わんこのおねだりは回避不能なのです
そんなふうに教室が黒いナニカに浸食されつつあることなど露知らぬ花音は、会うたび「あの金髪きらきらの天使みたいだった子が、一体何を食べればこんなに大きくなるのかしら?」と首を捻ってしまう幼馴染みから聞かされた打ち明け話に、目を丸くしていた。
「伊佐木さまが……女性……?」
花音が繰り返して確認すると、圭司はひどく複雑な顔になる。
「うん。オレも知ったのは、ついこの間なんだけど」
圭司さん、と思わずつぶやく。
「そんな……それでは圭司さんが先日学園内で、伊佐木さまと不純同性交遊に勤しんでいたという噂は――」
「デマだからね!? 静流の名誉のためにも、お願いだからそんな噂は今すぐ脳内からデリートしてくれるかな、花音ちゃん!」
思いきり食い気味に否定された。
花音とてこの図体ばかりは立派に大きくなっていても、中身は幼い頃から変わらず素直でわかりやすい性格をしている圭司が、そんな大胆なことをできるとは思っていない。
これは、愉快な噂話を聞いたお年頃の乙女としての様式美というものである。
青ざめたり赤くなったりと忙しい圭司に、花音はにっこりと笑ってみせた。
「ごめんなさい。――それで、圭司さん。わたしに頼みごとというのはなんでしょう?」
圭司がほっと息を吐く。本当にわかりやすい。
だがそれから圭司は、今まで花音が見たことのない顔をした。ゆっくりと、真剣な響きの声で口を開く。
「うん。本当に、花音ちゃんがいやじゃなかったらなんだけど。……静流の、友達になってくれないかな」
花音は戸惑った。
「お友達……ですか?」
ああ、と圭司はうなずく。
「オレは、静流に本当にひどいことをしてきたんだ。わがままばかり言って、女の子らしいことを何ひとつできないようにして――友達も、作らせなかった」
「圭司さん……」
目を見瞠った花音に、圭司は苦しげな顔をして続けた。
「だから、少しでも静流に普通の人生を返してやりたい。全部はムリでも、せめて女の子として友達と遊べるようにしてやりたいんだ。花音ちゃんには、絶対に迷惑はかけないって約束する。……こんなこと頼めるの、花音ちゃんしかいないんだ」
(まあぁ……)
――こんなふうに、おねだり上手な末っ子気質の圭司から、土砂降りの中、ずぶ濡れになって見上げてくる捨て犬のような目でお願いされてしまった場合、現在『カッコいいお姉ちゃん道』を驀進中の花音にお断りできるはずもない。
そこまで見込まれちまっちゃあ仕方がねぇ、いっちょ一肌脱いで差し上げやしょう、と花音はココロの諸肌を脱いでうなずく。
「わかりましたわ、圭司さん。わたしなどでよろしいのでしたら、ぜひ伊佐木さまのお友達に立候補させていただきます!」
「花音ちゃん……ありがとう」
きらきらきら。
実に美しい、幼馴染み同士の友愛である。
そういうわけで、圭司と固い握手を交わした花音は、新たな使命感に満ち溢れながら教室へと戻った。
その際、『男装の麗人』という特殊すぎるキーワードにもまったく花音が反応しなかったのは、このところ毎日のように志郎から手加減容赦一切無用の愛を囁かれているせいで、すでに脳のキャパシティがいっぱいいっぱいだったからではない。
美春という変則的すぎるゲームヒロインの登場で、もはやこの世界が本来のゲームとはかけ離れたものになったと思っているからでもない。
単にこの十年間で、ゲーム知識がほとんど頭から飛んでしまっているだけのことである。
……残念ながら人間の脳というのは、普段使わない日常生活に不要な情報など、すぐに忘れてしまうものなのだ。
とはいえ、花音はその磨き上げたお嬢さまスキルによりゲットしたお嬢さまなお友達は大勢いるが、ずっと少年として育てられてきた年上の女の子となると、あまりに勝手が違いすぎる。彼女とどう接触を図ったものだろう、としばし悩む。
今後友好的な関係を築いていこうと思うなら、ファーストコンタクトにおける第一印象というのは非常に大事なものである。
迂闊なことをして悪印象を与えてしまえば、それを後から覆すのは非常に困難になってしまう。
(伊佐木さまと、お友達……。うーん、とりあえずサロンにお誘いしてみようかしら)
この凰華学園には、ハイパーなオカネモチのご子息ご息女(要は攻略キャラ及び一部ライバルキャラを含む特権階級)だけが使用できる、優雅にウフフオホホのお茶を楽しめるサロンなるものまであったりするのだ。
静流はその一員ではないが、花音が招待すれば問題はない。そしてサロンへの招待を、彼女が拒否するのも難しいだろう。この学園には、親の社会的地位を基準とした明確なヒエラルキーが存在しているのだ。
花音は今まで、その特権を享受したことはあっても振りかざしたことは一度もない。
だが、ここはひとつ圭司のために、使えるものは使わせていただこうではないか。
少し強引すぎるような気もするし、「これだからオカネモチは」と反感を持たれてしまうかもしれない。
けれど、まずはこちらのことを知ってもらわなければ何もはじまらない。
そんなことを考えながら自分の席に戻った花音は、柔らかな声で呼びかけられるまで、前の席に志郎が陣取っていることをすっかり忘れていた。
「――花音?」
「え? あ……ご、ごめんなさい。少し、考えごとをしていたものですから。なんでしょうか?」
静流のことで頭が一杯だったとはいえ、彼を無視する形になってしまったことに慌てる。
志郎は気にしたふうもなく、小さく笑った。
「花音は、伊集院先輩と仲がよかったんだ?」
穏やかな問いかけに、ほっとしてうなずく。
「はい。昔から家同士でおつきあいがあったものですから。小さな頃から、よく遊んでいただいたのですわ」
「……へえ。うらやましいな。オレも、子どもの頃の花音と遊びたかった」
(く……っ)
甘ったるい視線と声の直撃を食らった花音は、赤くなってうつむいた。本当にこのイケメンは、どこからでも攻めてくるから油断がならない。
志郎がどうして花音を選んだのかは、いまだによくわからない。
けれど、ここまで直球ストレートに口説かれてしまうと、もう理由なんてどうでもいい――というか、聞いたらますますいたたまれない気分になってしまうことは、まず間違いないと思われる。
「く……久我くんは――」
なんでもいいから何か話題を、と言いかけた言葉は、軽く首を傾げた志郎にやんわりと遮られた。
「伊集院先輩は『圭司さん』なのに、オレは『久我くん』?」
「え?」
思わず顔を上げると、にこりと笑みを向けられる。
「オレも、花音って呼んでるし。――花音もオレのこと、名前で呼んで?」
「あ、の……」
「……いや? 花音」
(そ……そんな、叱られた仔犬のような目でおねだりとか……っ)
おねだりわんこは、圭司だけで充分間に合っている。
だが花音はぴかぴか金色のゴールデンレトリバーも大好きだが、黒くてでっかいジャーマンシェパードだって大好物なのだ。
とはいえ、圭司は仲のいい幼馴染みで、志郎は現在絶賛口説かれ中といっても、まだほんの数日しか交流のないクラスメイトだ。
こんなに展開が早くていいものなのか、ちょっぴり腰が引けてしまう――のだが。
(うぅ……っ)
じーっと視線を外すことなく期待に充ち満ちた様子で待っているジャーマンシェパードは、もはや『よし』以外の答えなど認めない構えである。
「……花音?」
そうしてトドメに激甘イケメンボイスで答えを促すように囁かれた瞬間、花音は己の敗北を悟った。
絶対にまた自分の顔は真っ赤になっている、と恥ずかしくなりながら、意を決してきゅっと指を握りこむ。
「し……志郎くん?」
ぎこちなく呼びかけると、志郎は嬉しそうに笑った。ほっとしたのも束の間、志郎はさらりともう一段ハードルを上げてきた。
「くん、いらない。――志郎」
「よ、呼び捨てになんて、できません……っ」
いくらなんでも! と首を振った花音に、志郎は不思議そうな顔をする。
「本人がいいって言ってるのに?」
「でも……」
ためらう花音に、志郎は蕩けるような笑顔を浮かべる。
「いいから。……ね? オレは、花音にそう呼んでほしい」
……甘く囁くような、誘うようなその声に、花音は再びの敗北を悟った。
(お願いですからその激甘フルコンボは、せめて一日一度だけ発動可能という制限を設けていただけませんでしょうか。そういったものは、あまり頻繁に発動するものではないと思われるのですがどうですか。というか、どうしてこれだけ毎日この攻撃を受けているのに、わたしの心臓は一向に慣れてくれる気配がないのでしょうか。その辺りがとても不思議なのですが、とりあえず全面降伏いたしますので、今日は本当にこれ以上は勘弁してください……っ)
ぷるぷると震えて半泣きになりながら、花音は今後彼を『志郎』と呼ぶことを受け入れた。
そんなふたりの様子を固唾を呑んで見守っていたクラスメイトたちが、そっと手を合わせて「久我大明神のお怒りを鎮めてくださってありがとうございます」と花音を拝んでいたことには――当然ながら、彼女が気がつくことはなかったのだった




