愛川美春 前編
――どうしてこのゲームのヒロインは、貧乳に設定されていたんだろうか。
ある日突然、自分がとある乙女ゲームのヒロインなどというものになっていることに気づいた少年は、とりあえず基本のキとしてパニックを起こした。
いつものように仲間たちと闊歩していた夜の街で、物騒な連中に絡まれ喧嘩になり――相手のひとりが鉄パイプを出してきたのを見て、「あ、ヤバい」と思ったのが最後の記憶である。
鈍く重い衝撃が頭にあって、これは死んだかな、と思う間もなく地面に倒れこんだ。
そしてなんだかずきずきと痛む頭を抱えながら起き上がったとき、「おー、生きてんじゃんおれ。スゲー……エエエェエエことになってますヨーっ!?」となったのだ。
しかしそれが、どう足掻いたところで否定しようのない現実であると認識した瞬間まず込み上げたのは、この乙女ゲームの知識を頼んでもいないのに自分に叩きこんでくれたかつての姉(元・男)への、八つ当たりめいた恨み節でも感謝の心でもなく、己のささやかすぎる胸元に対する深い落胆だった。
もしこれがきらきらとしたオカネモチ学園を舞台にした、夢見る乙女の妄想を叶える全年齢向けのゲームではなく、男の滾る妄想を慰めてくれる成人向けのギャルゲーであったなら、どんな女性キャラクターだろうと巨乳であったに違いない。
自分の体に巨乳がひっついていることを想像すると、それはそれで不気味である。
だが、それ以上に巨乳というものを一度は堪能してみたいッというお年頃であった少年は、つるぺたで、触ってみてもまぁ……ちょっとは柔らかいかな、という程度のささやかな胸の感触に、そこはかとないカナシミを覚えていた。
それから少し思考が脱線し、もしギャルゲーの世界でヒロインになってしまっていたなら、かなりの確率で今よりも遙かに危機的状況だったろう、という可能性に思い至ったとき、少年は現状にそれ以上の不満を抱くのをやめた。
かつては地元の繁華街で、それなりに幅を利かせていた不良少年だった自分がなんの因果でこんな目に、と少しだけ「よよよ」と泣きたくなった。
しかし、嘆いていたところで何が変わるわけでもない。
非常に残念ながら、このヒロインである愛川美春は『ちょっと貧乏で不和な家庭で生まれ育った、がんばり屋さんだから勉強はそこそこできるけど運動神経は悲しいくらいに壊滅的な、寂しがりでドジっ子入った天然さん』と設定されているのである。
よって、今後どれだけ鍛えようとも、喧嘩に有利な大きなガタイもそれに相応しいガチムチの筋肉も、手に入れることはおそらく不可能。
……それでも、トライするだけはしてみるべきだろうか。何もせずにただ座して死を待つのみ、などというのは日本男子の沽券に関わる。
そう思い立ってすぐに筋トレをはじめたのだが、あまりに貧弱なスペックしか有していない美春の体は、腹筋五回で「もう無理ッス」と白旗を揚げた。
(く……っ、この軟弱者めッ、軟弱者めーッ!)
とてもとても残念なことに、かつて喧嘩で拳を鍛えましたという生活を送っていた少年は、なんの訓練もしていない女子中学生の体というものは、いきなりのハイペースな腹筋になど耐えられないのだという崇高にして厳粛なる事実を知らなかった。
幸いなことにというべきか、それとも不幸なことにというべきなのか、すでにゲームステージである凰華学園への入学試験は完了している。
もし子どもの頃から『愛川美春』の人生を送れていたなら、鬱陶しいイケメンばかりの溢れる学校になど、絶対に進学しようと思わなかっただろう。
だが「娘が奨学金で立派な高校に進学してくれたわー」とほっとしている美春の両親に、「やっぱヤメたわー」と言って彼らの繊細な心臓と懐に必殺の右ストレートを極められるほど、少年は短慮な性格ではなかった。
確か美春の両親は、とうの昔に仮面夫婦で、娘への愛情もとんと薄れてしまっているという設定だったはずだ。
とはいえ、その娘の体を非常に不本意ながらもなぜだか乗っ取ってしまった身としては、できるだけ当たらず障らずの距離感を維持していきたいのである。
このご時世、中卒で就けるまっとうな職などどこにもないだろうし、かといって何か手に職があるわけでもない。
少年が知っているのは『喧嘩と花火は勢いが勝負ッ』という、戦いに生きる漢に必要な永遠の真理だけだ。
だが――
(うぬ……?)
――うんざりしながら、机の上にきちんと用意されていた教科書をぱらぱらと眺めてみると、不思議なことにすんなりと頭に入ってくる。
もしや、『愛川美春』の知識はきちんと残っているのだろうか。
慌てて本棚の中に並んでいる中学時代の教科書を開いてみれば、なんの問題もなく理解できる。
(なんと……!)
そのとき少年は、感動のあまり泣きたくなった。
かつては「勉強? ヤダめんどい」と学校をサボってばかりで、毎日喧嘩に明け暮れていた少年にとって、こうして「教科書を読むだけで理解できる」というのは生まれてはじめての経験である。
途端にヒャッハーにテンションが盛り上がり、思わずシュッシュッとシャドーボクシングなどはじめてしまったが、すぐに腕が痛くなって別の意味で泣きたくなった。この体はつくづく、運動には向いていないらしい。無念。
しかし改めてじっくりと記憶を探ってみれば、薄く霞みがかったようなものではあるけれど、この体に生まれてから今に至るまでの記憶も、きちんと自分のものとして思い出せる。
これはもしかしたらこの体を乗っ取ったわけではなく、ドジっ子の美春が何もないところでコケたついでに頭を打って、更にそのついでに前世の記憶っぽいものが甦ってしまった、ということなのかもしれない。
人間なんてものは死んだらそれで終わりだと思っていたというのに、こんなわけのわからない形で第二の人生が用意されているとは――世の中本当に、何が起こるかわからない。
とはいえ、これからこの世界で『愛川美春』として生きていく以上、まず自分が考えなければならないことは決まっている。
(イケメンには近づかない、イケメンには近づかない、イケメンには近づかない。大事なことだから三回誓いました)
鏡で見る限り、美春の顔立ちはそれなりに可愛らしいような気もする。
だが、キレイなお姉さんタイプ(できれば巨乳)がストライクゾーンだった少年にとっては、「なんだこのガキくさい甘ったれた幼稚園児みてーな顔は」というものである。
胸もなければ尻もない、おまけにウエストはちょっぴり肉がつまめてしまう。
こんな貧相なカラダのガキが、なんで不特定多数のイケメンたちにモテる仕様なのか、まるでさっぱり理解できない。
その点、各攻略キャラに対してそれぞれペアで設定されているライバルキャラのお嬢さん方は、実に魅力的な設定だった。
家柄なんぞはどうでもいいが、タイプは違えど彼女たち全員に共通しているのは、とんでもない美女・美少女であること、そしてスタイル抜群であるということだ。
正当派ライバルキャラはもちろん、男装の麗人キャラも「実は私、脱いだらすごいんです」だし、ロリキャラでさえその胸部装甲はかなりの戦闘力を有していた。
ライバルキャラの設定に関しては、もしやギャルゲーの作者が担当していたんではなかろうな、と訝りたくなるほど、それはもう気合いの入った作りこみようだったのだ。
とはいえ、目の前に立ち塞がる壁が高ければ高いほど、それをクリアしたときの達成感が素晴らしいものになるのは、自明の理というものである。
そういう意味では、ヒロインのスペックがライバルキャラのスペックよりも劣っているのは、仕方のないことなのだろう。
きっと少年漫画の主人公が、友情と努力でロースペックだった己を磨き上げ、ハイスペックな完全武装の敵キャラに勝利するようなものだ。
だがこの乙女ゲームを作成した人物は、男というのが『とりあえず、巨乳のキレイなおねーちゃんがいたら幸せです』という、非常に純粋なイキモノであることを知らないのだろうか。
すぐ近くに最上級に魅力的なバディと美貌を持つお嬢さんがスタンバイしているというのに、こんな乳くさいガキに高校生という発情期真っ直中の、しかもハイスペックなイケメンが惚れたりするわけがないだろう。
……そんなハイスペックなライバルキャラである彼女たちとリアルにお会いできるというなら、ぜひお近づきになりたい。
しかし、残念ながら彼女たちのそばには、必ず攻略対象がいるのだ。彼らとのきゃっきゃうふふなイベントなど、考えただけで鳥肌が立つ。
ライバルキャラの愛しい彼女たちに近づく際には、周囲に男(特にイケメン)が潜んでいないことを、きっちりしっかり確かめてからにしなければなるまい。
少年は、改めて固く胸に誓った。
(なのに、どーして、こーなるかなあああああぁ……っ)
少年――美春は、ゲームスタート時点である凰華学園高等部に入学してからたったの数日で、すでに疲労困憊しきっていた。
この体は、一体なんなのだろうか。
もしかしたら、本当にイケメンホイホイ機能が搭載されているのかもしれない。
廊下の角を曲がった瞬間、イケメンに正面衝突する。
階段を昇っていたら、慌ただしく駆け下りてきたイケメンにぶつかって抱きとめられる。
うっかり迷子になったら偶然通りかかったイケメンに、優しげに「どうしたの? 迷子?」と声をかけられる。
放課後部活見学に行こうとしたら目の前にサッカーボールが飛んできて、それを蹴ったイケメンに「大丈夫だった!?」と心配される。
そのたび美春は、彼らそれぞれの分岐ルートを選んだ場合のきゃっきゃうふふなシーンが脳裏を過ぎり、盛大な悲鳴を上げて逃げ出したり、逃げるのに失敗したりしているのだ。
ダッシュで逃げだそうとしたのに足がもつれて顔から地面に突っこみかけたとき、素晴らしい反射神経の持ち主であるイケメンに支えられて、「大丈夫?」なんて優しくほほえみかけられた日には、冗談抜きに全身に鳥肌が立った。
……もしこれが乙女ゲームのヒロインスペックというものだというなら、本当に、今すぐ、切実に、アンインストールしていただきたい。
健全なニッポン男児魂を有している美春には、この現状はあまりにも切なすぎる。むしろ、痛すぎる。
(もうおなかいっぱいです、おれは今すぐイケメンのいない世界に行きたいです。姉ちゃん助けて、むしろ代わってー)
かなり心が折れそうになりながら、美春はとぼとぼと家路を歩いていた。
「……ねえ、キミ」
「来るなイケメンッ!」
そのとき突然背後からかけられた声に、美春は反射的に鞄を顔の前に掲げながら振り返る。
(イケメン怖いイケメン怖いイケメン怖い)
美春は断じて、イケメンとぎゅーしたりちゅーしたりお手々繋いでうふふふふー、なんていう未来はご免被りたいのである。
なのにこの勢いでは、そのうちうっかりイケメンのどれかに捕獲されてしまいそうな気がするのが、本気で怖くて笑えない。
すっかりイケメン恐怖症気味になっていた美春だったが、それから少しして「……は?」という不思議そうな声が聞こえた。
思わず、ぎゅっと閉じていた目を開く。
おそるおそる鞄を降ろすと、そこにいたのは近所の公立高校の制服を着た(つまりイケメンの巣窟学園の生徒ではない)小柄な少年であった。
短く刈り込んだ髪、これといって特徴のない小さな顔、まだ制服に着られているような細い体。
このところ毎日のように、イケメンたちのきらきらした顔と空気とイケメンボイスの洗礼を受けていた美春は、その素朴な佇まいに心の底からほっとした。
フランス料理の豪華なフルコースを、胸焼けがするほど延々と並べられた後に、一杯のお茶漬けをそっと差し出されたようなものである。
ちなみに美春は、お茶漬けは梅干し派だ。
少年はきょろきょろと辺りを見回し、それから不思議そうな顔をして美春を見た。その手には、美春が鞄に取りつけていた安全祈願のお守りが握られている。
「これ、キミのだよね?」
「あ……あぁ、うん」
ほとんど無意識に伸ばした手のひらに、ぽとんとお守りが載せられる。
「それじゃ」
「あ……ありがと」
お茶漬けな彼は、見た目だけではなくリアクションも別れも非常にあっさり風味だ。
美春は、とっても癒された。
(……今夜の夜食は、お茶漬けにしよう)