ソレゾレ その六
朝になって目を覚まし、時計を見て寝過ごした事実に気がついた時、慌ててはいるものの自分の頭が思った以上に回転してる事に驚いた事はないだろうか。
この窮地といって差し支えない状況に置かれた僕はまさにそんな感じだった。
詳しい事はわからないけど、脳内麻薬ってのが過剰に分泌されてハイになっているのだろう。
だから、僕はいぶし銀な表情で固まっている恭子さんに努めて冷静に、繊細に言葉を選び、そして納得いく受け答えをコンマ秒の単位で用意する事ができた。
呪文のようなその便宜の言葉を僕は唱えるだけだというのに、恭子さんの方が先に魔封じの言葉を告げたのだった。
小さなため息を一つ、表情を憂いに変えて、たった一言。
「敦也……ちゃんとゴムは付けてるんでしょうね……?」
「ちっがーーーーーーーう!!!」
早朝、僕の近所迷惑な叫びがマンションに響いいた。
後に訪れた静寂は、『チチチチ』という鳴き声と一緒に雀の飛び立つ羽音まで聞こえるほどだった。
「あっはっはっはっは! まぁ、冷静に感がえればそりゃそうよね。敦也が夜中に女の子を連れ込むなんて考えられないし。私も気が動転したもんだわ」
僕とタマちゃんの説明を聞いて恭子さんは、目に涙を浮かべるほどに豪快に笑い転げる。
恭子さんはそう言うものの、僕としては理由はどうであれ夜中に女の子を部屋に連れ込んだ経験があるからどこかバツが悪い。
「つまらない者ですが、よろしくお願いしますお母さん」
現状をキチンと理解しているのか理解していないのか、急に三つ指ついて丁寧な座礼を見せるタマちゃん。
そのフォームは見事で真剣な様子が伝わってくるのだけれど、それゆえに致命的な間違いが強烈だった。
恭子さんはキョトンとした表情になったと思ったら、百面相のように再び笑い出した。
「あっはっはっは! も、もしかして『ふつつか者』って言いたいの? 冗談なのよねそれ、真面目に何をいってるのこの娘は。あーおっかしい」
おそらく、冗談じゃなく素で間違えているような気がするのだけど、このタマちゃんの雰囲気がどこまで冗談なのかを曖昧にしていた。
というか、冗談だとしても僕にとっては笑えない。
「えっと、裏辺さんだったっけ?」
「タマちゃんだよ!」
「そう、タマちゃんね。敦也、よかったじゃない。こんな良い娘はそうはいないわよ」
「恭子さんも何を言ってるのさ」
恭子さんは滲んだ涙を指で拭いながら、まだ表情は笑に緩んでいるものの真剣な様子で僕と向き合う。
それは久しぶりに見せる母親としての表情で、冷水を打たれたように僕も背筋を正す。
「ちょっと心配だったのよ、あなたの仕事っていうか。やりたい事、やってる事に口を挟むつもりはなかったけど、高校を卒業したと思ったら、また学生服に袖を通してさ。仕事ってのはわかっているけれど、最近のあなた笑わなくなったっていうか、今まで以上に感情や本音が表に出てきてなかったからね、ちょっと心配だったのよ」
恭子さんは先程とは違って、いじらしい表情で微笑む。
感情や本音が表に出ないと言われれば……やっぱり親なんだなって痛感してしまう。
顔を合わせる時間が少なくなってしまっても、よく観られているのだ。心配かけてしまっているのだ。
「あ、久しぶりにお母さんって言いたい顔してるわね。遠慮しなくてもいいのよ?」
この考えも見透かされた、ホントかなわないな。
「そんな事ないですよ」
意地を張るように僕が突っぱねると、恭子さんはタマちゃんに縋るように猫撫で声をあげる。
「ねぇ~聞いてよタマちゃ~ん。敦也ったら最近は他人行儀に恭子さんって呼んでばかりでお母さんって呼んでくれないのよ。寂しいわ~」
「なんですって! ダメだぞ敦也、お母さんはお母さんってちゃんと呼ばないと!」
思わず『マ゜っ!?』っと先ほどの恭子さんのような声をあげてしまう。
事情を知らない人から見れば、この場合聞けば、僕はまるで反抗期真っ只中みたいな感じで受け止められるだろう。
あの事件以来、恭子さんの事を母親だとしっかり認識してはいるけれど、だからといって呼称を完全にお母さんと改めたわけじゃない。
そう呼ぶのが恥ずかしいっていう訳じゃなく、長年の癖というのはそうそう抜けないってだけなのだけど。
だからといって目を爛々に輝かせて、そう呼べと期待というプレッシャーをかけてくる二人に迫られたら気恥ずかしくもなる。
「お……お母さん……」
渋々そう恭子さんを呼ぶと、何が楽しいのかキャーキャーと黄色い悲鳴をあげる恭子さんとタマちゃん。
これだから女って奴はって、対して女の人の事を知らなくてもさすがに思ってしまう。
きっと不死子さんとエルさんはこのノリだな、ニーズは僕をおちょくるために便乗するかもしれない。
政宗は……以前の政宗なら鼻で笑っていたか、それともどうして燥いでいるのかわからないって感じだろう。
今の政宗は、きっとここまで極端じゃなくても、笑っているだろう。
政宗、変わった。人間らしくなった。女の子らしくなった。
……じゃあ、僕はどうだ?
藤崎さんの葬儀で涙を流し、激昂した政宗。
その感情を人間らしいというのなら。
淡々と、それを仕方ないと受け入れる僕はどうだ?
以前に桂木舞子の飼うライアンの死を前にして、僕は力の無さと悔しさを思った。
でも、きっと今は思わない。
あの時にニーズはそう思うならまだ正常だと言った。
ならば、僕は少しずつ人の心が削れていってるんだろうか。
心は摩耗し、磨り減っていくのを僕は知っている。
その結果が狩夜啓一郎だったのだから。
「どーした敦也、小難しい顔をして。お腹でも痛いのか?」
「いや、そういうんじゃないよ」
「そうか、お腹痛くなったら言うんだよ摩ってあげるから!」
「摩って治るもんじゃない気がするけど」
「あら~、やだわ~、もうラッブラブじゃない。仕事柄、爛れた恋愛模様しか見てないから新鮮だわ~」
「きょ……母さん!!」
「良いじゃない、息子が女の子を連れてきたのよ。楽しむのは母親の特権よ。それに敦也、本当に良い娘じゃない。あなたは何でも自分の中で押さえ込んじゃうんだから、タマちゃんみたいな子がいてくれた方がいいのよ。ね~~タマちゃん!」
「は~~い!!」
「可愛い! 娘がいたらこんな感じに育てたかったわね」
すっかり意気投合してしまっている二人。
でも、確かにタマちゃんといると自然と感情が表に出てきている気がする。
恭子さんと談笑するタマちゃんを見て。
この小動物のように小柄で愛くるしい少女を見て。
僕の心が、少し暖かくなっている事いに気がついてしまった。




