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第六章「デリート」―1

 夢と欲望の境界ってのは、どの辺りなんだろうか?


 例えば将来の夢を聞かれたときに、「プロ野球選手」と言えば夢らしく聞こえるが、「プロ野球選手になって何億円もの契約金を勝ち取る」と言えば、欲望の域に入っているように感じる。逆に「大金が欲しい」と言えばそれは欲望以外の何者でもないが、「大金を稼いで会社を興す」と言えば、それは一種の夢であると言えなくもない。また、例え目的をただの金稼ぎに据えていたとしても、それがとてもとても恵まれていない環境で育った人の言うことなら、やはり「夢」と呼んでも差し支えないのではないだろうか。

 結局、これは目的云々、手段云々とは関係ない話なのかもしれない。「欲望」と書いて「ゆめ」と呼ぶような輩だって世の中にはいるもんだ。望みを叶えるという部分では、違いはないのだろう。

 しかし、そんな理屈ばった定義から離れて、単なる字面のイメージだけで考えれば、その違いは一目瞭然なように感じる。

 一般的に言って、「夢」は純粋でロマンみたいなものを含んだ響きを持っていて、「欲望」はそこはかとなく世俗的な雰囲気をかもし出している。つまり、ロマンがあれば「夢」、なければ「欲望」というところだろうか。

 ……だったら、これは「夢」と呼んでいい願望だろう。

 誰だって一度くらいはあるはずだ。自分が好きな食べ物を目の前にして、「これがもっとたくさんあれば」と思ったことが。そういう「夢」を見たことが。

 そういう「夢」は、叶わないからこそ「夢」のままで終わるのが通常であり、それを叶えるには、たとえば魔法や超能力みたいな非科学的なものを望まなければならない。そしてそんなものは日常的な世界には存在せず、だからこそ人はそれを諦めていくわけだが――

 ――しかし、僕にはそれがある。

「夢」があり、手段があるのならば、それを叶えないのは愚の骨頂ではないだろうか? 手を伸ばさないのは、一歩を踏み出さないのは、愚かなことではないだろうか?

 だから、僕は今ここで、これを試そうとしているのである。

 ベンチに座る僕の膝元、そこにはシュークリームが置いてある。今さっき購買で買ってきたものだ。昼食で食べたカレーも腹の中で消化され尽くして、そろそろ空腹感が湧き上がってきたこの時間帯。気を抜けばそのまま手を伸ばしてしまいそうなのを我慢しつつ、僕はそのシュークリームを見つめている。

 そして僕は覚悟を決め、学生証を取り出した。

 小麦色の生地の上でカードを振りながら、僕は巨大化したシュークリームを細部まで真剣にイメージしつつ、

「巨大化せよ」

 と呟いた。すると、膝元のシュークリームはむくむくとその体積を大きくしていき、さっきの倍くらいの大きさに達した、ところで――


 ――ぺちゃん…………プスー……


 潰れてしぼんだ。

「…………ああああああー……」

 手にとって見ると、それはもうぺらぺらの小麦粉の塊でしかなかった。量は増えたように見えるが、ふんわりなんて形容はとてもできない。中からカスタードクリームが漏れている。

 仕方なく僕は、それを口に入れてみた。

 ……ぱさぱさだ。クリームが甘いだけ。さっきまで期待していた食感とは、程遠いにも限度がある。

「やっぱり、これも駄目だったか……」

 僕は過去に二度、プリンとハンバーグで同じように試したことがあるが、両方とも失敗だった。プリンは水分が吹っ飛び、ハンバーグはボロボロ崩れてしまった。今回僕がこれを校舎の脇のベンチの上で行ったのも、前回ハンバーグが床に飛び散って掃除が大変だったからである。

 巨大化の『魔術』は、成功するものもあるし、しないものもある。

 その原理については、物理の教師がジョウキアツやらナイブアツリョクやらセンダンオウリョクやらという言葉を使って説明してくれたことがあるが、僕にはとうてい理解できなかった。とにかく、何があるか分からないから、そんなことに巨大化の『魔術』は使うなと言われてはいるのである。

「……はあ」

 小麦粉の塊を噛みながら、この実験には多大な犠牲を払ってしまったとしみじみ後悔していると、

「……何やってるの?」

 女子の声が聞こえてきて、振り返ると、そこに立っていたのは風宮すだれだった。

「何食べてるの、それ? ん? そこに落ちてる袋は、シュークリームのだよね? それにしては大きいような。…………まさか粉雪君、『魔術』でシュークリームを巨大化させたりしたとか?」

 ……まったく、勘が鋭い。

 僕はシュークリームを飲み込みながら、

「…………そうだよ」

「あははは。まったくもう、意地汚いんだから」

 ……さっきまでの前置きを、一言で否定しやがった。

「教室行ったら粉雪君がいなくてどこに行ったんだろうと思ってたら、そんなことしてたの? うふふ、可愛いなあ」

「……お前こそ、授業が終わった後すぐいなくなったじゃないか。机に鞄置いたまんまで。どこに行ってたんだ?」

「んん? あたしの行ったところが気になるの? いよいよあたしに興味が出てきたかな?」

 からかうような顔で「ん? ん?」と僕の顔を覗き込んでくるすだれ。

 ……そんなんじゃないって。

 僕が顔の横で掌をぶんぶん振っていると、

「ま、それは秘密だね。粉雪君だってあたしにいつも見てるウェブサイト教えてくんないし、これでおあいこだよ。…………もし君が教えてくれるんなら、あたしも教えるけど?」

「やだよ」

 僕は即答しつつ、ベンチから立ち上がった。そして自分の寮へと足を向ける。

 いつもの砂利道を、いつものようにすだれと並んで歩きながら、

「……あ、そうだ、こないだ粉雪君に借りた本、明日返すよ。そろそろ読み終わりそうだから」

「……ああ、あのSF小説ね」

「うん。なかなかおもしろかったよ。オチが斬新というか、意地が悪いというか。その辺、粉雪君らしいね」

「……僕らしいって、何だよ? 僕が意地悪だって言いたいのか?」

 僕は疲れたようにツッコんだ。

 まあしかし、すだれが意図してることは分からないでもない。一筋縄ではいかないというか、ひねくれているというか。……とどのつまり、へそが曲がってるってことだろう。それは、すだれにだって言えることだと思うが。

「あたし、粉雪君が選ぶ本ってけっこう好きなんだよ? 王道的なものが嫌いというか、王道を敵視してるようなのが多いよね。邪道は邪道なんだけど、外れがないって言うか、当たりしかないって言うか、外れと当たりの境目が分からなくなる感じだよ」

「どんな感じだよ」

 と言ったところで、いつものT字路に差し掛かった。

「じゃあ、また明日ね。何か新しい本買ったらまた貸してよね。じゃあね」

 今まで何十回見たか知れない手を振りながら去っていくすだれの姿を、僕は何ともなしに眺めていた。

 そしてこれも毎日の日課のように、垣根の奥の方へ視線をやったとき、


「……ん?」


 最初、その違和感が何なのか、気付けなかった。

 視線が空ぶったとでも言うのだろうか? 自分が何でそっちの方向を見上げたのか、分からなくなった。そして昨日の同じ時間の自分の行動を思い出し、そのときに見た同じ場所、同じ方角の景色を思い浮かべながら、今見ている情景と何が違うのか一つ一つ思い返していく。

 そして、ようやく一つのものに行き当たった。

 昨日あって、今はないもの。


 ――時計塔が、消えていた。

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