久遠寺花音 前編
「まあああぁ、可愛らしいお嬢ちゃんだこと!」
――気がついてから、この手の褒め言葉を何度ちょうだいしただろうか。
二階堂みゆき、二十一歳。
つい先日まで、彼女はリクルートスーツに身を包み、手首が腱鞘炎になるほどエントリーシートを書きまくり、面接対策マニュアルを頭に叩き込むことに躍起になっている公立大学の学生だった。
それが一体なぜこのようなことに――と、遠い目をしながらお空のカラスに向かって「うふふー、元気ー? あたしは元気ー」と心の中でご挨拶すること数十回。
……それだけ現実逃避を繰り返していれば、いやでもあきらめがつくというものだ。
ある日目が覚めたら、みゆきはやたらと煌びやかな、乙女カラー満載の部屋にいた。
こんな夢を見るとはあたしの脳髄もよほど疲れていたんだな、と少々感心しつつ、もそもそ寝返りを打っていると、「かのんちゃん? かのんちゃん、目が覚めたのね!? あああああ、よかった、神さまありがとうございます!」という女性の泣き声とともに、ぎゅうううう! と抱きしめられたのだ。
一体何事!? と完全硬直してから数日間のことは、少々割愛させていただきたい。
おそらくは、世の「ある日突然、フィクションの世界に転生しちゃったYO」な物語の主人公と、そう変わらぬ展開を辿ったものと思われる。
そしてそのフィクション世界とやらが、サークルの先輩(男性)宅に遊びに行った際に発見してしまった、きらきらとした乙女ゲーム世界だと理解した瞬間、みゆきは「よっしゃあああああ!」とひとり快哉を叫んだ。
なぜなら、みゆきの現在の体である『久遠寺花音』というキャラクターは、いわゆるところの『ライバルキャラ』。
ヒロインの前にふはははは、とふんぞり返って立ち塞がり、そのラブストーリーを一層煌びやかなものに彩るための悪役として設定されているだけあって、そりゃもうとんでもないハイスペックさなのである。
家柄・容姿・頭脳に運動神経。
頭脳と運動神経に関しては、もちろん成長過程での本人の努力が多くものをいうところだろうから、これからのこつこつとした努力は欠かせないだろう。
だが、家柄、何より容姿に恵まれている、というのは人生においてかなりのアドバンテージなのだ。
『~ただし美形に限る』というフレーズは、『人間、見た目じゃないよ! 中身だよ!』というキレイゴトなどよりも、遙かに確かな真実なのである。
数多の就職戦線をくぐり抜け、そのすべてに敗北してきた己と、美貌を有する知人らとの歴然とした差を幾度も目の当たりにしてきたみゆきが言うのだから間違いない。
彼女は件の乙女ゲームを、実際にプレイしたことがない。
だが、ちょっと新宿二丁目に片足を突っ込んだような先輩に興味本位で尋ねたところ、怒濤の如くその魅力を語ってくれたため、必要最低限と思われる知識は持っている。
みゆきはこれからこの世界で、『久遠寺花音』として生きていかねばならない。
しかし、これから出会うだろう人物たちの基本的な性格だの、抱えているトラウマだの、あるいは密かに誇っていること、苦手分野や弱点などを自分ばかりが一方的に知っているというのは、なんというかこう……非常に申し訳ないことのような気がした。
もし自分が、そんなプライベートかつ繊細極まりない問題を赤の他人に知られていたら、と考えると、かなりぞっとする話ではないか。
現実とゲームは違うのだ。
とはいえ、今後自分が『傲慢で、周囲がちやほや甘やかしてくれるから世の中なんでも思い通りになると思っている、見た目はすんばらしいけど中身はアッホーなお嬢さま』になる予定がない以上、バタフライ効果によりそれらに変化が生じる可能性はいくらでもある。
そういうわけで、みゆき――花音は、こんなイージーモードの人生を歩めることをどこかの誰かに感謝しつつ、前向きにこれからについて模索することにした。
かつて当たっては砕けるばかりだった就職戦線に比べれば、名門オカネモチ学園所属の初等部お受験など屁のカッパ――というのは少々考えが甘かったが、どうにかクリア。
ついでに、本来なら花音はひとりっ子のワガママ娘な設定であったはずなのだが、「お母さまぁ。わたし、妹か弟が欲しいです(スマイルぜろえんー)」「まぁ……。かのんちゃんってば……(ぽっ)」というやりとりののち、見事に双子の弟妹をゲット。
みゆき時代もひとりっ子で、兄弟姉妹というものに憧れていた花音は狂喜乱舞し、その結果見事なブラコンシスコンに成長した。
年の離れた弟妹というのが、これほどスペシャルに愛くるしい存在だったとは……ッ、と握り拳を作りつつ、悠斗、ありあと名付けられた彼らの『カッコいいお姉ちゃん』となるべく、自分磨きに一層の情熱を燃え上がらせた。
この愛しい子どもたちに、カッコ悪い背中なんぞ見せられるかってんでぃ畜生め! といういなせな心意気である。
幸いというか当然というか、基本スペックが非常に高い花音は、努力すればするだけ結果が出るのがまた嬉しいところだ。
学校ではウフフオホホとお嬢さまたちと交流の輪を広げながら(コネというのは大事である)、「将来はお父さまの秘書になりたいのです!」と双子が生まれてからますます子煩悩になった父親を誑かして有能な家庭教師をゲット。
たまに「お母さまのような素敵な女性になりたいの」と母親にねだり、お高いエステに同伴させてもらう。
そんな努力を重ねていれば、学園の高等部に上がる頃には、花音がぴっかぴかのハイスペック美少女に育ち上がるのは必然というものであった。
(ふ……っ、お父さま、お母さま、ありがとうございます。悠斗とありあのことは、何があってもわたしが一生守ってみせますから安心してくださいね!)
……この時点で、花音は自分が『乙女ゲームのライバルキャラ』であることを、きれいサッパリ忘れていた。
毎日忙しく懸命に生きていれば、『みゆき』であった頃の記憶も久しく薄れる。
時折、以前の両親のことを思い出して切なくなることはあったけれど、今の自分を『我が子』として守り、愛してくれている両親に対する感謝と愛情の方が大切なものになるのは、仕方のないことだと思う。
『みゆき』であった頃にはできなかった分の親孝行を、今の両親にさせてもらう、というのもおかしな話なのかもしれない。
それでも、今の自分にとって大切なのは、紛れもなく今の家族なのだ。
そういうわけで、高等部の入学式当日。
花音はいつも通り、今日は可愛い盛りの双子と何をして遊ぼうかしら、と考えながら学園へ向かっていた。
(ふんふーん、悠斗は桜のアイスが好き~。ありあは苺のアイスが好き~。どっちもピンクで可愛いの~)
……そんなふうに、かなり姉ばか、というかおばかな自作の歌を脳内で歌っていた花音は、ふと視線を向けた先で目にした光景に、危うくすっ転ぶところであった。
満開に咲き乱れる桜の木の下で見つめ合う、背の高い少年と小柄な少女。
それはまさに、かつて見た乙女ゲームのパッケージに印刷されていたイラストそのものの構図であった。
(えぇと……。男の子の方は、確か久我志郎くん、だったかしら? あの子、攻略キャラだったんですね……)
この世界のゲーム知識は、もうほとんど花音の頭から飛んでいる。
十年一昔。歳月というのは残酷だ。
とはいえ、初等部の頃から同じ学舎に通っていれば、たとえ一度も同じクラスになったことがなくても顔と名前くらいは知っている。
ヒロインの顔は、見知らぬものだ。
おそらく、彼女は高等部から入学する外部生なのだろう。
これから彼女が、どんな恋愛物語を紡いでいくかはわからない。
しかし、これからの一年で彼女の人生は大きく変わるはずだ。
……素朴な疑問なのだが、乙女ゲームの登場人物たちというのは、あれほど恋愛方面ばかりにかまけていてきちんと勉強をしているのだろうか。
いくらイケメンでも、学生の本分である勉学を疎かにするような脳内お花畑の持ち主であるなら、将来は決してイイ男にはなれないと思う。
正直なところ、あまり関わり合いになりたい相手ではない。
こちらは『ライバルキャラ』として邪魔をする予定は一切ないので、どうぞがんばってくださいね、と胸のうちで合掌した花音が、そそくさと踵を返したときだった。
「……あぁん!? こんなところで朝っぱらから転がってる方が悪いんだろ!?」
「おまえは! 思いっきりひとの腹を踏んでおいて、よくもそんな偉そうな口を叩けたもんだな!?」
(……はい?)
――辺りに響き渡ったのは、とても乙女ゲームのオープニングとは思えない、ドスの効いた言い争いであった。
通りかかったほかの生徒たちも、揃って何事かと目を丸くして振り返る。
そんなことになどまるで気づいていないのか、肩の辺りまで伸ばしたふわふわの髪を軽く揺らした少女は「はっ」と鼻で笑った。
「ったく、これだから軟弱なお坊ちゃまは。さっさと家に帰って、優しいママに慰めてもらったらどうだ? 『ままー、ボク、女の子にぽんぽん踏まれちゃったー』」
一方の志郎も負けてはいない。
「おまえこそ、『悪いことをしたらゴメンナサイ』というヒトとして最低限かつ基本的すぎるスキルを、一体どこに落としてきた!? 小学生から人生やり直して、正しい他人とのつきあい方ってもんを一から勉強し直してこい!」
その途端、なぜか少女の顔が強張った。彼女はふるふると肩を震わせたかと思うと、くわっと目を剥き、叫んだ。
「おれだってなああああぁ! できるモンなら正しくふつーの人生やり直してえんだよ、こん畜生ーっっ!!」
その魂から迸るような叫びを聞いた瞬間、花音は悟った。
――あのヒロインが、自分の同類。
しかもおそらく、以前は男性であったのだろうということを。
(な……なんという、可哀想な子なのでしょうか……っ)
そのとき、花音ははじめて他人の不幸で泣きたくなった。
少女の意味不明な主張に、攻略対象――であったはずの志郎は、完全にどん引きして後退っている。
そんな志郎をぎっと睨みつけると、少女はやけに男前な仕草で鞄を肩に引っかけ、何事もなかったかのようにその場を去った。
なんとも言い難い空気の中、志郎はそばに落ちていた鞄をのろのろと拾い上げる。
その際、鳩尾の辺りを抑えて顔を歪めたのは、きっとあの少女に力一杯踏まれたからなのだろう。気の毒に。
大丈夫だろうかと思って眺めていると、ふと顔を上げた彼と視線が合った。
途端に、ぱっと顔を背けた志郎の目元が、赤い。
(あ。申し訳ありません)
花音は、自分の見た目が大層な美少女であることを自覚している。乙女ゲームのライバルキャラなのだから、当然だ。
あんなわけのわからないやりとりを、そんな美少女に目撃されてしまったとなれば、お年頃の少年としてはそれはもうこっ恥ずかしかっただろう。
ここは見なかったことにして早々に立ち去るべきかとも思ったのだが、ばっちり目が合ったというのにシカトして即座に撤退、というのも感じの悪い話である。
これだけ派手な騒ぎのあとだ。
噂話というのは、どこでどう歪んで広がるかわかったものではない。
花音は、愛しい弟妹のために『お嬢さまスキル』をこれでもか! とばかりに磨き上げた今の自分が、この学園の中でかなり目立つ存在であることも理解している。おかしなことをしては、のちのち面倒なことになりかねない。
そういった思考の結果、花音はとりあえず保身に走ることにした。
『良識あるお嬢さま』に相応しく心配そうな表情を即座に作り上げ、「大丈夫でしたか?」と志郎に声をかける。
「あ……あぁ。なんともない」
ぎこちなく答えた志郎に、花音はほっとした。
美少女に気遣われたというのに、やせ我慢のひとつもできないイケメンなど、たとえ乙女ゲームの世界ではなかったとしても存在していてはいけない。
(それにしても……)
さすがは攻略キャラ、というべきなのだろうか。
こうしてまじまじと見るのははじめてだが、志郎はちょっと感心してしまうくらいにきれいな顔立ちをしている。
まだ幾分幼さは残っているけれど、風になびくさらさらの前髪といい、少しやんちゃっぽさを感じさせる気の強そうな瞳や清潔感のある口元といい、さぞ周囲の女生徒たちから熱い視線を集めまくっているに違いない。
(ふ……っ、わたしの悠斗の方が、百万倍可愛いですけどね!)
もし他人様に聞かれたら、「いや、男子高校生は可愛さで小学生と勝負しようとは思わないから」とツッコまれそうなことを思いつつ、花音はにっこりと笑った。
「そうですか。よかったですわ。では、ごきげんよう」
花音が今気になっているのは、景気よく踏まれたらしい志郎の腹具合よりも、あのヒロインの存在である。
同病相憐れむ、というわけでもないが、ちょっぴり同じ境遇に落ちた者同士の連帯感のようなものを感じたのだ。
自分はかなり恵まれた環境でのほほんと生きているが、あのゲームのヒロインということは、いろいろと苦労を感じさせるような設定が組みこまれていたはず――である。
……その辺はやはりきれいサッパリ忘れてしまっているが、中身がアレである以上、覚えていても無駄だったろう。
少女の姿は、とうに人混みに紛れて消えている。
いずれまた会うことがあったら話しかけてみようと思いながら、花音は入学式の執り行われる体育館へと向かった。