第5話
連載の投稿方法を間違えたため、第1話から第3話までは別々の小説として投稿されてしまっています。分かりづらくて申し訳ありませんがどうぞおつきあいのほどを…
翌日は大風であった。家じゅうの雨戸を閉めきり、庭に出ているものを全て取り込んでもなお、あちらでバタン、こちらでガタンと音がする。昼過ぎからは雨が降りだし、やがて激しい雷鳴が鳴り響いた。シンザは、この雨風では柿が落ちてしまう、甘藷が傷む、あの淵にいる鯉が流されてしまうなどとぼやきながら、編み笠の緒を換えていた。真子は手習いの最中にも鳴り響く雷にすっかり怯えきってしまい、シンザの背中に抱き着かんばかりにひっついて離れたがらなかった。そしてその隣室では、光徳尼とお種が儀助を懸命に介抱していた。今朝、大風が吹きはじめる前ぐらいに突如容体が悪化したのである。息はどんどん荒くなり、薄くなった胸を破らんばかりの激しい咳が出るたびに眉間にしわを寄せて呻いた。食欲が戻った時に十分な滋養を摂ったことが幸いだった、かりにこの熱があと三日続いても持ちこたえるであろうと光徳尼はよんだが、それとて虫の良い望みを多分に含んだものだった。なにより、解熱薬が今回はまるで効かないのが彼女の不安を深いものにしていた。
翌日の夜、遅い夕餉を済ませ、やっと容体が安定した儀助が寝付いたのを見届けた光徳尼は厄神の札を机に置き、古草紙の愛染明王の頁を開くと、そこにある真言を唱え始めた。すると、すぐに部屋の隅で突然ドスンという音がしたので驚いて目をやると、壁に立てかけてあったシンザの錫杖が倒れていた。さすがに鉄の錫杖は重いのう、とひとりごちながら部屋の隅に、立てかけるのではなく横にして置いた。幸い隣室の真子はぐっすりと寝こんでいるようだった。再び真言を唱えはじめると何やらかすかにだが、彼女の横に静かに忍び寄るものの気配がした。半眼で一心に唱えていた彼女はなかなか気づかず、また、つまらぬ邪念に惑わされてはならない、と取り合わなかったが、さすがに彼女の膝に付かんばかりに近づいた気配に眼をあけると、そこには先ほど確かに部屋の隅に寝かせて置いたはずの錫杖が転がっていたのである。しかも、灯明が照らしきれない暗がりのなかで、わずかに赤黒い光を放っており、目を凝らして見なければ大蛇と見間違えんばかりであった。
「どうやら、本物のようですな。その真言も、札も…」
光徳尼を驚かさないようにであろう、わざと聞こえるような足音をたててシンザが部屋に入ってきた。
「こ、この錫杖は、いったい、どのような所縁があるのです。何かご存知なのでは」
「わしも詳しいことは知らんのです。」
シンザはやや気乗りしない様子ではあったが、ぽつりぽつりと言葉をつないだ。
…わしの古里の近くで昔、えらい合戦があったそうで、その時の打ち捨てられた刀や鉄砲やらを集めて、融かして鍬や鋤にしようとしたことがありましてな。ところが、その中の長太刀で、どうやっても融けないのがあったそうです。何をどうやっても融けず、それどころか他の太刀や槍や長刀をまるで食っちまうみたいに引っ付けて、太る一方だったそうです。鍛冶屋が気味悪がったそうで近くの寺に聞いてみたら、きっと血に飢えた侍の『フショウノコンパク』(不祥の魂魄)が宿っているから、だったか、何の罪もない者の手に下手に渡ってはまずい、錫杖にしてうちの仏さんにお供えしろと言ったらしいんです。それで鍛冶屋も一所懸命仕立て上げようとしたんですが、どうやっても飾りの輪は取りつかないし、なにより真っ直ぐになってくれん。とうとうあきらめて、こんな出来損ないじゃ仕事したことにならない、もう好きにしてくれって寺に渡したそうです。でも、ここまで不格好な錫杖は寺でも困ったらしくてね、長いこと蔵の隅に置いたままだったそうで。なのでわしがこの旅に出るときに貸してくれっていったら二つ返事で渡してくれましたよ…
「では、この真言やお札に魅せられて、錫杖が引き寄せられるのでしょうか。」
「それもわしでは分かりません。」
シンザは相変わらずの口調で答えた。
「ですが、わしもこれと旅をしていて、いろいろ妙なことに出くわしております。」
そういって語るシンザの話はどれも奇妙なものばかりだった。山道で熊を見つけると、シンザが声を発する前に熊のほうが錫杖の音を聞きつけて退散してしまう…ある時は夜の峠で山犬の群れに囲まれたが、近くの木に登り、梢を錫杖で叩いているうちにその音を嫌がったのかみな尻尾を巻いて逃げて行った…どれだけ辺鄙な田舎に向かっても、「これが引っ張る力を感じながら」歩いているとたいてい山寺にたどり着き、野宿を逃れられる…他の者であれば「まぐれ」のひとことで片付けてしまうようなことも彼は、これのおかげである、と愚直なまでに信じている気配が感じられた。そのとき、光徳尼はかつて無頼たちに囲まれ、素浪人に太刀で斬りかかられた時のことをまざまざと思い出していた。どちらも、直に相手を打ちのめしたり、相手の刃物を受けるのに使ったりせず、今思えば彼が錫杖を必死になって守っていたかのようにさえ見えるのである。ようやく落ち着きを取り戻した光徳尼が、しみじみと言った。
「それほどまでに不可思議な霊宝でございましたか。こうして、あなたさまが手にされておられることもなにかの深い縁が」
「そのようなたいそうなものではありますまいて。」
さえぎるように、シンザがさらにぶっきらぼうな調子で言い切った。
「これを持っておると、なんといいますかな、とてつもない力がこみ上げてくることがありますが、それに身を任せることが怖ろしくなるときがあります。わしとて生身ですからな、斬られれば痛いし血も出ます。じゃがこいつはそれに構わず、わしをせかしたてるのです。どんなものが相手でも…」
どんなものが相手でも、ときいて光徳尼はシンザの顔を見やったが、彼はすぐにいつものように眼を細めると、やがて下を向いてしまった。
しばしの沈黙の後、シンザはこう言って寝床へ戻っていった。
「どのような力があるか、何のために生まれてきたか、こいつのことは分らんままです。それこそ、み仏でなければ分からんことかも知れませんな。」
数日の後、儀助の容体がまた悪化した。熱は上がったままでもはや薬は全く効かず、夜半過ぎには一度だが脈が止まりさえし、もはやお種や権治は何も手に付かず泣き崩れる寸前であった。二人を叱咤し儀助の介抱を続ける光徳尼にも、これは覚悟を決めねばならぬな、という心の声がきこえ、その度に首をふって打ち消した。咳と熱は明け方にようやく落ち着いたが、もはや儀助の呼吸は聞き取れるかどうかまで小さくなり、顔からは一切の生気が失せていた。
遅くなった朝餉の席で、柿のなますをつついていたシンザがぽつりとつぶやいた。
「真言、でしたかな、お札を置いて、一心に唱えたらどうなるんでしょうな。」
光徳尼は無言のままだった。徹夜の介抱で疲れ果て、もはや口に含んでいるのが麦飯かなますかさえも分からなかった。すると真子が、何を思ったか、
「あの杖が役に立つよ。」
と驚くような大きな声で言い切ったのである。さすがに光徳尼もその声にはドキリとしたが、それに応えてシンザがにこりと笑った。
「そうよ、わしの杖は役に立つぞ。なんせ身寄りのない独りもんのわしがこれだけ長い旅を続けて、怪我ひとつ負わぬのだから。」
シンザ殿も、もう、と言いかけて、光徳尼は口をつぐんだ。真子は寺のご本尊や鐘、墓石や塚、ときには橋の欄干に手を触れたり見たりしただけで、その由来や縁起のある人々を当ててみせることがあった。外れることもあったので光徳尼はあまり取り合わないようにし、あてずっぽうより勉学、といつも口酸っぱく教えていたこともあってこのところは影を潜めていたのだが、ここにきて昔の癖が出たらしい。普段なら、何をわけの分からぬことを、とたしなめるのだが、今の光徳尼はそれさえも一縷の光明であってほしいと願わざるをえなかった。
陽がまもなく傾きはじめようかという頃、シンザが光徳尼のそばに来て言った。
「いかがでしょう、その札と、ええと、古草紙の真言を、もうひたすら唱えることで、厄神様に願いを伝えることっていうのは、出来ませんかな。」
彼女の眼が大きく開かれるのを、いつもならまともに見すえようとしないシンザだが、この時はやや眼を細めながらもしっかりと見ながらこう続けた。
「もしも儀助どのの、かつて示した不思議な力が、神戸の厄神様に由来するものであれば、この苦しい病をとり除かれるのもやはり厄神様ではないでしょうかな。わしは詳しくはないのじゃが、そんな気がしましてな…」
あいかわらず語尾がもそもそと消え入りそうだったが、彼女の耳にとってはなぜか今まで聞いたこともないような響きを含んでいた。
「そうですね、たしかに、自然な考えでございます。」