第1話 藤井聡太 ①
私の通う高校には、早朝に一人学校に来て教材だけを置いた後、授業には参加をせずにそのままどこかへ消えてしまう男の子がいます。
彼の事をクラスメイトのみんなは“聡太”と呼んでいます。私と同じ3年C組の一生徒です。
彼が欠けたホームルームを過ごしてから今日で1ヶ月になりました。この1ヶ月間の間で私は彼と1度も会っていません。
「みんな、おはようー」
担任の鈴木先生が教室に入ってすぐに朝の予鈴が校舎内に鳴りました。
廊下にいた生徒も、教室の中にいた生徒達もみんな急いで自分の席に戻っていきます。
「はーい、みんな席についてねー」
みんなの顔を眺めながら、鈴木先生は窓際の奥の席に目をやりました。
予鈴も鳴り止み、クラスメイトのみんなは自分の席に着いていました。
鈴木先生の視線は、人影のない、私の前の席で止まりました。
その机の上には、3年近く使い古されて変色した、皺がたくさんできた教科書と、高校1年生の時から変わらない、男物の黒い筆箱が置いてありました。
「じゃあ、日直の人お願いね」
先生は瞳の奥で揺らいだその何かを胸に仕舞い込んで、その日の日直の人に朝のホームルームの開始を促しました。
「起立。気を付け、礼。着席」
鈴木先生は彼について必要以上に私達に事情を話す事はありません。先生は常に冷静で、いつも何も無かったかのように明るくみんなと接します。この頃毎日のように記入している欠席連絡表に今日も同じ男の子の名前を記入しながら、「プライベートの問題は誰にでもあるから」と、この1ヶ月間の間で何度か聞いた台詞を今日また零しました。
「みんなも、あと1年だから。あと1年を無駄にしないようにね。したくても、できない人達もいるんだって、という事を忘れないで。ね?じゃあ今日も1日元気で明るく!」
鈴木先生の厳しくも優しい一言をもらって、私達の朝のホームルームは終わりました。
そして今日も“藤井君”が欠けたまま、私達の無駄にできない1日がまた進もうとしています。
昼休み、私は一人職員室を訪ねました。
鈴木先生はお昼の時間に入ってもなおまだデスクの上で仕事をしていました。
「鈴木先生」
「あら、絵里ちゃん」
「今、宜しいですか?」
「うん、もちろん。なーに?」
仕事が立て込んでとても忙しそうなのに、先生は教室で見せるいつもの明るい笑顔を私に見せました。
「実は、先生にお願いしたい事があるんです」
「お願い事?」
先生は珍しそうに私の顔色を窺いました。
「はい……」
急に緊張が私の体中を巡りました。触れてはいけない事だと分かっていても、先生を困らせる事になると分かっていても、それでも私は胸の内に秘めた思いを抑えられませんでした。
彼が突然学校に現れなくなってから、今日で1ヶ月が経ちました。彼に限って、こんなに長い間学校を休む事は今までありませんでした。
彼は誤った道を選んで進むような、そんな人ではありません。きっと私達には話せない理由があります。
だから、私は彼の真実を知るために、鈴木先生に思い切って告白をする意志を固めてきました。
私は両拳を握り、先生を真剣な眼差しで見つめました。
「藤井君の事です」
「藤井君……?」
「はい」
「藤井君がどうしたの……?」
「知りたいんです。藤井君のような人が、どうして急に学校に来なくなってしまったのか」
「……」
「先生なら、何かを知っていますよね……?」
先生は私と目を逸らして何も答えませんでした。けれどそんな事は想像が出来ていました。
「お願いします、先生。私は、藤井君の事が知りたいんです」
私は鈴木先生に頭を下げました。
藤井君の真相について、私一人の力では何も知り得ようがありませんでした。今彼に起こっている事について知るには、彼の真相を知っている先生達から話を聞くしかありません。けれど、プライベートの事をただのクラスメイトに話す事は、藤井君も先生達もきっと望まない事です。
それでも、私は鈴木先生にお願いをするしか他の方法はありませんでした。無理を承知の上で鈴木先生の答えを信じて待つしかありませんでした。
「どうしてなの?」
頭上から、鈴木先生の冷静な声が降ってきました。
私はゆっくりと身を起こして、先生と視線を重ねました。
「どうして知りたいの?」
「自分でもわかりません……。でも、どうしても知りたいんです」
「藤井君とはどういう関係なの?」
「ただのクラスメイトです……。3年間、ずっと同じクラスの、ただのクラスメイトです……」
鈴木先生は再び口を閉じました。私は心の中で、失敗したという事を悟りました。私と藤井君の間柄では、藤井君のプライベートの事を打ち明けてもらう事は難しいのだと思い知りました。
「放課後にまたいらっしゃい」
「先生……」
「あなた一人だけでね。じゃあ、悪いけど今は忙しいから」
「ありがとうございます……。先生」