最終話
連載の投稿方法を間違えたため、第1話から第3話までは別々の小説として投稿されてしまっています。分かりづらくて申し訳ありませんがどうぞおつきあいのほどを…
夕暮れ時、儀助の部屋には権治とお種、シンザが集まっていた。光徳尼は厄神の札を机に置き、古草紙を手に持つと、愛染明王の真言をゆっくりと唱え始めた。シンザは部屋の隅に胡坐をかいて座り、錫杖を両手で抱えていた。権治とお種には、どのような怪異を前にしてもうろたえてはならぬ、もしシンザの錫杖が見たこともない姿をさらしたときはすぐに儀助を守るべく布団ごと部屋の隅に引きずっていくようにと指示しておいたが、それをきいた二人は恐れおののき、何を思ったか権治は鍬を、お種は鎌を手にして部屋に陣取ったのである。危なっかしくて見ていられないからと光徳尼が諭しても二人は頑としてききいれず、ひたすら身を固くしていた。
半刻を過ぎた頃、庭から聞こえていた鈴虫の声がふいに止んだ。気付いたシンザが顔を上げると同時に部屋の中にどこからともなく冷たい風が吹き、三つも立てていた灯明の火が全て音もなく消えた。お種が思わずヒィッ、と声を上げたがすぐに権治がその肘をつかんで黙らせた。光徳尼はすでに何百回も唱えた真言をもはや古草紙を見ずに、暗闇の中で唱え続けた。明かりの消えた部屋の中では、生気のかけらも見られない儀助はもはや人形のようであり、すぐそばに控えている権治やお種の眼にも生きているかどうかの見分けがつかなかった。光徳尼は全てを見届けておきたい思いに幾度となく駆られたが、今はこの真言に全てを捧げる時ぞ、と自らに言いきかせ、半眼のまま唱え続けた。間もなく、天井裏あたりからドドン、ガラガララと雷鳴のごとき音が立て続けに響いたとか思うと、天井の一点がいきなり雲が湧きだすかのように黒い霞を発した。その点が見る間に穴になり、そこから漏れ出た赤茶の霧が部屋に立ち込めた。部屋が霧で満たされ、もはや隣に座る権治とお種のお互いの顔が見分けられなくなるぐらい濃くなったとき、天井の穴から青白い足が伸びてきた。足の次は膝、腰、胴、胸、首と徐々に表れ、顔が見えるとほぼ同時に足が畳に着いた。怪しき影はいったん畳の上に屈み、ゆっくりと立ち上がった。神官を思わせるいでたちに身を包んでいたが、胸元まで伸ばした髪は大半が白く、しかもやや縮れて乱れていた。髭は顎一面を覆い、これもところどころが白かった。眉間には深い皺が刻まれ、落ちくぼんだ眼窩の奥には尋常ならざる光が宿っていた。
それまで息をひそめてじっとしていた権治とお種が、兎のごとく飛び跳ねたのはその時である。二人は声にならない声で、キエェッ、ほりゃあっ、と同時に叫ぶと儀助の枕元に飛びつき、わき目もふらずに布団を引っぱった。お種は儀助の首元から頭のあたりを抱え、権治は齢に似合わぬ腕力で迷うことなく布団をひきずり、一瞬で儀助を部屋の隅に動かしてみせた。影がその気配に気づき、ひどくゆっくりと三人のほうを見やった。
半眼を保っていた光徳尼もここにきてついに意を決し、真言を唱えたままおもむろに眼をいっぱいに開いた。その眼に飛び込んできたのは自らと正対して立つ、この世のものとは思えぬ気配をたたえた男の影のようなものの姿と、その後ろから忍び寄る赤銅色の一筋の光だった。息を飲む間もなくその光は影に向かって振り下ろされ、影はグオォッという、獣のような唸り声をあげて片膝をついた。
光徳尼はその姿をしかと見すえながらも、壁際まで少しずつ後ずさりした。真言を唱え続けてはいたが、目の前の光景にくぎ付けになっていた。シンザは既に二度、三度と錫杖を影に振り下ろしていたが、それはまるで炉に入れた鉄のごとく赤々と輝いていた。人の手が触れればたちまち焼き切れてしまうほどの熱を帯びているように見えるその錫杖を、シンザはまるで薄の穂のごとく軽々と振り回し、儀助のほうに手を伸ばそうとする影をさんざんに打ちのめした。なおもしぶとく手を伸ばそうとする影に向かって、お種がなにやら甲高い声で叫びながら手中の鎌を投げつけたが、影に当たるやいなや刃先は音もなく錆びて砕けてしまい、柄は白い煙を上げ、灰になってしまった。影の足元にある畳は既に真っ黒に変色し、グジャリ、バリと音を立てて腐りはじめていた。
シンザの錫杖についに耐えかねたか、影はうつぶせに倒れた。雲つくような大柄な姿にもかかわらず、音もなく畳に顔をつけた影にシンザは錫杖を押し付け、皆がきいたこともないような大音声で
「きさま、なにが厄神じゃ」
と一喝した。影は地響きを起こさんばかりのうめき声をあげていたが、肩に食い込む錫杖の痛みに耐えかねたか、しだいにその声も小さくなった。
「きさまがこの若い者を苦しめてきたことはすでに判然としておるわ。厄神じゃなんじゃとつけあがるな。皆の苦しみを取り除こうという真心に付け込んでかような病苦を押し付けよって、お前が自らやればいいものを。誰かに代わりにやらさねばならんとは、しょせん厄神などと言ってもそのようなものか。この、なんとか返答せんか。」
シンザは影の、首から肩とおぼしきあたりに錫杖をすえ、その上を力の限り踏みつけた。たまりかねた影は弱弱しくシンザに語りかけた。
「もうよせ、よしてくれい。それがしとて好き好んでこのような者たちを苦しめるつもりはござらん。それがしの力が不足なのは、自身でもわかっておるのだ。頼むから、厄神の名をそこまで貶さんでくれい。」
錫杖の痛みに加え、シンザの鬼のごとき形相にひるんだのか、影は今にも消え入りそうな声で語りだした。
…それがしはもともと神戸の、谷間の小さな村の武家の者でござる。それがしが当主のころ、京を追われた三人の女官達に頼られしばらく面倒を見たことがあるのじゃが、その女官達がかつての僚友で、遊女に身を落とした者達まで連れてくるようになってな。それがしは困ったのじゃが、なにせ奥(妻)がちょうど伴天連にかぶれておる頃でやたらとそれらの肩を持つので、いたしかたなく世話をしてやることにした。それがしが死んでからの子孫たちは播磨の奥の方に移ったが、いつのまにやらそれがしを遊女の護り神だという者が集まりだして、気が付けば浦住厄神という名で祀り上げられてしまった。明王様の足元にも及ばないそれがしを祀ったところで利益など大したこともないのに、信心深い者はどこからか名を聞きつけて遠路を苦にせずやってくる。たまりかねたそれがしはさんざん考えた後、呪符と真言の正しい組み合わせでのみ発現する、人の病苦を吸い取るという霊験を与えることにした。この者もそれを承知で呪符を手にし、真言を唱えたはずじゃぞ。自らの最期を悟ったときに改めて呪符と真言をそろえれば、それがしがやって来て厄もろとも魂を引き取ってやることになっておるから、こうしてこのとおり現れたというのに、まさかこのような目に遭うとは…
「まことだな、呪符と真言を組み合わさねば起こらぬのだな。」
シンザの問いに厄神は小さくうなずいた。それをきいた光徳尼はまなじりを決して手元の札をとり、厄神の顔のほうに向け、叫ぶように言った。
「厄神様、この札の裏をご覧くださいませ。あなた様の言葉がまことであれば、この札には誤りがございます。」
厄神は彼女の言葉を信じられないようだったが、呪符の裏を穴が開くほど見つめた後で悲しそうに首を横にふった。
「なんとしてからに、何者かが呪を書き換えておる…それがしの呪符であらば終わりの方に十字を丸で囲んだ印があるはずなのじゃが…さては、伴天連の禁教のせいか。奥がどうしてもと言うので仕方なく入れた印が、おぉ、このような災いを生むとは…」
錫杖を踏みつける足を下ろすことなく、シンザは厄神に顔を近づけると、
「では、いますぐこの若い者の厄を全て引き取って、ここから消え失せろ。さもなくばこのままきさまを押し潰してくれようぞ。」
と大喝した。厄神はあわてて、沫を食わんばかりに、
「よ、よせ、いくらなんでも神殺しは世の摂理に反する大罪ぞ。それがしとて無益な祟りなど望んではおらん。この者の厄は望みどおり引き取ってやるから、早まったことをするでない。」
と早口に言い切ると、儀助のほうに掌を向けた。儀助の体から何やら赤黒い霞が立ち上ったかと思うと、真っ直ぐに厄神の掌に吸い込まれていった。厄神は軽く顔をしかめ、わずか五年とは思えぬ量の厄じゃの、とつぶやいた。
儀助の頭を抱きかかけていたお種がおそるおそるのぞき込むと、赤黒の霞が晴れるとともにまるで別人のように血色の戻った顔が浮かび上がった。呼吸は眠るように穏やかで、お種が額に手を当てると痛がりもせず、うれしそうに微笑んだ。あぁ、あんた、とお種に呼ばれ権治が駆け寄るとその姿をみとめた儀助の口から「ご、んじ。せわ、かけた、なぁ。」と声が漏れ、ききとった権治は、ぼっちゃあーん、と叫ぶと同時に儀助の肩をしっかりと抱きしめた。権治の皺だらけの頬を大粒の涙がつたった。
その姿をみとめたシンザはようやく錫杖から足を下ろした。厄神は自由になった肘を、腕をついて畳から起き上がると、立膝をついてシンザのほうに向きなおり、
「ぬしのそれは相当の業ものじゃな。」
と低く言い放った。シンザはまだ錫杖を厄神にむけて構えたままだった。見れば先ほどまでまばゆいほどの赤い光を放っていた錫杖はすでにもとどおりの沈んだ朱色に戻りつつあったが、それでも厄神に向けられた先端はわずかに熱を帯びた鉄を思わせる赤黒色をたたえていた。
「神をも弑するそのような得物、これからどうするつもりじゃ。下手をするとぬし、ろくな死に方をせぬとも限らぬのだぞ。」
厄神の落ちくぼんだ眼窩の底で琥珀がかった光をたたえた眼が動く。しかしシンザは口を軽くへの字に引き締めたかと思うと、こう言い放ったのである。
「知らぬわ、おまえも、わしも。知りたくもない。」
その言葉を最後まで聞き届ける間もなく、厄神はシンザに背を向けると音もなく姿を消した。赤茶の霧がまばたきする間もなく薄れていき、後には数十年は経ったかと思われるほど腐りきった畳が残されていただけだった。
晩秋の冷たい風が吹く朝、光徳尼と真子、シンザは汗入の村を去った。別れの時には村の外れまで皆が見送ってくれたが、きけばみなシンザへの土産を手にしていた。鍛冶屋の源一は、今まで一番出来のいいやつです、と言って旅使いで持て余さない程度に刃の短い山刀を、ある者は真新しい編み笠を、ある者は干し柿を、ある者は鱒鮓を、ある者は干し芋をと競って渡そうとし、「まぁ、待って下され、わしは茶屋を開くつもりはありませんぞ」というシンザの言葉にみなドッと笑ったほどだった。ただし、編み笠は被るのはあいかわらず古い方で、形の崩れていない真新しい方はいつまでも手に持ったままであった。
汗入から三里半ほど進んだ先で、道はふたまたに分かれていた。光徳尼は北に向かう道に歩みを進めたが、シンザの足は道端に立てられた六体の石仏の前で止まった。彼はしばらくの間それらを眺めていたが、光徳尼に向かってたずねた。
「地蔵菩薩はどちらでしょうかな。」
光徳尼は改めて六体に向きあった。それらはどれも真新しく、鑿の跡が触れずとも分かるほどくっきり残っていた。しかしその足元には握り飯や団子が多く供えられており、燃え尽きて灰になったばかりの線香さえ見受けられた。
「…こちらです。こちらの、右から三番目。」
彼女に呼ばれてシンザは地蔵の前に立ったが、あいかわらず首をかしげていた。
「地蔵尊は必ずと言っていいほど、ほれ、錫杖を持っていらっしゃいます。」
光徳尼はそういって石の地蔵の前に立ち、右手の位置に刻まれた杖の模様を指さした。
「シンザ殿も、他はともかく錫杖はお持ちなのですから、覚えておかれるがよいかと。いかがです。」
諭すような光徳尼の言葉にもシンザは軽く眼を伏せるだけだった。そうして、いつものもそりとした声でつぶやいた。
「首に掛ける、あの赤い布が無ければ、わしにはとても分かりませんな。」
「あれは赤子に掛けるよだれかけでございます。赤子が生まれた家のものが、すこやかな成長を願って奉納するのです。この近くの村にも、これからきっと」
そこまで言って光徳尼は言葉に詰まった。ここにある六体は全て菩薩像であり、おそらく同時に造られたのであろうが、この六体を新しく村の入り口に安置する、それだけのことが、この近くの村では起きたのである。
光徳尼が気を取り直してシンザのほうを向くと、、彼はゆっくりと古い笠を脱ぎ、地蔵の頭に乗せ、緒を丁寧に結びつけた。そうして、手に持っていた新しい笠を被ると、
「わしの行く先はこちらです…これも、そういっておる。」
と言って錫杖に眼をやった。その言葉には迷いのかけらもないことが光徳尼にはもはや当然すぎることのように思えた。彼女は真子を呼び、シンザの前に立たせた。
「わしはここまでじゃ。腹いっぱい食って、お師匠様のことをちゃんときけよ。」
いつも言い聞かせていることなのに、真子は初めて耳にするような顔でシンザの顔を見つめた。すぐに瞳から大粒の涙があふれてきたが、シンザはそれをみとめてももはや眉ひとつ動かさなかった。
光徳尼は前を再び通り過ぎたシンザに、かける言葉が見つからなかった。彼はゆっくりと歩を進めたが、その先は下り坂になっており、じきに背中が沈みゆく夕陽ににじんで消えた。石仏の横に生えた柿の木から風に吹かれた葉が落ち、真子の額をかすめた。
(了)
時代考証やつじつま合わせよりも物語を描き切ってしまうことを最優先で、大急ぎで書き上げたように記憶しています。2年経った後では自分の作品とは思えないのですが、せっかくあれだけの熱を込めた作でもあるのでここに発表させていただきました。