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第一章「チャット」―2

 つまるところ、風宮すだれが僕に執ように話しかけてくるのは、僕が彼女を避けないからである。…………いや、より正確に言うならば、僕が『避けることを知らなかった』からだ。

 現在の僕は、できることなら彼女と距離をとりたいと常日頃、昼夜を問わず思っている。彼女の独唱を耳に通す時間なんて、人生の無駄なものベスト3に入るくらい殊更なものだ。身になった試しがない。人生に限りがあることを知っているならば、即刻削除すべき項目である。

 そう理解しつつも僕がそれを回避できなかったのは、入学当初に問題がある。

 たかだか半年前に僕は初めてこの校舎に足を踏み入れたわけだが(入学試験は別の校舎で行われた)、同じ中学からこの『那頭奈学園』に入学したやつは、僕以外に誰一人いなかった。なもんで、顔見知りは皆無。入学式が終わって通された一年五組の教室で、若い男性教師(うちの担任、倉林先生であることはこの後の自己紹介で知った)が「十分休憩したらホームルームを始めます」と言い残して去った後、周りが顔馴染み同士でローカルな世間話を始める中、僕はどうしようもなく独り手持ち無沙汰になっていた。

 そんな僕に「やあやあ、初めまして」と颯爽と声をかけてきたのが、何を隠そう、風宮すだれだったのである。

 その独特な言葉遣いと口調のせいで、最初のセリフもシーンもしっかり覚えている。今さっきと同じカチューシャに丸眼鏡というアイテムを装備したすだれが、手をひらひらと振りながら僕に近づいてきたのだ。

 正直に言えば、その時の僕は、彼女に話しかけられて悪い気はしてなかった。

 寂しかったりつまらなかったりする時は、どんなものでもおもしろく感じるものである。だから、彼女がいきなり「高校における第二外国語教育の一般化」について語り始めた時も、少し変わってるなあという感想を持っただけで、むしろ一生懸命に合いの手を入れてやったものだ。

 それがいけなかったのだろう。

 そこからズルズルと、まるでスーツケースを転がすように、すだれの独り言の傍聴人という役職が半年間続くことになったのである。クラスの他の生徒は、元々知っていたのか、僕との会話を聞いて気付いたのか、いち早く危機を察知してすだれとある程度の距離をとっている。つまり僕は、『すだれ地雷』が至る所に埋められた砂漠に一人の取り残されたようなもんだ。

 今さら彼女を避けるにしてもすでにタイミングを外してしまっているし、彼女がそれを許さないだろう。諦めの境地が見えてきた今日この頃である。


 ――そんなことを思いつつ、


 ため息をつきながら、僕はタイル張りの廊下を早足で歩いている。

 何でまた僕が、この後には何も予定がないのにも関わらず早足で、しかも最短経路を選んで廊下を歩いているのかと言う理由は、今さら特に説明する必要もないだろう。確かにこの後すだれに追いつかれるのは確定事項だが、しかし今のうちにできるだけ先へ進んでおけば、この後すだれと会話する時間は減っていくのである。我ながら何ともみみっちい…………もとい、涙ぐましい日々の努力というわけだ。

 心の涙を拭いつつ、後ろから今にもすだれの足音が聞こえてくるんじゃないかと内心びくびくしながら、廊下の角を左に曲がろうとした瞬間、

 いきなり目の前に影が現れた。

「うおっと」

「キャッ」

 甲高い悲鳴と共に、肩にドンという衝撃。

 倒れないように足を踏ん張りながら、一体何が起こったのかと前を見ると、どしんと床にしりもちをつく女子生徒と、ひゅーんと飛んでいく花瓶。きれいな軌道を描きながら、空中で水を四方に撒き散らしている。

 そして重力にしたがって落ちていき、床上数センチ、がしゃんという破壊音を僕が覚悟したところで――


 ――花瓶が、止まった。


 完全に宙に浮いている。口を上から少し傾けたくらいの姿勢で停止し、そのまま動かなくなった。廊下のタイルには丸い影がくっきりできている。

 ふと、しりもちをついたままの女子に視線をやると、右手にカードを握り締めてその花瓶を見つめていた。間一髪間に合ったのだろう。

 僕は、ふうと安堵のため息を漏らした。

 そしてぶつかったのが誰だったのかと、再度その女子の顔を見る。

 栗色の髪を後ろで一つに縛っている、少々吊り上った目をした女子。眉間にシワを寄せ、僕を見上げている。彼女は、僕もよく見知った顔――――うちのクラスの野中解離(かいり)だった。

 ぶつかったのが僕だと確認した乖離は、立ち上がりながら、

「ちょっと、危ないじゃない」

「あ、ごめん」

 反射的に謝ってしまう僕。…………てか、お互い様なんじゃないか? そっちにも非があるんじゃないのか?

 しかし僕が反論を口にする前に、

「前々から思ってたけど、あなたって何かにつけてトロイのよね。そんな隙があるから、変なのに付きまとわれたりするのよ。自業自得だわ。ともかく廊下を歩く時くらいは、人並みの注意は怠らないで欲しいわね。気をつけなさい」

「え、あ、うん。気を……つける……」

 気圧されるようにそう答えると、乖離はきびすを返して花瓶を抱え直し、そのまま教室の方へすたすた行ってしまった。

 ……まったく、とっつきにくいったらありゃあしない。

 この六ヶ月、毎日同じ教室で授業を受けているわけだが、彼女の笑顔なんて一度も見たことがない。それどころか、七割がたが眉を吊り上げた表情なのである。何が楽しくて人生をやっているんだろう、と思ってしまう。すだれ以上に苦手な性格だ。まあ、普段は接点がないのが救いではあるが。

 遠ざかる彼女の背中を見つめ、ぽりぽりと頭を掻いていると、突然――


「――野中さんって、変な人だよねえ」


 脇から声がした。思わず後ずさりながら声がした方に目を向けると、カチューシャに丸眼鏡。いつの間にかすだれが追いついてきていた。

「あたしも前々から思ってたんだけどね。どことなく怪しいよねえ、彼女」

 アゴを親指と人差し指でつまみながら、廊下の向こうを眺めるすだれ。その乖離が「変なの」と揶揄した人物が自分であることに、こいつは気付いてないのか。

 僕は、なおも真面目ぶった表情のすだれを横目で見ながら、

「…………『変』とか『怪しい』なんて、お前が他人を形容する言葉じゃないだろ。少なくとも乖離はいたって真面目なやつだ。むしろ怪しさなんてもんから一番ほど遠いくらいじゃないか」

「む……。最初のセリフに関しては大いに反論があるけど――――でも野中さんだって、確かに品行方正な人だけどさあ、しかし度が過ぎてると思うよ? だって彼女、あたしなんかとは目も合わせないんだよ。たとえ廊下でぶつかりそうになってもね。今みたく苦言を呈することすらしないんだよ」

「……それは、お前だからじゃないのか?」

「むむ。心外なセリフパート2だ。もう、違うよ、あたしだけじゃないよ。他の人とだって、視線を交えてるところなんて見たことないよ。彼女にとってあたし達はまるで空気みたいなもん、って具合だよ」

 そうか? …………うん、まあ、確かに、言われてみれば、そうだった気もする、が。

「なのに君にはちゃんと反応するんだねえ……。閉鎖的な少女が唯一心を開く存在……みたいな? うーん……。もしかすると……もしかするのかな? うふふ。こりゃあ、あたしもうかうかしてらんないねえ」

 ニンマリ顔を僕に向けるすだれ。

 僕は「何のこっちゃ」と呟きながら、彼女の視線を振り払うように回れ右して廊下を歩き始めた。すだれはさも当たり前のようにトコトコついてくる。

 鞄を両手で膝元にぶら下げ、僕の隣を歩く眼鏡少女は、

「でさ、話を戻すけど――――日曜日に君が行った場所が、本屋とゲーセンだって? まあ、高校生の暇つぶしとしては王道中の王道だけどさあ……」

「……何か不満でも?」

「ふふふ。別に不満はないよ? ただ、ここでさっきあたしが言ったことに立ち返るわけなんだけど、君があたしに本当のことを言ってくれないっていう可能性も、あたしはちゃんと予想してたんだよ」

 すだれは首を回し、猫みたいな笑顔を僕に向けてくる。

「実はさあ、あたし、君の申請書はチェック済みなんだよね。君が昨日行った場所の記入欄もしっかり見てきてたんだ」

「……おい。知ってるのにわざわざ聞いてきたのか? てか、まさか今までもずっとそうだったんじゃないだろうな? 『友情と信頼に基づいて』とか言ってたくせに。なんちゅう嫌味なやっちゃ」

「うっふふ。それもこれも、君があたしに嘘をつくのがいけないんだよ。ちゃんと真実を教えてくれてれば、こんなカミングアウトをする必要はなかったんだから」

 言いながら、口をVの字にひん曲げるすだれ。…………僕が悪い、のか?

「ふふふ。申請書は監視された上で書かなけりゃならないからね。そこに嘘は書けない。監視データをチェックすればバレるわけだから。そこには真実が書かれてるはず。……で、その申請書によるとだね、そこにゲーセンなんてものは記されてなかったよ。代わりにネットカフェって書かれてた気がするんだけど?」

「………………そうだよ」

 僕は仕方なく答える。……まったくこいつは、やらしい聞き方をするもんだ。

「ふふ。この嘘のつき方もまた興味深い。まるで君がネットカフェに行ったことを隠そうとしたような感じだねえ。あたしにネットカフェに行ったことを知られると、何か不都合があるの? 一体全体どんなウェブサイトを見てたんだろう?」

 すだれは勝ち誇ったような顔をぐいぐいと僕に近づけてくる。……別に僕は、お前の顔をドアップで見たくなんかない。

 僕は視線を逸らしながら、

「……それを詮索されるのが嫌だったんだ」

「それ?」

「僕がネカフェに行ったなんて言えば、お前は絶対見たホームページをしつこく聞いてくるだろ? それが嫌だったんだ」

「んん? あたしに知られたくないようなページを見てたのかなあ? 高校生なのに」

 敵将を討ち取ったような表情のすだれ。その顔から、こいつが想像してることは容易にわかる。

「…………少なくとも、今お前が思い浮かべてるようなもんは見てないよ。ただ、これは僕のプライベートだから、それをあんまり他人に知られたくなかったんだ」

「他人だなんて、あたしと粉雪君の仲じゃん」

「親しき仲にも礼儀あり」

「あたし、粉雪君に礼儀正しくしてもらったことないよ?」

「…………」

 言葉に詰まってしまう。…………そりゃ、心底では親しいとは思ってないからね。

「じゃあ、これから君は、あたしに親切にしてくれるってことかな? だったらまず手始めに、ぜひ君が昨日買ってきた本を見てみたいんだけど」

 礼儀と親切を取り違えてないか、こいつ?

「…………立ち読みしただけで、本は買ってないよ」

「うふふ、わかってないね〜。あたしは君の外出報告書もチェックしたのさ。だから、君が昨日買ってきた本のタイトルまで分かってるんだよ。確かSF小説と、心理学の入門書だったっけ? 読ませてよ」

「……だったら明日持ってくるよ」

「え〜? 粉雪君の部屋に入りたいのに」

「断固拒否する」

 僕は人差し指でばってんを作った。僕の憩いの場まで侵食されたらかなわん。

「んん? あたしに入られるとまずいの? まさか君の部屋には――」

「その発想から離れやがれっ」

 そんな馬鹿話をしてるうちに下駄箱にたどり着いたので、上履きから靴に履き替える。並んで靴を履き替えたすだれは、校舎を出てもまだ僕についてきた。

 玄関口の正面からまっすぐ伸びる砂利道を、影を並べて歩きながら、

「だってさあ、あたしまだ一回しか粉雪君の部屋に入ったことないんだよ? これは問題だよ」

 ……何の問題だ。

 そもそも、その一回があるから僕はもう二度とお前を部屋に入れないと誓ったんだ。朝の九時から夜の七時まで居座りやがって。休日を無駄にしたばかりか、紅茶とせんべいが一パックまるまる無くなってしまった。「夜七時以降は寮の建物内で過ごすこと」という門限がなかったら、どうなってたことか……。

「粉雪君てば、あたしの部屋に呼んだって来てくれないし。五月くらいに一回来たっきりでしょ」

 ……「来た」なんて言うと普通に聞こえるが、実際は拉致とも呼べるような状況だったじゃないか。強引に腕を引っぱられてったおかげで、手首にアザができてたんだぞ、あん時。

 僕はもはやトラウマになりかけてる強硬なすだれの握力の感触を思い出しつつ、右手首をさすりながら、

「……女子寮って入りづらいんだよ。人とすれ違うたびに変な目で見られるし」

「それはあたしが男子寮に入った時も同じだよ」

 ……お前は何とも感じないのか?

「人の目を気にしてちゃダメだよ。自分がやりたいと思ったことをやらなきゃ。そのための人生だよ」

 僕にきらめく眼差しをぶつけ、胸の前で拳を握るすだれ。……大層立派なセリフだが、多分こいつは自由と横暴の境目が分かってないな。

 と、そんなツッコミを脳内で入れているうちに、T字路に差し掛かった。目の前で砂利道が右と左に分かれている。ここを右に曲がると男子寮、左に曲がると女子寮である。何とも分かりやすい造りだ。

 その三つの道の交点で立ち止まったすだれは、

「う〜ん、六時か……。今から行ってもそんなに話せないしね。しょうがない。お宅訪問はまた今度にしようか」

 呟きながら、道の脇に建てられているモニュメントを見上げる。その視線の先では白い時計盤が夕焼けに照らされていて、確かに針は六と十二を刺していた。

「じゃあ、また明日ね、粉雪君。よい夜を」

 手を上空でぶんぶん振りながら、すだれは左の道を歩いていく。夕闇とあいまって、程なくしてその後ろ姿も見えなくなった。

 いつの間にか一人ぽつんと取り残され、急に空気が侘しくなったように感じる。無理も無い。さっきまで話してた相手が相手だ。

さっさと帰路につこうと足を踏み出したところで、僕はもう一度モニュメントを見上げた。

 道を形作る垣根の奥。まるで自分の存在を忘れてくれと訴えるように、レンガ造りの小高い塔がひっそりと立っている。僕の身長の二倍程度の高さ。そしてそのてっぺんには、音もなくただ針だけが動く時計が備わっていた。

 一体いつごろ造られたものなのか知らないが、外観は妙にきれいだった。風雨にさらされてるにも関わらず、傷も汚れもほとんど見当たらない。建てられたのはここ数年――もしかしたら一年も経ってないかもしれない。

 そんなピカピカなシンボルではあるが、しかし場所が場所だけに、その職務を全うしているのかが甚だ疑問だ。今まで一度たりとも、僕とすだれ以外にこの時計塔を見上げてる生徒を見たことがない。

 でも、僕にはそれが――その雰囲気が――なかなかに心地よかった。思えば僕だけは、毎日のようにこのモニュメントを見上げてる。喧騒から少し距離をとっているような風体。それくらいの存在意義の方が、僕には美しく見える。

「……そんなもんだよなあ」

 呟きながら、もう一度時計盤に目をやった。

 好意も悪意もなく、ただ淡々と動き続ける針。留年さえしなければ、僕はあと八百回くらいこの塔を見上げることになるのだろうか。その間、この時計は千六百回くらい回ることになるんだろう。

 高校の三年間。


 ――この学園は、場所だけでなく時間まで閉じられている、ということか。

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