記憶と狂気
気味の悪い、狐の面の下から覗く、薄い輝きを帯びた空の色とも違う〝水色の長い髪〟。
切れ長のツリ目。
その中で輝く、大きな金色の瞳が、オレを映していた。
不覚にも。
本当に不覚にも。
自分を殺そうとしている、その女に。
オレは、見惚れてしまった。
よく、雷に撃たれた様な衝撃に……なんて言うが、其れ処ではない。
超新星爆発?
ビッグバン?
天地開闢?
いや、もう、とにかく、本当にマジで、もう、ああ、ダメだ……。
何と表現して良いか解らない。
何はともあれ、オレの貧相な脳ミソが、思い付く限りの何よりも、凄まじい衝撃だったのだ。
命の懸かった状況で。
息をするのも忘れるほどに。
水色の髪の女に、オレは魅入っていた。
だが、誤解しないでほしいのは、オレが魅入ったのは、彼女の『見た目』じゃない。
おかしい、と思うかもしれないが。
オレが彼女に魅入った理由は一つ。
たった一つ。
オレを殺そうとする、彼女の『本気』。
本気でオレを殺そうとしている、その〝意志の宿った眼〟に、魅入ってしまったのだ。
金色の双眸が、深く底の見えない殺意を燈し、オレを捕らえて離さない。
底無し沼に脚を取られたような、金縛りにも似た硬直がオレを縛る。
その硬直を見逃す筈もなく、彼女は動く。
身を覆うマントを鷲掴み、バッ——とオレに向かって投げてみせたのだ。
「な!?」
マントは壁の様に広がって、オレの視界を遮り、彼女との間を隔てる。
魅入っていた硬直が、驚きで更に、その強度を増す。
彼女を完全に見失った。
するとマントの一部が、ズッ——と盛り上がったのを視界に捉えた刹那。
「!!」
————バアアアアアアと、ナニカがマントを切り裂き。
オレの左頬と、軸線上のフードの布を引き裂いたのだ。
「————ッ!!!」
あと数ミリ上なら、左目が潰れていただろう。
鋭く、深く抉られた頬の傷から、血は出ていない。
その代わり、頬と一緒に切り裂かれたパーカーのフードが、チリッと音を立てて少し燃えている。
「お前を真似てみたが、なかなかどうして……」
それは、透き通るような、しかし凛とした、良く通る声音。
見やればやはり、水色の髪の、あの女。
彼女の右手に青い炎が燈り、手刀の形を取るその手は、まるでレーザーブレードの様だった。
成る程。
頬から血が出なかったのは、傷口が焼けたからか。
オレは燃える右手から、視線を女の顔へ戻した。
オレを見る眼。
オレを殺そうとする、『本気の眼』。
殺意が、爛々と燃えていた。
「使えるじゃないかッ!!!」
女は狂気の笑みを浮かべて、オレを見る。
今、オレの抱いているこの感情が何なのか。
この時はまだ、考える事すら出来なかった。
まあ、それもその筈で……。
お嬢さん、その恰好は何だね?
二の腕まである、黒く長い手袋。
ピッチリとした、ラバーの様な質感の、靴と一体になっている黒いパンツ。
……は、まだ分かる。
上半身よ!
え、何それ?ヌーブラ?
どういう原理で胸にくっ付いてんのソレ!?
胸の輪郭を沿い、トップを隠すような位置取りでくっ付いている、ヌーブラっぽい何か。
上半身、彼女はそれしか身に着けていないのだ。
それは、はたしてオサレなのか、日本刀の下緒の様な紐が、胸の中央でヌーブラ同士を繋ぐように結んである。
それが、どことなく、狐面を含め、和を思わせる風体であるのだが。
……解らない。
オレにはどうにも、異世界のファッションセンスは理解できそうにない。
などと、彼女の格好に度肝を抜かれ、瞬間的にではあるが現実逃避してしまった直後。
パーカーの少し燃えていた部分が、ボッと音を立てて激しく燃え上がった。
「いいい!!?」
「死ね」
水色の髪の女が、そう言った瞬間。
————ゴウッ。
青い炎が、オレの全身を覆った。
「————ッ!!」
オレは、焼かれる恐怖で身を固くしてしまう。
「……?」
しかし、襲い来るはずの熱さと、焼かれる痛みが、どれだけ待っても来ない。
(何だ?この炎……熱く、ない?)
オレは、燃える自分の手を見つめ、そんなことを考えた。
……そして。
一瞬、あの悪夢を思い出す。
だから、見逃した。
水色の髪の女が、笑ったのを。
————ドクン。
ふいに、視界がぼやけた。
直後、心臓が悲鳴を上げる。
脈打つ速度が増してゆき、脳に酸素を送る為、血を巡らせようとするのだが。
(い、息が、出来な……い!?か、身体も重い。ま、まるで————〝水の中に居る〟ようだ!!)
————炎で、溺れる!!!!
オレは、喉元を押さえて、必死に息をしようとする。
しかし、どうにも、呼吸ができない。
すると、遠くで声が響いた。
「そのまま、焼かれながら溺れ死ねッ!!」
それは、あの女の声。
薄れる意識の中、オレは心の中で彼女の声を反芻した。
(焼……かれ……)
その瞬間。
左目から、彼女に付けられた傷を通り、そして左耳の直ぐ下まで皮膚に罅が入った。
————ピシッ。
その音が、左耳に響いた直後。
思考にノイズが走る。
テレビがまだ、ブラウン管だった頃。
砂嵐の様に乱れた、あの画面……。
ザ、ザザ、ザザザザァアアアアアアアアア————
そして、砂嵐の様な音が、思考を遮る。
————ず……。
何だ?何かが、聞こえる。
————ずだ……。
やはり聞こえる。
オレは、その〝声〟に耳を傾けた。
すると、砂嵐の様な画面が、だんだんと晴れて来る。
————必ずだ……。
声もハッキリして来た。
未だ晴れきらぬ、画面の向こう側に、真っ黒な人影を見る。
ソイツは、こちらに向かって、手を伸ばし言うのだ。
————必ず、お前を……ッ!!!!
違う。
ソイツじゃない。
コレは……オレだ。
そう、認識した瞬間だった。
(ああ……オモイダシタ————)
◇
その女は、今度こそ勝ちを確信していた。
眼の前で、青い炎に焼かれる白髪の男を見て。
暫く様子を窺っていると、喉を押さえていた男の手が、とうとう力無く垂れ下がる。
「終わったな」
短く、淡々とした口調で、そう言った。
女にとって、それはいつもの事なのだ。
今回は少々手こずったが、それでもやはり、最後はいつもの通りだった。
姫様が、少々気になる事を言いてはいたが、これで良いのである。
白髪の男は、姫様の裸を見た。
辱めた。
万死に値する。
……と言うのもあるが。
一国の姫君が、裸で男と一緒に居た、という事実が外に広まればどうなるか……。
考えるだけで、背筋が凍る。
殺すべきだとも思ったが、此処が『神聖な場所』だという事を思い出したのだ。
此処で殺せば、この場所が縁起の悪い物になってしまう恐れがある。
それだけは避けねば、と。
彼女の〝青い炎〟は——〝溺れる炎〟。
その炎に巻かれたモノは、窒息し、焼け、最後は皆等しく灰燼に帰す。
当然、本気の火加減ならば、痛みを感じる間も無く、一瞬で灰すら残さず蒸発させられる。
しかしこの炎、『溺れさせるだけ』などという芸当が出来るのである。
彼女の任は、お姫様の護衛。
その御姿を穢すことは、在ってはならない。
返り血しかり。
まして、灰になった悪漢の残り滓などが、姫様に付いては事である。
かと言って、いちいち本気を出していたら護衛がままならない。
故に、捕縛用の『溺れるだけの炎』なんてモノを、女は創り出した。
警護という任務では、大いに役立ってくれたものだ。
というか、実のところ、幸いなのか彼女は人殺しをした事が無い。
今回も、本気で白髪の男を殺そうと思っていた訳ではないのだ。
……多分。
と、とにかく!
場を穢すのも何だし、いつも通り捕縛用の炎で気絶させて、さっさと牢屋へ放り込んでしまおう、と。
女は楽観的に、そう考えていた。
◇
————オレは、ゆっくりと眼を開く。
ズ……。
ズズズ……。
ズズズズズズズズズズズズ……。
瞼を持ち上げてゆくと、一ミリ毎に岩戸を開くような、そんな音が鳴る気がした。
目が開いて行くほどに、自分の裡からドス黒いモノが溢れ出て来るのが判る。
(オレは——オレはぁああ……)
気が付くと、笑っていた。
炎に巻かれながら、溺れている事も忘れ、オレは笑っていたのだ。
忘れていたダイジなコトを、思い出した〝怒り〟で。
(わ、笑った……!?)
水色の髪の女は、その表情を戦慄に染めた。
先程までの余裕も吹き飛び。
まるで全身に虫が這いまわっている様な、そんな感覚にいきなり襲われたのだ。
————ハハ。
そんな彼女を見て、自分でも訳の分からない〝嗤い声〟を上げていた。
「スゲエなアンタ……この炎、〝溺れる炎〟かよ!?」
————言いながら、男は一歩踏み出す。
ザッ、ザッ、ザッ……。
と、わざとらしい足音を立て、威嚇するように女の元へと歩みを進める。
青い炎を纏い、窒息して、薄れゆく意識を溢れ出るドス黒いモノで繋ぎ留め、歩くのだ。
男の全身は炎で霞み、黒いシルエットにしか見えない。
どうにも女は、それが恐ろしかった。
左目と、裂けた口元。
そして左手の穴が、不思議と炎の中でもハッキリ判ったのだ。
まるで、化物。
女は、その光景に得体の知れないモノを感じ取り、後退る。
————ハハハ。
また嗤う。
————溢れて来る。
ドス黒いモノが、感情が、どうしようもない〝怒り〟が。
止めどなく、溢れて来る。
「ダメだ……ダメなんだよ。溺れさせるだけじゃ、ダメなんだ」
止まらない。
「本当に焼き殺す勢いで……焼きながら溺れさせないとぉおお……」
溢れ出すソレは、言う事を聞かない。
————この怒りを、ぶつけたい。
ソレは、彼女に対する怒りではない。
分かってはいても、どうする事もできないのだ。
アレを思い出したオレは、壊れてしまったらしい。
もともと、ギリギリだった精神の均衡が崩れてしまった。
ドス黒い感情が、思考を埋め尽くす。
自分では抑えようが無い。
とうとうオレは、笑いながら拳を振り上げる!
「オレは、止まらないッ!!!!」
そう叫んだ直後。
————ハハ、本当にそんなことされたら、困るなぁ。
其れは、男とも女とも取れない声だった。
オレだけに響いた、そんな声。
その声を聞いた瞬間、目を見開き、オレは動きを止めた。
————リィィイイイイイイイイイン。
魂に響く、澄んだ鈴の音が鳴り響く。
途端、オレを包んでいた青い炎が霧散する。
(ッ!?何だ今の!?炎が、ナニカに、掻き消された!?)
それは女の心情。
そんな女の驚愕を余所に、オレは……オレの精神は均衡を取り戻しつつあった。
ヤツの声を聴いた瞬間に、オレの中で『カチリ』と、ナニカが嵌まったのだ。
〈君にはまだ、やって貰う事が在るんだから……〉
今度はハッキリと、頭に直接響いた〝ヤツ〟の声。
その声を聴きながら、オレは————
拳を握りしめていた。
————リィィイイイイイイイイイン。
再び澄んだ鈴の音が鳴り響く。
と、同時に〝紅い花弁〟が地底湖に降り注ぐ。
「何だ!?」
「これは~?」
「……」
「うええ!?」
「ホワ!?」
下に居た狐面五人は、それぞれに驚きの声を上げるが、透かさずお姫様を守るように陣取る。
その行動は迅速で、花弁が舞うのと同時であった。
「紅い……桜?」
水色の髪の女は、周囲を舞う〝紅い桜の花弁〟を見つめ、ぽつりと呟く。
血の様に、紅い桜だった。
「これも、お前の仕業か!?」
女は振り返り、オレを睨み付ける。
やはり、〝ヤツ〟の声は、オレ以外には聞こえていないらしい。
結果、天より舞い散る紅い桜の花弁は、オレの所為になるようだ。
しかし。
女はオレを見て、再び戦慄する。
「————ッ!!???」
悲鳴を押し殺し、恐怖で腰砕けになるのを、姫の護衛という立場から来る責任感で、女は何とか耐えきった。
……また、笑っていたそうだ。
だが、今度は先程の比では無い。
それは、狂気の笑みと形容するのも憚られる————
負の感情というモノを。
その全てを。
混ぜて、捏ねて、叩いて潰して、また捏ねて。
燃やして、溶かして、打って打って打って打って打って打って打って打ち尽くし。
練り上げ、〝ひとつ〟にまとめてしまった様な。
そんな笑みだったそうだ。
————ニィタァァァアアア。
と、歪んだ貌。
歯茎を剥き出しに、其処まで広がるのかと、裂けんばかりに笑う口元。
瞳は狂気に染まり、眼球は血走り……毛細血管がはち切れる寸前まで膨らみ、幾重にも浮き上がっている。
裡から湧き出る、このドス黒いモノの、向かう先が其処に在る。
〈いや~、そんなに喜んで貰えるなんて……来た甲斐があるよ〉
金色の鬣。
真白の体躯。
身体よりも長い尾は、風に靡き、地に着くことなく宙で波打っている。
其れは、全長十メールを超える〝狼〟だった。
花弁の浮く水面に悠然と降り立ち、こちらを見る気配は無い。
だが、オレの頭にだけ響く声で言うのだ。
〈でも、前にも言ったろう?〉
我が子に言い聞かせでもする様に。
馴れ馴れしく。
〈直ぐに人を挑発する癖は直しなさいって……〉
————弾けた。
〝ドス黒いモノ〟が、弾け飛んだ。
「見ぃぃつぅぅうけぇぇぇえたぁ……」
瞬間、オレは崖を飛び降りていた。
紅く変色した瞳が、バイクのテイルランプの様に光の尾を引いて、宙に軌跡を描きながらオレの後を追って来る。
動かぬ左手の代わりに、握りしめていた右手を振りかぶり————
ああ、見付けた。
見付けた見付けた見付けた見付けた見付けた見付けた見付けた見付けた見付けた見付けた見付けた見付けた見付けたみつけた……。
————ミツケタ。
「かぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああみぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!」
オレの狂気が、地底湖の空気を震わせる。
ずっと忘れていたものを。
思い出さないように封じていたものを。
怒りの矛先へ向け、吐き出す。