伊集院圭司 起
――はじめて会ったときには、ガラス細工の天使のようだと思った。
伊集院圭司は幼い頃には体が弱く、よく喘息の発作を起こしては入退院を繰り返していた。
そのことも本当に辛かったけれど、それよりずっと苦しかったのは、自分がそうして病院に運びこまれるたび、両親も兄も姉も家族みんなが圭司以上に辛そうな顔をしてしまうことだった。
母方の曾祖母が異国から嫁いできたひとだったからなのか、圭司の髪は生まれつきところどころに金色の混じる淡い茶色だ。
肌が白いのはあまり外で遊べないせいもあったけれど、瞳の色も緑と茶色の混ざった珍しい色をしている。
そのせいで周囲からじろじろと無遠慮に見つめられるのは、本当に疲れるし、いやだった。
だから、入院するのはいやなのだけれど、病院にいる間はそんなふうに見られることはないから、それだけはほっとした。
そして、圭司が初等部の五年生になった春先のことだ。
季節の変わり目になると、ときどき体が辛くなる。
もう何度目かも忘れてしまった発作のあと、圭司は大事を取って入院することになった。
とはいえ、その頃には入院することにすっかり慣れてしまっていたため、今更辛いだのいやだのと思うこともなくそれを受け入れた。
その日も圭司は個室のベッドでいつも通り、おとなしくひとりで本を読んでいた。
二冊目を読み終え、何気なく窓の外を見てみると、ひどく柔らかな心地よい日射しが淡く空気を輝かせている。
その明るさに誘われて、少しだけ病院の中庭に出てみようと思う。薄手の上着を羽織り、慣れた廊下を進んでエレベーターの方へ向かおうとしたとき、ふと風が通り抜けた。
風は、目の前のカーテンをふわりと舞い上げる。
圭司は、思わず息を呑んだ。
――傷だらけの天使が、そこにいた。
ベッドの上で上体を起こし、天使はガラス玉のように透き通った瞳で外の光をうらやむでもなく、ただ静かに密やかにそこにいた。
体のあちこちに巻かれた包帯は、まるで天使を地上に繋ぎ止める鎖であるかのようだった。
(……何考えてんだ、ぼく)
そこまで考えたところで、はっと我に返る。
圭司は自分の脳のメルヘン具合に、ちょっぴりその場に座りこみたくなった。
いくら暇に任せて、病室に運び込まれたおとぎ話をあれこれ読みまくったとはいえ、小学五年にもなった男がしていい妄想ではないだろう。
すっかり自分の脳が恥ずかしくなった圭司だったが、それでもやっぱりあの天使――ではなく、自分と同じ年頃の子どもが気になった。
他人の病室をのぞくなんていけないことだとわかっていたけれど、こっそりとカーテンを少し開いてみる。
傷だらけの子どもはやはり先ほどとまるで変わらない姿で、何もない中空をぼんやりと眺めていた。
圭司はそのときどうしてか、ひどく恐ろしくなった。
自分よりも遙かに体が辛そうな様子なのに、そのことにすらまるで気づいていないかのように静かな――静かすぎる姿が、今にも光に溶けて消えてしまいそうで。
勝手に病室に入ったら怒られるかな、とも思う。
けれど、病棟のオープンスペースで出会う子どもたちは、やはり入院していると暇で仕方がないからなのか、話しかければみんな嬉しそうに応じてくれる。
元々体が弱く、家族から大切に甘やかされて育った圭司は、他人の悪意や拒絶というものをほとんど経験したことがない。
通っている学園でも、友達はいつだって圭司に優しくしてくれたし、自分が笑って「ありがとう」と言えば相手も必ず笑ってくれるものだった。
それでも――その傷だらけの子どものまとう空気は、そんな圭司にさえ声をかけるのをためらわせるほど、何かが違っていた。
何が違うのかはわからない。、ただ、見ているとひどく不安になる。
どうしてあの子を見ているとこんなに不安になるんだろう、と思ったときだった。
ふいになんの前触れもなく、圭司の見ている先で、きれいなガラス玉のような瞳から次々に溢れ出した涙が白い頬を伝い、ぽたぽたと細い顎から滴り落ちていく。
声もなく、ただ静かに涙を零す姿は、ひどくきれいで――そしてどうしようもなく悲しかった。
(……悲しいことが、あったんだ)
きっと体の痛みなんて忘れてしまうほど、辛くて悲しいことがあの子にはあった。
そう理解した途端、圭司は自分が見てはいけないものを見てしまった気がして、逃げ出した。
自分の病室に戻ってベッドに潜りこみ、痛む胸を押さえてぎゅっと目を瞑る。
あんなにも深く静かに、ただひたすらに悲しんでいる誰かの姿なんて、今まで一度も見たことがなかった。
家族のみんなは、圭司が発作を起こしたり、少し苦しいのを我慢して平気なふりをしているのに気づいたときには、いつだって悲しい顔になってしまう。
そんな顔を見たくなくて、また苦しいのをちゃんと我慢できるようになるようがんばって、けれどそんなことはすぐにバレて――その繰り返し。
――圭くんが苦しいと、私も苦しいの。でも、苦しいと教えてもらえないのは、苦しくて、悲しいわ。
泣きそうな顔をした母にそんなふうに言われても、「男が辛い、苦しいなんて簡単に言うのはカッコ悪い」と、意地を張るしかできなかった。
目の前で誰かが苦しんでいるのが、こんなにも胸が痛くなることだなんて知らなかった。
家族に心配をかけているのは、申し訳ないとは思っていた。
それでもやっぱり、実際に辛いのは自分の方なのだから余計な心配なんてしなくてもいいのに、と思う気持ちがどこかにあった。
けれど――
(本当に……痛いんだ)
――家族が自分を見るたび、あんなに悲しそうな顔をしていた理由がようやくわかった。
自分の体が辛くなくても、本当に胸が痛くなることがあるなんて、今まで知らなかった。
きゅっと唇を噛んだ圭司は、自分が何をしたらいいのか、どうしたいのかもわからないままベッドから飛び出す。
再び、あの子どもの病室へと足早に向かう。
(……あれ?)
その途中で、別の病室から自分と同じ学園の制服を着た少女が、母親と思しき女性に連れられて出てくるところと行き会った。
それは何度か両親に連れられて遊びにいったことのある、久遠寺家の少女だ。
「花音ちゃん?」
いつ見ても人形のように愛くるしい彼女は、こちらに気づくと驚いたように大きな目を丸くする。
「圭司さん? どうなさいましたの?」
「あ……ちょっと、昨日から入院してて」
入院!? とますます驚いたように声を上げた花音は、すぐに慌てた顔をして口を塞ぐ。
病院で大きな声を出してしまってばつの悪そうな顔をしている花音に、花音の母は「仕方のない子ね」と苦笑した。
圭司の方を見て、柔らかくほほえむ。
「お久し振りですね、圭司さん。もしこちらで退屈していらっしゃるのでしたら、少しだけわたくしたちのおしゃべりにおつきあいしていただけないかしら?」
(え……と)
それが、入院している自分への気遣いで言ってくれている言葉だというのはわかる。
けれど、女性のおしゃべりというのは非常に「おつきあい」するのが面倒なものである、ということを圭司はすでに学んでいた。
自分の家と長いつきあいのある久遠寺家の女性たちに失礼なことをしてはいけない、と頭では理解していても、そんな圭司の表情はとてもわかりやすいものだったらしい。
花音の母はくすくすと笑って、娘の髪を軽く撫でる。
「この子のお友達がこちらに入院されたものですから、お見舞いにうかがいましたのよ。圭司さんも、お大事になさってくださいませね」
「あ……ありがとう、ございます」
面倒だな、と思ってしまった気持ちを見透かされ、圭司は赤くなりながらぺこりと頭を下げた。
「えぇと……お友達が入院って、どうされたのですか?」
気まずい思いから早口に問うと、花音の母親が何やら少し困った顔になる。
知らない相手のことを尋ねるなんて、失礼なことだっただろうか。
圭司は慌てたが、それを詫びる前に花音が母親そっくりの困った顔をして口を開く。
「それが、聞いてくださいな、圭司さん。わたしのお友達ったらなんのご本を読んだのかは存じませんけれど、いきなり『名探偵になる!』と言い出されて」
「め、名探偵?」
二年ほど前、とある名探偵シリーズを読破した際に同じ野望を抱いたことのある圭司は、密かに動揺した。
花音はそうなのですわ、とうなずく。
「それで、格好のいい名探偵になるには女性にモテなければならない、女性の心を掴むためには逞しい肉体が必要だとおっしゃって、お屋敷の裏庭でコッソリと特訓をはじめられたらしいのです」
「そ……う、なんだ?」
現在入院中だという花音の友人と、圭司はとっても気の合いそうな予感がした。なぜなら彼も二年前に、まったく同じことをしていたので。
花音が深々とため息をつく。
「ところが、身長を伸ばすために両足の足首に重りを括りつけて木の枝からぶら下がろうとしたところ、どうやらその木の枝がそんな重みに耐えられるようなものではなかったらしくて」
「はぁ……」
圭司はそこまでしなかった。
すごいなぁと感心していると、花音が痛ましそうに眉を下げる。
「それで、折れた木の枝が頭を直撃してよろめいた先にあった池に転がり落ち、危うく溺れて死にかけてしまわれたのですわ……」
どうやら足に付けていた重りが邪魔だったようですの、と花音は肩を落としている。
しかし、それは全然、まったく、これっぽっちもシャレになっていないと思う。
圭司がだらだらと冷や汗を流していると、花音は実に可愛らしく頬に手を当てた。
「本当に、今後はもっと気をつけてくださればよろしいのですけれど……。友加里さまったら、『大丈夫ですわ! 次はいつでもロープを切れるように、小型のナイフを用意することにしましたの!』とおっしゃっていたので、やっぱり少し心配なのです」
(そのお友達って、女の子なんデスかー!?)
咄嗟に絶叫しなかった自分は偉い、と圭司は思う。
それから久遠寺家の母子は、圭司に挨拶を残して帰っていった。世の中には、本当にいろいろなひとがいるらしい。
少しばかり達観した圭司だったが、そこでふと以前花音が嬉しそうに弟妹のことを語っていたことを思い出す。
――本当に、あの子たちが笑ってくれると、幸せな気持ちになれますの。何があってもあの子たちのことを守ってあげたい、と思うのですわ。
そう言って笑う花音は、本当に幸せそうだった。
圭司だって、家族や友達が自分に笑いかけてくれたら嬉しくなる。彼らだって、圭司が笑いかけたら笑ってくれる。
だったら、傷だらけでひとり泣いているあの子だって、誰かが笑ってあげれば少しは喜んでくれるかもしれない。
そう思い至った圭司は、それから時間を見つけては子どもの病室に通うようになった。
はじめのうちは、どれだけ話しかけても、まったく反応してくれなかった。
おまえはいらない。必要ない。
そう言われているような気がして、ひどく辛かった。
けれど、何度もしつこく話しかけているうちに、そのうちガラス玉のようだった瞳に感情のかけらのようなものが浮かぶようになってくる。
退院してからも、学校帰りに毎日病院に通った。
……最初に自分に向けられた言葉は、無表情での「うざい、黙れ」というなんとも心抉られるものではあったけれど、それでも相手が自分の言葉に反応してくれたことにほっとした。
そのうち、自分の好きなお菓子やきれいな挿し絵の入った絵本を持っていくようになると、静流はほんの少しだけ嬉しそうな顔をするようになった。
たったそれだけのことが、圭司は本当に嬉しくてたまらなかった。
「……圭司は、そんなに暇なのか?」
「うん。静流と同じくらいは、暇かも」
そんなふうに名前で呼び合うようになって、静流のきれいな瞳が確かに自分を映しているのを見ると、ひどく安心する。
「静流は、何が好き?」
「……せめて、ジャンルを限定してくれないかな」
「あ、えっと、お菓子?」
圭司は自分が何を言わずとも、周囲が意を汲んで動いてくれることが多かったため、あまり会話が得手ではない。気をつけていても、ついつい話題が飛んでしまう。
失敗失敗、と思っていると、静流は少し考える顔になった。それからおもむろに口を開く。
「おまえの今までの行動パターンからして、ボクが好きだと言ったお菓子を、山ほど持ってきそうな気がする。だから、教えない」
圭司はがーん、とよろめいた。
「えええっ!? ひどいよ、静流!」
「ひどくない。あまり家のひとに迷惑をかけるな」
「迷惑なんてかけてないってば!」
圭司はぷうっと頬を膨らませた。
家族は迷惑顔をするどころか、圭司に友達ができたことを大層喜んでいる。自分たちで見舞いの品を選んでは、嬉々として圭司に持たせているくらいなのだ。
むしろ毎日、どれを圭司に持たせるかで家庭内闘争が勃発しているのだから、ちょっぴり困っているのはこちらの方である。
密かにため息をついた圭司に、静流は真顔でぼそっと言う。
「男が拗ねても可愛くないからな」
「男が可愛いなんて言われても嬉しくないから!」
――穏やかな日々を過ごす中、圭司は世話係から静流が交通事故で家族を亡くしたこと、退院したら知らない人間ばかりの遠い施設に入れられることを教えられた。
そんなのはダメだ、と思った。
そんなことになったら、せっかく少しずつこちらを見てくれるようになった静流と、二度と会えなくなってしまう。
静流に、忘れられてしまう。
圭司は生まれてはじめて両親に、自分以外のことでわがままを言った。
だって、静流はまだ笑ってくれていない。
もし自分の知らない誰かに知らないところで傷つけられたら、またはじめの頃のように静流の全部が凍りついてしまうかもしれない。
最初は渋っていた両親も、圭司が「静流を助けてくれなかったら、丸坊主になってやるから!」と宣言した途端、この世の終わりのような顔をして折れてくれた。……まさかこの曾祖母譲りの派手派手しい髪に、感謝する日がくるとは思わなかった。
母が今にも卒倒しそうな顔になったあと、次の瞬間父に「よろしいですわよね?」とにっこり笑いかけていたのは、ちょっと怖かった。
そのときの父の顔は、見えなかった。
とはいえ、静流が自分の家に引き取られることになって、圭司は安心した。
最初のうちは、『新しい環境に慣れるまでは』という理由でなかなか会わせてもらうことはできなかったけれど、それくらいはと思って我慢した。
そうして、久し振りに会った静流は、笑っていた。
きれいに、穏やかに――話し方まで変わっていたのは少し驚いたけれど、優しく落ち着いた口調で語られる言葉は耳に心地いい。
何より静流が笑ってくれたことが嬉しかったから、そんな些細なことはどうでもよかった。
けれど――
「圭司さんが、自分をこちらに引き取ってくださるよう、旦那さまにお願いしてくださったと聞きました。ありがとうございます」
「え? えっと、そんなのはいいんだけど……?」
――何かが違う、と思った。
その何かがわからないまま、困って静流を見つめると、再びにこりと穏やかな笑顔を向けられる。
「どうかなさいましたか?」
「えと……なん、でもない?」
一瞬胸を過ぎった不安は、『静流が笑ってくれた』という喜びに簡単に押し流されて消えてしまった。
(ま、いっか)
元々きれいな顔立ちをしているとは思っていたけれど、柔らかな笑顔を浮かべると静流は本当にきれいだった。こんなにきれいな静流と、これからはずっと一緒にいられるのだと思うと嬉しくて仕方がない。
学園へも一緒に通えることになって、静流が知らないところで傷つけられたら困ると思ったから、わざとわがままを言って独占した。
そのたび静流は少しだけ困った顔をしたけれど、すぐに「仕方がないですね」と笑ってくれる。
元々仲よくしていたクラスメイトたちは、やっぱり少しあきれた顔をしていた。
けれど、静流が「ボクが事故の後遺症のせいで、少し体が不自由なものですから。圭司さんは、どうしても心配されてしまうんですよ」と笑って言うと、すんなり納得してくれる。
彼らは「エラいなー、おまえ。がんばれ番犬!」などと言いながら、軽く圭司の頭を小突いて笑っていた。
ときどき、屋敷に籠もってばかりの静流を連れて抜け出したときに少し怖い思いをすることもあったけれど、静流が「大丈夫ですよ」と言ってくれると何も怖いことはないと思えた。




