第五章「ソフト」―1
昨日のことについて、まだ僕の中では整理がついていない。
そりゃそうだ、あれはとんでもない状況だった。一生に一度あるかないか…………いや、一度だってあってたまるか、ナイフに四方八方を囲まれるなんて。まして、それが自分目掛けて飛んでくるなんて。
三度目の飛来――額に少しだけ触れた金属の感触を思い出すと、背筋に冷たいものが走る。
もしあのタイミングでクルト先輩が幻覚を消さなかったら、ナイフは僕の脳天を貫通していたんだ。あの床のように、僕の頭にも穴が空いてたんだ。間違いなく、僕は殺されていた。幻覚のくせに刃が刺さるなんて、そんな話は聞いてない。
死の一歩手前。
そんなトンデモ体験を、何の覚悟もなくしてしまった。強引で、一方的で、これ以上もないくらいひどい話だ。作為的である分、交通事故よりも性質が悪い。
大体僕は、自警委員に入りたいなんて一言も言ってない。
なのにあんな目に遭わされた。何を考えてるんだ、あの先輩は。そして乖離は。自警委員ってのはみんなおかしいのか? そんな人間の集まりなんだろうか。
――――はあ。
悲嘆のような怨嗟のようなため息をつきながら、僕は自教室の扉を開けた。
開けた視界の中には、我がクラスメイト達が談笑する風景。眠そうな顔をしつつも、各々二人三人集まって、他愛もない話に花を咲かせている。別世界に感じるほど華やいでいる雰囲気。
いい気なもんだ。
鞄の重みを肩に感じつつ机と机の間をとぼとぼ歩きながら、木内相手に自警委員の悪態をついてやって、この行き場のない鬱憤を晴らしてやろうかとも思った。が、どうにも気が引ける。その状況を説明するには、昨日の僕の醜態までも描写しなければならないからだ。それに……――
――僕は、教室の右側後方の席に目をやる。
窓の外を睨んでいる、栗色の髪を持つ女子生徒が目に入った。親の敵でも見るように、ひたすらに空を睨んでいる。
ふと、その女子生徒――――野中乖離は、何か気配でも感じたのか首を回し、僕の方を向いた。そして昨日の帰り際に見せたような、侮蔑が混じったような表情で僕を直視してくる。
……何だって言うんだ。
呟きと共に、胸の内に反発心が沸きあがる。激情に任せてしばし睨み返してやったが、結局僕は乖離のその気迫に負け、目線を床に落としながらすごすごと自分の席へと向かった。
乖離の二つ前の席。彼女に背を向け椅子に座っても、まだ背中に視線を感じる。そんなに睨みつけて、一体僕にどうしろって言うんだ。僕をどうしようって言うんだ。
背中に針が刺さるような感覚に耐えていると、ほどなくして教室の前の扉がガラガラ開かれた。そのドアの向こうに倉林教諭を確認したクラスメイト達は、慌てて自分の席へと帰っていく。
全員が席に着いたのを見て取ると、日直が起立、礼、着席の号令をかけ、次いで倉林先生が名簿片手に出欠を取る。そんないつも通りの職務をこなした後、珍しくジャージに身を包んでいる先生は、
「では、今日は球技大会なので、皆さん、着替えてグラウンドに集合してください」
そう言った。
…………そういや、そうだったっけ。




