ひとしずく
僕はある夏、彼に出会った。
しめった梅雨の気配はじわりと過ぎ去った、バイトからの帰り道。足を止めた横断歩道の向こうで、品のいい、白い日傘が揺れている。
その傘を差した女の人は、ゆるく巻かれた、長い茶髪を微動だにさせずに、白い線の上ばかりを歩く僕を見ていた。綺麗な人だ。そんな、月並みな言葉しか出てこない。むしろなぜ渡らずに、遠巻きに横断歩道を見て、たたずんでいるのか。なんてことを考えていたら、したたかに目が合ってしまった。
白線上の僕は、思わず足を止めかけた。けれども、弧を描いた彼女の唇が、あまりにもやさしく、時を許した。そのおかげで、僕はそっと歩道に足を着いたのだった。それから彼女は明らかに、僕に向かって声をかけた。
「少しお話したいことがあるのだけど、お時間大丈夫?」
四十代、くらい。真っ先に顔と声でそう判断した僕は、視界の隅で誰かが足を止めたことで、信号が赤に変わったのだと気付いた。道を渡り終えても、どうやら僕は、この先に進むことが叶わないらしい。
お時間は大丈夫だった。でも、早く家に帰って休みたい。本が読みたい。遊びたい。なんて本音を、無愛想に言えるほど、疲れた心に勇気もない。
「時間は、大丈夫です。けど……危ない話だったら、お断りです」
そんな僕の気の弱い返事を聞いて、ふわりと彼女は笑う。かわいらしく、笑う人だった。先に許された時のように、僕は少しだけ、構えを解いた。
「いいえ、危ない話ではないの。私の息子と、お話をしてもらえないかと思ってね」
どこか物悲しげに彼女が語り出したのは、心の迷子の話だった。
彼女の息子さんは、僕と同じくらいの歳。数年前に起きた、とあるできごと以来、話すことをやめてしまったそうだ。体に異常はないから、心の病だと医者は言う。何が原因なのか、どうして話さないのか、わからないままの日々が続いた。
ところが今年の春から、息子さんは部屋にこもって、ずっと鉛筆で絵を描くようになったという。たまたまその部屋に、鉛筆と紙が置いてあったからだそうだけど、絵を描く理由も、描いた絵が意味することも、やっぱりわからないまま、彼女は途方に暮れた。
今ではずっとひとりで、キャンバスに向かっているから、その横で話して、刺激を与えてほしいとのことだった。毎週一度、数時間でいい、あなたの都合が悪ければ、休んでも構わないから……。彼女は申し訳なさそうに、もう、これしかできることがないと言いたげに、終始、眉を下げて話した。
頷こうと、僕は既に決めていた。本も、遊びも、そんなことよりも、たったひとりの方が、きっと大事なことだと思ったから。けれど、最後にひとつ、彼女に訊きたいことがある。
「どうして、僕だったんですか?」
「どうして……?」
まさか、ただそこにいたからなんて、単純な理由なのだろうか。話が通じれば、誰でもよかったと言うのだろうか。
たったひとつだけを訊かれた彼女は、あのかわいらしい笑みとは打って変わって、ぐっと大人びた憂いを含んで、それでも微笑んだ。
「あの子とあなたが、似ていたから」
ぽたり。頬から垂れた一筋の汗が、何ごともなかったかのように、信号を青に変えて、風にさらわれた。僕はやっと、歩き出すことが叶う。
人と音が混然とする、それでいて都会とも、田舎とも言い切れない、僕の住む町から、ほどよく離れた別荘地。もちろん訪れたことはなかったけれど、眼前に広がる緑と木漏れ日、鳥のさえずりは、白い彼女の笑みと同じように、僕がその場に存在することを許した。
表札のない、二階建ての別荘。煙突があって、丸い柵のついたウッドデッキが見える。デッキに面した部屋には、水色のカーテン。二階には、緑のカーテンがかけてあるわ。彼女の言葉を写したメモとにらめっこをしながら、僕は目的の家を見つけた。
彼女は名前を教えなかった。僕の名前も訊かず、僕が会うことになる相手の名前すらも言わなかった。訳あり、その一言で片付けてしまえるほど、僕は単純でもないけれど、ずっと困った顔をして話した彼女が、話以上に語ることはないのだ。だから僕は、家を目の前にした今も、会うことになる相手を、なんと呼ぼうか、考えている。
リン、とはっきりした鈴の音が三回。よくあるインターホンの音ではない。家の周りには手入れされた低木、玄関に伸びる道にも、凝ったデザインと飛び石。外観は全体的に落ち着いた、茶色と木目で統一されている、まさに安心感を与える別荘。周りは木々に囲まれていて、人影もない。夏にしては涼しいし、これはもう、映画のワンシーンだ。
意外にも玄関のドアは、よくあるツーロックで、大きめの取っ手がついた、現代的なものだった。ガチャと重い音を立てて開いた先に、彼女がいた。
「いらっしゃい。待っていたわ」
約束の時間通り、僕は特に何も気構えずに、今日からよろしくお願いしますとだけ、告げた。すると彼女はころころと笑って、お願いするのはこちらの方ねと、僕を家の中に導いたのだった。
応接、というほど機会はないらしいけど、一階の洋室にて、これからの予定を話した。僕は毎週、一日の数時間を、この別荘で、彼女の息子さんと過ごす。来れなくなることはないとして、万が一、何かあった場合のみ、この家の固定電話に電話をかけることを言い渡された。更に、息子さんが声を失ったできごとや、この家のことについて、詮索はしないこと。そして、このお話をすること自体を、決して誰にも言わないこと。しっかりと、約束させられた。思っていた通り、すべてが秘密の、謎めいた話だ。普通じゃない。それでも僕は頷いて、彼女に、きっと最後の質問をした。
「息子さんが取り合ってくれなかった場合、僕はどうしたら?」
彼女はきょとんと目を瞬かせて、また、すべてを許す笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。あの子、誰かと話すことが、とても好きだったから」
ああ、彼に一体、何があったというのだろうか。
水色のカーテンに閉ざされた部屋で、『彼』は、キャンバスと向かい合っていた。彼女が、彼に僕のことは話してあると言っていたけれど、名前は知らないのだろう。今の彼では、訊こうとすら、思わないのかもしれない。
部屋に入ってからずっと、白いキャンバスを見つめていた彼が、僕を見た。大きな二重の目。僕を物とでも思っているかのような、何も映さない表情。二歩も進めば、壊れるような距離なのに、彼は、はるか遠くにいるように見えた。
「……よろしく。これからしばらく、君に話をしにきた」
目の色も、表情も変えることはなく、彼はキャンバスに視線を戻した。出て行けとも、そうかとも言わずに。言えずに。頷きもせずに。彼の言葉は、かたわらのワゴンに並べられた、濃さの違う鉛筆にしかないのだ。
この日、僕は部屋にあったもうひとつの椅子に腰掛け、細いせいか、茶色く見える髪と、驚くほどの色の白さを持つ彼を前に臨みながら、葉擦れと風の音を背景に、ひとつ話をした。さながら、やましいことを独白するような僕だった。
バイト先に行く途中、公園で見た、季節外れの彼岸花と、直後に聞いた、訃報の話。はじまりがこんな話でいいものかと迷ったけれど、彼岸花という言葉を聞いた瞬間、彼がピクリと反応を示した。僕から見える横顔は、確かに聞いた話を頭で考えていた。彼の中に、明らかに、僕の言葉が届いていた。
話自体は、ものの十分もかからずに終わった。オチも何もない、ただ少し、不思議だったというだけの話。それをゆっくりと、染み込ませながら僕は語った。これでおしまいだと言った時、彼は、聞く前と同じようにこちらを向いて、その目に僕を認めた。泣きも笑いもしなかったけれど、確かに聞き終えたという顔をしていた。
そっと応接室に戻れば、彼女が本を読んでいた。扉を開けた音に顔を上げて、また僕を許していく。どこか、とても、物悲しげに。
「おつかれさま。あの子、ちゃんと話を聞いたかしら」
「はい。はじめと終わり、目を合わせてくれたので。きっと、届いていると思います」
目を合わせたと聞いた彼女は、思うところがあったようで、そう、とゆっくり微笑んだ。彼女ではできなかったことが、僕には、できたのかもしれない。
こうして、僕と彼のひと夏が始まった。
からりと晴れた、日曜の昼下がり。先週と同じ段取りで別荘に趣き、彼女の出迎えを受けて、彼の部屋の扉を開けた。変わらず、白いキャンパスを見つめたままなのかと思いきや、そっと頭を動かして、大きな二重の目に僕を映した。確かな目だった。二拍後、彼は、僕の左手の壁に目線を移した。つられてそちらを向いてみれば、壁には一枚の、見事な彼岸花の絵が、軽く、貼り付けられていた。
もう一度見た彼は、既に白いキャンパスを見つめていた。あの彼岸花は、明らかに、僕の話に咲いていたものだ。筆致もどことなく暗く、重く、ただの白黒の絵であるのに、死をまとった黒ずむ赤が、見えるような気がした。しかし、そんな僕の感想など、彼は毛頭、聞く気がないのだろう。僕がこの椅子に腰掛けて話すべきは、今日話そうと組み立ててきた、この前に見た夢の話だ。息をゆっくり吸って、僕は話し始めた。
親戚の住む古民家に、夏祭りを理由に、泊まりに行った夢の話をした、翌週。壁には、その懐かしさに泣けてしまいそうなほど、くたびれた古民家の絵が貼られていた。僕は郷愁に浸る間もなく、学生時代、窓際最後尾の席だった頃、友達からもらったお菓子の銀紙で作り、窓の縁に、いつも小さな折り鶴を置いていた話をした。次の週には、話に出てきた、べつの人が作った、大きな罫線のある紙の折り鶴と、僕が作った、小さな銀紙の折り鶴、三羽が、家族のように、和やかな雰囲気で描かれていた。
心に家族の団欒を抱きながら、その日は、毎年夏に、家族でやっていた花火の話をした。晴れた夜空と、色とりどりの光、はしゃぐ子供達の声。最後、締めの線香花火を、誰よりも長く灯していられることが、僕のささやかな自慢だった。聞き終えた彼の、こちらを向いて合わせてきた目は、心なしか、いつもよりも潤んでいるように見えた。
次に見た折り鶴の隣には、まばゆいほどに輝く、生き残った僕の線香花火の絵があった。白黒とは一体、何色なのか。周りに描かれた、燃え尽きた残骸まで、はっきりと、じっくりと見て、僕は長く、息をはいた。
わかっている。彼より先に、今にも泣き出しそうなのは、僕の方なのだ。
涙を飲み込んで語り出したのは、引っ越す前の、家の近くにあった、今は閉鎖された商店街の話だった。ずらりと並ぶ店の中、埋もれるようにして建っていた、ひときわ、小さな団子屋。おじいちゃんとおばあちゃんの老夫婦が、手作りの団子や、お饅頭を売っていた。当時、まだ小さかった僕は、母親に連れられて来る方法しか知らなかった。いつもにこやかに対応してくれるおばあちゃんの名前も、強面だけど、子供には笑って、得意げな顔で団子をおまけしてくれるおじいちゃんの名前も、何ひとつ知らなかった。僕はそこで買ってもらう、全体に、醤油のタレがかかった、小ぶりのみたらし団子が好きだった。飴玉のように舌先で転がして、口の中に広がっていく、甘いタレの味が、小さな僕を、確かに幸せにしていた。あの頃は、その幸せがいつまであるのかなんて、まったく気にしていなかったんだ。
話を聞き終えた彼の、前髪がかかった横顔。軽く開けられた口元が、何を言いたかったのかを考えながら、部屋を開けた翌週。変わっていたのは、置かれた鉛筆の長さと、壁に足された一皿の団子の絵。風景だけでなく、食べ物も巧いんだな。君の絵、好きだよという僕の感想は、いつになったら、彼に届くのだろう。
来週で、八月も終わる。僕はこの日、来がけに見たおかげで思い起こされた、数年前に亡くなったおばあちゃんと、彼女が好きだったひまわりの話をした。彼岸花をあれほど巧みに描ける彼の手で、僕の記憶にあるひまわりを、残してほしかった。厳しくもやさしかったおばあちゃん。上手に話せるようになる前に、お別れをした、このどこにも行き場のない言葉を。思いを。彼女はひまわりがとても好きだった。いつも部屋に飾っていた。あなたの太陽は、憧れは、見つめたものは、ねえ、何だったの。
言葉が切れて、彼が振り向くまで、今までで一番長く間を覚えた。見つめたその横顔は、真っ直ぐに、まるで白いキャンパスにひまわりがあるかのように、向かっていた。やがてゆっくりとこちらを向いて、僕を、穴が空いてしまいそうなくらいに、じっと見つめてきた。何が言いたいのか、何を言えないのか、僕も口が利けなくなったかと錯覚するほど、そこに言葉はなかった。
ずっと、先週の去り際に見た彼の目が、脳裏に焼き付いていた。何を話そうか、まるで思い浮かばなかった。来れないと嘘をついてしまおうかとも思った。僕が話をしなくなれば、彼との関係は終わる。この暑い中、彼の涼しい部屋に向かうこともなくなる。暦はもう九月だ。これから残暑に入り、いずれ暑さも引いていくだろう。色めく秋に、雪の降る冬に、僕はどんな話をしたらいい。彼はどんな話を望んでいるんだ。ひりひりとした思いを胸に、足を止めて見た別荘。僕は大きく、驚いた。
いつもは閉め切られているウッドデッキに続く扉が、大きく開け放たれていたのだ。
水色のカーテンは変わらず下がったまま、こちらから中は見えない。なぜ、なぜ今日は、扉が開いているんだ。たったそれだけのことでひどく焦り、僕は重いドアを開けた。白い彼女の出迎えは、団子の話をした二週間前からなくなっていた。この時間帯に僕が来ることは、既に把握されていて、ドアには鍵がかかっていない。帰り際に、応接室で読書をしている彼女に、会釈をするだけだった。静まり返った目の前の階段と廊下、左手にあるのが彼の部屋。その奥が応接室。足がすくむ。たった扉が開けられていた、それだけなのに、こうも落ち着かない気持ちはなぜだ。
こわばる手で、引き戸を開けた。そこに、いつものキャンパスの前に、やっと見慣れたはずの定位置に、彼はいなかった。陽の光が差し込む部屋の中、まるで分身のように、キャンパスにはひまわりの絵が描かれていた。ああ、おばあちゃんが好きだった、あの。ふらりと、壊れることのなかった僕と彼の間の二歩を、いともたやすく踏み破りながら、壁には飾られなかったひまわりに、僕の意識は吸い込まれた。
彼はどこだ。懐かしさと喪失感が絡まった涙が落ちる前に、とても強い一陣の風が、僕のすべてをさらった。部屋中に吹き荒れて、気付いた時にはもう遅く、壁に貼られていた白黒の絵達が、音を立てて宙を舞っていた。知っていたはずだ。彼岸花は、あの後枯れて、古民家はいくら好きでも夢の中、折り鶴も意味を知らぬ人の手によって捨てられ、線香花火を見ることはもうないと。あの団子の味も戻らないと。記憶に咲き続けるひまわりは、いくらに絵にしたところで、記憶のままなのだということを。
いよいよ熱く、思いっきり泣いてしまいそうになった時、ウッドデッキの先に、光に包まれた人影が見えた。僕と背丈の変わらない、あのシルエット。なんだ、初めて立ったところを見たな。肌の色が白いから、反射して眩しいぞ。そんなところで外に向いて、まったく、どういう風の吹き回しなんだ。
数歩、光の方に歩み寄れば、髪を気持ちよさそうになびかせて、幾度となく僕を許した彼女のように、真っ白なかたまりが振り返った。大きなその目がまた僕を、しかし、はじめて見る強気な目でとらえた。口元はくっきりと弧を描いて、逆光が緩んだ瞬間、彼は、僕の知る中で一番の穏やかな笑みを咲かせた。
「ありがとう」
ぽたり、ひとしずくが落ちた。それが、僕と彼の、これからを繋ぐ最初の言葉だった。
了