出逢いと誤解
「ありがとうございます」
「は?」
目の前の女性に、裸を見てしまった事を謝ろうと思って、口を突いて出た言葉がそれだった。
————って、違ぁあああああああああう!!
何!?どうしたオレェ!!
急展開過ぎてテンパった?
んな訳ねぇわッ!!
あっかん!あかんぞ!!
今、オレ、完全に変質者やん!!
変態確定やん!!
最低すぎるので、取り敢えず掴んでいる岩に、頭でも打ち付けておこう。
「ぬんッ!!」
「!?」
オレが岩にガンガン頭を打ち付けているのを見て、裸の女性は若干引いているようにも見えるが、どうと言う事はない。
悪いのはオレだ。
というか、本当にテンパってしまった。
久しぶりの人間。
しかも女性。
なんなら全裸である。
巨大蛇に食われかけ、高所から落ちて助かったと思ったら溺れかけ、それでも何とか助かったと思ったら————今だ。
いろいろな要素がいろいろして、あれこれだった為に、結果テンパりました。
はい、すいません。
言い訳ですごめんなさい。
…………ん?いや、待って。
ちょっと待とう!
オレ今、人間って言った?女性?
取り敢えず、裸という事実は意識の彼方へ飛んで行った、とだけ言っておこう。
いわゆる、現実逃避だ。
兎にも角にも、それは置いとくとして——人間だ!!
オレにとって、その事実だけで充分だった。
(助かっ————)
安堵と期待に胸を膨らませ、振り返ったその瞬間————
(らないッ!!!)
心でそんなツッコミを入れ。
「キャアアアアアアアアアアア!!!」
現実では、吐血しながら悲鳴を上げていた。
ちなみに、『キャア』って叫んだのはオレです。
仕方ないじゃないか……逃避した所で、現実は現実だったのだ。
振り返ったら、何事も無かったみたいに「ふう」とか言って、一体何処から取り出したのか、タオル片手にこっちへ歩いて来るんだもん。
全裸のままで。
何処も隠そうとせず。
オレでなくても叫ぶだろう?
てか、こっちが恥ずかしくなる!
諸々隠して下さい!とか思っていたら、行き成り口を塞がれた。
「ムグ!?」
「しっ!静かに!」
(ム~~~リ~~~~ッ!!!)
男なら誰だって、目の前に胸の谷間があったら、流石に焦ります。
それが巨乳なら、ああもう!!
しかも!タオルで胸が良い感じに隠れているので、見えていた時よりヤバいです!
チラリズムやばいです!!
滴る雫。胸を伝い、谷間へ向かって落ちて行くソレが……イカンともし難い!!
度し難いッ!!!
あ、でもちゃんと隠してくれたんですね!?
と、オレの理性が飛びかけたその時————
ぐううううううううぅぅぅ……。
腹の虫が、冷や水を浴びせかける。
性欲<食欲!!
やはり人間、生存本能が生殖本能を凌駕するらしい。
涙?流してませんよ、そんなモノ……ホントですよ?
「……」
ほら、目の前の彼女だって呆れてか、放心してか、固まってらっしゃる。
とうとう彼女の濡れた髪の水気が切れて、アホ毛が二本、タイミング良くピョンッと立ち上がったじゃありませんか。
「ぷっ……」
あ、今吹き出したのはオレでなく、目の前の彼女です。
「や、やっぱり、私を襲いに来たとかじゃ……ないん……ですね……ブッフッ!!」
……まあ、いいですよ。
変な誤解とかされずに済んで。
でもね、プルプル震えて笑いを堪えているのは解りますが……あ、ちょっと!
後ろ向くの止めろ!!
お尻が丸見えだ!
恥じらって!もっと恥じらって!!
「ご、ごめんなさい……ちょっと、待って……ぶふっ!!」
あれ?そういやぁ、この人……日本語だ。
異世界に来た筈だよな?
まあ、勝手にそう思ってるだけなのだが。
浮島とかあったし……あの大蛇も。
つうか、笑い過ぎだろコイツ。
んだその面?鼻の孔膨らまして色気も何も無えよ!!
オレは取り敢えず落ち着こうと、隣に在った大きな岩にもたれ掛かる。
小さく息を吐き、乱れた思考を落ち着けようと試みた。
しかし……クソ!ダメだ。
全然、状況が掴めん。
オレは本当、どうなっちまったんだ?
結局、荒ぶってしまった思考。
別の事を考えれば落ち着くか————
そういった理由で、改めて周りを見渡す。
すると、どうやら此処は『地底湖』らしいのが見て取れた。
しかも、かなり広い。
うん、広い。
とにかく広い。
……それにしても、地底湖であるにも拘わらず、不思議と視界はハッキリしている。
決して明るいとは言えないが、かといって暗い訳でもない。
周囲を見渡すには充分な光量で、一言で言うと『丁度良い明るさ』だ。
湿気て光沢を持った黒い岩肌に、緑が多く茂っている。
観光のパンフレットとかで、隠れた絶景として紹介でもされてそうだ。
水も綺麗で、とても澄んでいる。
後ろを振り返ると、深さの違う部分ごとに水面の色が異なり、浅い所ではエメラルドの様な鮮やかなグリーン。
しかし、オレが落ちたであろう深い所は正に〝紺碧〟。
深みのある濃い青色だった。
ふむ。大分、落ち着いて来た。
今度は視線を戻し、なるべく女性の方を見ないように周りを見る。
アホ毛頭の女性が水浴びをしていたのであろう浅瀬にも、多くの緑が茂っていた。
前方に大きな滝が在るにも拘らず、この辺りの流れが緩やかなのは、周囲を覆う植物のお陰だろう。
ちなみに、彼女の立って居る場所の水深は足首位だ。
そんな事を考えていると、不意に優しげな……心を溶かす、と言った方が適当だろうか。
そんな声が、オレの意識を思考の海原から引き上げた。
「あの……」
「!」
「いつまでもそんな所に居ると、ふやけちゃいますよ?」
視線を上げると、アホ毛頭の女性が手を差し伸べてくれている。
何時までも水に浸かったままのオレを見かねて、気遣ってくれたようだ。
まあ、原因は君が笑っていたからなんだけどね?
斯く言うオレも、周囲の観察など、水から上がってやれば良いモノを……。
どうやら、そんな事にすら頭が回らない程、テンパっていたらしい。
しかし、其処で素直に彼女の手を取れば良かろうに……。
「……生憎と、干からびているもんでね。ふやけた位が丁度良いと思うぜ?」
何を思ったのかオレときたら、警戒心を剥き出しに、皮肉を口にするんだから救いようが無い。
「乾物じゃないんですから……」
どうにもオレは、四ヶ月も遭難生活を送って来たので、『警戒心』という物が本能的に先立つようになっていた。
しかし、目の前の女性はオレの悪態に気を害するどころか、苦笑気味ではあったが真摯な姿勢でオレの手を取ってくれるではないか。
彼女の温もりが伝わって来て、自分の尻の穴の小ささに、もう一度岩で頭を打ち付けたくなった。
優しく触れた彼女の手は、痩せ細ったオレの手より一回り小さい。
見ず知らずの変質者に、怯えるどころか手を差し伸べるなど、一体どこの聖女だアンタ……。
と、ここで漸くオレは、彼女をちゃんと見ていなかった事に気が付いた。
まあ、彼女は裸だし、仕方ない。
あまりマジマジ見るのは失礼なので、普通に、顔を確認する程度に彼女を見やる。
胸元まで垂れた桜色の髪に、スカイブルーの瞳。
絹の様な白い肌、ぱっちりとした目元と長い睫毛、高い鼻に少々厚めの唇。
オレの主観で申し訳ないが、全体の印象としては、『ちょっと元気なお姫様』と言った感じだ。
髪の色を見た時点で、ああ異世界だ。と思ったのは大目に見て欲しい。
そして、彼女に手を引かれ、水から上がろうとした瞬間だった。
————真横に気配を感じ、視線だけで〝ソイツ〟を捉える。
青い塗料で色々な紋様を描かれた狐面。
それを着けたマント姿の変態が、刀を振り上げていたのだ。
一呼吸の間も無く、オレはアホ毛頭の女性を突き飛ばす。
「アフン!?」
彼女の、ちょっとよく分からない悲鳴(?)が聞こえた。
ボヨンと、なにやら柔らかいモノに触れた気がしたけど覚えていない。
その行動自体が無意識だったので。
————ドバアン!!!
直後、オレ達を引き離す様に振り下ろされた刀は、水面を真っ二つにした。
「今度は何よっ!!?」
ザパアアアアアアン!!と、舞い上がる水飛沫。
その向こう側の影を見失わないよう、オレは視線を固定したまま、つい叫んでいた。
「ボケが……」
すると水飛沫が収まるや否や、先程の狐面がくぐもった合成音声の様な声で、罵声を浴びせて来るではないか。
「〝姫様〟から離れろッ!!」
まだ若干荒れる水面に立ち、狐面は刀を携え、こちらに尋常でない殺気を向けて来る。
刀は鞘に収まったままだったが、人を殴り殺すには充分な強度であるのは間違いない。
「コロスゾ?」
合成音声丸出しの、人工的な声色なのに、其処から感じ取れる〝殺意〟は、まるで『形』でもあるかの様にハッキリとしたモノだった。
きっと、蛇に睨まれた蛙ってこんな気分なのだろう。
とにかく、オレを恐怖させるには充分な威力だった。
((超コエェェエエエエエエエエエ!!!!))
あ!あのアホ毛頭の女性も、オレとおんなじ顔してる。
仕方ない。
ガクブルしても、仕方ない。
やっべーもん!
狐面の目の部分?ちょっと光ってるけど、其処から殺人メ〇チビーム出てるって絶対!
「ご無事ですか姫様?何故すぐに私を呼ばないのです!?」
狐面はビビるオレを無視して、アホ毛頭の女性に詰め寄った。
視線をオレから外していない辺り、完全に警戒されているのが判る。
と言うか、アレが普通の反応だと思う。
……それにしても、『姫様』か。
成る程、オレの印象判断も、なかなか捨てた物じゃないな。
と言う事は、あの狐面は口ぶりからしても、彼女の護衛なのだろう。
しっかし、あの格好はどうなんだ?
異世界のファッションセンスは、オレに合わなそう。
ま、センスなんて、端から無いが。
ヤロウは、頭まですっぽり被ったフードマントに狐面を付けている。
シルエットでの体格判断をしにくくする目的か?
確かに声も合成音声っぽいから、性別の判断も出来ないが……。
お!アホ毛頭の女性——お姫様が正気に戻った。
狐面の殺気に当てられて放心してたからな……。
まあオレとしちゃ、あの大蛇に比べりゃ、そこまでビビる事も無かったがな!
ホントホント。
「ちょ、ちょっと待って!話を聞いて!」
お姫様、もしかしてオレの弁護でもしてくれるのか?
おっと、今の内に水から上がっとこう。
何時でも逃げられるように。
そう思って隣の岩に上がったのだが、この岩どうやら壁まで続いてるらしい。
岩を伝って壁を登れば、結構高い所まで行けそうだ。
しかし、どれだけ混乱してたんだオレは……何のために周辺確認したんだか。
などと自己嫌悪に陥っていると、
「彼は、『予言の者』かもしれないの!!」
お姫様の叫びにも似た声が、耳に入って来た。
予言?何やらキナ臭い……。
「まあ、何にしろ殺しますが」
おい狐面。
「だから呼びたくなかったのッ!!!」
もっと言ってやってお姫様!!
「さて、覚悟は良いか変質者!」
狐面はお姫様を無視して、再び意識の全てをオレに向ける。
その声は、広い地底湖に木霊した。
「あ!?良い訳ねぇだ————なんか増えてる!!?」
狐面のあんまりな物言いに、文句を言ってやろうと声を上げたのだが、なんか増えてんだよ。
狐面が更に〝五人〟ほど、何時の間にか増えてんだよ……。
背の低い狐面が二人、お姫様を守るように彼女の前に立っている。
そしてオレの後ろに、三人居るな。
にしても、後ろのお宅ら、水面に立ってない?
まあ、異世界なんだろうし、それ位できるか。
てか、オレの正面に立ってる、最初に現れた刀を持ってる狐面のプレッシャーが半端ない。
……あれ?ていうか、これ、取り囲まれてないオレ?
…………。
「あの、ちなみに弁解の余地は?」
状況を理解したオレは、恐る恐る半笑いで手を上げて、可能性の低い質問を刀を持ってる狐面に放ってみた。
「……」
おお。なんか、考え込んでる?
正か、行けるか!?
「無い!!!」
「で~~す~~よ~~ね~~~~~~~~!!!」
オレは、見事にフラグを回収した。
刀を持っている狐面の怒号に反応した、後の狐面三人組が一斉に襲い掛かって来る。
退路を塞ぐ、絶妙な位置取りが憎らしい。
と言うか三人共、何か、両手に〝エネルギー弾〟みたいなの持ってるんですけど!?
なんて、あさっての方向の思考が、脳裏を過った瞬間。
————キィンッ。
子気味良い、音叉の響く音が、遠くで聞こえた気がした。
そして、世界が速度を失う。
————この瞬間、男の瞳が『紅色』に変化した。
……〝視える〟。
どう動けばいいか、解る。
気が付くと、男は跳び上がっていた。
ゆっくりと流れる世界の中、男は一番近くに居た低い姿勢の狐面の頭を踏みつける。
「!?」
踏みつけられた狐面は、俄な事態を呑み込めず、身体を硬直させた。
狐面の頭ができたので、男は隣に居たもう一人の狐面の後頭部を鷲掴む。
「!!!」
その狐面も、事態を呑み込めなかったようだ。
身体を固くして、動きが鈍った。
男は御構い無しに、そのまま脚に力を込め、踏みつけていた狐面を踏み台に更に跳び上がる。
と同時に、後頭部を掴んでいた狐面のことも、腕を振り抜いて後ろへ押しのけた。
二人の狐面は体勢を崩し、一ヶ所に重なるように転がる。
空中で絶好の位置取りになった男。
残りの狐面の肩を掴み、『空中巴投げ』っぽい技を繰り出す。
そして、重なるように転がっている狐面二人の上に叩き付けた。
「「「あ」」」
それは、狐面達の短い諦めの吐息。
直後、狐面達が持っていた〝エネルギー弾っぽいモノ〟が暴発する。
——————ガッシャアアアアアアアン!!!
耳を劈く轟音を立てて、天に向かって雷の様な光の柱が立ち昇った。
その瞬間、男の瞳は元の黒色に戻ったのである。
んぎゃぁあああああああとか、悲鳴っぽいモノが聞こえたが、気にしない。
お姫様や背の低い狐面達、そして刀を持つ狐面は、眼の前で起きた一連の出来事に理解が追い付かず、硬直している様だ。
しかし、男も其れ処ではない。
彼の心情としては、己の超人的動作よりも、放心するギャラリーの事よりも、余程重要な事案が浮上したのだ。
「おい手前ェ!!ふざけんな!!何だ今の!?当たってたら、死んでただろ絶対!!!」
着地した瞬間、刀を持つ狐面に向かって、文句を叫んだのだって心を落ち着ける為。
何故、相手が放心している間に逃げなかったのかは、訊かないであげて欲しい。
男は——オレは少し興奮していたのだ。
魔法!?
魔法なんですか今の!!
まあ、異世界なのだから在るとは思ったけども!!
と、アドレナリンがドバドバ状態のハイテンション。
殺されかけた事と、魔法などという非現実を見せられて、完全に冷静さを失っていた。
「……さっき殺すと言ったが?」
そんなオレに、冷水を浴びせかける言葉が響く。
放心していた刀を持つ狐面は、オレの声に正気を取り戻したらしい。
そして狐面の声で、オレも冷静さを取り戻した。
にしても、開口一番それかよ。
いや待て、落ち着け。
兎にも角にも!一刻も早く誤解を解かねば!
このままでは、ガチで殺されかねない。
「ヒィヤ!?マジかお前!!オレはただの遭難者だぞ!!?」
訳の分らんまま、死んでたまるか。
「ただの、遭難者?」
狐面は首を傾げて、不思議そうにこちらを見ている。
お面で表情は判らないが、そういう仕種だ。
だからオレは、力一杯腹から声を出して言ってやったさ!
「ソウナンですッ!!」
……くっそ!!テンパった!!
オヤジギャグかましてる場合か!このお茶目さんめ!!
「……では、お前は一体どれだけの間、遭難していたんだ?」
ああ!無かった事にされた!
てか聞き流してくれた!!
くそう!ちょっと優しいとか思ってしまったわ!!
「……多分、四ヶ月位?」
そんなご厚意に甘え、平静を取り繕い狐面の質問に答える。
流石にここでボケを続けるほど、オレも愚かではない。
「ほう?それにしては、随分と綺麗な身なり《・ ・ ・》だな?」
……んん?
綺麗な……身なり?
あの狐面は何を言ってるんだ?
てか、その挑発的な物言いは止めてくれません?
いくら命が懸かってても、我慢の限界はあるんだぜ。
「お前、目ん玉付いて……」
そんな感じで、苛々が頂点に達しようとした時、視界の端に映った物に違和感を覚えた。
水面に映る自分の姿だ。
(な、んだ?おい……おいおいおいおいおい!服が……!!?)
驚愕に染まる思考が、眼の前の現実を受け入れまいと無駄な抵抗を試みる。
しかし、現実だ。
受け入れようと、受け入れまいと、それは確かに其処に存在するのだから。
……綺麗になっていた。
あちこち破れ、解れ、穴だらけでボロボロになっていた服が。
染み付いた血や泥の汚れも無くなり、元通りの状態になっていたのだ。
自分の髪や髭が、白くなっている事さえ気づけない程の衝撃だった。
(ああ……もうダメだ。オレの情報処理のキャパ超えた)
お手上げとばかりに、オレの頭から煙が噴き出す。
勿論、比喩だ。
だがそれ程までに頭が熱くなり、クラっと目眩を覚えたのも事実である。
そして、そんな愚かなオレの隙を見逃さなかったのが、刀を持つ狐面であった。
カッと眼を輝かせたかと思うと、狐面は刀を背の低い狐面達に託し、オレに向かって飛び出したのだ。
「後は任せる!!」
「え?…………て、ギャアアアアアアス!!!!アンタこれ、天叢雲剣やんけぇええええ!!!」
背の低い狐面の一人が、手渡された刀を見て悲鳴を上げる。
紅白の注連縄で抜けない様に封印された、黒い鞘と柄の直刀。
「さっき、思いっきり振り回してたような……あ、いえ、私何も見てないです」
隣に居たお姫様に、もう一人の背の低い気弱そうな狐面が言い訳をした。
しかし、お姫様の方は何やら放心していて、じっとオレの方を見ていたそうだ。
で、オレはと言うと……。
完全に不意を突かれ、飛び出した狐面に懐まで踏み込まれていた。
「————!?」
掌底打ちの構え!
虚を突かれ、避ける為の動作が間に合わない。
「お前が、遭難者だろうが、変質者だろうが、『予言の者』だろうが、どうでもいい!!」
良くねえよ!
「姫様を辱めた……殺すには充分な————」
もう、一呼吸も無い間に撃ち込まれる。
「理由だッ!!!」
怒気の込もった気合いと共に、狐面の掌底打ちが放たれた。
その瞬間、またしても意識がクラっと来てしまう。
膝カックンされた時の様に、正に「カクン」と膝が折れ、胸に打ち込まれようとしていた掌底を、オレは見事に躱してしまったのである。
マトリッ〇スの様な体勢になってしまったオレの、鼻先を掠めた狐面の手。
それを視界に収め、間一髪助かったのを理解する。
その瞬間、狐面のお面越しに尋常時ではない殺気が伝わって来た。
「————ッ!!?」
狐面の声にならない雄叫びが聞こえた気がして……。
(この男……!!!これを避けるのか!?)
狐面が何を考えてるかは知らないが、とにかく逃げろと本能が叫んでいる。
崩れた態勢を立て直す間も惜しい。
なので、這って逃げた。
それはもう、ゴキブリの如く。
「な!?迅い!?」
そんなオレを見た狐面は、悲鳴にも似た声を上げた。
オレは狐面の「ゴキブリかお前は!!」という、罵声を背中に浴びながら、壁の様に聳える断崖を這い登る。
(最初の不意打ちの時も、三人がかりの奇襲の時もそうだ……。素人丸出しの動きなのに……撃ち損じた!)
拳を握りしめる音が、オレにまで聞えて来そうなほど、狐面の手は強く握りしめられていた。
(何者だ、あの男————)
そんな怒りを向けられているなど露知らず、オレは情けない顔で崖を登っていたのである。
(何なんだあの狐!!やっべえ!やべえよ!!何とか誤解を解か——)
そこまで考えて、思い当たる。
(いやまあ、アイツの言う通り裸見ちゃったし……殴られても仕方ないのは、確かなんだ)
ただ、まあ、裸を見た位で……なんて言うと語弊があるが、しかし。
流石にその理由だけで殺されるのは納得が行かない。
(くそ……考える事が多すぎる!グダグダじゃねえか。一番嫌いなパターンだ!)
なんて、考えている間に『コの字状』に抉れている、崖の切れ間に辿り着いた。
結構広い足場になっているが、このままでは上に登って逃げられない。
登れそうな場所を探して走り出す。
早くせねば、あの狐面に追い付かれる————
「!」
不意に、前方に影を捉えた。
嫌な予感に、視線を正面へ定める。
あの狐面が立って居た。
「もう逃がさない」
合成音声ゆえの、無機質な言葉。
先程までの焦燥も何処へやら。
逃げるのもバカバカしくなり、溜息と共に狐面と向かい合う。
「……」
「下は湖。部下達も居る。上に逃げた所で、ここから先は岩が湿っていて、真面に登れないぞ?」
狐面はそう言うと、クイッと頭を斜に構え、こう続けた。
「詰みだ」
さぞかし、物凄いドヤ顔を仮面の下で晒している事だろう。
オレは、せめてもの抵抗に、狐面とは逆に頭を傾け、ガンを飛ばす。
しかし腹の立つことに、狐面の言う通りなのだ。
————もう逃げ道が無い。
「何か、言い残す事は無いか?」
「……どうせ、何言っても無駄だろ?」
お姫様が、気弱そうな狐面に止められながら、「止めろ」と下で叫んでいるが。
眼の前のコイツに、その声は届いていないらしい。
「アンタ、端からオレの話、聴く気無いだろ?」
せめてもの意趣返しに、皮肉を込めて言ってやる。
「フン。遺言くらいは————」
言いながら、狐面の右手が青い輝きを放つ。
奴の手に、キィィイイイイインと耳鳴りの様な音を立てながら、エネルギーの粒子が集まって行くのが視える。
「聴いてやろうと思ったのだが……なッ!!!」
狐面が手を握ったのと同時。
————ボッ!!!
と、空気が弾けるような音を立て。
「〝青い炎〟……」
が燃え上がる。
無意識に口を突いて出た言葉だった。
狐面の右手から顕現した〝青い炎〟は、どこか、この世ならざる異様を放ち。
ゆらゆらと、しかし力強く燃えている。
(アレは——)
本能が、悲鳴を上げていた。
(ヤバイ————ッ!!!!)
左手の罅が、広がる。
「死ねッ!!!」
直後、狐面がオレに向かって青い炎を放つ。
青い炎は巨大な火の玉になって、足場全体を塞ぐ程に広がった。
また、遠くで音叉の響きが聞こえた。
————瞳が、紅く染まる。
瞬間、男は、まだ濡れているパーカーのフードを目深に被った。
————パキン。
魂の罅が、広がった気がする。
(さあ!どうする!?この狭い足場では、逃げる場所など限られている!!!)
狐面は、目標を仕留めたと思って、嬉々として心の声を弾ませる。
足場全体を塞ぐように放たれた巨大な火の玉。
狐面は限られているなどと言っているが、逃げ場など、下の湖に飛び降りるしか無いのだ。
(何処に逃げようと、確実に仕留めて————)
狐面は確信していた。
男が、必ず飛び降りると。
だが————
「?」
一瞬、巨大な火の玉が揺らめいた。
狐面は訝しげに、視線を火の玉へ向け凝視する。
直後、〝ナニカ〟が火の玉を突き破り、飛び出して来た————
「!?」
あの男だ。
髪も服も、真っ白なあの男だ。
男は、火の玉が放たれた瞬間、全身ズブ濡れなのを思い出した。
そしてフードを目深に被り、露出している顔を両腕で覆って、火の玉に突っ込んだのだ。
お陰で服もすっかり乾いた。
ちょっと焦げ臭いのはご愛敬。
裸足の足も、ちょいと火傷したが、問題無い。
————ああ、問題無ぇさ!
オレは、思いっきり左手に力を込め、拳を握りしめた。
(ちょ、おい————)
狐面は驚いて、待てと言わんばかりに防御姿勢を取ろうとする。
まさかオレが、火の玉に突っ込むなど、考えもしなかったのだろう。
……どっちでもいい。
オレは、身体中から立ち昇る煙を振り払う様に、左腕を思いっきり振りかぶった。
(何だ?こいつは何だ?本当に何なんだ————ッ!!!?)
狐面の心の悲鳴など、オレに届く筈も無く。
煙を尾の様に引き連れ、身体の感覚が命じるままに、左腕を振り抜いた。
————陶器が割れるような、そんな感覚。
オレの左手が。
拳が。
狐面にめり込む。
————バキンッ!!
無機質な、弾力の無い音を立て、狐の面が砕ける。
「!!」
お姫様と、背の低い狐面達は驚愕し、固まって、
「た、隊長ぉおお!!!」
黒焦げだが、何時の間にか復活したらしい狐面三人組が悲鳴を上げていた。
————バリンッ!!!
直後、狐の面よりも甲高く、更に無機質な音を立て、
「!?」
オレの左手の皮膚も、砕けた。
「痛ッ!!?」
着地しながら、左手を確認する。
少し動かそうとするだけで、ボロボロと皮膚が崩れてゆく。
一瞬、酷い手荒れ状態の、指の皺のパックリ割れを思い出したが。
その思考は直ぐに痛みで霧散した。
(痛ってえええええええええええええええ!!!あかん!!あっかぁあああん!!!!これ、左手あかんやつやろぉおおおおおおおおお!!!!)
左手の穴を中心にして、放射状に広がっていた罅が、狐面を殴った衝撃なのか、とうとう左手全体に広がり、皮膚が砕け散ったのである。
皮膚の下は、赤い肉ではなく、何故か黒かった。
しかし、この時のオレは、その不自然さを気にする余裕も無く、ただ痛みに思考を支配されていたのだ。
てか、何で左手で殴ったよ!?
————ガシャン。
狐の面が地面に落ちた音だった。
その音に、オレは視線を上げる。
パタタ……と、数滴の血が、地面に落ちた。
狐面の素顔に、細く赤い、一筋の線が引かれている。
————ああ。
ああ、何てこった。
その瞬間。
オレは、信じられないモノを見たのである。