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乙女ゲーム、壊れた。 ~バタフライ効果は、侮れない!~  作者: 灯乃
 『久』

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久我志郎 前編

 久我志郎はずっと『家族』の中で、自分が邪魔者でしかないのだと知っていた。


 ――妾の子。


 物心ついたときにはすでに、久我の本邸にやってくる多くの人々から、露骨な蔑みと悪意を込めてそう呼ばれていたから。

 そしてその言葉の意味を理解できるようになった頃には、自分がなぜこの家に引き取られることになったのかを、誰に教えられたわけでもなく知っていた。


 久我の本妻が産んだ志郎の『兄』とやらは、ひどく体が弱いらしい。

 このままでは彼に家を継がせるのは不安だと判断した父が、多額の手切れ金と引き替えに母から志郎を買ったのだ。

 決して裕福とは言えない母子家庭だったけれど、つやつやと輝くランドセルを背負って、幼稚園から一緒だった友達と小学校に通うのを楽しみにしていた志郎は、ある日突然母の元から引き離され、久我の家に放り込まれた。


 お母さんどこ、と泣いてばかりの志郎を、はじめて会った父は苛立たしげな顔をして、冷たく見下ろしてきた。

 一層怯える志郎に言葉をかけるでもなく、使用人に面倒を見るように命じると、すぐにどこかへ行ってしまった。

 機械的な口調で淡々と『これからのこと』を志郎に説明した使用人は、志郎にランドセルではなく黒く重たい革の鞄を押しつけ、それを持って『凰華学園初等部』というところに通えと言ってきた。


 そんなのはいやだ、みんなと同じ学校へ行く、とどれだけ泣きわめいても聞き入れられることはなかった。

 しまいには、不快げに顔を歪めた使用人から「旦那さまがあなたのために、どれほどの寄付金を学園に支払ったと思っているのですか」と叱られる。


 そうして命じられるまま通うことになった場所には、とても自分と同じ子どもとは思えないような、きれいな言葉遣いで話す子どもたちばかりが大勢いた。

 彼らは大声を出したり、ふざけて廊下を走り回ったりすることもなく、志郎にはまるで理解できない話題で楽しげに語り合っていた。

 彼らはみんな、自分たちの『オトウサマ』、『オカアサマ』というものを、ひどく自慢に思っているらしかった。

 父の名も知らず、すでに母から捨てられたことも理解していた志郎が、そんな彼らと上手く馴染めるはずもない。


 毎日教室の隅でひとりで過ごし、家に帰ってもやはり志郎はひとりだった。

 決まった時間になると使用人が部屋に食事を運んできたけれど、彼らはいつも何を話すでもなく、きっちり一時間後に食器を下げにやってくる。

 志郎に与えられた小さな部屋にはバスルームもついていて、ほかの部屋に入ることはきつく禁じられた。

 一階の部屋には窓こそあったけれど、子どもの小さな体でもすり抜けられない程度の幅までにしか開かないようになっている。


 ――気が狂う、と思った。

 殺風景な部屋に閉じ込められて、外へ出られるのは屋敷から送り迎えの車で通う学園だけ。

 それでも学園にいる間だけは、誰からも冷たい視線を向けられることはなかったから、志郎はいつしか閉門時間ぎりぎりになるまでそこにいるようになった。

 やたらと大きな学園付属図書館には、びっくりするような量の本があった。

 子ども向けのものも、毎日通っても読みきれないほどたくさん置かれている。それらの本を夢中で読んでいる間だけは、辛い現実を忘れられた。


 そんなある日、いつものように図書館の閉館ぎりぎりまで居座っていた志郎は、憂鬱な気分で迎えの車がいる駐車場へ向かっていた。

 靴を履き替えて児童玄関を出たとき、ふと何か小さな鳴き声が聞こえてくる。


(……?)


 猫でも入りこんだのだろうか、と思って校舎脇をのぞいてみると、そこにはふわふわとした毛並みの白い仔猫がいた。

 まだ生まれてからそう日が経っていないのか、その姿はあまりに小さかった。にぃにぃと鳴くか弱い声は、まるで母親を求めて泣いているかのようだった。

 そのとき、志郎は息苦しいほどに胸が詰まって、どんどん指先が冷えていくのを感じた。


 ――あれは、自分と同じもの。

 親に捨てられ、力なく泣いているだけの哀れな子どもだ。

 ぐるぐると眩暈がして吐き気さえ覚えたとき、たたっと近づいてくる軽やかな足声に気づく。

 駐車場の方から向かってくるそれに、志郎は咄嗟に身を隠した。こんなふうに情けなく動揺している自分の姿なんて、誰にも見られたくなかった。

 息苦しさにじわりと視界が滲んで、勝手に呼吸が荒くなる。両手で口を塞いでどうにか堪えていると、足音の主はまっすぐに仔猫の方へと走っていく。


「……よかった! まだいた!」


 そうして聞こえてきたのは、嬉しそうに弾む幼い少女の声だった。鈴を転がすようなその声を聞いた瞬間、なぜだかふっと呼吸が楽になる。

 おそるおそるそちらを見ると、見慣れた制服を着た小さな少女が、慎重な手つきで仔猫を抱き上げるところだった。


「うふふー……。もふもふー、幸せー、可愛いのー」


 そうしてうっとりとした顔で仔猫に頬ずりしているのは、本当にびっくりするくらいに可愛らしい少女だった。

 まるで等身大の動く人形のように愛くるしい少女は、とろけるような笑顔で手のひらに載せた仔猫を見つめる。


「あのね、もうすぐお母さまが赤ちゃんを産むから、うちではあなたを飼えないのね。でもでも、お父さまにお願いしたら、絶対にあなたを飼ってくれるひとを見つけてくれるって言っていたから大丈夫なのよ。だから今日は、一緒に帰りましょうね」


 少女の笑顔に応えるように、仔猫は小さくにぃ、と鳴く。


「いやーん、もふもふー! 肉球ー! あぁっ、引っ掻いちゃ駄目なの! この制服、ばかみたいに高いんだから!」


 慌てたように言った少女は、そのまま大切な宝物のように仔猫を抱いて、去っていった。


(なんで……)


 そのとき胸に沸き起こった感情を、なんと表現したらいいのだろう。

 羨望。憧憬。――嫉妬。

 あんな小さな獣にさえ温かな手が差し伸べられるというのに、なぜ自分には誰もそれを与えてくれないのか。

 哀れな捨て猫に嫉妬している自分の惨めさに、志郎は震えながら自分を嗤った。

 あの少女に救われ、抱きしめられている仔猫の姿がたまらなくうらやましかった。あんなふうに誰かから愛おしげに笑いかけられたなら、それは一体どんな幸福だろう。


 ――のろのろと重い足を動かして家に帰った志郎を待っていたのは、久我の本妻である女性とのはじめての出会いだった。

 玄関口で、ちょうど屋敷から出てくるところだったらしい彼女に気づく。

 誰だろうと思いながら会釈してやり過ごそうとした志郎を、冷たい声が呼び止める。


「……志郎さん、だったかしら?」


 その声に込められていたのは、あまりにもあからさまな憎悪。

 怯えた志郎が後退ると、彼女は美しく染めた唇を醜く歪めた。


「考え違いをなさらないことね。この家を継ぐのは、わたくしの直孝さんです。あなたを引き取ったのは、久我の血を引く者がろくな教養も身につけていないのは恥というだけのことなのですから」


 彼女が口を開くたび、毒の針を心臓に突き立てられるような心地がする。


「直孝さんがお元気になって静養から戻られたら、あなたにはすぐにでもこの屋敷から出ていっていただきますから。恥さらしな妾の子が、あまり大きな顔をなさらないことね」


 ――ダッタラ、今スグ、ソノ、ナオタカサントヤラヲ、連レ戻シテクダサイ――


 そんな心の底からの願いは、口から出る前に震えて消えた。

 そうして志郎は、理解した。理解せざるをえなかった。

 自分にはもう、子どもであることなど許されないのだと。

 もう誰も、自分を守ってくれない。

 母は、志郎を父に売った。

 父は、兄のスペアとして志郎を飼っているだけだ。

 だったら、自分で自分を守るしかないじゃないか。……自分にはあの仔猫のように、ここから救いだしてくれる誰かが現れてくれるはずもないのだから。


 その日を境に、志郎は変わった。

 無機質な屋敷での日常も、相手に期待することをやめてしまえば、さほど辛くないものなのだと知った。

 将来ひとりで生きていくためには必要なものだと理解していたから、学園での授業には貪欲に取り組んだ。

 どうせいつかはまったく違う世界で生きていくのだから、この場所で友人を作る必要なんてない。

 ……けれど。


「それでね、この間妹が『ねーたま』と呼んでくれましたの! 弟はすっかりはいはいが上手になって、わたしの体によじ登ってこようとしますのよ!」

「まぁ、花音さんったら。すっかり、お姉さまですわね」


 時折廊下で耳にするあのときの少女の声を耳にするたび、どうしようもなく心が揺れる。

 幸せそうに、楽しそうに笑う少女の方を振り返りたくなる衝動を押し殺すのは、とてつもない気力が必要だった。


 ――あのときの仔猫は、幸せなんですか。

 ――オレはこんなにもひとりなのに、どうしてきみはあの仔猫にしたように、オレに手を差し伸べてくれないんですか。

 ――どうしてきみの声を、笑顔を、オレはこんなにも欲しいと願ってしまうんですか。


 意味もなく胸に溢れ続ける問いかけに、与えられる答えなどあるはずもない。

 少女はいつだって幸せそうで、そうして見るたびどんどんきれいになっていく。

 年を重ねるごとに、まるで蕾がほころぶように。

 久遠寺花音、という彼女の名前を知ったときには、その名を胸のうちで何度も唱えた。


 そうしていつしか、志郎はほんの少しでいいから花音に自分のことを見て欲しい、と願うようになっていた。

 クラスの違う花音と、友人ひとりいない自分とでは、接点なんてまるでない。愛らしく優しく、いつでもふんわりと心地よい空気をまとっている花音は、多くの友人たちから慕われている。その輪の中に、自分が入り込む余地なんてどこにもない。


 それでもあきらめきれなかった志郎は、中等部に上がる頃から急激に身長が伸びはじめたこともあり、顧問の教師に誘われるままバレー部に入部した。

 可愛い女の子に自分を見てもらいたい、なんて理由でスポーツをはじめる自分の愚かさに、いっそ笑いだしたくなる。

 ……そんな不純な動機から入った部だったけれど、いざ練習だ試合だとめまぐるしく時を過ごしていれば、不思議なことにいつの間にか、『友人』と言えるような仲間たちまでできていた。

 ずっと忘れていた笑い方まで思い出して、「くく、く、久我が笑ったー!?」と彼らに仰け反られたときには、なんだかいろいろなことがばからしくなっていた。


 自分は、自分だ。

 手前勝手なことばかりしている『家族』なんて、どうでもいい。

 自分に興味のない相手のことを、こちらばかりがいつまでも気にしていることもないだろう。

 連中が自分に久我の家に相応しい教養を身につけさせたがっているのなら、このばか高い学園の学費やら寄付金やらをぽんと出すくらいだ。今更、大学の学費をケチることもあるまい。


 望み通り、久我の家に相応しい人間になってやろうじゃないか。

 久我の家に恥ずかしくない学歴、恥ずかしくない教養、恥ずかしくない立ち居振る舞いを身につけて、どこへ出しても恥ずかしくない『久我家の人間』になってやる。……そうすればきっと、大人になったときにひとりでも生きていけるだろうから。

 大学を卒業したら、そこでさよなら。

 自分は、久我の家とは関係のない世界で生きていく。


 そんなことを考えながら、高等部への進学を機に送迎の車を断ることに成功した志郎は、入学式の朝、いつもよりかなり早い時間に屋敷を出た。

 ずっと彼らに対して従順に過ごしてきた自分が、もうどこにも逃げ出すはずもないだろうと判断されたのかと思うと、なんだか笑える。

 確かに今更逃げ出すつもりなんてないけれど、その気になればいつでもあの家から出ていける、という現実は、それだけでひどく志郎の気分を高揚させた。


(……きれいだな)


 高等部の校舎から門までの道のりを、見事な桜並木が彩っている。

 ほかの生徒たちが登校してくる前に、存分にその美しさを独り占めした志郎は、本道から少し奥まったところに生えている、一際大きな桜の下に寝転がった。

 入学式がはじまるまで、まだ時間がある。

 もう少しのんびり花見気分を味わうのもいいか、と思っているうちに、いつの間にかうとうととしていたらしい。


「……っ!?」


 突然鳩尾を襲ったとんでもない衝撃に、志郎は悶絶した。

 一体何が、と涙目になりながら体を起こしたときそこにいたのは、何やら驚いた顔をしている女子生徒だ。リボンの色からして新入生のようだが、まるで知らない顔である。


「……何やってんだ、おまえ。こんなところで呑気に寝腐ってっから踏まれんだぞ。気ーつけろ」


 あきれたように言う少女に、志郎は呼吸するたびずきずきと響く痛みも相俟って、頭のどこかで何かがぷっちん、とキレる音を聞いた。


「お……まえ……なぁあ……っ」


 志郎の着ている制服は、断じて地面の保護色になっているわけではない。普通の視力と注意力を持っている人間ならば、容易に『そこに人間が転がっている』とわかるはずだ。

 なのに、いきなりひとの鳩尾を力一杯踏んでおいてその責任をこちらになすりつけてくるとは、自己中思考が限界突破した天動説万歳のオコサマオレサマにもほどがある。

 志郎は根性でどうにか立ち上がり、さっさと踵を返した少女を追いかけた。

 だが、自分の胸の辺りまでしか背丈がないというのに、やけに不敵な目をした少女は謝罪するどころか鼻で笑って喧嘩を叩き売ってくる。


「ったく、これだから軟弱なお坊ちゃまは。さっさと家に帰って優しいママに慰めてもらったらどうだ? 『ままー、ボク、女の子にぽんぽん踏まれちゃったー』」


 そのとき志郎は、自分のこめかみにぴきっと青筋が立つのを感じた。

 知らぬこととはいえ、母親に捨てられた自分を気色の悪いマザコン呼ばわりするとは、相手が女でなければ殴り飛ばしているところである。

 しかしその後、志郎のまっとう極まりない教育的指導に対し、少女はわけのわからないことを喚き散らして去っていった。

 ひょっとして、これが噂の電波さんというやつなのだろうか。生まれてはじめて遭遇したが、できれば一生、あんなモノとは遭遇したくなかった。

 電波少女のエキセントリックさに、少なからず戦慄を覚える。

 そうして志郎が、今後は絶対にあんな不可解なイキモノとは関わらない人生を歩んでいこう、と心に決めつつ鞄を拾い上げたとき――


(え……?)


 花音が、そこにいた。

 ほんの数歩で、手が届く距離に。

 驚いたように、そのきれいな瞳を少し見開いて――自分を、見ていた。

 華奢な背中の半ばまで流れる真っ直ぐな黒髪が、桜の花びらを孕んだ風にさらりと揺れる。

 高等部の制服を着て、以前より一層大人びて女性らしくなったように見える花音は、そこに佇んでいるだけで一幅の絵画のように美しい。


(……っ)


 咄嗟に、志郎は顔を背けた。

 ずっと焦がれていた彼女が確かに自分を見ているというのに、それがこんなわけのわからない醜態を晒した瞬間だとは、自分は一体どれほど不幸な星の下に生まれついているんだろうか。

 あーもう泣いちゃおうかな、と志郎が思ったとき、細く柔らかな声が耳に届く。


「大丈夫でしたか?」


 それが自分に向けられた彼女の言葉だと理解するのに、少し時間が必要だった。

 おそるおそる顔を上げると、間違いなくこちらを見ている花音が心配そうな表情を浮かべている。志郎は、考えるより先にうなずいていた。


「あ……あぁ。なんともない」


 ぎこちなく答えると、花音はほっとした顔をする。その名の通りに花のように美しく、ふわりと笑う。


「そうですか。よかったですわ。では、ごきげんよう」


 ……笑顔。

 その自分だけに向けられた笑顔を目にした瞬間、志郎は自分の心が丸ごとすべて、花音に奪われたことを知った。

 子どもじみた憧憬でも羨望でもなく、ただ単純に、それゆえに抑えがたいほどに深く激しく――彼女を、自分だけのものにしたいと思う。

 花音がこの学園で、多くの信奉者を集める存在であることなんて知っている。自分などには到底手の届かない、まさに高嶺の花。


 それでも、もしもう一度その笑顔を得られるのなら、彼女を自分だけのものにできるのなら。

 ――自分はきっと、悪魔に魂を売ることさえ厭わない。


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