第一章「チャット」―1
「でもさあ、『誤り探し』ほど心許ない問題もないと思わない?」
今日一日の学業を終え、風呂上り以上にすっきりした心持ちで自分の席で伸びをしていた僕に、いくらか舌足らずなくせに声量が大きいせいでやたら明瞭に聞こえる声が、後ろから投げかけられてきた。
腕を肩の上に上げたまま首だけ回すと、カチューシャで髪を後ろに流してるおかげで陰ることなく輝いてる丸眼鏡を携えた、この上なく見知った女子生徒の微笑。その目はレンズ越しに、完全に僕にロックオンされている。
僕は腕を下ろしつつ、
「…………何だって?」
「だからさあ、さっきの問題だよ」
笑顔を崩さないままスタスタと僕の方に寄ってきて、風邪っぴきで現在寮の部屋で布団にくるまってるであろう僕の隣の木内の席に腰掛けながら、そう答える彼女。肩にかかる髪を揺らし、言葉を続ける。
「先生が出題してたじゃない。ほら、『次のうち誤っているものを挙げなさい。A、四面楚歌 B、感難辛苦 C、四季折々 D、空前絶後』ってやつ」
「……答えはBで間違いなかったと思うけど?」
「いやいや、そうじゃあないよ。もっと根本的な部分。そもそも、『何が誤りか』ってことだよ。もちろん、辞書には『感難辛苦』なんて言葉は載ってないよ――これはこれで言い得て妙だとは思うけど――だけど、『辞書に載ってない』ってだけで、本当に『誤り』にしちゃっていいのかってことだよ」
嬉々と話してるのが傍から分かるくらい、はきはきした口調で語ってくる。その表情を見る限り、こいつは僕がこの話題に乗り気じゃないということにまったく感知していないようだ。僕の顔を真っ直ぐ見てるくせに、僕の心情を読み取ろうとする雰囲気は皆無である。
「そもそも、『誤り』っていうのは『正解』ありきのものだからね。『正解』の反対が『誤り』なんだよ。だから、何が『正解』なのか、その定義を教えてくれなきゃ話は始まらないとも思うんだけど。でもそんな説明をしてたら、その説明文を読むだけで授業時間が終わっちゃうもんね。だから常識に頼らざるを得ないんだろうけどさあ」
まるで会話が弾んでいるかのような口調。
僕は「何でこいつはこうなんだろう?」と、心うちで呟いた。
僕が不満に思っているのは――オタクと称される人間は一般的に知識欲が強くて、特定の分野で人並み以上の知識を蓄えてるもんであり、人間である以上自分の能力を他人に表現したいと思うのはある意味自然で、総じてオタクは聞いてもいないことを他人に語り聞かせる傾向があること――ではない。そんなのは元から分かりきってることだ。問題はその前の部分。なぜ、この女子――風宮すだれ――がオタクであるのか、というレベルの話だ。
「じゃあこの場合は、一体何が『誤り』なのか? 例えば辞書が間違ってる可能性もあるし、実はその四字熟語が作られた当時は『感難辛苦』の方が正しくて、それが誤って伝えられたって可能性もあるでしょ? 実の実は両方が正しい可能性もあるし、誤りも何も、正解すら存在しない可能性だってあるよ。なのに何でそんな検証もせずに、『誤り』がBだって言い切れちゃうんだろう?」
両腕を広げ、手の平を天井に向けるすだれ。体全体で僕に伝えようとしているようである。そのせいで僕が余計にげんなりしているとも知らずに。
そもそもこいつはいわゆるパソコンオタクであり(自室には自作パソコンが五台並べられている、豪勢なもんだ)、辞書オタクでも四字熟語オタクでもない。ただ単にこういう思考実験が好きなだけである。そこにこいつのオタク属性が発揮されてるおかげで、僕は割を食っているというわけだ。
「ミステリ小説にしたってそうだよ。幾人か限られたメンバーの内、探偵が、一人――あるいは数人――の犯人を追い詰めてくっていう図式がよく見られるけど、それだけで犯人を断定しちゃっていいのか、疑問に思わない? 例えば探偵以外がすべてグルで、アリバイも証言も全部嘘で塗り固められてる可能性だってあるわけでしょ? たった一人の探偵には、それを確かめる術はないんだから。つまりこの場合、犯人じゃなくて探偵が『誤り』なんだよ。事実を曲解してる唯一のロールなんだからね」
棒立ちしてるのにも疲れ、僕は椅子に腰を降ろす。……そろそろ、すだれが言ってる意味が分からなくなってきた。
「もちろんこれは、物語一般にだって言えることだよ。特に一人称視点で書かれてるもの。そこには色んな人物が登場して、彼ら彼女らとの会話を駆使してストーリーを進めてくわけだけど、『自分』以外のすべての登場人物が嘘しか言わなくて、『自分』が知らないうちに間違った方向へ誘導されてる可能性だってなきにしもあらずだよ。危険極まりないよねえ。『自分』にはどうしようもないんだから」
ああ誰かこいつを止めてくれ、と思って周囲を伺ったが、僕達の半径三メートル以内には誰一人いない。自然にそうなったのかもしれないが、みんなが故意に避けている可能性も否定できなかった。薄情なもんだ。前者なら神様仏様が、後者なら級友が、ね。
「さらにさらに、だよ。フィクションに限ったことじゃないよ。例えば今の粉雪君だって、あたしが言ってることが嘘なのか本当なのか、測りかねてるでしょ? あたしだって、君が言ってることが本当なのか実際には分かりゃあしないよ――もちろん、この半年間の友情と信頼に基づいて、君が言うことはすべて真実だと信じて聞いてはいるけど――だから嘘発見器なんてものが必要になったりするんだろうけどさあ、その機械を作った人が嘘つきでないとも言いきれないしね。だからあたしは君が嘘をつく可能性も理解してるんだよ、という結論を出したところで本題に入るんだけど――」
今までのは全部前置きだったのか、と決め球をホームランされたピッチャー並みに呆けつつも、僕は
「…………何でしょう?」
「粉雪君、昨日何してたの?」
……本題は信じられないくらい簡潔だった。
僕はすだれの顔をジト目で眺め、今までの五分間を返せと思いながら、
「…………昨日? 昨日は、日曜日を満喫してたけど?」
「うふふ、違うよ。あたしが聞きたいのはそこじゃあないよ。分かってて言ってるでしょ? ふふ。そういうワンクッションも嫌いじゃないけどさあ」
くすくす笑いながら、木内の机に右ひじをつくすだれ。あごを右手で支えながら、
「じゃあ、もっと具体的に聞こうか? 粉雪君、君は昨日の昼過ぎ、どこへ行ってたの?」
すだれは目を細め、僕の胸の内を見透かすような眼差しと声音で言う。
――やっぱり、それを聞きたかったわけか。
とんでもないところから前置きが始まったもんだから測りかねていたが、後半は頭の片隅で予想できていた。今日、今、このタイミングで、すだれが僕に話しかけてきた目的、その理由。そんなことだろうと思っていた。
僕は肩をすくめながら、
「……別にどこでもいいだろ。うちは土日しか外出できないんだ。そりゃあ、行きたい場所はいくらでもあるさ」
「うふふ。確かに校則のせいで、我が校の生徒は平日に学校の塀の外に出ることは原則として認められてないね。だから、どこか行きたい場所へ行くには土日を選ばなきゃならないのは当然だけどさあ。そう簡単な話じゃないでしょ? たとえ土日でも、外に出るには面倒くさい申請書を書かなきゃならないし、しかも外出中はずっと監視されなきゃいけないんだから。そのせいで、クモの子を散らすように週末に生徒が学校から散らばってくなんて現象は起こらないわけだけど。だからこそ、そんな苦労をしてまで君が行きたかった場所はどこなのか、すごく興味あるんだよ」
言いながら、すだれは僕の顔から視線を外さない。僕はさっきから渋面を作り続けてるってのに、やたら興味深そうな表情を僕に向けている。僕の顔の何がそんなにおもしろいんだろうか?
僕は視線を床に落としつつ、
「…………本屋とゲーセンだよ」
椅子から立ち上がりながら、投げやりにそう答えた。まあ、いわゆる根負けってやつだろう。変に隠して、気力を使い果たす方が損だ。
僕は机の脇に立てかけてあった空っぽの鞄を持ち上げ、
「聞きたいのはそれだけ? じゃあ、僕は部屋に戻るよ」
「あ、待ってよ。一緒に行こうよ」
思いついたように言い、すだれは慌てて自分の席に駆けていった。多分、鞄を取りに行ったんだろう。だが、僕はその背中を一瞥して構わず先に教室を出た。これ以上、こいつの与太話に相づちを打ったりしたくないし。…………まあ、廊下で追いつかれるのは目に見えてるけど。
――結局僕らは、囲いの中で鬼ごっこしてるようなもんなんだ。




