伊佐木静流 承
「……それで?」
その日の昼休み、なぜだかひどく不機嫌な顔をした圭司が静流の教室へやってきた。
彼は中等部に上がってから――というより、バスケ部に入ってからは、そちらの仲間たちと昼食を摂るようになっていた。学園内でこうして静流のところにやって来るのは、随分久し振りだ。
相変わらず、そこにいるだけで女子生徒の視線を無駄に集めまくる彼が現れると、彼女たちから向けられる視線の密度が倍増してしまう。
学園にいる間くらいはゆっくり静かに過ごしたいというのに、正直言って煩わしい。
静流は常日頃から男の格好をしていても、恋愛対象は男性なのである。……たぶん。
その辺は、今まで恋愛なるものをしたことがないのでよくわからない。
だが、今までどんな相手にも『きゅんきゅん』だの『どきどき』だのしたことはないから、もしかしたら自分にはそういった機能が搭載されていないのかもしれない。
そんなことを考えながら、静流は視線だけで何がですか、と問い返す。圭司が一層顔をしかめる。
「今朝。なんで、あんな真似をした?」
(……おぉ?)
どうやら、今朝あの場から彼だけを逃がしたことを非難しているらしい。静流は、思わず笑いそうになった。
圭司に対する営利目的の誘拐をはじめとする多種多様な襲撃があったのは、ほとんどが初等部の頃だ。
体の弱いオカネモチのお坊ちゃんのくせに、しょっちゅう静流だけを連れて屋敷を抜け出していたのだから、つくづく脳天気なイキモノだと思う。
そうして危ない目に遭った際には、静流は怯える彼の頭を抱きしめて「大丈夫だよ。大丈夫。目を瞑って耳を塞いでいたら、すぐに誰かが助けに来てくれるからね」と言い聞かせていた。
彼はなぜか昔から、静流の言うことに対しては実に素直な子どもだったのだ。
そのため、「わかった!」と言って本当に目を瞑って耳を塞ぎながら小さくなっていてくれたし、彼に「もう大丈夫だよ」と言う頃には、静流の呼んだ処理班が幾人も到着していた。
彼女が自ら襲撃者の相手をするようになってからは、圭司がいざというとき静流を頼る素振りを見せたりしないよう、戦う姿を彼に見られてはならないと命じられていた。
だから、圭司はいまだに、襲撃者の多くに静流が対処していたことを知らないのだ。
とはいえ、まさか本当にこの年になるまで気づかないとは、彼の素直さというのは相当のものがあると思う。
そういった襲撃も、中等部に上がる頃にはめっきり少なくなっている。
彼の体がその頃からやたらとすくすく立派に育っていったものだから、誘拐するのにもリスクが高すぎると判断されるようになったのかもしれない。
静流の方は、その後もずっと危機管理訓練を受け続けていたから、子どもの頃の事件を忘れることもなかった。
けれどもう、あれから数年という月日が経っている。
圭司の中で、あれらの事件が遠い過去の記憶の一ページとして処理されていても、仕方のないことなのだろう。
(こっちも久し振りすぎて……というか、あのちっこいののインパクトがすごすぎて、圭司のフォローを忘れていたな。迂闊)
さて、何やらお怒り中の彼をどうやってごまかしたものかと思っていたとき――
「姐御――っ!!」
――教室に響き渡った、たったの数時間で忘れるには少々破壊力がすさまじすぎるその声に、静流は机に突っ伏した。
どうにか顔を上げると、とりあえず今朝は「……見なかった。自分は何も見なかった」という自己暗示で辛うじてスルーしてきた少女が、小さな顔をきらきらと輝かせてすっ飛んでくる。怖い。
今年入学したばかりの新入生が三年生の教室に堂々と突撃してくるとは、なかなかに図太い神経――をしていなければ、今朝あんな騒ぎをしでかしてくれるはずもなかったか。
静流は頭痛を覚えながら、まるでぶんぶんと尻尾を振りまくる仔犬のような勢いで寄ってきた少女を、半目になって見つめる。
「きみは……」
「ハイッ、今年入学した愛川美春っす! 姐御!」
きちんと右手を挙げて、随分といい子のお返事である。
静流はこの日、いい子のお返事ができるからといって、必ずしもその子どもが賢いというわけではないのだな、というどうでもいい真実をひとつ知った。
だが、その頭の残念な少女――美春はつぶらな瞳で何やらじーっと静流の顔を見つめると、にへらっとその顔を緩ませる。
そして、とんでもないことをつるっと口にした。
「あー……やっぱ美人っすねー。や、その男装もおれ的にはかなーりどストライクなんすけど! やっぱ可愛い女の子は、可愛いカッコをすべきだと思うんすよ!」
ぐっと握り拳まで作って主張した美春の言葉に、それまでざわついていた教室がしんと静まり返る。
(あ。圭司が固まってる)
目の端に映る彼の姿にそんなことをのんびりと思う自分は、やはり少なからず動揺しているのかもしれない。
美春は、にっこにっこと笑いながら更に続けた。
「やーおれ、こんなガタイじゃないすかー? それでっすね、実はちょびっとでいいから姐御に護身術のイロハを――」
「……っ!」
咄嗟に、机を手のひらで叩く。
大きな音に驚いた顔をした美春を、静流は鋭く睨みつけた。
――なぜだ。
コイツは、なぜ自分のことを知っている。
静流は殊更ゆっくりと口を開いた。
「……何を、勘違いしているのかは知らないが。おれには、女子の制服を着るシュミはない」
低く冷ややかな声で言うと、美春の目が丸くなる。
「へ……? いや、女の子が女子の制服を着るのがなんでシュミ……って、うええぇえええ!? うわ、ちょ、姐御ってガチで男で通してたんでしたっけ!? スイマセン、スイマセン、スイマセンー!! うっ」
途端にコメツキバッタになって、再びの土下座を披露しようとしたらしい美春は、静流の机に思いきり頭をぶつけた。そのままべちょっと床に座りこみ、うんうんと唸って額を押さえながら涙目になっている。
静流は、思いきり脱力した。
「……なんなんだ、この騒がしいのは」
同じく毒気を抜かれたらしい圭司が、ぼそっとつぶやく。
へ、と間の抜けた声を零してそちらを見上げた美春が、途端にざぁっと音を立てるような勢いで青ざめた。
「うっぎゃああああああ!? 寄るなあっち行け、この来る者拒まずの女ったらしで『夜の帝王』なんていう恥ずかしい称号持ちの遊び人ヤローっっ!!」
圭司が再びお地蔵さんになった。静流は、美春の肺活量に感心した。
美春は今にも泣きそうな顔になりながら、静流を見上げてくる。
「姐御! ダメっすよこんな男! 落ち着いてー、そう、冷静になりましょう! 姐御くらい美人さんだったら、ほかにもっといくらでもイイ男を捕まえられますから! ね!」
静流はため息をついた。
「……とりあえず、いい加減にその愉快な勘違いと呼び名はやめてもらえないかな」
「あぁッ、スイマセン、スイマセン、スイマセンー!!」
さすがに、これ以上教室でわけのわからない騒ぎを継続されたくない。
静流は圭司がお地蔵さんになっているのをいいことに、美春を伴ってそそくさと談話室に移動した。
そして個室になっている談話室の扉を閉めると、幸せそうににへにへと笑っている美春の襟元を掴み、ぐっと壁に抑えこむ。
「……愛川美春。なぜ、おれのことを知っている?」
さすがに針を眼球に突きつけるようなことはしなかったが、一応それなりに脅しを込めて言ったつもりだった。
なのに美春はきょとんと瞬くと、再びはい! といい子のお返事をする。
「姉ちゃんから、いろいろ聞きました!」
……再びちょっぴり脱力しかけたが、静流はがんばった。
「おまえの姉は、何者だ」
美春が、少し考える顔になる。
「何者、ですかー。うーん……えと、新宿二丁目のバーで働いててですねー」
「新宿……?」
ちょっぴり偏った環境で育っていた静流は、新宿二丁目がどのような街であるのかを知らなかった。
(新宿のバー……情報屋か?)
ただの雇われフロア担当の女の子(人気ナンバーワンの高給取り)である。
「失恋して酔っ払うと、もう頼んでもないのにいろいろ腐った情報を教えてくれたりー」
ここで美春が言っているのは、もちろん腐女子的な情報のことである。
だが、そういった世界のことをよく知らない静流は、そのままの意味で受け取った。
(くだらない理由で酔っ払って、子どもとはいえ身内に情報を流すとは……。情報屋としてはかなり質が悪いな。放っておいたら厄介なことになるか)
若干危険な方向に思考が進みはじめた静流だったが、美春はそこで小さくため息をついた。
「……でも、もう会えないんで。今から思えば、もっといろいろ愚痴でもなんでも聞いてやっとけばよかったかなー」
急にしんみりとした口調でつぶやく美春に、静流はほんの少し手の力を緩める。
「死んだのか?」
「あー……ハイ。ま、アッチの世界で、カレシと幸せにやってると思うんで」
にへっと笑う美春から、静流は手を離した。
どうやら、嘘はついていないようだ。
笑いながら嘘をつくには、この少女の瞳は素直すぎる。
「おまえは、圭司に関してほかに何を知っている?」
美春は首を傾げて、むぅと眉を寄せた。
「えっとー……。オカネモチの、甘やかされたバカ坊ちゃん?」
「そうか」
美春の持っている情報は実に正しいが、そこまで詳細なものではないようだ。特に裏もないようだし、放っておいても問題あるまい。
ひとつ息を吐いて、美春を見下ろす。
「護身術、と言ったな」
「はい!」
期待に充ち満ちた顔をする美春のちんまりとした、実に少女らしい体をざっと眺めた静流はうなずいた。
「問答無用で、相手の股間を蹴り上げろ」
こんなぷにぷにと頼りない手指をして、壁に投げつけたらぽよんと弾んで返ってきそうな少女には、おそらくそれが最も有効な手段だ。
そう言った途端、美春がなぜかきゅっと内股になって青ざめる。
静流は首を傾げた。
「どうした?」
「イ……イエ。ナンデモアリマセン」
急におとなしくなった美春は、肩を落としてとぼとぼと一年の教室棟へ戻っていった。
アレは一体なんだったんだ、と首を捻りながら自分の教室へ戻ると、ようやくお地蔵さんから人類に復活したらしい圭司が、先ほどの美春と同じような勢いですっ飛んでくる。
何事か、と目を瞠っていると、圭司はやけにまじまじと静流の顔を見つめてきた。
「なんです? 何か――」
ぽふ、と静流の胸――正確にはプロテクターの上に、圭司の手が載る。そのままさわさわと撫で回されて、さすがに顔を強張らせた静流は、押し殺した声で口を開く。
「……圭司さん。一体、何をされているんですか」
「……いや。最近あの一年のチビガキが、うちの連中の妙な情報をダダ漏らしているっつーから。おまえがマジで女だったらどうしようかと思って」
真顔でそんなことを言った圭司に、静流は思う。
やっぱりコイツは、あのおかしな一年生の言う以上に、バカなお坊ちゃんなのだ、と。
周囲の視線が、痛い。
(……うん。がんばって勉強しよう)
京都の街が、きっと自分を待っている。