日記にも『お父様に会いたい』『結婚を反対された時にもっと冷静に調べていれば』とあった。『合わせる顔がない』とも。

 私には『公爵家がおまえのような小娘を相手にするわけないだろう』と言い、おじい様には『心配しないで』と連絡していたとは…。

 知られた時に騒ぎになると思わなかったのだろうか?

 何も考えずその場しのぎで?

 すごくありそうで、乾いた笑いがもれる。

 思わず感心してしまったが、おじい様達はますます怖いお顔になっていた。

「キューブリック伯爵家…、絶対、潰す」

「閣下、お手伝いします」

 二人とも、何、物騒なことを言っているの?

「あの、まずは証拠、ですよね?その後、どうするのか皆で決めましょう。ね?」

 父と義母、義姉に関しては…、いじめてくれた使用人達もどうなろうとかまわないが、関係のない人達にまで被害が広がるのは避けたい。

 私の説得におじい様とオーランド様は渋々、頷いた。




 おじい様とオーランド様との会話は笑顔のわりに殺伐とした空気だったけれど、王都に着てからの生活はおおむね平和だった。

 オーランド様は領主としてのお仕事もしているが、一日に二、三時間程度は時間を空けて一緒に過ごしている。

 お買い物に行く時間もあったし、おじい様とお芝居を観たり食事に行ったりもした。

 外出する時は護衛もいる。私の護衛騎士はおじい様が手配をしてくれたとのことで、とても素敵な女性騎士二人だった。

「もともとガルシア侯爵領に行ってみたいと思っていました」

「あの地は戦女神もいらっしゃいますからね!」

 戦女神…?いたかしら?

 首を傾げているとオーランド様が教えてくれる。

「姉上のことだ。イルゼには絶対に見せたくないと上品なふりをしているが…、戦っている時はまさに鬼神だ。うちの両親が早めに隠居を決めた理由のひとつが、姉上だ。あの姉がいれば私が独身のままでもなんとかなるだろう…と。姉は口も回るが、物理でも最強だ」

 あのお美しいリアーナお義姉様が…?ピンとこないが、ガルシア侯爵家ならばそうおかしなことでもないか。

 隠居生活を送っているというオーランド様のお父様はムキムキで、お母様はシャキシャキしていた。つまりとても元気いっぱいなお二方だ。

 リアーナお義姉様が戦っているところ、見たいかも。

「では私も元気になったら、魔物退治に参加できるように頑張りますね」

「いや、それは…。無理はしなくていいからな」

「頑張ります!」

「………あぁ、だが姉は手本にしないでくれ。頼むから」

 お手本にしたくても、さすがに物理で最強は難しい。できることを頑張らないと。

 そうこうしているうちに王都に来て一週間、ついに剣術大会の予選会が始まった。


 社交に出ていないどころか情報もほぼ遮断されていたため、見ること、聞くこと、ほぼすべて『それ、なぁに?』状態。

 護衛騎士となったカッティとシスが剣術大会について教えてくれた。

「基本、王国の騎士であれば誰でも参加できます。魔法は禁止されているため、剣か拳で戦うことになります」

 地方勤務の方達はなかなか参加できないし、内勤者や年齢的に落ち着いてきた方達も参加しない。

参加するのは血気盛んな若い騎士が多く、大体、二百人前後がエントリーする。

「私達も昨年、参加して予選と本選を突破したのですが…、決勝トーナメントで負けてしまいました」

 二百人が参加する中で、ベスト十六まで残ったのはとてもすごいことではないだろうか。

「なんとかガルシア侯爵様と戦いたかったのですが残念です」

 オーランド様はとても強いようで、八年前に決勝トーナメントで勝ち残ってから負けなしで王座を守っている。

 お若い時のオーランド様の雄姿を見たかった気もするが、ごく普通の令嬢として生活をしていたら怖かったかも。

「奥様が見学されるのは侯爵様の試合だけですよね」

「えぇ。予選、本選を見ても知らない方達ばかりだし…。オーランド様が出場される試合は決勝戦の翌日だと伺ったわ」

「その通りです」

 決勝トーナメントは悪天候でもない限り、一日で終わる。十六人いて、勝てば次の試合に進む。四回勝てば優勝だ。

 決勝トーナメントに残っただけでも賞金をもらえるし、その後の待遇も変わってくる。

「私達は出世もできなかったので、もう王都には見切りをつけて女性でも評価してくれる土地に移ろうかと相談していたのです」

「そんな時にマクファーソン公爵様にお声をかけていただいて」

「ガルシア侯爵領は、女が強くて歓迎されることはあっても、非難されることはないと聞きました」

 思い返してみる。

 そういえばガルシア侯爵家が持つ騎士団には女性も多くいた。その中の何人かはすでに私の護衛として働いているが、専属ではなく兼務だ。

 王都の屋敷、ティールームで話しているとシンディがお茶とお菓子を運んできてくれた。途端にカッティとシスが立ち上がる。

「いいのよ、座っていて。ね、シンディ」

「そうですよ。オーランド様がいらっしゃった時は護衛騎士として控えていただきますが、今は奥様のお勉強の時間でもありますからね」

「それと、おやつタイムね」

 いまだ食は細いままで、一度に多く食べられない。おやつのせいで食べられないのでは?と思って、おやつをやめていた時期もあったが、食は細いままだった。

 いろいろ試した結果、少量を何回かに分けて食べることで落ち着いた。もちろん食べ過ぎや栄養の偏りには気をつけてもらっている。

「そうだ、シンディも一緒にどう?王都の話を聞きたいわ」

「ではエリカも呼んできますね」

 ガルシア侯爵家は使用人との距離が近いが、慣れ合っていい加減なわけではなく仕事はきっちりとしている。というか仕事がとても早い。

 その上、エリカはそこそこ腕も立つらしい。

「初めて聞いたわ。エリカ、そんなに強いの?」

「まぁ、そうですね。騎士としての戦いは無理ですが、なんでもありならそれなりに。だから王都にも一緒に来られたわけですよ」

 旅行中は男性同伴が難しいこともある。たとえば出先での化粧室とか。オーランド様なんて建物に近寄っただけで通報されそうだ。

 エリカが側にいるのは護衛のためでもあり、もしもエリカの手に負えない相手だった場合は素早く救援を呼ぶため。

「うちは何かしらの戦闘技術を持っている使用人が多いですよ。アイラは得意武器が斧とかハンマーなんで、今回の王都旅行には不向きだということで留守番になりました」

 エリカもアイラも普通に可愛い女の子なのに…。

 え、まさかシンディも?おっとりした品の良い良家の奥様に見えるのに?と見れば、苦笑しながら首を横に振った。

「いえ、私は戦えませんよ。護身術は一応、習いましたが、強くはありません」

「シンディさんは薬物、毒物の鑑定ができますよ」

 おぉ、そんな特技が。

「奥様と同じ無属性魔法です。まったく使えないと思っていたのですが、鑑定に近いことができるとわかり、試しているうちに毒物の見分けができるようになりました」

騎士大会前はオーランド様に毒物を飲ませようという姑息な者が出てくるので、屋敷内に持ち込まれるものはすべてシンディがチェックしている。食べ物以外でも、危険物や害意のあるものはわかるらしい。

「致死毒ではなくお腹を下すとか湿疹が出るとか…、そういった薬が届けられる食品に混ぜられていることが多いですね」

 出入りの業者の犯行ではなく、業者も気づかぬうちに混入されているとか。

 裏で卑怯なことをしてでも騎士の名誉を手にしたい。

 卑怯なことをした時点で名誉なんて地に落ちて泥だらけではないの?

 犯罪心理はさっぱりわからないけど、侯爵家も裏では大変だということはわかった。

「私も何かお手伝いできることを見つけないと…」

「いえ、奥様はそのままで」

 全員に止められてしまう。確かに向いているとは思えないけど…。

「焦らなくても大丈夫ですよ。奥様は病みあがりでまだ若いのですから。あと何年かすれば侯爵夫人としてあれこれできるようになっていますって」

 シンディの言葉にエリカも頷く。

「そうですよ。実際、半年前とは別人レベルになっているじゃないですか」

 そういえば、そうだった。

「そう、よね…。あの頃は本当に…、ちょっとアレだったものねぇ…」

 カッティとシスが首を傾げているので、簡単に婚姻するに至った経緯を伝えた。

「キューブリック伯爵家は実家ではあるけど折り合いが悪いとか、疎遠にしているとか…、そういったレベルではない軋轢があるの。」

 二人は『ひどすぎる…』とつぶやいて、キューブリック伯爵家の関係者は絶対に近づけないと誓ってくれた。




 オーランド様の剣術大会参加日は前日から大忙しだった。

 参加される試合は一試合だけで午前中に行われる。そして午後、夕刻から王城での夜会。

 メイド達が鬼の形相で準備を進めていた。

 前日からマッサージやパックや衣装の最終確認やらで、私が手伝えることは何もない。指示に従い、たまに希望を伝えるのみ。

 剣術大会には観覧のために貴族も詰めかける。

 これは大きな娯楽のひとつなのだ。

 庶民の間ではオーランド様が連覇するかどうかで賭けも行われているとか。ただ…、あまりにも強すぎて賭けとしては盛り上がっていない。

 多くの人が集まる中、特に熱心なのが下位の貴族令嬢や商人の娘達。自慢の美貌に磨きをかけて参加し、若くて有望な騎士達もそれを目当てに集まってくる。

「奥様にはオーランド様がいらっしゃいますが、それでも若い騎士が集まってくるでしょう。それを少しでも減らすため、今日はオーランド様の色でまとめてみました」

 オーランド様は黒髪に黒目。しかし全身真っ黒は全身真っ白よりもあり得ないと考えられている。喪服といえば黒で、若い令嬢が身につける色としてもふさわしくない。

 そういった事情で、私のドレスは黒の下地の上にレースを重ねて本来の色が目立たないように工夫されていた。昼用のドレスは薄桃色のレースにピンクやオレンジのリボンで可愛らしく、夜会用は青銀色のレースを重ねて大人っぽい雰囲気に仕上がっていた。

「剣術大会会場でも夜会でも護衛騎士の随伴が許されています。夜会は貴族階級のみですが…」

「私が子爵家の生まれなので、夜会も同行させていただきます」

 カッティは騎士学校の出身で十六歳から二十二歳となった今まで王都の騎士隊にいた。貴族令嬢の護衛として夜会への参加を何度か経験している。

「カッティもドレスを着るの?」

「いいえ、私はガルシア侯爵家騎士団の制服で、夜会用の礼服を準備していただきました」

 ガルシア侯爵家騎士団の制服は黒。礼服も黒で装飾が増えている。

「良かった。昼間も夜も安心ね。私、一人にされたら迷わず化粧室に行けるかどうかも不安だわ」

 想像してみたが、剣術大会の会場も王城の広さもピンとこない。

 そして、実際に会場に到着して…、一人で歩くのは絶対に無理だとオーランド様の腕に張り付いた。




 円形闘技場と呼ばれる剣術大会会場は既に人が集まり始めていた。石を積み上げた大きな会場だ。

 最大二万人の観客が入るとのことだが、今日は階級制限がされていて貴族かそれに準ずる名士、あとは騎士団関係者に限られていた。

 聞いていた通り、華やかに着飾った女性も多い。

「今日はオーランド様が出られる一試合だけ、なのですよね?」

「試合は一試合だが、その前に剣舞や演舞がある」

 だからオーランド様も時間に余裕があり、座席まで私をエスコートできる。

「イルゼ、ここからは急な登り階段だ」

「あ、はい」

 ひょいと抱えあげられて、素直に首に抱き着く。オーランド様は私を抱えたままスタスタと石造りの階段を昇っていく。

 途中、何度か検問があったが当然のごとく顔を見ただけで通された。何故かぎょっとした顔をしてはいたが、通っちゃ駄目ということではないらしい。

 私の同行者はカッティとシス、それにエリカ。今はカッティが先導し、後ろにエリカとシスがいる。

 オーランド様が周囲の視線を集めているため、私までドキドキしてしまう。

「どうした、イルゼ」

「なんだか見られているようで…、落ち着きません」

「もうすぐ席に着く。席に着けば少しは静かになるだろう」

 言葉通り、貴族階級エリアに入るとあからさまにジロジロと見てくる人達が減った。代わりに探るような視線はあるけど。

「イルゼ、着いたぞ」

 床に降ろされて辺りをみれば、おじい様がいらっしゃった。

「おぉ、イルゼ、待っていたぞ。侯爵も試合前の忙しい中、感謝する」

「妻の安全のためですから。今日はよろしくお願いいたします」

 おじい様の後ろから美しい男性が顔を覗かせた。

「やぁ、君がイルゼか。シェイラの兄、フィランだ。気軽に伯父様と呼んでくれ。こちらは妻のクリスティアナだ」

「お父様から聞いてはいたけど…、本当に可愛らしいわ。ふふ、これではガルシア侯爵も目が離せないわね」

 どうやら私はマクファーソン公爵家が確保した場所で一緒に観るようだ。

「ではイルゼ、行ってくる」

「はい。オーランド様の勝利を信じております」

 騎士の戦いを見るのも初めてなら、こういった闘技場に入ったのも初めてだ。

 おとなしくおじい様の横に座った。反対隣にはクリスティアナ様と伯父様が並んで座っている。

「警備の問題でこのブロックを公爵家が抑えている。境界線は通路だ。通路の向こう側に行ってはいけないよ。行く時はメイドと護衛を連れていきなさい。試合が終われば侯爵が迎えにきてくれる」

 座っている位置は前から十列目くらい。前にも後ろにも誰も座っていない。座席は十から十五席、十列毎に通路が作られている。今、座っている…横十二席、四十列くらいがすべて公爵家のエリアということになる。

 闘技場に屋根は作られていないが、私達が座っている場所には天幕が張られていた。

 飲み物と軽食も用意されている。

 エリカは公爵家のメイドの側で一緒に控え、護衛達もそれぞれ配置についた。

 そんなに警戒しなくてはいけないのだろうかと周囲をうかがえば、高位貴族と思われる家はどこもそんな感じだった。

 反対に一般の騎士や騎士団関係者が座る席は空席がほぼなさそうだ。

「イルゼ、視線を動かさずにお聞き。私達の右側…二ブロック隣に王族がいる。今日は王太子と第二王子が来ている。王太子殿下は婚約者もいて聡明な方だが、第二王子は駄目だ。絡まれたらすぐにガルシア侯爵かうちの誰かに助けを求めなさい」

 頷く。

「どんなふうに駄目なのか教えていただいても?」

「そう、だな。それについては実際に被害を受けたクリスティアナから聞くといい」

 クリスティアナ様が苦笑しながら教えてくれた。

「婚姻前に『一晩だけでもどうだ?』と何度も誘われ、婚姻後は『閨の教育係に是非』と言われたわ」

 え、それは…、さすがに冗談でも駄目な気がする。

「とにかく美人、美少女と呼ばれる者達に節操がない方なの。婚約者がいようと結婚していようとおかまいなしで誘ってくるわ」

「権力を持っている人がそれだと大変ですね」

「それなりの家の者は強く出ているわ。そうでない者達は泣き寝入りか、キューブリック伯爵家のご令嬢のようにおだてて利用するか。また、いいように利用されてしまうぼんくらなのよ」

 ますます最悪だ。

「絶対に近づかないようにします」

「だが、まぁ…、そろそろ終わりだ。さすがに色々とやりすぎた」

 女性関係にだらしがないだけでなく、他にもやらかしているようだ。ひとつひとつは些細な出来事でも、積み重なれば問題となる。

 泣き寝入りした女性達の中には病んだ者もいれば、修道院に入ってしまった者もいる。中には命を絶った者も。

 悪い仲間との付き合いもあり賭博に薬物…と夜は派手に遊んでいる。

「王家はアレを切り捨てることを決めた。今はタイミングを図っているところだ。伯爵家のほうはその後だな。取り潰すまではしないが、当主は挿げ替える」

 公爵家から貸し出していた宝石類やドレスの弁償がまだされていない。そして公爵家に偽の手紙を何通も送り、公爵家からの手紙を本来の受取人から隠した。偽証罪で投獄は難しいが、金銭的な賠償で圧力をかけられる。

 私が虐待されていた件も一緒に訴えて、籍を伯爵家から抜き、公爵家に移す。

「婚姻届けにイルゼがサインをしていないため、婚姻無効を訴えられた時に話がややこしくなる。伯爵家のままではまたどこに嫁がされることになるか…。うちに入れば、ガルシア侯爵に何かあった時でも守ってやれる」

 オーランド様に何かある…というより、たとえば魔物の大発生や、近隣国が攻め込んできた時のこと。どさくさに紛れて、引き離されるかもしれない。

「シェイラの時は私も意地を張ってしまった。そのせいでイルゼが苦しんでいた時に何もできなかった。これ以上の後悔はしたくない」

「おじい様…」

「ガルシア侯爵家で何か起きた時も頼ってくれていいのだが…、あの侯爵がイルゼを泣かせるようなことをするとは思えんなぁ」

 思わず笑ってしまう。

「そうですね。今はとても幸せです」

 話しているうちに、演目が始まった。


 騎士の中でも特に美しい方たちなのだろう。剣を使っての舞はとても美しかったし、武器もいろいろとあるのだと知ることができた。

 槍と斧、鉤をひとつにしたハルバートという武器なんて、見ただけで扱いが大変そうだ。斧は小さなものでも持てそうもない。肩に担ぐサイズのハンマーなんて絶対に無理。

「ガルシア侯爵はすべて使えるのではないかな」

 おじい様の言葉に伯父様も頷く。

「そう聞いたことがありますね。素手でも相当な強さだと言われておりますが」

「彼は魔力を物理的に放出できるらしい。イルゼは見たことがあるかい?」

「はい。時々、騎士団の訓練を見学しております」

 オーランド様が魔力を乗せて剣をふるうと、風が起きて遠くの敵まで攻撃が届く。そのため剣の間合いがまったくデタラメなものとなる。『刃が届かない距離』がないも同然で、本気を出せば山が割れるのでは…と言われていた。

 それは、さすがにないと思うけど、それくらい凄いということだ。

 今回は魔法を使わず、剣のみの戦いとなる。武器は大会側が用意したもので、身につける防具も指定されている。

 剣舞を見つつ、時々、お茶をいただいたりお菓子をつまんだり。

 休憩を挟んでオーランド様の出番となった。

 騎士が多く座る席から『うおぉぉー』と大きな歓声があがった。時々、『オーランドを潰せ』とか『殺せ』とか物騒な声も混ざっているが、同時に『連覇しろ』『今年も強さを見せてくれ』というものもある。

 ドキドキしてきた。

 勝つと信じているけど…、勝たなくてもいい、怪我をせず無事に戻ってきてほしい。

 なんてハラハラしていたのは試合が始まって一分くらい。

 何度か剣を交えた後、オーランド様は相手の剣を弾き飛ばしてしまった。

 また地響きのような歓声があがる。

 オーランド様は本当に強かった。

「今年も圧倒的だな」

「いや、昨年までより早く決着がついた気がしますよ。イルゼに良いところを見せたかったのかな」

 伯父様の言葉を否定できない。ありそう…。というか、今もチラチラと私の方を見ているので、見えるかどうかわからないけど『お疲れ様』とつぶやいて小さく手を振る。

 あ、見えているみたい。めちゃくちゃ嬉しそうに頷いている。

「さて、私達はしばらくここで待とうか」

「そうですね。ガルシア侯爵が来るのを待ったほうが良いでしょう。護衛がいると言ってもイルゼを一人にしないほうがいい」

「そういえば、リアーナ様は今回、王都へはいらっしゃらなかったの?」

 クリスティアナ様はリアーナお義姉様とお知り合いのようだ。

「はい、リアーナお義姉様は今…、その……」

 知り合いと言ってもどの程度のお付き合いかはわからない。子供ができたと勝手に言ってもよいものだろうか。困っていると察してくれた。

「そういったことなのね。えぇ、大丈夫よ。私達は何も聞いていないわ。でも、そうなるとイルゼちゃんを一人にするのはますます不安ね。女性達が集まる場所に行く時は、私にも声をかけてね」

 クリスティアナ様が動けない時はマクファーソン公爵家の派閥の者を側につけてくださるそうだ。それはとても心強い。

「慣れるまでは大変だと思うけど、底意地の悪い方はそう多くはないのよ」

 苦笑しながら言われた。

 わかります。けど、問題はその数少ない『底意地の悪い方』なのだ。例えばキューブリック伯爵家の義姉のように。

「そういえば…、キューブリック伯爵家の方達は来ていないのですか?」

「いや、ミシェル嬢が第二王子とともに会場入りしているとの報告があった。しかしこちらに近づいてくることはない」

 おじい様が先に王家に釘を刺した。

 剣術大会が終わった後、キューブリック伯爵家を訴える。邪魔をすればガルシア侯爵家と組んで、王家が相手であろうと徹底的に戦う。

 広い領地を持ち潤沢な資産と人材を持つ公爵家と、武力特化の侯爵家は片方だけでも厄介だ。手を組んだ両家を敵に回すのは得策ではない。

 そうですね。普通の相手ならばそうでしょうが、キューブリック伯爵家の面々はちょっとアレだからなぁ。

 そんなことを考えていたせいか、本当に『何か』が起きてしまった。

 王家が居た席の辺りが急に騒がしくなる。

 既に王太子達は退出されたはずだが…。

「閣下、魔物が現れました!」

 公爵家の騎士の報告に、護衛達が戦闘態勢に入った。

「イルゼ、私から離れるな。大丈夫、召喚された魔物ならば数はそう多くない」

 しかし、あちこちから悲鳴があがっている。

 騎士が多くいた側ではなく、貴族が多く居た席のあちこちから魔物が現れていた。狼の魔物に見える。

「誰かが召喚の魔法陣をばらまいたようだな」

「そんなことを誰が………」

「魔狼が多い。そこまでの強さはないが、足が速い。大丈夫、落ち着いて囲めば公爵家の騎士達でも対処できる…」

 ごおっと熱風を感じたと思ったら、天幕が吹き飛んでいた。そんな力、魔狼にはない。

 まさか…、ドラゴンブレス?

 視線の先に体長五、六メートルの赤い鱗の竜がいた。思っていたよりも、近い。

「皆様、公爵様の周囲に集まってください!」

 エリカが大きな声を出しながら走り回っている。

「ガルシア侯爵家で使っている対物理結界を起動させます!早く集まってください!」

 魔狼の攻撃をかわしながら、公爵家の関係者が集まってくる。

 走ってきたエリカの背後で竜がパカッと口を開けた。

「エリカ、伏せて!」

 飛び出して、エリカに覆いかぶさる。身体強化した上で渡されていた個人用の物理結界を起動させる。

「イルゼ様!?」

「大丈夫!」

 たぶん。

 ゴォッという音と熱風…、それとは別に地面が揺れた。

「うぉおおおおおお―――――!」

 何かが崩れるような音とか、地響きとか、あと。

「オレの嫁に何、してくれてんだ、このクソドラゴン―――!!」

 オーランド様は強かった。

 振り返った先で、竜の首を一撃で落としていた。その余韻に浸る間もなく散らばっていた十数匹の魔狼をほぼ一人で倒してしまった。

 あまりにも簡単に倒してしまったので、もしかして魔物が弱かった?と混乱しそうになったけど、そんなわけない。

 ぼんやりしていたら、エリカが立ち上がって叫んだ。

「オーランド様、駄目です、その姿のまま奥様に近づかないでください!返り血、すごいことになってますよ、お風呂と着替えが先です!」

 男性の声がどよめきと共に複数、聞こえてくる。

「え、ガルシア侯爵家のメイド、すごいな。侯爵に命令できんのか。見た目、めっちゃ可愛いのに」

「いや、あの子がここの結界陣、起動させていたし、その前に魔狼にガンガン、ナイフ投げてたぞ」

「オレも見た。全部、命中してたし、その後、魔狼、倒れてた」

「ってことは、毒、仕込んであるのか」

「ガルシア侯爵領には戦闘民族しか住んでないって噂、本当なのかも…」

 私に聞こえているということは、エリカにも聞こえているはずだが…、こういったことは聞かなかったことにするしかない。

 皆、茫然としていたが次第に落ち着いてきたのか動き始めた。

 騎士達が生き残っている魔物がいないか、確認をして回っている。パニック状態となっていた貴族達も退避し始めていた。

「オーランド様、周囲が落ち着いたら奥様の安全を確保しつつ屋敷に戻りますよ~」

「オーランド様、お怪我はありませんか?」

 ちょっと大きめの声で聞くと『了解した、怪我もないぞ!』と元気な声がかえってきた。しかし近づいてはこない。遠目で見ても血に濡れているのがわかるから、確かにあれで抱きしめられたら困ってしまう。

「イルゼは怪我をしていないか?」

「大丈夫です」

 私は大丈夫だけど…、周囲を見渡して思う。

 私達が居た席の横はえぐられたように何もなくなっていた。これ、倒壊の危険はないのかしら。竜がいた場所以外でも何か所か破壊されていた。

 オーランド様がやったのかな。その場合、ガルシア侯爵家が弁償することになるの?

 こんな立派な建物の修繕費用なんて想像もつかないほど高額に違いない。

 おじい様にこっそりと聞いてみたら、それはないと笑われた。

 悪いのは魔物を呼び込んだ人達で、オーランド様が竜を討伐しなければ被害がもっと大きくなっていた。

 それほど恐ろしい魔物だ。

「手引きしたのは恐らく第二王子かミシェル嬢だろう。しかし竜を呼び出すほどの魔法陣をあの二人が使えるとは思えん」

 私達が使っている魔法に魔法陣はいらない。体内の魔力を使えれば発動するが、召喚魔法には魔法陣が必要で、呼び出すものによって魔法陣が複雑になる。竜を呼び出すとなれば、魔力量も桁違いに必要となる。

「恐らく他国に介入されましたね。ただ…、様子見でしょう。この騒ぎをどう収めるかで国力を測り、攻め込むか、静観するか。そんなところだと思います」

 伯父様が『アレを見たら手だししようとは思わないだろうが』と笑う。

「竜を一撃で屠るなんて、物語の英雄だ。しかもあの剣、騎士隊が使っている量産品ですよね」

「どこの国がやらかしたかは調べたほうがいいな。あと…、証拠を掴めば第二王子を廃嫡までもっていける」

 やらかしたのが義姉だとしても、中に入れたのは第二王子。

 もちろんまったくの無関係で、犯人が他にいることも考えられるが…。

 それを考えるのは私の仕事ではない。

 早く屋敷に戻って、夜会の準備をしなくてはいけない。

 ともかく身近で誰も怪我をしなくて良かった…と思ったけど、エリカには『使用人をかばうなんて、説教もんですよ、それはリアーナ様にお願いしておきます』と言われた。

 そしてカッティとシスが『お守りできず申し訳ございません』と涙目になっていた。

 私が勝手に動いてしまったせいだけど、私に何かあれば、エリカ、カッティ、シスの落ち度となってしまう。

 まだ勉強することが山積みだが、今はそれどころではない。お互いに謝りつつ、一旦、王都の屋敷に戻った。


 お風呂に入り、マッサージをしてもらいながら髪や爪のお手入れをする。ここで少しだけ眠らせてもらった。

 スッキリしたところで軽く食事をして、改めて髪を結いドレスを身につけていく。オーランド様も帰ってきたが、私に会うことなく浴室に直行した。

 夕刻前。なんとか二人揃って準備を終わらせることができた。あらかじめアクセサリーや靴を準備して、試着を繰り返した確認しておいたおかげだ。

 オーランド様は黒のフロックコートで装飾は抑え気味だけど、ボタンにエメラルドを使い、袖や裾に銀の飾り刺繍をいれていた。

「イルゼ、疲れてはいないか?」

「はい。少しだけ眠らせてもらったので大丈夫だと思います。大丈夫でなかった時はオーランド様が運んでくださいね」

「もちろんだ」

 半年でかなり体調は良くなっているが、まだ万全とは言い難い。そんな時は無理をしないのが一番。人前で抱っこされるのは恥ずかしいが、貧血やめまいで倒れるほうが迷惑だ。

 オーランド様に運んでもらう分には、新婚ということで押し切れる。と、シンディとエリカが言っていた。

「それにしても…、昼間、あんなことがあっても夜会を開くのですね」

 馬車に乗ってから聞くと、『そういったものだ』と言われた。

「あの程度の事で国は、王家は揺るがない。ということを示すためだ」

「なるほど?」

 オーランド様が倒したのに?王家、関係、なくない?

「心配しなくとも、内々でガルシア侯爵領に便宜が図られる。その代わり、王家が見栄を張るのに協力をする」

「それなら、納得です。便宜ってどんなことですか?」

「侯爵領は穀物があまり育たない土地だから、穀物を頼んだ。この先、一年間は無償提供される。あと、魔法使いが慢性的に不足しているから、王都がいらん奴でいいから何人かくれと」

「王都でいらないと言われるような方でも大丈夫なのですか?」

「あぁ。王都でいらんと言われるヤツは大体、上司に媚を売るとか、有力者に賄賂を渡すとか…、そういったことができないタイプが多い」

 力がないのではなく、駆け引きが致命的に下手なタイプで出世できない。

「魔法使いとして本当にポンコツだった時は、物理で鍛えるさ」

 それは…、ちょっと可哀想な?

 そんな話をしているうちに王城に到着した。


 いや、到着してからが本当に長かった。まず、馬車が進まない。歩いたほうが絶対に早い…という進み具合で、到着してから受付、控えの間に移動、控えの間でも受付、そしてまた待つ。

 入場は下位貴族からで、名前を呼ばれながら入場するのは伯爵家以上。呼ばれる順番も決まっている。

 控室にキューブリック伯爵家のお父様とお義母様がいたが、真っ先に呼ばれたため話しかけられることはなかった。そのまま十数家が呼ばれ、ガルシア侯爵家の番となる。

 侯爵家の中では早い方だ。

「うちは元々、政治的には注目されていない。中立派だ」

 王太子を押す派閥、第二王子、第三王子…と、王位継承権を持つ者の数だけ派閥がある。さらに戦争推進派に、戦争反対派、文門、武門…。

 ガルシア侯爵家はゴリゴリの武闘派だけど、騎士団の派閥ではなく、魔物討伐に力を入れている庶民主体のギルド派と仲が良い。

 長い廊下を歩き、やっと大広間の扉前まで来た。

 ところで…、ここまでで既に疲れているのですが、どうしましょう?


 オーランド様が背中から腰を抱き寄せて、支えてくださった。なんなら、ちょっと浮いている時もある。

 ダンスの時は完全に浮いていたけど、たぶんドレスで見えていなかったはず。

「あと少しだけ頑張ろうな。陛下に挨拶をすれば帰れるから」

「はい、頑張ります!」

 入場は下位貴族からで、挨拶は高位貴族から…という決まりがある。

 挨拶の列に並び、あとは品が良く見えるような笑顔を保つだけ。オーランド様に全部、任せていいって言われているもの。

 やっと順番となり、練習を積み重ねたカーテシーで陛下にご挨拶。

「おぉ、ガルシア侯爵、昼間は大義であった」

「あの場にいたならばも当然のことでございます」

「して…、婚姻したと聞いてはいたが、また可愛らしい奥方だな」

「イルゼ・ガルシアと申します」

 緊張しつつ改めてご挨拶をする。

「ふむ…、マクファーソン公爵から聞いてはいたが母君の面影があるな」

「イルゼは早くに母を亡くし苦労しておりましたので、これからは私が全身全霊、力の限り、本気で、全力で護りたいと思います」

 言葉を区切り、強い口調で言うと、陛下のお顔がすこし引きつった。

「そ、そうか。ガルシア侯爵の本気…、竜の首を一振りで落とす男の本気とは…、恐ろしいな。もちろん王家もガルシア侯爵家が平穏に過ごせるよう協力しよう」

 この国の、王家のためにも。

 という声が聞こえたような気もしたけど、とりあえず笑っておいた。


 その後、おじい様達にも挨拶をしたけど、私がもうふらふらしていたので早めに帰らせてもらうことにした。

 帰る途中、何人かに声をかけられ、当たり障りのない挨拶をしつつ出口に向かう。

 やっと帰れる…と思ったところで。

「イルゼ、待ちなさい!」

 父…とは呼びたくないキューブリック伯爵に強い口調で呼び止められた。

 振り返ると義母と義姉もいる。何故かキラッキラした優男…たぶん第二王子とその取り巻きっぽい子息が三人、令嬢四人も一緒にいて怖い顔をしている。

「キューブリック伯爵、妻に何かご用ですが?」

 オーランド様が低い声で答えた。

「あ、いや…、その、久しぶりに娘と話をしたいのだが…」

「お断りします」

 オーランド様が答えるより早く、言ってしまった。

「話すことなど何もありません。そちらにあっても私にはありません。というか、顔も見たくありません。声を聞くのも不快です」

 義母がギリギリっと眉を吊り上げた。

「まぁ、お父様に向かって、なんて口の利き方をするの。本当に、あの母親そっくりで生意気な子ね」

「まぁ、義理とはいえ伯爵家の娘を奴隷のように働かせて、食事もろくに与えず殺しかけておいて、よく恥ずかしげもなく上から目線で説教できますね」

 ふんすっ…と、勢いよく言いつつ、オーランド様の肩に手を乗せた。

 察して、ひょいと抱き上げてくれる。

 同時にカッティが腰の剣に手をかけてオーランド様の斜め前に出た。昼間の失敗を教訓にいつでも動けるようにと臨戦態勢に入っている。

 二人とも守る気満々で、私も頼りにしている。

 伯爵家では守ってくれる人がいなかったから黙って従っていただけで、喜んで言う事を聞いていたわけではない。

 今は侯爵夫人、階級は上となっている。威張り散らす必要はないが、かといって自分より格下の相手に卑屈なほどへりくだる必要もない。

「結婚した途端、随分と強気になったものね。まるで悪女、そのものだわっ」

 義姉も参戦してきた。

「ドレスの一枚も持たず、一日中、働かされている少女のことを悪女と呼ぶのですね。斬新な解釈ですこと」

「それは、あんたが役立たずだったせいでしょう!」

 背後の令息、令嬢達がぎょっとした顔をした。

 怒りのせいか、虐げていたことを肯定してしまったことに義姉だけが気づいていない。いや、もう一人、気づいていない人が。

「ははは、随分と気の強いご令嬢だ。なるほど、悪女という噂も嘘ではなかったかな」

 第二王子がにやにやと笑いながら言った。

 顔は整っているのだが、笑みが歪んでいる。すごく嫌な笑い方だ。案の定、最低なことを言ってきた。

「だが、美しい。ガルシア侯爵にやるには勿体なかったな。どうだ?今からでも遅くない。結婚は白紙に戻し…」

 ぶわっとオーランド様から何かがあふれ出た。近くに居た取り巻きのご令嬢達が意識を失い、令息達がペタン…と床に座り込む。

 オーランド様の殺気をまともに食らったキューブリック伯爵家は三人とも白目をむいて気絶してしまった。

「殿下、今、なんと?」

 第二王子が圧に押されて、息苦しそうに胸元を押さえた。気絶しないのはさすがに王族というべきか。

「ハッ…、いや、その、そう、そうだ、イルゼ嬢の意思はどうなんだ?王都で嫌われ者のガルシア侯爵より…」

「私はオーランド様の妻で、ガルシア侯爵夫人です。結婚をすすめてくださったことには本当に感謝しています。おかげで世界一強くて優しくて素敵な旦那様と結婚できました」

 でも顔が…とか、岩みたいな…とか、まだ言うかっ。

「私はオーランド様の大きな体も、鋭い目つきも好きなんですっ。あと、笑うとちょっと可愛くなるし、意外と甘党でティータイムでは私よりたくさんケーキを食べているし、それから…」

 思いつく限り、オーランド様の素晴らしさを語りたかったが、その前に夜会の警備にあたっていた騎士達が何事かと集まってきた。

 騎士の後ろから、第二王子よりさらにキラッキラした人も駆けてきている。

 こちらは覚えている。王太子殿下だ。

 オーランド様にしっかりと抱き着いている私と、顔色の悪い第二王子を見て、なんとなく察してくれた。

「王家としてはガルシア侯爵家と争うつもりはない。ということで、こちらのアホウ共は責任をもって回収し、二度と侯爵夫妻の前に現れないようにするよ」

「そうしてください」

 意識のある第二王子が何か言おうとしたが、その前に口をふさがれてどこかに連れ去られた。倒れている者達も回収されていく。

「迷惑をかけたな。帰りたいのだろう?あとはこちらで処理をする。結果については…、一日、二日でどうにかできることでもないが、方針が決まったら早めに知らせよう」

 王太子殿下に恨みはない。よろしくお願いしますと頭を下げたけど、私は抱きかかえられたままだったのでちょっと失礼だったかも。


 言いたかったことの十分の一も言えてないが、それでも伯爵達に言い返せたことでとても興奮していた。

 先程までは疲れて眠かったのに、今はギンギンに眼が冴えている。

 と、思っていたけど、馬車に乗ってオーランド様に抱きかかえられてすぐ、意識がなくなった。

 そのまま屋敷に戻ってドレスを脱がされ、ベッドに寝かされても起きず。

 翌朝は『あれ?夜会に行った…夢を見ただけ?』とすこし混乱してしまった。




 貴族の家を取り潰すことはそう簡単なことではないし、王子の廃嫡もかなり難しい。

 普通は。

 今回は本当に洒落にならないことをやらかしていたので、伯爵家は当主交代で、第二王子は廃嫡となった。

 剣術大会に魔物の魔法陣を持ち込んだのは第二王子だった。

 賭博場で借金がかさんだところに『この者達を従者として中に入れてくれたら借金帳消し』と言われ、ほいほいと頷いてしまった。

 世間知らずの私でもわかる。

 賭博場での借金から仕組まれていたのでは?

 こんな簡単に敵の策略にはまっていたのでは、廃嫡、幽閉コースでも仕方ない。

 闘技場では死人が出なくて本当に良かった。

 ポンコツ王子のせいで命を落とすなんて、悔しすぎる。

 この一件が決定打となり、王位継承権を剥奪の上、山奥の僧院に収容された。男性しかいない僧院で国内一の厳しさを誇る。

 陽が昇る前に起き、陽が沈む時間に眠る。僧院は切り立った崖の上にあり、敷地から一歩外に出れば魔物がいる。手引きする者達がいたとしても、脱出は容易ではない。

 伯爵家は闘技場での騒ぎに関しては無関係だが、公爵家相手にいろいろとやらかしている。私を虐待していた証拠も音声で残っているし、伯爵家を追い出された使用人達も『ひどい虐待があった』と証言をしてくれた。

 もろもろの責任をとって当主交代となり、父親だった人は領地で平民として働くことになった。義母と義姉は抵抗したようだが、伯爵家を追い出され、実家である男爵家からも『公爵家を敵に回すなんて』と受け入れを拒否され、どうにもならずに渋々、領地に引っ込んだ。

 まだ何かやらかしそうなので、三人には監視もつき、しばらくは安月給で働かせるとのこと。

 死んでほしいというより、二度と関わり合いになりたくない…と思っていたので、結果については満足している。

 憎しみや哀しみを完全に忘れることはできないが、泣いていても笑っていても時は進む。




 生まれたばかりの赤ちゃんを見て、時の進みを実感する。

「お義兄様のほうに似ているような気もしますが、色合いは侯爵家の色ですね」

 まだ生まれたばかりでふわふわの髪だが、色はかなり濃く黒に近かった。

「リアーナに似て強い男の子になるといいのだが…、私に似ると文官の道になるからな」

「まぁ、あなた、文官だって必要なお仕事ですよ」

 すすめられて、恐る恐る赤ちゃんを抱っこする。

 小さくて、でも思っていたよりも重かった。命の重みだ。

「可愛い…」

「あー…」

 小さな手を伸ばして、何かを掴もうとしている。

「ふふ…、君の小さな手は、大きくなった時に…、何を掴んでいるのかな」


 侯爵領は魔物が多く出る土地だが、強い者達が集まってくるためそこまでの惨事はなくおおむね平和に過ごせた。

 惨事といえば、元第二王子は僧院を脱走しようとしたようで、魔物に襲われ命を落とした。

 厳しい僧院からどうやって脱走したのかは謎のままだが、そのことを追求する者はいない。表向きは病のため世を儚んで僧院に向かい『病気療養の後、病死』とされた。

 そして父も…。一、二年はおとなしく過ごしていたが、仕事に慣れてくると職場の女性を口説きはじめ、それが義母の耳に入り刃傷沙汰となった。

 何度かそういった修羅場を繰り返し、最期は酒場で口説いた女性の情夫に殺された。それまでも父のだらしなさに多大なストレスを感じていた義母は完全に壊れてしまい、修道院に収容された。

 義姉も別人のように気弱になり、一緒に修道院に入りたいと…義母の後を追った。

 振り返ってみると、父が元凶だった気がしてならない。

 いつもイライラとしていた義母達がこれからは心穏やかに暮らせるように…、修道院に匿名で寄付を送っておいた。貴族のような暮らしは無理でも、寒くひもじい思いなどしなくて済むように。

 匿名で送ったはずなのに、何故か義姉からこれまでのことの謝罪とお礼の手紙が届いた。






 わずか四、五年で生活が激変したのだから、十年もたてばもう、別世界。

「叔父上には絶対に負けません、私は、イルゼ様と結婚します!」

 甥のカリュートが木刀を持ってオーランド様に向かっていく。リアーナお義姉様の血なのかカリュートは同年代の中では抜きんでて剣の才能があった。

「イルゼは私の嫁だ、渡さん!」

「奪います!」

 オーランド様、子供相手に本気だわぁ…。打ち合っている姿を見て、四歳の娘のリュゼが呆れたように呟く。

「男ってバカみたい…」

 わぁ、どこでそんな言葉を覚えてきたのかしら。と、エリカを見ると、目をそらされた。

「そういえば…、オリバーがいないわね」

 六歳の息子、オリバーはあまり剣術が好きではない。本を読むのが好きで、魔法も大好きだった。放っておくと危険なため、既に魔法の先生をつけている。

「オリバー様はスペンサー様の元に行ってますよ。今度は薬学に興味をもったようです」

「あの子も落ち着きがないわねぇ…」

 しばらくすると、カリュートがふらふらになって芝生に倒れ込んだ。稽古を終えるようだ。

 エリカが果実水を準備している。

「カリュート、果実水があるわよ」

 声をかけると飛び上がって駆けてきた。

「イルゼ様、叔父様が大人げないのです」

「おまえがイルゼを奪うなどと言うから…」

「今は大切にされているようですが、知っていますよ?」

 私が初めて侯爵家を訪れた時。

「随分と冷たいことを言って…、えーっと、なんでしたっけ」

 わざとらしいフリにエリカがサラッと答える。

「『おまえを愛することはない』ですよ」

「エリカ、おまっ、余計なことは言うな!」

 オーランド様、お顔が真っ赤になってしまったわ。そんなオーランド様を押しのけてカリュートが叫ぶ。

「私は初めてお会いした時からイルゼ様一筋です!」

 そんなこともあったわねぇ…と、笑って答える。

「そうね、オーランド様は確かにそう言ったけど、でもね。直後から、もう『可愛い』『妖精』『天使』…って、恥ずかしくなるくらいあまい言葉とともに大切にしてくださったのよ」

「で、でも、第一印象って大切ではないですか?」

 首を横に振る。

「第一印象も大切だけど、出会って、話をして、二人でいろんなことを経験して…、オーランド様のことをとても好きになったの。今も大好きよ」

 カリュートはちょっと不貞腐れたような顔をして、オーランド様は真っ赤な顔のまま満面の笑みで。

 笑った目元に手を伸ばして指でつつく。

「私、オーランド様の素晴らしさなら一晩中でも語っていられるわ」


 その後もオリバーが家を継ぎたくないと言ったり、カリュートが武者修行の旅に出たり、リュゼが婿をとって女侯爵になると宣言したり。

 賑やかな笑いの中、いつも隣には…、誰よりも頼りになる旦那様がいた。

 そうそう、婿を迎える気のリュゼにこれだけはしっかりと言っておかねば…と。

「リュゼ、男を顔で選んでは絶対に駄目よ。性格よ、性格」

 そう伝えると…、ませた娘は。

「では、私は顔も性格も良く、ついでに侯爵領の仕事もできる男性を捕まえます!」

 と、元気いっぱいに答えた。

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