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伊佐木静流 起

 不幸自慢が、虚しいばかりのものだなんてわかっている。

 だが、「自分って、結構不幸だよな」と伊佐木静流がときどきうんざりとため息をつきたくなってしまうのは、彼女がなんというかこう、不幸のバーゲンセールと言っても過言ではない経歴の持ち主であるからだ。


 静流を産んだ女性は、かつて売れない女優だった。

 若い頃に周囲の反対を押し切って芸能界へ飛びこんだものの、ちょっとばかりほかより可愛らしい見た目だけで渡っていけるほど、そこは甘い世界ではなかったようだ。

『若くて可愛い女の子』というだけで、ドラマの端役を何度かこなしたことはあったらしい。

 しかしいつの頃からか連絡が取れなくなった彼女は、あるときふらりと誰の子どもとも知れない赤ん坊を抱えて帰ってくると、新しい男がいやがるから育ててくれと言い置いて出ていってしまったのだという。


 当然ながら激怒した祖父母は、静流の母を勘当。

 それでもはじめての孫は可愛いと思ってくれたのか、時折母親の愚痴を聞かされることこそあったものの、彼らは静流が小学五年生になるまできちんと育て上げてくれた。

 少しばかり昔気質なところはあったけれど、祖父も祖母も確かに静流を可愛がってくれていたと思う。


 しかしある日、祖父の運転する車に乗って買い物に行く途中、居眠り運転の大型トラックが引き起こした玉突き事故に巻きこまれ、祖父母は即死。

 静流は一命こそとりとめたものの、心と体に大きな傷を負ってしまった。

 ほかに身よりのなかった彼女は、本来ならばどこかの施設に入れられていたのだろう。


 だがそんな彼女を引き取ったのは、事故後に収容されていた病院で知り合った子どもの家だった。

 同じ小児病棟で知り合ったその子どもは、そのとき喘息の治療のために入院していたらしい。

 一体何が気に入ったものやら、彼は事故の後遺症でぼんやりとしていた静流に始終まとわりついてきた。

 飽きもせずに毎日毎日、遊ぼうだのなんだのと鬱陶しく寄ってきた。


 うざい寄るなあっちいけ、と何度も追い払おうとしたのに、彼はそのうちやたらと高そうな菓子まで持ってくるようになった。

 ……あとから思えば、あれがエサに釣られた飼い犬人生の第一歩だったのだろうか。

 やがて車椅子がなくても出歩けるようになった頃には、静流はその子どもが自分の病室にやってくるのが嬉しいと思うようになっていた。

 餌付けされたのはこちらの方だったけれど、まるで人懐こい仔犬がぶんぶんと尻尾を振って駆け寄ってくるような、そんな無邪気な笑顔を向けられるのにほっとした。


 時折病室にやってくる、『静流の今後』について優しげな笑顔を浮かべながら語る人たちの話を聞いて、静流は祖父母がもうこの世にはいないことも、退院したら自分と同じように家族を亡くした子どもたちのいる施設に入ることもわかっていた。

 周囲の人々はとても優しくしてくれたけれど、傷ついた子どもの鋭敏な心は、彼らが仕事で笑顔を作っていることも、静流を『可哀想な子』と見ていることも感じ取っていたのだ。

 だから――自分にまとわりついてくる子どもが見せる、単純な好意だけを浮かべた笑顔が嬉しかったのかもしれない。


 しばらくして、大人たちから聞かされていた退院を数日後に控えたある日のことだ。

 それまで会ったことのない、やたらと折り目正しい口調の男性がやってきて、静流がこれから暮らす場所が変わることになったと告げた。

 驚いて、どうしてですか、と問い返す。

 まだ体のあちこちに包帯を巻かれていた彼女からわずかに視線を逸らした彼は、静流を引き取りたいと申し出てくれた夫婦がいるのだと言った。

 とても裕福な家だから今後のことを心配することはないと、退院するときに改めて迎えにくるからと言う彼に、思わず「うまい話には裏があるって知ってますか」と口にしてしまった自分は、かなり可愛げのない子どもだったと思う。


 だが、病院のベッドでひとり過ごしながら、祖父母を亡くしたことを否応なしに受け入れさせられていた静流は、すでに自分が頼るべき存在が失われてしまったことを理解していた。その痛みを凍りつかせることでどうにか心を保っていた彼女は、周囲のことも、子どもらしさを失った冷静な目で淡々と見ていた。

 なのに突然『オカネモチのご夫婦が引き取ってくれることになったからねー』などと言われても、そんなどこのおとぎ話だッ、とツッコみたくなるような都合のいい話があるもんかい、といっそ笑いたくなるくらいだったのだ。


 そんな静流の言葉に一瞬呆気にとられた顔をした男性は、それから少し考えるようにしたあと、いずれわかることだから、と言って教えてくれた。

 その『オカネモチのご夫婦』というのは、以前から静流に仔犬のようにまとわりついていたあの子ども――伊集院圭司の両親なのだ、と。

 伊集院夫妻は、静流と離れたくないと駄々をこねる圭司のわがままを叶えるために、それこそ仔犬でも飼うように彼女を引き取ることにしたのだと彼は言った。

 ……それを聞いたとき、子どものわがままのために人間ひとりを飼おうだなんて、そいつらどれだけ子どもを甘やかしているんだバッカじゃねえの、と思った自分は決して間違っていないと思う。


 とはいえ、なんの力もない子どもがそんな大人の都合に抵抗できるはずもなく、静流は伊集院家に『可愛い末っ子の遊び相手』として引き取られることになった。

 もちろん、養子縁組なんてものをするわけはなかったけれど、自分の後見人となってくれた伊集院夫妻に感謝はしていたから、与えられた役割はきちんと果たそうと思った。


 彼らに命じられるまま、聞けば同い年だった圭司と同じ学園に通い、少し体の弱い彼のそばに常にいて、その願いはなんでも叶えた。

 食べ物の好き嫌いの多かった彼が、給食で苦手な野菜が出るたびに残そうとするのをきちんと食べられるようになるまで辛抱強くつきあったし、ほかの子と仲よくしないで、なんていうわがままにも笑って応じた。

 中等部に上がる頃には、圭司の喘息もすっかりよくなっていた。

 それと同時にはじめたバスケットの影響なのか、以前は静流の方が少し高かった身長もあっという間に追い抜かされた。

 そうやって成長するにつれ、少しずつ新しい世界を広げる彼は、毎日が楽しくてたまらないというようにいつも明るく笑っていた。


 静流自身は大切なお坊ちゃんである彼のために、屋敷で雇われている執事やガードマンからさまざまな技術を学ぶのに忙しかった。

 ときどき「何やってんだろ自分」と思わないでもなかったけれど、大人たちからそうしろと言われれば、静流にそれを拒否する権利なんてない。

 圭司がクラスメイトたちと遊んでいる間も、ひたすら彼のそばに在るために必要な技術を毎日毎日叩きこまれた。

 彼の役に立たないのなら静流がこの家にいる意味などないのだと、言葉よりも雄弁に示され続ければ、どれだけ苦しいものでも厳しい訓練から逃げ出すなんてできるはずもない。

 要求された通りの結果を出すことができなければ、教師役の誰かに殴られたり食事を抜かれたりもしょっちゅうで、けれどそんなことにもいつしか慣れてしまった。


 どうせ、自分にはほかに行くところなんてない。ここを追い出されたら、どうすればいいのかわからない。

 そんなふうに思いながらも、時折思い出したように静流のそばにやってきては、相も変わらず子どもじみたわがままを言う圭司を前にすれば、条件反射のように柔らかな笑みを浮かべている自分がいる。

 これがひょっとしてパブロフの犬というやつか、と思えばその皮肉に少し笑えた。


 だがそうやって、ほとんど洗脳のように『伊集院圭司の役に立つ人間であること』を己の存在意義として叩きこまれたはずなのに、静流はどうしてもそれを受け入れることができなかった。

 それは、同い年の子どもである彼が静流の苦労など何ひとつ知らない顔で、いつも楽しそうに笑っていたからかもしれない。

 あるいは、静流が自分に尽くす姿を当然のように受け止めている彼の無邪気な笑顔が、あまりに明るく幸せそうだったからかもしれない。


 この家の大切なお坊ちゃまである彼と、気まぐれでその番犬として飼われているだけの自分と。

 その立場の差なんて、いやというほど思い知らされていた。


 それでも――心の中では、もうひとりの自分がいつも叫んでいた。

 なぜ、と。

 こんなことを、一度だって望んだことなんてない。

 自分のすべてを犠牲にして、気まぐれに自分を欲しがった子どものためだけに生きる人生なんて、一体誰がそんなものを望むというのか。

 なのになぜ、自分はこんなことを強いられているのか。

 ……その答えだって、わかっていた。

 自分が自分の意思だけでは何ひとつできない子どもだから、自分ひとりでは生きていけない無力な存在だから、逃げ出すことができない。どこにも行けない。


 早く大人になりたいと、何度も思った。

 早くこの家を出て、彼のそばを離れて、自由に生きたいと。

 圭司と一緒に通っている通っている名門凰華学園は、大学までエスカレーターで進学できるようになっていたけれど、静流はそこまで彼につきあうつもりはなかった。

 高等部卒業を区切りにこの家を出て、そこからは自分の人生を生きよう。

 そう思いながら、どれだけ図体が大きくなっても、静流の知らないどこかで夜遊びをするようになっても、静流のそばに寄ってくるときは昔と変わることのない笑顔を浮かべる圭司に、やはり何ひとつ変わらない笑顔で応じながら過ごした。


 だが就職してひとり暮らしをはじめるとなると、後見人である彼の父に保証人になってもらわなければならない。

 少し迷ったけれど、悩んだところでほかに道があるわけでもない。

 高等部に上がった五月のある晩、圭司が夜遊びに出かけているときに、珍しく屋敷に帰ってきた相手を訪ねてその願いを告げると、どうしてかひどく驚いた顔をされた。


「……静流くん。その……なんだ。きみは、大学に行きたくないのか? 成績の方に問題があるとは聞いていないが」


 困惑した様子の相手に、静流はやんわりと微笑を浮かべる。

 問題があるどころか、圭司に勉強を教えてくれと泣きつかれることが多かった静流の成績は、常に学内でトップクラスだ。

 だが大学に進学するとなるとまたとんでもない金がかかる上に、いくらなんでも大学生になってまで自分が彼のお守りをする必要などないだろう。

 つまりはお役ご免、ということだ。


「いえ。ただ、いつまでもこちらのお世話になっているわけにはいきませんので」


 本当は、義務教育を終えた時点でこの家から出ていけたらと思っていた。

 だが、圭司が静流とともに学園に通うのを楽しみにしていたから、その望みは口にすることすらできなかった。

 義務教育を終えたばかりの子どもが、周囲の大人たちから「そうしろ」と言われて逆らえるはずもない。静流の身の振り方については、常に圭司の意思が最優先であったから、ひたすら彼の役に立つ人間であり続けた。

 とはいえ、高等部に進んでも続けているバスケットボールやそのほかの世界で、彼はどんどん新たな人間関係を構築している。


 何かあったら静流のところにやってくるのは相変わらずだけれど、彼が自分に言ってくるのは「課題が終わらない、手伝って」、「ヒマ。遊んで」、「大会で勝った、褒めて」だのといった他愛ないものばかりだ。

 そうでないことを打ち明けるのは彼の相談役となっている執事だけで、しょせん自分は圭司にとって、なんでも言うことを聞く便利な飼い犬程度のものでしかない。そんなものが、いつまでもそばにいることもないだろう。

 伊集院は少し考えるようにしたあと、再び口を開いた。


「静流くん」

「はい。なんでしょうか」

「大学には行きなさい。きみには将来、あの子の補佐になってもらいたいと思っている」


 苦笑混じりに言われた言葉に、静流は思わず目を丸くする。


「何しろ、私や妻の言うことなどまるで聞かないあの子が、きみの言うことだけは素直に聞くらしいのでね」


 困ったように笑いながらそんなことを言う相手に、静流はその場に「よよよ」と座りこみたくなった。

 ――なんということだろうか。このひとは親バカを通り越して、とんでもないばか親であったらしい。

 子どものしつけを赤の他人のガキに丸投げしてんじゃねえ、と大声で言ってやりたいところではあったが、未成年というのは後見人の保証がなければアパートを借りることもできない、無力なイキモノなのである。

 だがここで流されてしまったら、本気で一生あのお坊ちゃんのお守りコースが確定してしまう。そんなのはいやだ、最悪すぎる。


 その場は一度引き下がった静流だったが、しばしの間悶々と悩んだ末に、結局正攻法で突破することにした。

 将来圭司の補佐になるために学歴が必要だというなら、最短で彼のそばから離れるためには、よりよい大学を目指せばいいのだ。

 幸い、凰華学園の教師陣はレベルが高い。外部受験に対応した進路指導も、生徒が望めばきちんとしてくれる。


 こうなったら、東京大学……否、京都大学を目標に死ぬ気で勉強しよう、と静流は決意した。

 もし京都大学に受かることができれば、この家を出ると言ってもおそらく邪魔されることはないだろうし、物理的にもきれいさっぱりお別れできる。

 そしていずれ大学を卒業するときには、すでに自分は成人している。そうすればこの家の人間から何を言われようと、もう従う必要なんてどこにもない。

 奨学金の申請には後見人であるこの家のばか親――もとい、こちらの親バカな親御さんにハンコをいただかなければならないけれど、今まで通りにきっちり猫を被っていればそれも問題ないだろう。


 ……そうやって、とりあえず目先の目標が確定すると、少し気分が楽になる。

 再び以前と変わらない日々を過ごす中、時折訓練と、徐々に難解になっていく勉強との両立が辛くなることもあった。けれど、今あきらめたら一生後悔する――その一念だけで、歯を食いしばってきた。


 それから気がつけば、あの決意の春から二年の月日が経っていた。

 今のところ勉強の進み具合は順調で、教師たちからは「このまま油断せずにいけば、まず大丈夫だろう」と太鼓判をもらっている。

 油断なんかしない。するわけがない。

 祖父母はなんの油断もしていなかったのに、突然理不尽に命を奪われた。

 人生というものは石橋を叩き壊し、その残骸の上を慎重に進むくらいの気構えで臨まなければならないのだ。


(はぁ……)


 いつもの通り、学校の教師と相談して綿密に作り上げたカリキュラムをこなし終えた静流は、肩をぐるぐると回して強張った筋肉をほぐした。

 静流は屋敷の敷地内にある使用人棟の一室を、自室として与えられている。

 これでも一応、現役女子高生というものをしているはずなのだが、そこにあるのは各種の護身道具をはじめ、トレーニングに必要なあれこれや勉強に使う机や椅子、それに小さな本棚という色気もへったくれもないものばかりだ。


 これで壁にかけている制服が女子用のものであったなら、華やかで可愛らしいデザインのそれが、一気にこの部屋を女の子らしいものにしてくれていたかもしれない。

 だが静流は凰華学園に編入した当初から、ずっと男子用の制服を着用している。

 特例措置ということで学園側がその許可を出したのは、静流の左足――太腿からふくらはぎにかけて、かなり目立つ傷痕が残っているからだ。


 そのことを、今まで不満に思ったことはない。

 伊集院家に引き取られる前から少年たちに混じって外で遊び回るばかりだった静流は、男子用の制服はむしろ動きやすくていいと思うだけだった。

 学園では出席を取るときに男女を区別することはなかったし、体の傷を理由に体育の授業も健康診断もすべて免除されていたから、級友たちもみんな静流のことを少年だと思っている。

 教師たちも伊集院家からの意向により、敢えて彼らの誤解を解くことはなかった。


 それもこれも、いつでも『普通の子ども』として圭司のそばにいて、もし万が一の事態があったときには相手の油断を誘って時間を稼ぐこと、という伊集院家から課せられた義務を、静流がより恙なく遂行できるようにするためだ。

 実際、初等部に通っている頃から中等部のはじめくらいまでの間には、何度か物騒な輩の襲撃を受けたことがある。

 とはいえ、大層な資産家である伊集院家のお坊ちゃまともなれば、営利目的の誘拐など今そこにある危機でしかないのだろう。

 静流も最初のうちこそ驚いてしまったけれど、次第に慣れてくると、か弱い子どものふりをして油断を誘うのが面倒になった。

 それからは応援を待つこともなく、さくさくと自分の手で彼らを行動不能にしてきた。


 他人を傷つけることになんの感慨も湧かなくなっている今の自分は、おそらく普通の感性を持つ人々は、随分かけ離れてしまっているのだろう。

 それを思うと、なかなか悲しくなってくるものがあるのだが――


(こっちもなぁ……。そろそろ厳しいっつうか、毎日抑えこんでんのになんでこんなすくすく成長するかな)


 ――このところ自室でラフな格好に戻るなり、静流がうんざりとため息をつきたくなるのはほかでもない。

 高等部に入学した辺りからやけに成長してくれている胸のせいで、今まで装備していたプロテクターがまたきつくなってきているからだ。

 ウエストの辺りには普段からあれこれと仕込んでいるため、多少女性らしくくびれができても別段問題はない。

 だが、これ以上無駄に成長されると『細身のくせに胸筋だけがやけに発達している、ちょっと失敗したボディビル体型』という非常に残念なことになってしまいそうで、なんだかいやだ。


 周囲から少しでもキレイに見てもらいたい乙女心、なんて静流にとっては「何それ、美味しいの?」といったものだ。

 しかし、断じて他人様から残念なものを見る目で見られて喜ぶシュミなどないのである。

 そういうわけで、静流はその日の朝もサラシをきつく巻いた上からプロテクターを身につけ、男子用の制服を着て学園へ向かった。

 同じ車に乗って登校している圭司は、昨夜もどこかで夜遊びをしてきたのか、学園までの道中ずっと眠ったままだ。


 鼻先に触れるのは、ふわりと上品な香の残り香。

 どうやら彼が高等部に上がったころからずっとおつきあいしているのは、素敵な年上の女性らしい。

 こうしてしょっちゅう夜の香を漂わせているというのに、学業の方は静流に勝るとも劣らない立派なものを修めているのだから、なんだか理不尽だ。

 だが、そんなことでいちいちイラッとするような感性なんてものも、とうの昔になくしている。

 車が停まると、静流は気持ちよさそうに眠っている彼の肩を軽く叩いた。


「着きましたよ。起きてください、圭司さん」


 圭司が、目を閉じたまま眉を寄せる。


「ぬー……。お姫さまがキスしてくれたら、起きるー……」

「そうですか。朝っぱらから公共の場でそんな破廉恥なことをしてくださる方は、残念ながらこの学園にはいらっしゃらないと思います。ですので、そういった要望に応じてくださる女性のお心当たりがあるのでしたら教えていただけますか? 自分から連絡してその方をお迎えに上がります」


 淡々と告げた静流に、薄く目を開いた圭司が不機嫌そうに顔をしかめた。


「おまえさー……。相変わらず、冗談、通じなさすぎー」

「申し訳ありません。お目覚めになられたのでしたら、早く車から降りてください。ほかの方々にご迷惑です」


 この学園に通う生徒の多くは、車で通学している。

 そのため、朝の通学ラッシュはかなりのものだ。彼ひとりのために、あまり長い間その流れを止めてしまうわけにはいかない。

 静流が彼の鞄も持って先に車から降りると、周囲からいつものように歓声混じりの可愛らしい声が上がる。


 ……非常に不本意ではあるのだが、静流はどうやらかなりの美少年ヅラをしているらしい。学園の少女たちから、控えめながらも熱の籠もった視線を向けられるのは、すでにデフォルトとなっている。

 おまけに静流が登下校時に付き従っている圭司は、これまた無駄にきらきらと華やかな外見をしているお坊ちゃま。

 最近、少女たちの視線の中に、可愛らしいピンク色だけでなく、そこはかとなく澱んだ紫色が混ざっている気がしてちょっと怖い。


 これでもし自分が女だとバレたら、彼女たちはさぞ落胆してしまうのだろうな――と、他人事のように静流が考えていたときである。

「ぬああああああーっ!?」というひどく素っ頓狂な大声が、辺りに響いた。

 一体何事か、と振り返ると、そこになぜか目と口をまん丸に見開き、静流を指さしている女子生徒がいた。

 制服の胸元を飾るリボンの色からして、どうやら新入生のようだ。


 それにしても、いきなりひとを指さすとは失礼な話である。

 静流が少々むっとしていると、はっと我に返ったように瞬いた少女は、わたわたと両手を阿波踊りのように動かした。それから意を決したような顔をして、こちらに突進してくる。

 相手のあまりの迫力と勢いに、静流は反射的に車の中に圭司の鞄を放りこみ、扉を閉める。運転手がすかさずハンドルを切って離れていく。

 だが少女は車の方には目もくれず、そのままの勢いで突っこんでくると、身構えた静流の足元に向かって見事なスライディング土下座を披露した。


(は……?)


 周囲の空気が、一瞬で白くなる。

 ……いたたまれない。

 ものすごく、いたたまれない。

 何この羞恥プレイ、と静流が遠いお空を眺めていると、少女はがばっと顔を上げる。

 そしてやたらと気合いの入った声を張り上げ、言った。


「どうか! どうか自分を舎弟にしてください! この通りです、姐御ーっっ!!」


 そのとき静流は、半ば以上本気で「こいつ、踏んでもいいかな」と思った。

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