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煙草  作者: 鳥焼火炭
3/3

手向けが花とは限らない。

「ありがとうございました。」

 参列者たちに頭を下げながら、顔も知らない人が大勢いるなと思う。生前交流があったのはこの中の何人だろう、タダ飯を食らいに来てる人も何割かいるはずだ。何故こういう場では酒と寿司を出すのか。青汁とパセリだけを出しておけばいいじゃないかと思う。後ろに結んだ髪が前に垂れたが、どうせまたお辞儀をしたときに元に戻ってしまうからそのままにしておいた。

 真っ黒な服に身を包んだ真っ白な髪をした人々が出ていった(何人かは肌色の頭部だった)。葬式というイベントは老人が来たがる。幼いころはただ一、二時間座っているだけの退屈なイベントだと思っていたが、なんとなく今ならその気持ちが分かる。

 自分はまだ若い人間の方であると思っている。しかし、祖父と過ごした時間のことを振り返る時間はこの通夜を過ぎるとどんどんと減っていく一方なのだろう。年を経れば思い出せないことが増えていく。人を亡くし、記憶を失くすことを受け入れる節目のようなものなのだ。送り出すのはその人だけではない。きっとそれだけではないのだろうと、思う。

「じゃ、頼むよ」

「うん。」

 棺守りという役割があるらしい。通夜が終わって、告別式までの一晩を遺体と一緒に過ごすというものだ。本当は一番の近親者が行うものだがお婆ちゃんもお父さんも高齢ということで私が役目を買って出た。棺の御扉を開け、眠っているお爺ちゃんの顔を見る。

 やはり、とは言っても私以外には伝わりはしないが、昔はよく二人で将棋を打った。周りの女の子は一人もやっておらず図書館に一人で行っては戦術を学びお爺ちゃんで試す日々だった。私の将棋が強くなると負けず嫌いだった祖父は囲碁であったりオセロであったりを誘うようになり、なんとも稀有な趣味を持つ女性に育ったのだった。

 大学に入学し一人暮らしを始めてからは手紙が送られてくるようになり、何かにつけて帰って来いと言うようになり、帰ってからは毎晩将棋盤を持ってくるのだ。そんな祖父と打つのが病室に移り、打つ回数が減り、手紙の文字がどんどんと下手になっていった。機械には疎かったのでデジタルに移行することもなく、私が働きだしてからはそもそも帰る回数が減り、顔はどんどんしわくちゃに、祖父の手を握ると次第に細く萎びていく様をありありと感じた。だから、親からの報せを受けても何も驚くことはなく、落ち着いて休暇を取得して実家へ戻った。

 死に化粧のお蔭かしわも目立たず顔色は優れているように見える。他に蘇らせるべき思い出はあっただろうか、しばらく見つめてから線香を差し替えた。

「帝の真似事なんて馬鹿みたいだね」

 こんなのはただの真似事だ。煙を登らせる行為など、かぐやを想い不死の煙を燃した男と何ら変わらない。全部形式に則ってばかりで馬鹿みたいだ。まるで悲しめと言っているみたい。

 そう思わない?と心の中で問い掛けてから、棺を元通りに直して仮眠用の布団に潜り込んだ。職員の方の説明によれば行灯は電気なので線香を四時間起きに交換すればいいらしい。どうせ深い眠りにはつけないだろうから丁度いいだろう。


 当たり前のような流れで告別式が終わった。弔辞を語る役は私で、小さい頃祖父の胡坐の上に座っていたことから昨晩のことまですべてを語り終えた。もう私の中に一遍も喋り残したことなどなく、語った言葉たちを受けて涙する聴衆たちのことも風景にしか思えず、至って冷静に席へと着いた。遺体の置いてある部屋が乾燥していたので厚めに塗ったクリームが少しベタつく。そんな不快さを手をもむ仕草でごまかしながら時が過ぎるのを待った。

 式が終わってからの時間にたくさんの花に囲まれた遺影を眺める。父も母も祖母も同じようにそうしていたが、職員の方に連れられて父が出ていくと私たちもバスに乗る運びになった。

 霊柩車が先導する形で火葬場へと向かう。バスに揺られていると、

「あら、ユミちゃん?大きくなったわねぇ」

 と、和やかな笑顔の婦人に声を掛けられた。おや、この人は何度か見たことがあるぞ…。学校への通学路の途中によく散歩していた人で、熊のような黒い犬が常に傍らに座っていた覚えがある。

「どうも」

「お爺ちゃん子だったものねぇ。どうだった?棺守りは」

 何とも言いづらく困っていると、

「私、夫の時はベッドは固いしお線香も蝋燭もすぐ消えちゃうもんだから全然寝られなくてね、しかも乾燥してるでしょあの部屋。いくら慣れ親しんだ人の隣とは言え嫌よねぇ…」

 そして電気って便利ね~、だなんて微笑んだ。

「ハンドクリーム、塗り過ぎちゃいました」

 私も笑みを返す。遺体の傍で寝ることを嫌うことを言わないのか。喉に引っかかっていた魚の骨のような、手指のささくれのような何かが外れた気がした。この人ならまぁ骨を拾ってもいいかな、と不遜にもそう思い、それから祖父と同級生だったという彼女の昔話をしばらく聞いて火葬場までの山道を過ごした。


 花入れと、お願いして将棋の駒が入った袋を入れてもらってから棺が鉄の扉の中へ消えていった。一時間ほどの待ち時間を告げられた皆が待機室へ入っていく中で、私は一人外に出た。私は話すべきことは話し終えたし、聞くべき話も聞き終えたと思う。もうこれ以上思い出は要らず送り出す決意も終えたのだから、これ以上は蛇足だと感じた。罰が当たりそうな思いだが、純然な私の感情なので仕方がない。

 火葬場の高い高い煙突から立ち上る病的に白い煙を眺めて、あれがお爺ちゃんの体の一部かと思うと、心臓がキュッと小さく音を立てた。そのままなんとなく天を、流れていく雲を見ていた。

「もう時間だって」

 何を思うこともなくじっと見ていたらいつの間にか時間が過ぎていたようだ。なんともまぁ無駄な時間を過ごした。背もたれにしていた壁とサヨナラして中に戻る。

 骨は参列者が順に足から骨を収めていく。一巡が終わった後で、父と私は箸で拾える骨はなるべく全てを拾い集めようとしていた。作業に没頭していて気が付かなかったが、私の顎に汗が伝っている。遺体を乗せていた台が金属でできていたこともあり、かなりの熱を浴びていたみたいだ。シャツも少し湿っている。

 最後に父が喉仏を骨壺に入れておしまいになった。

「随分と小さくなったなぁ。父さん…」

 自分の両手に収まる小さな壺。それを抱えて声を殺すように涙を流す父親の姿を見ていた。そっと、その方に母親が手を置いて他の人たちも周りに集まってくる。

 そして。

 私は、私の体から抜け出した私の視点が、それを酷く遠くから眺めているように感じた。


 仏壇に箱が置いてある。

「お爺ちゃん」

 返事はない。これがお爺ちゃんだとはにわかに信じられなかった。箱自体は両手でなければ抱えられないほどの大きさだが、その中の骨が入っている袋は片手に収まってしまう。隣に飾られている、笑顔を浮かべている写真の方がずっと愛着が湧いた。こんなものを人間と呼べるのか。

「あ」

 妙に腹が立つなと思っていたら、通夜から今までずっと一本もタバコを吸っていなかった。きっとこの怒りはニコチンが切れているせいに違いない。そう思って自分の鞄からライターと一緒に白い箱を取り出して、玄関へ向かう。喪服のままは少し肌寒いので一枚多く羽織ってから明かりの足りない外へ出た。

 口に一本咥えて、ライターの火を点ける。いつも通りの仕草で一息吸い込んだ。肺が凍てつく。寒さのせいで白く色づいた息と共に肺の中いっぱいに詰め込んだ煙をすべて吐き出した。

 音もせず、するりと空へ昇っていく。その煙を見て、はっとした私は慌てて息を吸い込んだ。戻ってくるように、どこかへ行かないように。全部全部私の中に戻ってきてと願いながら吸い込んだ。そして、当たり前のように噎せた。

 変な呼吸をしたせいで咳が止まらない。私の肺から、喉から、口から煙が出ていくのが嫌で嫌で堪らなくなって、夢中でタバコもライターも捨てて両手で口を塞いだ。それでも嗚咽が溢れて、涙流れた。指の間から漏れ出る息さえ拒むようにイヤイヤと首を振る。

 どこにもいかないで。おかしくなった呼吸が口を両手で抑えたせいで更に狂って胸が苦しい。体が熱くなって咳がどんどんと激しくなる。それでも、それでも。

 お爺ちゃん、逝かないでほしかったよ。私悲しいよ。お爺ちゃんが死んじゃって、悲しいよ。涙が止まらないよ。しゃくり上げる嗚咽もずっと続いたまま、駄々っ子をするように天を仰いで泣いた。ずっと泣き続けた。今まで我慢し続けていた泣き声を上げて、祖父のことを空を見上げて呼んでいた。


 すっかり泣き疲れて、思い出したようにしゃがみ込んでタバコを探す。まだ荒い呼吸は静まっていない。地面に落ちたタバコは空へと煙を送り続けていて、案外すぐに見つかった。拾い上げようとして、思い直す。

 たなびくそれが最後の一筋も消え果るまで、私はそれを見つめていた。

「こんなお線香じゃ、臭いって怒られるかな」

 手でつまんで拾い上げる。すっかり冷たくなった吸い殻を思い出みたいに握りしめて目元を拭った。


 地面の焼け跡を足でもみ消して、一度だけ鼻をすんと鳴らして、

 彼女は、柔らかく微笑んだ。


後にはなんにも残らない。

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