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伊佐木静流 転

 改めて一層強い決意を固めた静流はその晩、成績証明と奨学金の申請書を持って、伊集院の本邸を訪れた。

 昨夜海外から戻ってきたばかりのこの屋敷の主は、食後の時間を喫煙室で過ごしていたようだが、急な静流の面会要請にすぐに応じてくれた。

 未成年に葉巻の煙はよくないだろう、と隣の遊戯室に案内される。

 そんな気遣いのできる細やかさがあるくせに、どうして子育て――特に末っ子の子育てに関してはここまで甘やかし放題なのかと不思議に思う。


 とはいえ、この御仁は下手をしたら数ヶ月単位で日本からいなくなることもあるのだ。今のうちに必要な書類にハンコを捺してもらわなければ、あとで困ったことになりかねない。

 静流がかねてから計画していたことを告げると、伊集院はやはり驚いたように目を丸くした。


「京都大学か。なぜだね? これだけの成績ならば、東大だって狙えるだろう」


 予想された問いに、前もって調べておいた有名な教授の名を挙げ、彼に教えを請いたいのだと言えば、ひどく困った顔を向けられる。


「そうか……。しかし、あの子がなんと言うか」


 やっぱり、彼はばか親だった。


「圭司さんは、もう簡単に誘拐されてしまうような小さな子どもではありませんよ。いつまでも私のようなお目付役がそばにいても、息苦しいだけでしょう。大学の四年間くらいは、自由に過ごさせて差し上げてはいかがですか?」


 にこりと笑って言うと、少し考える顔になる。

 このところ益々夜遊びの増えている彼に、今更自分の護衛が必要なわけもない。

 確かに小さな子どもの頃なら、彼の盾になるのは同じ子どもでなければ難しかったかもしれない。だが、夜の街で彼を守るなら本職のガードの方がよほど役に立つというものだ。


(……マズイ、あのおちびさんの言っていた、圭司が『夜の帝王』とか……。駄目だ、がんばれ自分。ここで吹き出すわけにはいかないんだ)


 ぐっと拳を握りしめ、うっかり思い出してしまった笑いのツボから込み上げるものをどうにかこらえる。鉄壁のポーカーフェイスとなってくれる笑顔を身につけておいて、本当によかった。

 しかし、静流が深呼吸で笑いの発作を完全に抑え、さてもう一押しするかと口を開きかけたときだ。

 今日は珍しく夜遊びに出ていなかったのか、開け放たれたままだった遊戯室の扉から圭司が駆けこんでくる。


「静流! おまえ、なんで、京都とか……っ」


 なぜ圭司がここに、と驚いたけれど、遊戯室の入り口に、彼の相談役にして静流の養育係とも言える有能すぎる執事の姿を認めて納得する。


(ほんっとーに、この家の人間は圭司に甘いよな……。というか、なんでコイツはここまでおれに執着しているんだ)


 どうやら、いずれ今回の件を知った圭司が拗ねてしまうことを正確に予測し、ソツのない執事は前もってそれを回避しようとしたらしい。

 まったく仕事の早いことだと思うが、その有能さはもっと別のところで発揮するべきではないだろうか。

 あきれていると、ずかずかと近づいてきた圭司が、ぐっと静流の二の腕を掴んだ。


「……え?」


 その途端、小さく声を零した圭司が固まった。痛いだろうがこの野郎、と思いながら見上げた先で、彼の表情は驚愕に凍りついている。

 今度はまた一体なんだと思ったとき――


(っ!?)


 そのとき、静流はゆったりとした男物のシャツ一枚にスラックスという格好だった。もちろん、胸のサラシはきちんと巻いていたけれど、この屋敷に入るときには武器装備の持ちこみは一切禁じられている。

 だから――こうして圭司の手が、力任せに静流のシャツの釦を引きちぎる勢いで開いてしまえば、静流の性別など一目瞭然になってしまう。


「しず……る……?」


 愕然とした様子でつぶやく圭司に、静流は小さく息を吐いた。


「自分は、一度も男だと言った覚えはありませんが」


 女だと言った覚えもないが、それはそれだ。沈黙は金。


(それにしても、腕を掴んだだけで性別判断ができるとはさすが『夜の帝王』。拍手でもしてやった方がいいだろうか。今ならオプションで下手な口笛もつけさせていただきますが。ひゅーひゅー)


 ヤケになった静流が脳内で口笛を吹いていると、がたっと奇妙な音が聞こえた。

 見れば伊集院が、ビリヤードの台に載せた手を握って青ざめた顔をしている。

 どうしたのだろう。主治医を呼んだ方がいいだろうか。

 伊集院はぐっと唇を噛むと、扉の方を睨みつけた。


「……っ杉崎!」


 固い声で呼ばれた執事が、一礼して遊戯室に入ってくる。


「はい。どうなさいましたか、旦那さま」


 いつも通りの落ち着いた口調で応じた彼に、伊集院が珍しく声を荒げた。


「おまえ……っ、おまえは知っていたのか?」

「……何をでございますか?」

(あ、珍しい)


 静流は今まで、この護衛術から子どもの世話、果てはおもてなし料理に至るまでなんでもござれという、やたらとハイスペックな執事が困っているところを一度も見たことがなかった。


「決まっているだろう! 静流くんが女の子だと、おまえは知っていたのか!?」


 しかし伊集院が続けた言葉に、今度は彼が目を丸くするという、静流的には超ド級にレアな、うっかり「あぁ……ッ、写真に撮って使用人棟のみんなに見せてあげたかった!」と思ってしまう光景が現れる。

 もしかしたら、今日は干し柿が降るのかもしれない。

 見た目はダンディでナイスミドルな執事の杉崎だが、味覚は純正ニッポンのおじさんなのである。

 杉崎は本当に珍しくも頭痛をこらえるような顔をしたが、即座にいつも通りの落ち着いた表情になって口を開いた。さすがだ。


「もちろん、存じておりましたが……旦那さま。こう申し上げてはなんですが、普通は見ればわかるでしょう」

(……それはどうでしょう、杉崎さん)


 自分で言うのもなんだが、今日美春に指摘されるまで、静流は今まで一度も性別を疑われたことがないのだ。圭司とはじめて会ったときからずっと髪も短いままだし、幼い頃の静流はいわゆる『ボクっ娘』だった。

 考えてみれば、今まで彼らが静流に見せていた態度は、男性の使用人に対するのと同じものだったように思う。

 伊集院が静流の後見人になってくれたとき、戸籍だなんだという書類も集められたはずだが――そんなものもきっとすべて杉崎が処理していたのだろう。これも、オカネモチの弊害というやつだろうか。


 もし彼らが最初から静流のことを男の子だと思いこんでいたのだとしたら、確かに今までそれを是正する機会はなかったかもしれない。

 何しろ、静流の養育を担当していたのは主に礼儀作法が杉崎、護衛術は元SPのゴリマッチョ、そして近接戦闘は南米でガチの内乱を経験してきたナゾのハゲマッチョが担当していたのだ。

 静流がこうして伊集院の本邸に入るのは、年に数度あるかないかだ。


 それにしたって随分と間の抜けた話だとは思うが、と嘆息していると、再び痛いほどの力で腕を掴まれた。

 圭司が、低く声を吐き出す。


「……行くな」

「は?」


 とうの昔に自分よりも遙かに大きくなった手が、長い指が、腕に食いこむ。痛い。

 異様に光る圭司の視線が、静流を射貫く。


「京都になんて、行くな。そんなのは、許さない」

「許さない、と言われましても――」


 咄嗟に反駁しかけた静流に、圭司は大きな声でわめいた。

 はじめて出会ったときとまるで変わらない、わがままな子どものような顔をして。


「黙れよ! おまえはおれのもんなんだから、黙ってうちにいればいいんだよ!」


 叩きつけるようにして告げられた言葉を聞いて、視界の端で杉崎が驚いたように目を瞠る。

 ああそうか、と思う。

 やはり自分は圭司にとって、思い通りに動く愛玩動物程度のものでしかないのだ。

 だから彼は、静流の意思も気持ちも関係なく、こんなふうに自分の都合ばかりを押しつけることができるのだろう。


 ――そんなことは、わかっている。

 ずっと……今までずっと、そうでなかったことなんて一度もないのだから。

 けれど。


「……圭司」


 口にしてから、自分で思った以上の冷たい響きに、少し驚く。


「離せ」


 圭司の表情が、わずかな困惑に染まる。

 まるで、自分が何を聞いたのかわからないような顔をして。


「おれは、おまえのものなんかじゃ、ない」


 そう、言葉にした瞬間。

 自分の中で、何かが壊れる音が聞こえた気がした。

 ひび割れて、崩れ落ちて、その中にずっと閉じこめられていたものが溢れ出す。


「静流……?」


 すぅ、と目を細めて、笑う。

 彼の前で、はじめて。

 つくりものではない、本物の冷笑を。


「なぁ。おれは、ちゃんとしてただろう? 七年間ずっと、おまえの言うことはなんでも叶えたし、おまえの望む通りにほかに友達だって作らないで、いつだっておまえの言う通りにしてただろう? おまえの役に立つようにずっとバカみたいに勉強だってしてきたし、どれだけ殴られたって蹴られたって、おまえを守るための訓練から逃げたりしなかったろう? あの日、おまえが親にねだっておれをここで飼いはじめたときから、ちゃんと、ずっと、その対価に見合うだけのことはしてきただろう?」


 言葉を紡ぐたび、鼓動が走る。

 なのに頭の芯はひどく冴えていて、なんだか大声で笑ってやりたい気分だった。

 ――痛い。

 心臓が、本当に、痛い。

 胃の底が、焼けつく。

 この相手に逆らうなと命じる自分と、それに抗う自分がぶつかり合って生み出す熱が、眩暈がするほど気持ち悪い。

 その熱を吐き出すように、静流は言葉を吐き出した。


「……なぁ? おれにだって感情くらいあるんだよ。考える頭くらいついてんだよ。いつまでもおまえのペットなんてやってらんねえんだよ、もう勘弁してくれよ、いい加減自由にしてくれよ頼むから!」


 キィン、と耳鳴りがする。

 視界が歪んで、眩暈がした。

 腕を拘束していた手が緩むのと同時に、萎えた膝が床に落ちる。


「……っは……っ」


 毛足の長い絨毯に、ぼたぼたと大粒の雫が絶え間なく落ちていって、他人事のように自分は泣いているのか、と思う。

 上手く息ができなくて、震える右手で胸の辺りを掴もうとしたとき、誰かの腕にぐいと頭を抱えこまれた。目元を覆う大きな手に視界を遮られる。


「……っ」

「――落ち着け」


 咄嗟に体を強張らせた静流の耳に、低く落ち着いた声が届く。

 耳慣れない、けれど知っている――優しい、響きの。


「大丈夫だ、静流」

「……っふ……っぅ」

「大丈夫……怖くない。怖くないんだ。――静流。私がおまえに、嘘をついたことがあったか?」


 これは、杉崎の声だろうか。

 彼は、こんなにも柔らかな声を出せるひとだったのか。


「怖くない。そう……それでいい」


 宥めるように何度も優しく背中を叩く手の温もりや、額を押しつけられたところから伝わる鼓動を感じているうちに、少しずつ呼吸が楽になっていく。

 幼い頃からずっと厳しく自分を導いてきた声が、ゆっくりと繰り返し、大丈夫だと言うのを聞いているうちに、少しずつ体の震えが治まってくる。


「……そのまま、目を閉じていなさい。おまえはもう、何も心配することはない」


 遠くで、杉崎が何か言っている。

 その意味もわからないまま、静流はこくんと幼子のようにうなずいた。

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