解けた糸
(なーにを偉そうなこと、言ってんだかなぁ……)
とんとんと放課後の階段を降りながら、圭司は自嘲する。
花音に静流の友人となってくれるよう頼みに行ったとき、彼女のそばにいた少年がやたらと物騒な視線をぶつけてきたものだから、つい余計なことを言ってしまった。
花音は幼い頃から、そのふんわりとした笑顔で傍にいる人間を幸せにしてくれる子だった。そんな彼女が静流の友人になってくれたなら、いつかは静流も笑えるようになるかもしれない。
そう思ったのは本当だけれど、そのうち花音から静流の話を聞くことができるかもしれない、という打算が少しもなかったわけじゃない。
我ながら姑息なことだ、とつくづく情けなくなる。
……会いたいと思っても、もう会えない。自分では、どう足掻いても彼女を幸せにできない。心から笑わせることはできない。
そう思い知るのが、こんなに辛いなんて思わなかった。
たとえ命じられてつくられたものであっても、静流の笑顔を思い出すだけでこんなにも胸が震えるのに、それすらもう目にすることは叶わないのだ。
はぁ、とため息をついた圭司は、人気の絶えた教室に戻った。
今までずっと登下校時は静流がそばにいたから、ぽっかりと空虚な感覚に襲われる。
本当にどれだけ甘やかされてきたのやら、と自嘲しながら鞄を手に教室を出ようとしたとき――
(……え?)
開けようとした扉が勝手に開いた、と思ったら、なぜか目の前に静流がいた。
ついに幻覚まで見えるようになってしまったのだろうか。しかし、息を弾ませている彼女は今まで圭司が見たことのない顔をしている。
静流が大きく目を瞠って、ぽつりとつぶやく。
「本当に……いた……」
「……は?」
思わず声を零すと、静流はひどく混乱したように首を振って、早口で話し出す。
「いえ……。久遠寺家のご令嬢が、あなたはまだ校内にいるだろうとおっしゃったものですから。まさかとは思ったのですが、本当にいらっしゃるとは。一瞬ストーカーっぽくて怖いなと思ったりもしたのですけど、実害はないからまぁいいか、というかですね? あんなにきれいなご令嬢がおそばにいるのに、つくづく趣味が悪いなと感心している場合でもなくて。少し痩せたんじゃないですか、ちゃんと食事は食べているんでしょうね、もったいないオバケって知っていますか? って、一体何を言ってんでしょうねおれ」
……どうやら静流は、本当に混乱しているらしい。
ついでに、自分よりもパニックを起こしている相手が目の前にいると、逆に冷静になってしまうというのはあながち間違いではないようだ。
こんなところを誰かに目撃されたりしたら、またおかしな噂が広がってしまうかもしれない。それはいやだ。
圭司は静流の腕を引いて教室の中に入れ、扉を閉める。
「静流。深呼吸して」
「……はい」
そうして目を伏せて呼吸を整えた静流は、しばらくの間何も言わなかった。
何を言ったらいいのわからないのは、圭司も同じだ。
自分を嫌っているはずの静流がどうしてここにいるのかと思いながらも、目の前に――手を伸ばせば触れられるところに彼女がいることに、正直すぎる心臓が走って甘い痛みを訴える。
……本当に、どうしてこれほど好きになってしまったんだろう。
こんなにも心臓が壊れそうなほど好きなのに、どうして自分は間違ってしまったんだろう。
やがて静流は、ぽつりとつぶやいた。
「お礼を……言いたかったんです」
「え?」
聞き間違いか、と思ったけれど、静流は途切れ途切れの声で続ける。
「はじめて……病院で、会ったとき。……あなたが、笑いかけてくれたこと。嬉しかったんです。本当は……とても」
「……そっか。よかった」
あんな昔のことなど、静流はとっくに忘れてしまっていると思っていた。
自分が静流にかけてしまった迷惑のことを考えれば、そんな些細なことで礼を言う必要なんてないのに。
やっぱり、真面目なところは相変わらずだ。
けれどこれで、本当に静流が自分に関わる理由はなくなった。
もう後腐れなく離れていけるということか、と鈍い痛みを覚えていた圭司を、静流はきっと睨みつけてくる。
「子どもだったんです。あなたも、おれも」
「う、うん?」
その迫力に、気圧される。
静流は、いつもより早い口調で続けた。
「あなたが、子どもの頃のおれに同情したのはわかります。今だってきっと、おかしな罪悪感に流されているだけです。なので、取り消してください」
圭司は首を傾げた。
「……取り消すって、何を?」
静流の言いたいことがわからずに問い返すと、彼女の顔が赤くなる。可愛い。
「こ……この間、おかしなことを言ったでしょう……」
「ごめん。どれ?」
自分は静流の前では本当に間違ってばかりだから、心当たりがありすぎていやになる。
彼女の望みなら、なんだって叶えるつもりでいた。
けれど、ますます顔を赤くしながら静流が口にした言葉に、圭司はうなずくことはできなかった。
「お……おれのことを、好きだとか……っ」
「……いやだ」
え、と目を瞠った静流に、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと、頭ではわかっている。
それでも、そんな理性ですべてを抑えこめるほど、自分はまだまだ大人なんかじゃない。……本当に、いやになるけれど。
「静流が、オレのことを嫌いなのは、わかってる。だから、もう言わないけど――取り消せない。それだけは、いやだ」
好きじゃないなんて、言えない。
それだけは言えない。
たとえそれが、静流の望みであっても。
「ごめん。……もう、行ってくれる?」
これ以上、静流の前で醜態を晒したくない。
低く抑えた声でどうにか言うと、静流が小さく息を呑む。
「圭司さん……」
「ごめん」
本当に――好きになったりして。
自分なんかに好きになられたりしなかったら、静流がこんなふうになってしまうこともなかっただろうに。
静流の肩が、震える。
「あなたは……本当に、勝手なことばかり……っ」
「……ごめん」
その顔をもう見ていられなくて目を逸らした圭司に、静流は声を上擦らせてわめいた。
「お……おれだって、子どもだったんですよ。今だって、世の中のことなんてまだ、なんにもわかってないんですよ。なのにそんなこと言われたって、どうしたらいいのかなんて、わかるわけないじゃないですか……!」
言いながら、ずるずるとその場に座りこんでしまう。
小さな子どものように、膝を抱えて。
「し、静流?」
慌てて彼女の前に膝を落とす。それでもそれ以上はどうしたらいいのかわからず、意味もなく両手を彷徨わせる。
結局圭司は、ただ黙って静流が何か言うのを待っていた。
それからどれくらいの間、そうしていたのだろう。
静流の指が震えて、ぎゅっと握りこまれる。
「……なんで、怒らないんですか」
「え? 何?」
膝に顔を埋めたまま、静流は言う。
「あなたは、何も悪いことなんてしてないじゃないですか。たまたま見つけた可哀想な子どもを、助けたかっただけでしょう。……なのにその子どもに逆恨みされて、理不尽に責められて、どうして怒らないんですか」
圭司は戸惑った。
「何も……って、オレが、静流の人生をめちゃくちゃにして――」
「ばか言ってんじゃないですよ、何思い上がってんですか本気でばかなんですか。わがままを言うしか能のない小学生の子どもひとりに、他人の人生壊す力なんてあると思ってんですか? 大体おれは、人生めちゃくちゃにされた覚えなんてありません。おれの人生まだまだこれからなんですよ、あんまりひとをばかにしないでくれませんか、このおばか」
……そういえば、元々静流は結構口の悪い子どもなのだった。今の今まで、すっかり忘れていたけれど。
こんなふうに罵倒されても、それが静流の偽りない本音だとわかるだけで嬉しくなってしまう自分は、本当にもう駄目かもしれない。
「あのとき……あなたが病院で、おれを助けてくれなかったら。おれは今でもまだ、どっか壊れたままだったかもしれないんです」
「静流……?」
「その借りを、おれは全然返していないんですよ。伊集院の家に入ってからのことは、養っていただいた分あなたを守っていたからいいとして。……おれは、あなたに人生丸ごと助けてもらった借りを、まだ全然、返していないんです」
拗ねた子どものような口調で言う静流の言葉を、うまく理解できない。
「借り、とか……そんなガキの頃の、しかもあれはオレが勝手にやったことで――」
「わかってますよ、そんなこと。あなたは大事に大事に可愛がられて育ったお坊ちゃんで、ばかみたいに優しいひとだから。あのとき壊れかけてたおれに同情して、放っておけなかったんでしょう?」
「――違う」
え、と声を零した静流が、少しだけ顔を上げる。
同情なんかじゃない。
あのときの静流を放っておけなかったのは、彼女が壊れかけていると思ったからじゃない。
そんなことは、あまりに子どもだった自分は何も理解していなかった。
自分は、ただ――
「静流が、泣いてたから」
ひとりで、泣いていたから。
「静流が泣いてるのが、いやで……静流が泣いてると、痛かった、から。だから……静流に、笑ってほしくて」
本当に、それだけだった。
呆けたように瞬きをした静流は、それからくしゃりと顔を歪める。
「……なんですか、それ」
静流の声が、震えている。
「それだけで、よかったなら……なんで、こんな」
……どうして。
「おれだって……あなたが笑っていてくれれば、それだけでよかった、のに……っ」
「……静流」
無意識だった。
静流の瞳から溢れ出た雫が頬を伝い落ちていくのを目にした瞬間、圭司は彼女を抱きすくめていた。
細い体は思っていたよりもずっと柔らかくて、頼りなかった。
こんなに華奢な体で自分などとは比べものにならないほどの力を持っているだなんて、実際に経験していなければとても信じられない。
こんなふうに震えながら泣いている姿からは、彼女が戦う姿なんて想像することもできなかった。
「ご……ごめん、なさい……おれ……この間、ひどいこと言った……っ」
「静流が謝ることなんてない。オレが先に、ひどいこと言ったから。……ほんとに、ごめん」
嗚咽混じりに言う静流が抱えている痛みを、全部自分が吸い取ってやれたらいいのに。
時間を巻き戻して、すべてを最初からやり直すことができたらいいのに。
……だけど、そんなことはおとぎ話や夢物語でしかありえない。幼い子どものように、ただ無邪気に笑っていることなんて、もうできないのだと知ってしまった。
――それでも。
「……静流」
ぎゅっと、抱きしめる腕に力をこめる。
その抱擁を拒絶されないことに、胸が詰まった。
少しは――何かが許されたと思ってもいいのだろうか。
静流にこの願いを告げることは、許されるのだろうか。
「今までのことを……なかったことになんて、できないけど」
圭司が、静流を傷つけたことも。
静流が、ずっと圭司を憎みながら守ってきたことも。
何もかもを、なかったことになんてできない。
そんなことは、してはいけないのだと思う。
……一度絡んでしまった糸は、たとえ解くことができたとしても、もう歪んでぼろぼろで、元通りにすることなんてできない。
けれど、それでも――
「オレは……静流と一緒に、がんばりたい」
今から、努力することはできるはずだから。
どれほど辛くても、苦しくても。
静流がそばにいてくれれば、自分はきっとどんなことでもできるから。
だから、もし――静流が許してくれるのなら。
「静流が辛いときに、そばにいるのが、オレじゃ駄目……?」
「え……?」
「絶対、静流のこと守れるようになるから。……もう絶対、静流を泣かせるようなことなんて、しないから」
腕の中の体が、強張る。
やはり虫のよすぎる願いだったか、と目を閉じたとき、静流の細い指がぎこちなく腕に触れた。
驚いた圭司の耳に、くぐもって掠れた静流の声が届く。
「おれ……。これから、どうしたらいいのか……まだわからないんです、けど」
ほんの少し――静流の指に、力がこもる。
拒絶するのではなく、何かを繋ぎ止めようとするかのように。
「あなたが……おれの知らないところで、情けない顔をしているのは、いやです」
心臓が――本当に、壊れるかと思った。
「……静流の、前でなら、いい?」
掠れきった声で問う。
静流が戸惑う気配があったけれど、細い指が離れていくことはなかった。
「あ……え? わ、わかり、ません?」
「……そっか」
わからないことばかりだ。
静流の気持ちも。
自分たちが、これからどんな道を歩いていくのかも。
それでも――
(大好きだよ……静流)
今確かにわかっているのが、この気持ちひとつだけでも。
これから少しずつ覚えていくことも、前に進んでいくこともできるはずだから。
「じゃあ……がんばる」
もう、情けない顔なんてしなくてすむように。
もう、絶対に静流を傷つけたりしなくてすむように。
「……ありがとう。静流」
努力する機会を与えてくれて。
本当は、怖くてたまらなかったから。
静流のいない人生を、ずっとひとりで歩いていかなければならないのが、想像するだけであまりに遠くて、暗くて――足が竦んでしまいそうだった。
「ほんとに……がんばるから」
この愛しくてたまらない温もりを手放さずにいられるなら、なんだってできると思った。




