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乙女ゲーム、壊れた。 ~バタフライ効果は、侮れない!~  作者: 灯乃
『伊』

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13/28

伊集院圭司 転

 静流の胸が真っ平らであることを直に確認したためなのか、圭司はその晩、久し振りに穏やかな気分で机に向かっていた。


(静流は男だから! たとえヨソのどんな女より美人でも、柔らかたゆんたゆんな胸なんてない男だからね、オレ!)


 そんなことを考えながら、涼しい顔をしてとんでもない成績を叩き出している静流に恥ずかしくない成績を取れるよう、いつものようにがんばって勉強していた圭司は、軽いノックの音に顔を上げる。

 なんだと声を返すと、扉を開いた執事の杉崎が珍しく少し困ったような顔をしていた。


「どうした? 何かあったのか?」

「……はい。それが、今静流が旦那さまと進路のことで面会しているのですが」


 え、と目を瞠った圭司に、杉崎は淡々と続ける。


「どうやら静流は、京都大学への進学を希望しているらしいのです。圭司さまはご存じでしたか?」


 言葉は質問の形をしていたけれど、それは確認ですらなかった。

 頭の中が、真っ白になる。

 そんなことは知らない。聞いていない。

 考えるより先に、圭司は部屋を飛び出していた。

 そのまま、扉の開け放たれた遊戯室に飛びこむ。


「静流! おまえ、なんで、京都とか……っ」


 驚いた顔をして振り返った静流が、圭司の背後を見て納得したように小さく息を吐く。そんなところすら妙に余裕めいているように思えて、圭司は苛立った。

 ずかずかと近づき、困ったようなあきれたような顔をしている静流の腕を掴む。

 どういうことだと問い詰めようとして――


「……え?」


 ――思わず、声が零れる。


 手指に伝わってくるのは、あまりに細くしなやかな感触だった。今まで幾度も触ったことのある仲間たちの腕とは、まるで違う柔らかさ。


(静流……?)


 間近に見る静流の顔は、やっぱりきれいだった。肌はどこまでもなめらかできめ細かく、細い首はすんなりと優美だ。

 そう思って見てみれば、ゆったりとしたシャツ一枚に隠されている静流の体は、本当に細くて華奢だった。いつもかっちりとした制服を着ているせいでわからなかったけれど、ウエストの辺りなんて自分の両手で掴めてしまいそうだ。


 まさか、という思いと、ありえないという思いと。

 それらがすさまじい勢いで何度も交錯して、圭司は気がついたときには静流のシャツに手を伸ばしていた。


「っ!?」


 静流が、ひどく驚いた顔をする。当然だと思う。誰だっていきなりこんなことをされたら、驚くに決まっている。


「しず……る……?」


 呆然とつぶやく自分の声が、耳の奥で奇妙に反響する。

 ……目の前にあるのは、どこまでも滑らかな曲線を描く、美しい女性の体でしかありえなかった。

 きつくサラシに締めつけられた胸元はかなり息苦しそうで、本来ならば豊かな丸みを持っているのだろうことが一目でわかる。

 なのにきれいに引き締まったウエストは折れてしまいそうに細くて、染みひとつない真っ白な肌が視界に焼きつく。

 驚愕に凍りついた圭司に、静流は小さく息を吐いた。


「自分は、一度も男だと言った覚えはありませんが」


 まるでいつもと変わらない淡々と落ち着いた声が、一層圭司の混乱を煽る。

 そんなはずはない。

 だって静流は、幼い頃からずっと少年のような言葉で話していた。この家に入る前から、自分のことを『ボク』と言っていたし、今は『おれ』だ。

 けれど、静流は男ではないと――きれいな、本当にきれいな、女の子なのだと。


 父と杉崎が何か言っているような気もしたけれど、そんなことはどうでもいい。

 どこか遠くを見ている静流の腕をもう一度掴むと、やはり背筋がぞくぞくするほど柔らかかった。今までずっと、彼女を少年だと思いこんでいられたなんて、とても信じられないほどに。


「……行くな」


 こぼれ落ちた自分の声は、ひどく掠れていた。


「は?」


 目を瞠った静流の唇が、赤い。

 今すぐ、食らいつきたい。

 まるで、静流のすべてが圭司を誘っているかのようだと思う。

 ずっと体の奥で燻っていた凶暴な熱が、それを辛うじて押し込めていた枷を食い破ってしまいそうだ。


「京都になんて、行くな。そんなのは、許さない」

「許さない、と言われましても――」


 なのに静流は、そんな薄氷を踏むような危うさで保たれていた圭司の理性を、逆撫でするようなことを言おうとする。

 圭司は自分の頭に、かっと血が昇るのを感じた。


「黙れよ! おまえはおれのもんなんだから、黙ってうちにいればいいんだよ!」


 ずっと、欲しかった。

 きれいで優しくて、どんなときでも自分に笑いかけてくれる静流のことが、本当に欲しくてたまらなかった。

 その静流が女の子だったなら、この気持ちをごまかす必要なんてどこにもない。

 ――けれど。


「圭司」


 ひどく冷たい響きの声に、狂乱していた熱が一瞬で醒めた。はっと瞬く。


(あ……オレ……?)


 今自分は、一体何を口走ったのだろうか。

 よく覚えていないけれど、何かとてもひどいことを言ってしまった気がする。

 何より、いくら頭に血が昇っていたとはいえ、あんなふうに怒鳴りつけたりするなんて――女の子にそんなことをするなんて、本当に最低だ。

 謝らなければ、と焦る圭司に、静流はどこまでも静かに告げる。


「離せ」


 今まで聞いたことのない、どこか虚ろな響きの声に、戸惑う。

 そんな圭司をガラス玉のような瞳で見上げて、静流は言った。


「おれは、おまえのものなんかじゃ、ない」


 こんな静流の顔を、どこかで見たことがある。

 どこで。

 ……そうだ。

 はじめて会ったときの、病室で――静流はこんなふうに、感情のすべてをなくしてしまったガラス玉のような目を、して。


「静流……?」


 心臓が、一瞬で冷える。

 静流が、笑ったから。

 まるで感情の見えない目をして、ガラス細工の人形のように、今にも壊れてしまいそうに儚く、冷たく。

 静流は笑ったまま、ゆっくりと口を開いた。

 幼い子どもに言い聞かせるように、穏やかに、優しい口調で。


「なぁ。おれは、ちゃんとしてただろう? 七年間ずっと、おまえの言うことはなんでも叶えたし、おまえの望む通りにほかに友達だって作らないで、いつだっておまえの言う通りにしてただろう? おまえの役に立つようにずっとバカみたいに勉強だってしてきたし、どれだけ殴られたって蹴られたって、おまえを守るための訓練から逃げたりしなかったろう? あの日、おまえが親にねだっておれをここで飼いはじめたときから、ちゃんと、ずっと、その対価に見合うだけのことはしてきただろう?」


 静流が、何を言っているのかわからない。

 言葉の意味はわかるのに、それを認識することを頭が拒否している。

 だって――自分はただ、静流に笑っていてほしかっただけ、なのに。

 静流は、次第に声を震わせはじめた。

 ガラス玉のようだった瞳に、燃えるような激情が滲んでくるのが本当に、きれいで。


「なぁ? おれにだって感情くらいあるんだよ。考える頭くらいついてんだよ。いつまでもおまえのペットなんてやってらんねえんだよ、もう勘弁してくれよ、いい加減自由にしてくれよ頼むから!」


 どこかで、幼い子どもの声がする。


 ――静流、静流。泣かないで、静流。

 ――どうして泣いてるの。

 ――誰が静流を泣かせたの?


(静流……泣かない、で)


 目の前で静流が泣いているのに、どうして自分の体は少しも動いてくれないんだろう。こんなにも苦しそうに蹲って、泣いているのに。


「――落ち着け」


 動けない圭司の代わりに静流を抱きしめたのは、杉崎だった。

 壊れてしまいそうに震える華奢な体を守るように抱えこんで、聞いたこともないような優しげな声で低く囁く。


「大丈夫だ、静流」

「……っふ……っぅ」

「大丈夫……怖くない。怖くないんだ。――静流。私がおまえに、嘘をついたことがあったか?」


 杉崎が言葉をかけるたび、目に見えて静流の震えが治まっていく。

 圭司の目の前で、杉崎の――自分ではない男の腕の中で、その胸に縋るように細い指が伸ばされる。


「怖くない。そう……それでいい」


 静流の耳元に低く囁いた杉崎は一度目を閉じると、青ざめた彼女の頬をそっと撫でた。


「……そのまま、目を閉じていなさい。おまえはもう、何も心配することはない」


 幼い子どものようにこくんとうなずいた静流は、それきり意識をなくしたようだった。

 そんな彼女の目元を指先で拭った杉崎が、細い体を抱えたまま危なげなく立ち上がる。


「申し訳ありません、旦那さま。私の不始末です。静流の身柄は、しばらく私が預からせていただいてよろしいでしょうか」

「……杉崎」


 父のこんな掠れた声もはじめて聞いたな、と頭のどこかでぼんやり思う。

 杉崎は小さく息を吐いた。


「これ以上、こちらに静流を置いておくのは無理でしょう。この子をここまで追い詰めてしまったのは私です。……圭司さま。静流はこの家に入ったときからずっと、あなたの護衛役として育てられてきたのです」

「……え?」


 突然自分に向けられた言葉に、圭司はのろりと顔を上げる。


「私が、そう育てました。常にあなたのそばにいて、何があっても最優先にあなたの安全を確保するように、と。そして、そのことをあなた自身には悟られてはいけないとも命じました」

「なん……で……!」


 どうして、そんなひどいことを。

 静流が女の子だと、杉崎は知っていたのではなかったのか。

 睨みつけた圭司を、彼は静かに見返した。


「静流を、守るためです」


 ひゅっと、喉が鳴る。


「伊集院家の直系であるあなたの安全と、なんの身寄りもない子どもひとりの安全が、この家で同列に扱われると思いますか。あなたを守るために役立つと判断されれば、静流がこの家で生き残れる確率が上がる。そう思えばこそ、私はこの子をあなたの護衛役として育ててきました」


 言葉を失った圭司に、杉崎は淡々と続ける。


「あなたのそばにあるということは、伊集院を敵とみなす者たちの目に常に晒されるということなのです。ですから私は、静流にごく普通の少年としてあなたのそばにいるよう命じました。……少女の姿のままでいては、余計な危険が増したでしょうから」


 自分が守られていることは、知っていた。

 けれどそれはずっと、静流も同じだと思って――


(……っ)


 そんなわけなど、なかった。

 静流はただ、幼かった自分の身勝手なわがままでここに引き取られただけの、無力な子どもだ。伊集院本家の人間である自分と同じように、この家で彼女が守られるはずなんてなかったのに。


「……ご安心ください、圭司さま。静流は、私が守ります」

「守……る……?」


 虚ろに繰り返した圭司に、杉崎はうなずく。


「もちろん、彼女がそれをよしとしてくれればですが。それでは、失礼いたします」


 慇懃に一礼して去って行く背中がひどく遠く、大きく見えた。





 圭司、と呼ぶ父の声に、のろりと顔を上げる。

 いつの間にか、父と自分は遊戯室の隅にある談話スペースに移動していたらしい。

 ひとり掛けのソファには、すでに自分の体温が馴染んでいる。……一体、どれだけの間自失していたのだろう。


「おまえは……静流くんのことが、好きだったのだな」


 ただ静かに告げられた言葉に、機械的にうなずく。今更ごまかすつもりも、隠すつもりもない。

 父が苦く息を吐く。


「すまない、圭司。……あの子に戦闘技術を身につけさせるよう杉崎に命じたのは、私だ」

「……うん」


 それは、わかっていた。

 杉崎は自分の咎のように言っていたけれど、父がそう命じなければ、彼はきっと別のやり方で静流を守っていただろうから。


「二年前の、今頃だったかな。静流くんが、高校を卒業したらこの家を出て働きたいと思っている。どこかでアパートを探してひとり暮らしをはじめる際には、その保証人になってほしいと言ってきたのは。……私は、なぜあの子がそんなことを言い出すのか、本当にわからなかったんだよ。どうしておまえのそばにいられる権利を、自ら手放そうとするのか。謙虚すぎるにもほどがあると思った」

「父さん……?」

「圭司。おまえは知らないことだろうが――あの子は、天才だ」


 一段低くなった声で告げられた言葉に、戸惑う。

 静流の成績が、自分が必死になって努力しなければ追いつけないほど優れたものであることなんて知っている。

 けれどそれくらいの成績ならば、あの学園ではさほど珍しいものではない。

 いくらなんでも、天才と評されるものではないのではないかという圭司の疑問に、父はゆっくりと首を振った。


「そうではない。もちろん、学業の方も優秀だということは知っているが。あの子は小学六年の頃に、たったひとりで武装した男たちを七人、無傷で制圧してみせた。……それも、おまえに悟られることなく、だ」

「……え?」

「それから何度も同じようなことがあった。わかるか? 圭司。たった十二かそこらの少女に、一体どれほどの技倆を持っていればそのようなことが可能なのか。少なくとも、私には理解のできない世界だよ」


 自嘲するでもなく、ただ静かに事実を並べるだけの言葉が脳裏に渦巻く。


「静流くんが本気になったなら、おそらく杉崎でも対処しきれないだろう。おまえが中学に上がった辺りから厄介な襲撃が激減したのは、あの子がおまえのそばにいたからだ。ああいった連中は、割に合わない仕事はしないものだからな」

「静流……が?」


 泣かないでほしいと思った。

 笑っていてほしいと思った。

 ずっと、きれいなままでいてほしいと――


(は……)


 ――なんて、愚かな幻想だろう。

 圭司は、苦く自嘲した。


「圭司。……それでも静流くんはもう、伊集院から離れて生きていくのは難しいだろう。どれほど戦闘技術に優れていようとも、あの子はあまりにも狭い世界で育ちすぎた」

「……っオレ、が……!」


 父が、静かにうなずく。


「そうだ。おまえが望んで、私がそうした」


 幼いころからずっと、静流をこの家の中に閉じこめた。幼く無邪気に守りたいと願いながら、危険な世界に彼女を導いた。


「あの子は、おまえの安全を守るためなら笑っておまえに嘘をつける。おまえの命を狙ってきた者であれば、なんのためらいもなく、二度とまともに立つこともできない体にすることができる。そういうふうに、育てられた子だ」


 圭司はぐっと奥歯を噛み締めた。

 そんな酷いことを、静流に望んだりするわけがない。

 けれど、静流をそんなふうにしてしまったのは……確かに、自分なのだ。


「杉崎がそうすると言った以上、これから静流くんのことは、必ず奴が守る。……だがな、圭司。私も、杉崎も、必ずおまえたちよりも先に死ぬ」


 静かに告げられた言葉に、圭司は思わず顔を上げる。


「おまえのことは、湊や沙弥が守るだろう。だが、いずれ静流くんを守る者はいなくなる。……おまえは、どうする?」

「オレ……は……」

「おまえはもう、欲しいものを欲しい、と駄々をこねるばかりの子どもではないだろう。静流くんは、優しい子だ。だが、その優しさに甘えるのはもうやめなさい。おまえが対等の立場で向き合えないなら、二度と会わない方があの子のためだ」


 咄嗟に、いやだ、と思う。

 静流と二度と会えなくなるなんて、それだけは絶対にいやだと――


「おまえは、静流くんを守る力を手に入れられる場所にいる。……これからのおまえの生き方に関わることだ。きちんと考えなさい」

「……わかった」


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