夢現
————声が、聞こえる。
「——……」
オレを呼ぶ声。
「————ま!」
誰の声だっけ?
「透真!」
ああ、オレの苗字。
「————はい!!」
振り向いた先に居たのは、全体的に恰幅の良い、五十代位の中年男性。
オレと同じように頭にタオルを巻いて、同じツナギを着込んでいる。
ま、会社の指定作業着なので、同じデザインなのは当たり前だが。
「どうしました、社長?」
オレは行っていた作業を中断し、頭のタオルを取って汗を拭いながら、声を掛けて来た恰幅の良い中年男性——社長に向き直った。
「『どうしました?』じゃねえよ!お前、ちゃんと休憩取ったか?」
作業を始めてまだ間もない筈。
何か、ミスでもしただろうか?
「休憩って社長、まだ始めてちょっとしか……」
「せんぱ~い!もう、五時間は経ってますよ~!」
後輩の小林ちゃんがオレの言葉を遮って、信じられない事実を伝えて来た。
社長とオレの間に、長めの沈黙が訪れる。
「……だそうです」
と、切り出すオレ。
「休め」
「はい」
社長との、このやり取りも何度目か……。
荷物出しの作業を中断し、オレは休憩に入った。
夏は空が近い。
気持ちの良い青空が、巨大な入道雲を抱えている。
オレは、高層マンションの敷地内に在る、休憩スペースのベンチに座りながら、そんな空を仰ぐ。
水分と軽い塩分を摂取して、眠気覚ましのカフェイン——アイスコーヒーを唇へ運ぶ。
勿論ブラックだ。
最近やっと、この『苦み』の『美味さ』が解って来た気がする。
気が……するんだよ。
「よっこいしょ~。おう、隣いいか、透真?」
とか訊ねつつ、既に腰掛けている社長。
彼は先日、右脚を骨折し、現在は現場監督の様になってしまっている。
本当は、休んでもらっても全然問題無いのだが……。
彼の奥さんが、それを許してくれなかったのだ。
……泣ける。
「はい、どうぞ。……脚、大丈夫ですか?」
「ああ。問題ねえ。悪いなぁ迷惑かけて……」
「そうですね~……。社長が、新人に良い処見せよと、張り切り過ぎなければ……」
「ごめんて……」
そう。彼が骨折したのは、新人に何人か女の子が入って、その娘達に良い処を見せようと張り切った結果なのだ。
まあ、簡単に言うと、自業自得というヤツで……奥さんが怒るのも、無理は無い。
ちなみに、さっきオレに声を掛けて来た小林ちゃんも、その新人の一人だ。
元気爆発、超溌剌!と言う言葉が似合い過ぎる娘である。
まあ、正味な話、セクハラも甚だしいが、胸もデカいし……かなり可愛いと思う。
屈託の無い彼女の性格もあって、同性からの受けも良く、随分と可愛がられている。
入社三ヶ月にして、既に社内のアイドルと化していた。
何故か、オレに対し執拗に絡んでくるんだが……。
昨今、セクハラだパワハラだと世間様は五月蠅いので、対処に困る。
まあ、子犬がじゃれついてる様な物なので、放置しているけどね!
「お、俺より、透真こそ大丈夫か?」
社長は顔を赤らめ、あたふたと電子タバコを取り出して、口に銜えた。
この休憩スペースは、今は少なくなってしまった、喫煙オーケーの場所なのである。
フーと吸い込んだ物を吐き出して、社長はどうにか落ち着いたらしい。
「……今回は、また随分考え込んでたみたいじゃねぇか?」
「すみません。仕事中に……」
「ああ、違う違う。怒ってるとかじゃないんだ。それに、お前は考え事してる時の方が、ミスが少ないしな!ガハハハ!!」
「ええ~……」
身も蓋も無い。
「……社長、どうしてオレを雇ってくれたんです?」
と、行き成りそんな事を彼に訊ねた。
自分で言うのも何だが、オレは中途半端な人間だ。
何をやっても、直ぐ人並み以上にできるようになる。
だが、其処までだ。
人並み以上にできるが、それ以上にはなれない。
所謂、器用貧乏ってヤツで……。
結局、何をやっても一番にはなれなかった。
まあ、なるつもりも、情熱も無いってだけなんだろうが。
じゃあ、「お前は何をしたいんだ」ってなった時、答えに詰まったのを覚えている。
高校を卒業する前の、進路指導の面談でのコトだ。
先生にそう問われた時……。
————ああ、自分は何も考えてなかったんだなって、思い知った。
そこそこだが、何でもできる。
社会に出でも、それでやって行けると思っていた。
まあ、現実は甘くないって、お決まりのパターンだったんだが。
結局、定職には就かず、いろんなバイトをした。
引っ越しから始まり、工事現場、倉庫整理、清掃、飲食店、本屋、イベント関係、変わり種で『本物の執事』みたいなこともやった……。
とにかく、自分に向いたモノを探し、勉強と言いながら色々な事をしてみたのだ。
けど結局、何ひとつ長続きしなかった。
全部『そこそこ』止まり。
何かを極めた訳でもなく、ただ『半端にできる』ようになったら満足してしまい、次へ次へと流れて行っただけだった。
何をしたらいいのか、何をしたいのか……。
答えも出せず、ただ日々を過ごしていた。
そんな時に出会ったのが、社長だ。
出会い方もまあ、何と言うか。
変わっていたように思う。
バイトが午前で終わった日の帰り道だった。
オレが適当に昼飯を食おうと、公園のベンチに座ってパンを頬張っていると。
公園の入り口で、調子こいたヤンキー連中に絡まれている学生を発見した。
定期テストか何かで、帰りが早かったのだろう。
此処らは彼等の縄張りだ。
今の時間帯だと、学生が絡まれている出口には彼等がたむろしている。
知っている人間は近寄らないで迂回するのだが、どうやら憐れな学生君は何も知らなかったようだ。
物語の主人公とかならば、ココで助けに行くのだろうが……。
生憎、オレは一般人。
厄介事は御免である。
見ないフリをして昼飯の続きを食っていた、その時。
社長登場。
絡まれていた学生を逃がし、果敢にもヤンキー共へ向かって行った。
……まあ、ボッコボコにされたんだけどね。
このオレが、助けに入いらねば!と思い、飛び出してしまうほどボッコボコにされていた。
喧嘩が強い訳ではなかったが、武術に多少の心得があったので、何とかヤンキー共を撃退できた……のだが。
うん、普通にオレもボコボコだよね。
てか、誰か警察呼べよ!
いや、オレか!
助けに入る前に呼んどけば良かった!と気づいた時にはボコボコにされていた。
その後、おっさん(社長)と二人、顔中腫らしてボロボロの血塗れでベンチに座った。
初対面。
年も離れている。
共通点など、ボコられたコト以外には皆無。
だが、何故かオレ達は唐突に、二人して笑った。
理由など分からない。
ボロボロなのに、身体中痛いのに、口の中血の味しかしないのに。
周りの人達からめっちゃ変な目で見られているのに……とにかく笑った。
そして何故か、オレは現在、彼の所で働いている。
「……フ、俺に似ていたから、かな?」
「あ、そういうのいいんで」
オレの質問にカッコ付けて返す社長に、ピシャリと言い放つ。
この人はほっとくと、直ぐにこうしてカッコ付けた発言をするのだ。
「お、お前な……オレ一応目上で、雇い主なんだが……もうちょっと、こう、忖度とかさ……?」
「オレが奥さんに怒られても良いなら、そうしますが?」
「マジか……」
「マジです」
社長はガクッと肩を落とし、小さく溜息を吐くと空を見上げた。
「まあ、お前が俺に似てたってのは冗談じゃなく……初めて会った時、お前の眼を見て本当にそう思ったんだ」
社長の横顔は、空で膨らむ巨大な入道雲を見つめているが、どこか別の場所を見ている様で……。
「俺はな透真、中途半端な男だ」
「……!」
「人より早く何でもこなせるようになる。だが、全部が中途半端だ。だからよく悩んだ。自分には何も無いってな……」
……どこかで聞いたような話だ。
だが、オレは社長にそんな話をした事が無い。
だからコレは、本当に社長自身の話なのだろう。
「不安に駆られて、とにかく探した。自分にできる『ナニカ』を。結局見付ける事ができなくて、へこみまくったんだけどな?」
オレは、落ち込みすらしなかった。
そこそこの人生が送れれば、それで良いと思っていたから。
「けどよ、ふと思ったのさ。そもそも、『ナニカ』って何だ?」
「……」
「そんな漠然としたモノ探したって、見つかる筈無ぇじゃねぇか。だってよ、『ナニカ』なんて言っちまってる時点で、その『ナニカ』を決める事自体、放棄してんだから」
「!」
オレは、何時の間にか彼の話に聞き入っていた。
「別によ、自分にしかできない『ナニカ』なんて探す必要は無いんだ。誰にでも出来る事だって良いじゃないか。字が綺麗だとか、言葉遣いが丁寧だとか、本読むのが早いとか……そんなんで良いんだよ」
そう言うと社長は一度言葉を切って、電子タバコを口へ運んだ。
「何だって極めりゃ、〝才能〟だろ?」
電子タバコ特有の薄い煙を吐き出しながら、オレを見る社長の眼。
オレは、あの力強い眼を忘れられない。
「透真、ひとつ覚えておいてくれ。先ず、お前は俺と違う」
「そんなこと……オレは、オレも半端者ですよ」
事実、オレには何も無い。
「そうだな。今のままじゃ、そうだろうな」
社長はまた、電子タバコを銜えた。
「今は分からないかもしれない。何言ってんだって思ってるだろうが、おっさんの戯言として聞いて、覚えていてくれれば良い」
この時のことは、本当に良く覚えているんだ。
「肚ぁ据えろ透真」
その言葉は、何よりも鋭くオレの胸を貫いたから。
まるで、心を見透かされたように感じて。
……本当は、評価されるのが怖かっただけなんだ。
何かに本気になって、本気でしたコトに評価を付けられるのが怖かった。
だから勝手に諦めて、やりたい事を探すと言い訳して、何も成さないまま逃げ出して。
探す気など、さらさら無いくせに。
「何を選び、何を成すか、決めるのはお前だ」
社長の眼は、真剣そのもの。
「……」
オレは、拳を握りしめていた。
言葉が出ない。
オレは……この人に、こんな事を言ってもらえる資格があるのか?
何もやる気が無いのに————
その時、風が吹いた。
強い風だ。
社長がまだ、何か言っている。
聞こえない……。
風が強すぎて、目も開けていられない。
堪らず目を閉じた。
すると暗闇の中、唐突に声が響く。
————彼の言葉通り、選んだじゃないか君は。
社長の声ではない。
————私を殺した。
その声に瞼を持ち上げる。
社長の姿は消え、眼の前には異形の狼の死体が転がっていた。
————どうだい、私を殺した気分は……?
異形の狼——カミの声が、頭に響いている。
————最高かい?それとも最悪?
相変わらず、男とも女とも取れない声。
声だけなのに、二ヤついているのが判る。
————いや、何も感じてないね。
左の頬に、亀裂が入った。
————だって君の「心」は壊れているもの。
チリチリと、皮膚や髪が燃えている。
————もはや、痛みを「痛み」として、恐怖を「恐怖」として、感じる事も出来ない程に!!
左手の罅が、腕まで侵食してゆく。
————今の君は、壊れ過ぎた心が、どうして良いのか分からずに……。
左腕の罅が頬の罅と繋がり、左半身全体に広がった。
————正常なフリをしているだけなのさ。
皮膚が崩れ、筋繊維が剥き出しになった左半身を炎が焼いている。
そんな自分を、見ていた。
彼と、眼が合っている。
見開いたまま微動だにしない、感情の抜け落ちた瞳。
まるで、壊れた人形のようで……。
————他人事じゃねぇ。
————オレはお前なんだぜ?
そんな声が、聞こえた。
◇
————唐突に、意識が浮上する。
息を吸い込む口の様に、眼を見開く。
すると、眼の前には知らない天井……ではなく!
「!?」
女の顔が在った。
鼻先が付きそうな至近距離。
マジマジと、こっちを見てる。
肩のあたりまで伸びた髪は先端が綺麗に切り揃えられており、丁度中央で左右白黒に色が分かれている。
真ん中分けの前髪に、赤縁の眼鏡が映えていて、レンズの後ろの白い瞳がとても綺麗に見えた。
色白できめ細かな肌。
唇の下の小さなほくろが彼女の女性らしさを際立たせていて……。
今の様に至近距離で見つめられた日には、普通の人間ならば男女関係無く、興奮を禁じ得ないだろう。
オレ?
オレは……まあ、ね。
とにかく、そんな女性が、オレに跨っているのである。
どういう状況だ……。
「やあ!おはよう!」
寝ぼけた頭で考え込んでいる間に、白黒頭の女性は元気よく声を上げた。
「あ、おはようございます」
クッソ……条件反射……!
じゃなくて!
「あの、今何を……」
「ん?大したコトじゃないよ」
と、言いつつ。
オレから降りて、下着を穿きなおす白黒頭の女性。
いや待てお前。
ホント今、何しようとしてた?
「君の精子を、ちょっとね♡」
「よし、お前は敵だ。敵で良いな?」
振り向いた白黒頭の女は、悪びれた様子も無く微笑んでいた。
寝起きで上手く回らない脳ミソですら、警戒アラートをガンガンに鳴らしている。
いかん、コイツは危険だ。
立ち上がり、臨戦態勢を取るがしかし。
突然、視界がグラついた。
「何、だ……?」
霞む視界で女を捉え続けるが、ヤツの微笑みが、ひどく凶悪なモノに見えた。
「テメー……なに、を……!」
酷い倦怠感が全身の力を奪ってゆく。
堪らず膝を突いた。
「……何で裸?」
何もかも、訳すら分からず、薄れゆく意識の中、視界に入った自分の身体。
一糸纏わぬあられもない姿。
いや、ちょっと待て。
あの女、ホントのホントに、ナニしようとしてた!?
最後の力を振り絞り、女を睨み付けてやろうと視線を上げたその時。
「————ッ!!」
再び、至近に女の顔が在った。
吐息のかかる距離。
「ごめんね、透真暁人君。もう時間なんだ」
「何で……オレの、名前……」
ダメだ。
意識が遠のく。
とうとうオレは、自分の力では身体を支えられず、女に身体を預ける形で倒れ込んでしまう。
「お胸キャッチはサービスだよん♡」
「ぶ……こ……す……」
絞り出した声も、舌が回らず上手く発音できなかった。
次第に狭まる視界で捉える、光り輝くピンク色な空間。
安いラブホテルより酷い。
こんな特異な場所に居たにも拘らず、女にばかり気を取られて気づきもしないとは……。
「またね、暁人君」
女の声が、遠くで響く教会の鐘の音の様に、耳の奥で響く。
意識が、完全に閉じた————