西條黎 前編
今ここにいるのが自分ではなくてもいいことくらい、とうの昔に知っていた。
幼い頃の西條黎にとって、両親やほかの誰かから『こうしろ』と言われたことに応じるのは、簡単なパズルを解けと言われているようなものだった。
次々に与えられるパズルを解いていくうちに、いつしかその量と難解度は途方もないものになってしまった。
けれど、物心ついたときにはすでにそれが当たり前だったから、黎は特に不満を覚えることもなくそれらを解き続けた。
彼らが黎に命じてくるのは、ふたつ。
西條家の後継として、常に相応しいカタチであること。
彼らの命令には、決して逆らわないこと。
そう理解したときから、ほかの選択肢を一切教えられることのなかった幼い黎は、言われるままにそのように自分を作り上げてきた。
できたから。
彼らがどれだけ多くのことを求めてこようと、それらに応えることは、黎にとって決して不可能なものではなかったから。
……それでも、幼い頃にはその膨大すぎる情報量を処理することが、少し難しかった。
脆弱な体と心が悲鳴を上げるたび、黎が救いを求めたのはひとつ年下の弟分である斉希と、妹の綾香の存在だった。
彼らだけは、黎に対して西條家の後継として相応しい存在であれ、と求めてくることはなかったから。
ただ無邪気に自分を慕ってくれるふたりの笑顔に、今までどれほど救われただろう。
年の近い斉希は、いつでも黎のそばにいた。
感受性の強い優しい子どもだった彼は、黎が少しでも疲れた素振りを見せると、そのたび大きな瞳一杯に心配そうな表情を浮かべていた。
はじめはそれを申し訳なく思って、大丈夫だと強がろうとした。
けれど、幼い斉希に嘘をつくなと叱られてからは、彼の前でだけは自分を取り繕うことをやめた。
そのとき、誰かが自分を心配してくれるのがこんなにも嬉しいことなのだと、はじめて知った。
小さな妹の綾香は、幼い頃からとても愛らしい少女だった。
くるくるとよく変わる表情を見ているだけで楽しくて、子どもたちに無茶な要求ばかり押しつけてくる両親よりも黎に懐いて、可愛らしいわがままを言ってくるのが誇らしかった。
きらきらと華やかなものであるはずなのに、自分の目には灰色にくすんだものにしか見えない世界の中で、ふたりの姿だけはいつだって明るく輝いていた。
この世でたったひとり自分に弱音を吐かせてくれる斉希と、心からの親愛の情をもって兄としての誇りを与えてくれる綾香と。
彼らの存在だけが、自分が『西條家の後継者』であることを束の間、忘れさせてくれた。
――けれど、いつからだろう。
幼く無邪気にこちらを心配するばかりだった斉希が、黎を守るためにその瞳を凍りつかせるようになったのは。
黎の敵と見なした者に対してなんのためらいもなく敵意を見せ、彼らの敵意を斉希自身に向けるべく動くようになったのは。
それに気づいたときには、心底ぞっとした。
斉希と綾香のふたりは、黎にとって聖域のようなものだった。
何があっても、何を失っても、絶対に彼らだけは守ろうと己に誓っていた。……そうしなければ、自分自身の心が壊れてしまうとわかっていたから。
ほかに縋るもののない自分の心が、彼らの存在にひどく依存していることは、いやというほど自覚している。
そんなことはしなくていい、頼むからやめてくれと何度も言いかけた。
けれどそのたび、自分の立っている場所が――西條という家の重みが黎の口を閉じさせる。
……もし斉希が、西條の分家筆頭である鳴澤家の後継でなかったなら、力尽くでもやめさせていたかもしれない。
そんなことはするな、おまえの力など必要ないと切り捨て、遠ざけ、すべての危険を排除して彼の安全を最優先に確保していたかもしれない。
その誘惑は、何度も黎の心に去来した。
斉希が黎の敵に対して酷薄な笑みを浮かべて応じるたび、いつの間にか手に入れていた力で容赦なく叩き伏せるたび、悲鳴を上げる心がもうやめてくれと叫んだ。
自分は斉希のそばでしか安らぐことができないのに、彼にそんなことをさせたいなんて思うわけがないのに――それが斉希自身の選んだことだとわかってしまうから、止められない。
斉希が自分自身を守ることもできないくせに他者を守ろうとするような、優しいばかりの愚かな子どもではなく、いつだって冷酷に冷徹に、そして冷静に笑っていたから、止めることができない。
ひとりになってそのときの情景を思い出すたび、何度も吐いた。
何があっても守りたい相手を己の盾にしなければならない自分自身が、いやでいやでたまらなかった。
斉希の優しさに甘えて、彼を傷つけてまで守らなければならないものなんて、黎にはない。
そう思うのに、自分に課せられた人生が、彼を切り捨ててひとりで歩いていくなど到底無理なものだとわかっていたから、それができない。
――自分はなんという傲慢で浅ましい人間なのかと、嗤うしかなかった。
斉希は、鳴澤家の後継だからという理由で黎を守ってくれているわけではない。
彼はただ、斉希の前でしか弱音を吐くことのできない黎を心配して、放っておけなくて、だからそばにいてくれているだけだ。
斉希は、優しいから。
本当に愚かなほどに優しいから、黎の背負っているものを強引なやり方を使ってでも引き受け、減らそうとしてくれている。
そして自分はもう、彼の手を振り払えない。
もうそんなことをしようだなんて簡単には思えないほど、どうしたらいいのかと逡巡している間に、彼は黎の人生の一部になっていた。
黎はこれから一生、自分の代わりに自分を守って傷を負う斉希の姿を、目の前で見続けなければならない。
それが自分の人生なのだと知った瞬間、これが罰かと思った。
斉希が本当に大事なら、本当に守りたいと思うなら、彼が自分のためにしていることに気づいた時点で切り捨てるべきだった。
けれど斉希は、黎とふたりでいるときだけは幼い頃と同じように明るく笑っていたから、その笑顔に甘えて、その笑顔を失いたくなくて――どうしても失えなくて、そんな己の弱さが彼を変えてしまった。
だから一度だけ、斉希に尋ねた。
後悔はしないか、と。
これからも自分のそばにいるなら、斉希は必ず負わなくてもいい傷を負うことになる。
そんな人生を選んで、後悔をしないわけがない。
だからそのとき斉希が嘘をついたら、どんな手を使ってでも――彼を傷つけてでも、その手を離そうと思った。
幼いあの日、嘘をつくなと言った斉希が、自分のために嘘をつくなら、これ以上彼を歪めることなんてできないと思った。
なのに――
「するかもしれないな」
なんでもないことのように、あっさりとした口調で。
「黎は、したいようにしろよ。……おれも、自分がしたいことをしてるだけだよ」
――斉希はどこまでも優しくて、彼を切り捨てる理由さえ与えてくれなかった。
黎が望むときに望む形で安息をくれる斉希が、それが自分で選んだことなのだと嘘のない声で言ったときに覚えた感情。
それははたして歓喜だったのか、それとも絶望だったのか。
ただわかっているのは、斉希が黎に何も期待していないということだけ。
だから自分は、斉希にだけは甘えられる。
小さな弟だと思っていた彼は、優しく真っ直ぐな心はそのままに、いつの間にかこんなにも強くなっていた。
幼い頃から彼の兄として過ごしていたちっぽけな矜恃が、そんな現実から目を背けさせていたのかと思えば、なんだか笑えた。
斉希はもう、黎が導き守ってやらなければならない幼子などではない。自分の足で立って、自分で道を選んで――黎を守る道を、選んでくれた。
自分は『完璧な人間』なんかじゃない。
誰よりも守りたいと願った相手に守られなければ生きていけない、ただの情けないひとりの子どもだ。
そう思い知ることはひどく苦しくて――同時に、何かが救われた気がした。
斉希がそばにいる限り、自分は彼の隣でただの子どもに戻ることができる。
そう確信できることは、黎の心を驚くほど満たしてくれた。
いつも自分の後を一生懸命についてきた、幼い弟はもういない。
今ここにいるのは、何があっても自分を支えてくれると言ってくれた、頼れる親友。
そして黎の歩むべき人生が、そんな彼を守るためのものでもあるのだと気づいたとき、危うく涙を零すところだった。
(ありがとうな……斉希)
斉希が黎を守ると言うなら、自分は生涯かけて彼に関わるすべてを守ろう。
だから――幼く美しいばかりだった過去を振り返って懐かしむことは、もうしない。




