第1話 藤井聡太 ②
藤井聡太君は理由も無く学校を休むような生徒ではありませんでした。
彼とは1年生の時から同じクラスでした。
1年の頃の藤井君は、部活動をやりながら生徒会にも参加をするような真面目な人でした。彼はいたずらや、道に外れた事を行う人を嫌う心優しい青年でした。その上控えめな性格で、よく先生達に頼られていました。
藤井君の言動は、周囲に安心感を与えていました。
私はその頃から彼を尊敬していました。
2年生になると、彼は勉強にのみ集中をするために、部活動も生徒会の活動も辞めました。私達の高校では、部活動への強制参加は1年生までなので、それは問題ありませんでした。
そして2年の時に、彼と私は同じ図書委員になりました。
「酒井さんは去年も図書委員だったよね?」
ある放課後、委員会の仕事で私達は図書室の本棚を整理していました。
「うん、そうだよ。知ってたんだ」
「知ってるよ。同じクラスだったんだもん」
「1度も話をした事がないから、知らないと思ってた」
前日の当番が仕事をサボったお陰で、私達の仕事は山のように残っていました。
私達は2人で力を合わせて、長い間本棚とダンボールに囲まれて作業をしました。
「ずっと話してみたいと思ってた」
「私と?」
「真面目そうだったし」
「私は真面目じゃないよ。……真面目な人は好きだけど」
「そうなんだ」
その日は、私達が初めて言葉を交わした日でした。それまで、彼とはあまり接点がありませんでした。
1年の時もクラスは同じだったけれど、班が同じになる事はありませんでした。
けれど、彼が私の事をあまり知らなくても、私は彼の事をずっと見てきました。
彼と会話をしながら過ごす時間はあっという間でした。
そして私達はお互いの将来について話していました。
「藤井君は将来の夢とかあったりするの?」
「酒井さんは?」
「私……?」
「聞きたい」
「私は……。公務員かな……?」
「どうして?」
「どうして……?うーん。平和だから……」
「平和だから?」
「うん」
「ふーん。そうなんだ」
「まあ……平凡な毎日が過ごせるなら、なんでもいいかな。藤井君は?」
「おれは……人に話せないほど大きくて恥ずかしいよ」
「え、気になる」
「特に、酒井さんみたいになんでもいいって言う人には恥ずかしくて言えない」
「私、絶対馬鹿にしないよ!」
「……。おれんち母子家庭なんだけどさ、母だけは絶対に幸せにする。おれはすげーお金持ちになるんだ」
そんな言葉を零していた人が、道を踏み外すはずがありません。
藤井君にはきっと、私達には話せないような深刻な理由があります。その理由を私は、どうしても鈴木先生から聞き出さなくてはいけません。
もし、鈴木先生が打ち明けてくれなければ……。
「……君、……い君、……酒井君!」
「わぁ……!は、はいっ!」
気が付けば、教室にいるみんなが私の方に注目をして笑っていました。
そして教壇に立っていた国語の田中先生は、厳しい顔付きで私の方を向いていました。
「窓の外にイケメンでもいたのかね?」
「す、すみません!」
「さあ、早く教科書を開いて、問題に答えなさい」
私は反射的に自分の机の上に置いてあった教科書を開きました。
隣の席の美咲がページの番号を示してくれて、私は慌ててページを捲りました。
「あれ?!美咲の教科書と違う!」
「絵里落ち着いて!それ前の授業の、理科の教科書!」
「あっ!!」
私は急いで机の中に手を入れて、国語の教科書を探しました。しかし見つからず、机の横に掛けていた鞄に手を伸ばしました。
「絵里、あった?」
「ない……」
そして私は悟りました。
重たい顔をゆっくり上げて、私は正直に先生に言いました。
「先生……。自宅に教科書を忘れてきました……」
「なんだって?」
「ごめんなさい」
先生は呆れて言葉も出ませんでした。
「やれやれ、世話の焼けるお嬢ちゃんだな」
国語の田中先生は、来年で還暦を迎える、学校のお爺ちゃんでした。
基本的には厳格な性格だけれど、温厚で思いやりがあって、学校中の生徒から慕われています。
田中先生ならきっと許してくれる。未熟な私はそんな事を考えて、頭の中で甘えていました。
「仕方ない。隣の人にずっと世話を焼いてもらう訳にもいかんから、今日は前の席の、藤井の教科書を借りなさい」
その発言は、教室にいる誰もが予想をしていませんでした。
田中先生は、授業をするためにほとんど毎日私達のクラスに来ています。
そして毎日足を運べば、例え事情を知らされていなくても、自ずと違和感に気付くはずです。
だから田中先生は、藤井君の事にも気が付いているはずでした。
この1ヶ月間、鈴木先生が一切触れてこなかったように、藤井君の話題を持ち出す人は1人もいませんでした。
その問題は、みんな心の中で理解していて、それは暗黙の了解でした。
みんな、藤井君の事をガラスのように丁寧に扱ってきました。あえて触れず、触らず。
それを今、田中先生が破ったのです。
「え、でも……」
私は戸惑ってどう答えればいいか分かりませんでした。隣の美咲も、周りのみんなも、私に視線を合わせてくれる人はいませんでした。
そんな中、痺れを切らした田中先生がよく通る声ではっきりと私に言うのでした。
「藤井なら快く貸してくれるだろう。違うか?」
その言葉は、私の耳の奥まで届きました。
「田中先生……」
「まったく。学校をサボっている藤井の方が授業の準備はしっかりできているとは。藤井の事も一方的には責められんなあ」
私は、戸惑っていた自分が少し恥ずかしくなりました。
私は自覚をしていませんでした。けれど、いつの間にか藤井君に対して壁を作っていたのです。
私達は藤井君をガラスのように大事に扱ってきました。彼の事が大事だからこそ、“彼という仲間”を失いたくないからこそ、私達は敏感になって避けていました。けれど、それこそが心の壁というものだったのかも知れません。
「さあ、早く藤井から教科書を借りてきなさい」
田中先生は、あたかも藤井君がそこにいるかのように言いました。私は言われるがままに、藤井君の席の横に立ちました。
そして、そっと国語の教科書を借りました。
藤井君の教科書はよく使われていました。何度も捲られた紙が柔らかくなって、とても開きやすくなっていました。何枚かページの端が折られていて、真面目に勉強に取り組む彼の姿が浮かびました。
「本人がいなくとも、借りた物は大事に扱うんだぞ」
黒板に例題を書き出していた田中先生が、背中越し私に言いました。
私は一番後ろの席から、先生の背中に届くように、大きな声で「はい!」と返事をしました。