第4話
ある朝、お種がシンザを呼び止めた。このところ使わなくなっていた東の蔵の扉がすっかり固くなってしまって開かないので力を貸してほしいというのである。朝餉の後でシンザは蔵へ向かい、何をどうしたか分からないうちに扉を開けてしまった。金具が激しく軋む音を聞きつけた光徳尼が真子の手習いの手を止めて見にいくと、薄暗い蔵の奥に長押ほどの大きさの頑丈そうな箱が横たわり、その蓋をシンザが外しているところだった。光徳尼はそばにいたお種に、この箱は何を入れているのかきいたが、お種は首を横に振るだけだった。ひと様の蔵を探る不作法をとがめるべくシンザに声をかけようとしたその時、彼の「草紙じゃ」という低い声が二人の耳に入った。
昼過ぎに戻ってきた権治を交えて調べると、儀助の父が買い与えた草紙のなかでも特に儀助が愛読していたもので、光徳尼にはなじみ深い説話を集めたものから有名な神社の縁起をまとめたもの、さらには南蛮渡りの、見慣れぬ文字が整然と並んだ本まであった。見慣れない黒革のとびらと、そこらの草紙の軽く十五冊分は有りそうな厚みに光徳尼はひるんだが、シンザは「こりゃ、いちど儀助どのに講釈してもらいたいですな」などと言って眼を輝かせた。儀助はこの本を、蘭学の字引を片手に飽きることなく読みふけっていたというのだが、まさかキリシタンのことが書いてるんじゃないかと気になって仕方が無くて、と権治は困った顔をしてみせた。一同がそれらの本を各々で手に取ってみていると、シンザがふとつぶやいた。
「この本の中でどれが一番古いのじゃろうか。」
それをきいた権治が答える。
「ええと、だいたいは分りますよ。坊ちゃんは新しい草紙が手に入るたびに読み聞かせに来て下さいましたからねえ。」
そういって、これは八年前、その次がこれで、たしかこれとこれは同じ日に旦那様が、そいでもって…畳の上に並べられたなかで、ひときわ傷みの激しい草紙に光徳尼とシンザの眼が注がれた。頁の端という端は全て手垢で赤茶けており、表紙はいちど水につけて干したかのごとく細かいしわが入り、なめし革よりも柔らかくなっていた。なにより、表紙に書かれた草紙の題が判読できないほどに汚れ、かすれきっていた。
「…っと、これは、ええ、旦那様が京都の古本屋で見つけたときいてます。坊ちゃんが神社の縁起に詳しくなりたい、八百万の神様のことを全部知りたいってずいぶん熱を上げていたことがありましたからね。もともと古いもんだそうですが、坊ちゃんはかなり長いこと読みふけっていたはずです。」
表情を固くしたシンザをちらと盗み見たのち、光徳尼は静かに権治にたずねた。
「儀助様がこの草紙を手に入れたのはいつごろでいらっしゃいますか。」
権治の顔に、すっと驚愕の影が走った。
「…そういえば、五年前。はい、この本を手に入れられたのは五年前です。」
その日から光徳尼は、名もしれぬこの古草紙を読み進めた。
彼女が読み解くところによれば、これは仏道における明王を解説した本であった。如来の変化身ともされる明王は古来より信仰の対象であり各地にあらゆる寺が建立されているが、この本はそれらの由緒を調べただけでなく、終わりの方では明王にささげられた真言(呪文)や印(手の組み方)まで図解されていた。そのうち彼女は、この本の中でもひときわ汚れと手垢の多い個所が愛染明王の頁であることに気付いた。愛欲は人間の本能であり、これを向上心に変えて仏道を歩ませると説く愛染明王は遊女の信仰が厚い明王であり、つい光徳尼は顔をしかめたが、それゆえに儀助様は心ひかれたのであろうか、とも思いなおすのだった。
古草紙を見つけた五日後、夕餉の少し前のことである。庭で何やら木箱の蓋に手こずっていたらしき権治が、顔色を変えて光徳尼のもとへやって来た。片手には黄ばんで木の葉のようになった紙の包みが握られていた。
「こ、光徳尼さま、これ、これです。」
部屋の片隅で昼寝をしていたシンザがのっそりと歩み寄った。慌てる手で包み紙をはぎ取った権治の声がさらに高くなった。
「あの、ぼ、坊ちゃんが、こ、神戸から持ち帰ったお札が、これでございます。」
権治が言うには、シンザが扉を開けてくれた東の蔵で探し物をしていると見慣れない木箱が出てきたので、頑丈な封を外したところこれが出てきたという。札自体が大きく、厚みのなる紙を使った立派なものだったが、その表には神戸のとある村の厄神の社の名が書かれていた。
「厄神、といいますと、まさか、厄の神でございましょうか。」
権治は顔をしかめた。
「通り名こそ厄神ではございますが、元をただせば由緒正しき如来様なのですから。」
光徳尼は出来る限り落ち着いた口調を保とうとしたが、権治の声はやがて怒気を帯びはじめた。
「厄神様かお大師様か知らねぇけど、にしてもあんまりじゃございませんか。みんなの病を治したいっていう坊ちゃんのお心を、なんだと思って…雨風を読むだけじゃ助からない命がある、蘭学のお医者様ぐらいに病を治せたらいいなって、大きくなってからもずっと言い続けてきたような坊ちゃんが、どうしてこんな目に…」
声を震わせた権治が黙り込み、その後ろでお種がそっと涙をぬぐった。二人を目の前にして光徳尼はただ、
「こちらをお借りします。先日の古草紙とあわせて調べてみましょう。」
と言うのが精いっぱいだった。
権治夫婦が去った後の部屋には光徳尼とシンザが残された。
「あのぉ…厄神様って、どのようなお方ですかね。」
シンザがいつもどおりの声でもそもそとたずねた。光徳尼はしばらく考えてから、
「たしかに、通り名のせいで誤ってとられることもございますね。」
とだけ言い、シンザが首をかしげるのを待ってこう続けた。
「厄神様といっても、その力はみ仏のお心を表した如来様に源流をもっているのです。如来様は古くに我が国に伝わり、古来の神々と同じに見られることもあるのですからね。」
「如来様と、古来の神が」
おうむ返しにきいてくるシンザの言葉に光徳尼はうなずいた。
「どれほど霊験あらたかで、由緒のある神様でいらっしゃるかは、この札を見ればわかるものです。厄神様であれば、ここにこの印が」
と言いかけた光徳尼の視線が、札の中央あたりで止まった。何度か札に書かれた文字を読み返していたが、「これはまた、どうしたことか」とひとりごちるにとどまった。
「しかし、ありがたいみ仏とそのお心と、厄の神が、ねぇ。どう引っ付いたら、そんな…」
腑に落ちない様子で首をかしげるシンザのほうを向きなおった。
「儀助様はわれら仏徒を打ち負かさんばかりによくお調べのご様子でした。お手持ちの草紙で、ええと、これなぞは如来様についてずいぶんと詳しいですね。」
ふた山はあろうという草紙の中から彼女がとりだしたのは、如来だけでなく菩薩、明王、天部に至るまで網羅された解説書の第三巻だった。その表紙の、いかにも難解そうな字にひるみつつシンザはおずおずとたずねた。
「それで、厄神様はどんな如来様とご縁が…」
「そうでしたね。厄神様はたしか、不動明王様と」
そこで光徳尼の手が止まり、息を飲む音にシンザはまた首をかしげた。
「愛染明王様、そう、愛染明王様でございます。」
(つづく)