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乙女ゲーム、壊れた。 ~バタフライ効果は、侮れない!~  作者: 灯乃
『西』

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西條綾香 前編

 西條綾香にとって三才年上の兄、黎は常に『完璧な兄』だった。


 綾香が物心ついた頃には、いつでも柔らかな笑顔を絶やしたことがなく、両親をはじめとする周囲の大人たちの期待を一度も裏切ったことがない。

 否――常に期待以上の姿を見せ続けていた。

 何をさせても優秀な成績を残し、友人たちからの信望も厚く、自分の周囲に集うすべての人々に穏やかな態度で接する。


 若い頃はやはり周囲の女性の心を魅了してやまなかったという祖父によく似た顔立ちは、ほんの少し甘さを感じさせつつも男性らしく精悍に整い、妹の綾香の目から見ても最上級の魅力を備えていると思う。

 幼い頃から、綾香はそんな兄のことが大好きだった。

 あんまりわがままを言うと、優しくたしなめられることはあったけれど、黎はいつでも綾香を甘やかしてくれたから。


 何か困ったことがあっても、黎に泣きつけばすぐに助けてくれた。

 あんなに素敵なお兄さまがいらっしゃるのがうらやましい、と言われるのは当たり前のこと。

 綾香は黎の関心が他の女性に向いて自分を蔑ろにされるなんて許せなかったから、一度も兄に友人たちを紹介したことはない。

 ふたりきりの兄妹なのだから、自分が黎を独占するのは当たり前なのだと、なんの疑問も抱くことなく信じていた。


 名門西條家の娘である綾香は、小さな頃から周囲の誰からも可愛がられていた。

 まして血の繋がった兄から愛されることに、疑問など覚えるはずもない。

 両親や教育係は「お兄さまを見習いなさい」と口癖のようにうるさく言っていたけれど、あんな完璧な兄と同じことなんてできるわけがないと思っていたし、それでいいと思っていた。

 黎がいれば西條家の将来は安泰なのだから、自分までがんばる必要なんてない。


 口うるさい彼らの説教なんて、聞きたくもなかった。

 教育係の目を盗んで兄の部屋に避難すれば、黎はいつでも笑って「仕方がないな」と綾香の愚痴を聞いてくれた。


「……だって、私がお兄さまと同じことなんてできるはずがありませんもの! なのにお母さまったら、いつもいつも『黎さんはそんなわがままはおっしゃいませんでしたよ』って、もう耳にタコができてしまいますわ!」


 ソファの隣に腰かけてむくれた綾香に、黎はぽんぽんと彼女の頭を撫でながら問いかける。


「今度は一体、どんなわがままを言ったんだい?」


 ゆっくりとした口調で問われて、綾香はきゅっと唇を噛む。


「大したことは言っておりませんわ! ただ、日舞やお茶のように努力すればそれなりに形になるようなものならがんばろうと思えますけれど、お花のように生まれつきのセンスが問われるものは、がんばってもどうにもならないことがあるのだと申し上げただけです!」

「そ、そうか……」


 憤然と主張した綾香に、黎は少しだけ困った顔をした。けれど、すぐにいつも通りの穏やかな微笑を浮かべて続ける。


「綾香。華道はたとえセンスが足りなくても、稽古さえ積んでいれば免状はもらえるだろう?」

「え? ええ……」


 身も蓋もないことを言った黎は、にこりと笑みを深める。


「だったら、そこは割り切ってしまうしかないよ。華道の話題は学園でも避けては通れないものだから、母さんも稽古を休ませてはくれないだろうし。実技の方は、適当に師範の言う通りのものを作っていればどうにかなるだろう? でも、教わった知識だけはきちんと頭に入れておくようにしないとね」


 綾香は渋々うなずいた。


「……わかりましたわ」


 黎にそう諭されてしまうと、綾香もそれ以上両親や教育係に反発し続けるのは難しかった。西條家に生まれた以上、その名に恥ずかしくないだけの教養を身につけなければならないことは、綾香だって理解しているのだから。

 ただその求められる教養のレベルが、何事にも完璧な兄を基準にされているような気がするのが、ちょっぴり面白くないだけなのだ。


 黎は綾香が望めばいつだって笑って相手をしてくれたし、ほかの誰よりも甘えさせてくれた。

 ほんの幼い頃は、本気で「お兄さまのお嫁さんになりたい」と思っていたし、今だって自分の眼鏡に適わない女性を黎に近づけるつもりはない。

 西條家のお嬢さまとして大切に甘やかされ、少々わがままに育った綾香の悩みごとといえば、黎のような完璧な兄を持ってしまったばかりにほかの男性を見る目が厳しくなってしまって困る、というくらいのものだった。

 けれど――


「ごきげんよう。二年生の久遠寺花音と申します」


 凰華学園の中等部に上がり、はじめてそこのサロンを訪れたときに出会ったひとつ年上の少女。

 初等部の頃から噂では聞いていたけれど、その柔らかな笑顔を向けられたとき、綾香は生まれてはじめて年頃の近い少女としてのちょっぴり苦い敗北感と、「この方なら、お兄さまの隣にいても許せるかしら」という気持ちを同時に覚えた。


 身長が百五十㎝からなかなか伸びてくれない自分とは違い、花音はすらりと優美な体つきをしている。ふんわりと大人びた笑顔を浮かべる彼女の姿は、綾香が密かにこうありたいと願っていた理想をそのまま形にしたかのようだった。

 黎と同じようにいつでも穏やかに優しく笑って、サロンに遊びにいけば心からの笑顔で迎えてくれる。


 そんな花音は、話をしてみれば実に気さくで楽しい時間を過ごせる少女だった。

 話し上手は聞き上手、とはよく聞くけれど、誰かが語りたいことがあるときは決してその邪魔をせず、相手が心地よく話せるように興味深そうに耳を傾け、時折柔らかな声で相槌を打つ。

 綾香は会うたびごとに、どんどん花音に憧れていった。

 ひとつ学年が上がった春に『花音お姉さま』と呼ばせてもらえるようになったときには、嬉しくて仕方がなかった。


 黎と花音は、まだ親しく会話をしたことがないようだ。

 けれど、いずれ花音が高等部に上がって正式に社交の場に出ることになれば、久遠寺家の花音が黎と親しくなる機会は大いに増えるだろう。

 そうなってくれれば、いずれ本当に花音が自分の義姉になってくれるかもしれない、と期待を持って夢想していた。


 だがそんなある日、サロンでいつものように花音やほかの少女たちとお茶会を楽しんでいたときのこと。

 控えめなノックがあって、どうぞと応じると開いた扉からひょっこりと顔をのぞかせたのは、そっくり同じ顔をした初等部の少年少女だ。

 まるで絵画の中から飛びだしてきたかのような愛らしい双子の登場に驚きが広がる中、真っ先に喜びを表したのは花音だった。


「悠斗、ありあ。どうしましたの?」


 立ち上がって双子を迎えた花音に、ととっと小走りに駆け寄った子どもたちは、揃って輝くような笑顔を見せる。


「お姉さまに会いにきましたの!」


 そう言って花音に抱きついたありあをうらやましそうに見ながら、悠斗は幼い顔を精一杯しかめて口を開いた。


「ありあってば、それだけじゃないだろ? もう。あのね、姉さま。ぼくらの友達が姉さまにお会いしたいって言うから、一緒に連れてきちゃったんだけど……ダメかな?」


 少し不安げに言う悠斗に、花音はまぁ、と笑う。


「ふたりのお友達なら、大歓迎ですわ。どうぞ、お入りくださいな」


 そうして花音の招きに応じて扉の陰から姿を現したのは、ほんのりと頬を上気させた初等部の生徒たちだ。

 花音は綾香たちに中座を詫び、少し離れた席に移動して子どもたちの相手をはじめた。ソファに腰かけた彼女の両隣には、しっかりと双子が陣取っている。

 そして花音もまた、客人の子どもたちにはどこまでもにこやかに温かく応じていたものの、双子に向ける笑顔はまさに蕩けるようだ。

 その笑顔から、彼女が心から弟妹を可愛がっているのが伝わってくる。


 彼らの様子は実にほほえましくて、うらやましくて――


(……え?)


 綾香はそのとき、自分で自分の思考に驚いた。

 なぜ今、自分は彼らを――花音の弟妹をうらやましい、だなんて思ったのだろう。

 自分には、黎という誰よりも立派な兄がいる。

 黎以上に素晴らしい兄なんて、この世界のどこにもいるわけがない。


 花音は確かにとても素敵な少女で自分の憧れではあるけれど、彼女が実の弟妹を可愛がるのは当たり前だ。

 自分は花音に親しくさせてもらってはいるとはいっても、家族というわけではない。

 あんな心からの親愛を込めた笑顔を向けられるのは、花音の弟妹だけの特権で――

 綾香の指から滑り落ちたティーカップがソーサーにぶつかって、かちゃん、と硬い音を立てる。


「……綾香さん? どうなさいましたの?」


 気遣うような友人の声に、綾香ははっと瞬きをした。


「え? いえ、ごめんなさい、少しぼんやりとして……」


 どうにかその場は取り繕ったけれど、綾香は指先がじんわりと冷たくなるような心地を覚える。

 屋敷に戻って自室でひとりになると、それまで胸の奥で渦巻いていた何かが、細かな疑問という形になって捉え所のない霧のように立ち現れた。


(お兄さま……?)


 黎はいつだって、綾香に優しく笑いかけてくれる。

 その笑顔がなぜか、いつも花音が自分に向けてくれる笑顔と重なった。

 穏やかに柔らかく、見る者の気持ちを和らげるような、綾香が同じく憧れてやまないふたりの笑顔は、いつだって見ているだけで嬉しくなる。

 けれど黎はあんな――花音が弟妹に見せるような笑顔を、一度だって浮かべたことはない。

 もちろん、黎は男性で花音は女性なのだから、その感情表現に差違があるのは当然だろう。

 それでも幼い頃からずっと黎とともに育ってきた自分が、黎の穏やかな笑顔しか見たことがないというのは、おかしなことではないだろうか。

 綾香は、落ち着かなく持ち上げた手で額に触れる。


(……ちょっと、待って。私……お兄さまの笑顔と、私のわがままに困っている以外のお顔って、見たことがないわ)


 いくら黎が温和な性格をしているとはいえ、綾香が幼い頃にはかなりひどいわがままも言っていた。

 綾香にとって黎は常に『大きな兄』だったけれど、当時は黎だってまだまだ幼い子どもだったはずだ。

 実際、今の綾香があの頃の自分が言っていたようなわがままを言う子どもを相手にしたなら、間違いなく怒るか叱るかするだろう。

 なのに綾香は今まで一度だって、黎が声を荒らげたり癇癪を起こしたりしたところなんて見たことがない。


(どうして……?)


 一度胸に染み出した疑問は、答えのないまま綾香の気持ちを大きく乱す。

 ――黎は、綾香を可愛がってくれている。

 そこにほんのわずかな疑いを差し挟む余地もないほど、黎は綾香をずっと甘やかしてくれた。

 そんなふうに黎が甘やかすのは、自分だけだ。

 だから黎にとって、血の繋がった妹である自分は、ずっと特別なのだと思っていた。

 綾香にとって、兄の黎は誰よりも特別な存在なのだから、当然同じように思ってくれているのだと考えていた。


 けれど黎は、花音のように笑ってくれたことはない。

 花音のように、遊びにいったときに嬉しそうに立ち上がって迎えてくれたことはない。

 あんなふうに――自分を見て、幸せそうな笑顔を浮かべたことはない。


 ひどく落ち着かない気分になって、綾香は部屋を飛び出した。そのまま黎の部屋へ向かおうとして、しかしすぐに足が止まる。

 そうして、気づく。

 自分が黎に向ける言葉を、何ひとつ持っていないことに。

 綾香が黎に言っていたのはいつだって自分のことばかりで、愚痴を言っては黎から答えをもらってばかりで――それだけ、だった。


 綾香が黎について知っているのは、彼が『優しくて完璧な兄』だという、誰が見たってすぐにわかるたったひとつの現実だけ。

 ほかには何もない。

 黎が何を考えているのかなんて、何を思っているのかなんて、一度だって考えたことはなかった。

 そんなことなど考えなくても、いつだって黎は綾香を可愛がって甘やかしてくれるから、それでいいのだと思っていた。


 だから今、自分は何も黎に問うことができない。そんなことをしたことがないから、どうしたらいいのかわからない。

 頭の奥がずきずきと痛んだ。

 綾香は部屋に戻り、冷たいベッドに潜りこむ。


 ――どうしてだろう。

 今だけは、黎の顔を見たくなかった。


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