サイカイ その六
「この仮面の子かな?それとも奥の君かな?」
変わらない大声。
この男は声の大きさを調節する機能が壊れてしまっているのだろうか。
般若と僕を交互に見ると、その外国人は僕と目をあわせた。
「君だ! 見つけたー!」
何が起きているかわからない。
その男の異様さが僕に考える時間を与えてくれない。
その存在だけで空間が歪むかのようで、自分がちゃんと地面に立っているのか不安になってくる。
この感じ、葵藤寂連と対峙した時のムードに似ている。
男はたじろぐ僕にお構いなしで、その堀の深い顔立ちを不気味に微笑ませると、構える般若を無視して僕の前に立ちはだかった。
大きい。
百九十センチどころか、二メートルは裕に超えている。
手を伸ばせば触れられる距離まで男が近寄ってきて初めて、僕は男の腕と足の赤いデザインが血で染まっているだけだと気が付いた。
「危険だ」と告げていた僕の本能が、逃げろと僕へ警告を変える。
男は笑顔をさらに極端に歪める、そこでやっと気がついたのは確かな邪悪。
「敦也!」と正宗が叫んだけど、僕の反応は遅すぎた。
その恵まれた体格で、その邪まな笑顔で、血にまみれた腕で、男は僕をゆっくりと、優しく抱きしめた。
「あ、あの……」
他にも言い様があったのかもしれない。
だけど、攻撃してくるわけでもなく、流れるような動きで僕を抱きしめた男の行動が不可解で、そして恐ろしくて、僕はそうとしか声をあげる事ができなかった。
そんな戸惑う僕を尻目に、男は僕の耳元で力強く囁いた。
「随分とたくましく成長したね、私の事は覚えているかな?」
ゆっくりと抱擁をとき、男は肩を掴んで僕の顔を覗きこみ優しく微笑んでみせる。
僕はいよいよを持ってわからない。
僕がまだ小さい頃に同じ施設にいたという年上の人に声をかけられた時に思い出せなくて気まずい思いをした事ならあるけど、今回ばかりはスケールが違う。
こんなインパクトのある人を忘れるはずがないだろうに、目の前の男は明らかに僕を知っているようだった。
突然の連続で僕が返す言葉もなく立ち尽くしているのを見て、男は肩を震わせて笑い出す。
「若さとはいいね、嫉妬するほどにウブで」
ボソリと男が言ったと同じに僕の肩に激しい痛みが駆け巡る、ベキという耳元から随分と近いところで聞こえた音は両肩の鎖骨が砕けた音だろうか。
やはり何の対応もできないままに、僕の体は宙を舞っていた。
男はまるで長く伸びた草でも引っこ抜くように僕の肩を支点にして僕を持ち上げて投げたのだ。
ふわりとした感覚と横に凄いスピードで流れていく視界は、さながらジェットコースターに乗ってるかのようだった。
自分が投げ飛ばされたというのに僕はまるで他人事でも見るかのようなどこかリアルじゃない気持だったのは、男の先程の言葉が気になっているのだろうか。
上の空だった僕を現実に引き戻したのは背中への衝撃。
「きゃっ!」
ドッという音と共に柔らかい感覚と衝撃が背中に走る。
痛みはあったけど、もっと強烈な痛みだと思っていた自分には少し拍子抜けだったけど、目にしているのはそんな上の空な気持を吹き飛ばした。
尻餅をついている女子高生とその女子高生を横から押さえ込むように倒れ込む僕。
少年のような張りのある顎の細い顔立ちに、短く狩り込まれたくせっ毛、その傍らに転がるホッケーマスク。
「野郎!」
ホッケーマスクの女子高生の素顔よりも、僕の事を吹き飛ばした男への敵意が正宗の中では大きくなったのだろう、衝動的に刀を構えて正宗が男へと走り出す。
「正宗!」
覆い被さっていたホッケ―マスクの女子高生かた体を起こすと、僕は正宗の名前を叫ぶ。
一回投げ飛ばされただけだけど、僕と正宗じゃこの男には勝てないと思い知っていた。
この底の知れない感じはニーズや不死子さんのそれに近い。
正宗も斬りかかろうとした瞬間に、本能がその力の差を覚らせたのか足を止めてじっくりと男を睨みつける。
腰を落として低く構える般若も同じ感覚なんだろう。
とにかく僕は身を起こして男にと問い掛ける。
「僕の事を知っているのか?」
痛みが僕を冷静にさせたのか、僕は落ち着き払った声で男に問い掛けた。
すると男は、さいほどとは違った少年のような屈託のない笑顔を見せる。
この男はどれだけ笑い顔があるのだろう、その全てが明らかに違う笑みなんだと理解できる。
「先程言った、君を懐かしむ発言にあてつけているのなら、残念ながら嘘だよ。相手を油断させるなのに、そういった演出や発言は有効だからね」
いけしゃあしゃあと言う男。
「そうか……」
そう残念そうな言葉が思わずもれてしまうあたり、僕は無意識的にも男の言葉を期待していてのだろう。
「しかし、その肝の座りよう。若くともそれなりに地獄は見てきているようだ。そして彼女もまたしかりか、なるほど葵藤が一目おく男と、葵藤に一太刀浴びせた女というだけの事はある」
男は満足そうに言うと、再び僕にゆっくりと近づき、今度は右手を差し出してきた。
「申し遅れてしまったが、私の名前はジェームズ・フランツ・ザンビディス。最近、日本に来たただの魔術師だよ」
不用意に差し出された右手、そしてこの男、ジェームズ・フランツ・ザンビディス。
怪しく、何か企んでいると思わざるをえない。
それでもなぜか、この右手を握るのをためらわせない妖しげな魔力がザンビディスから滲み出ていた。
それがザンビディスの力なのか、それとも僕の警戒心の無さなのか、それとも僕が気がついていない別な要素がそうさせているのか。
とにかく、僕はザンビディスの手をとり。そして固い握手を交わした。
ザンビディスは肩を小刻みに震わせて、静かに笑っている。
また違う笑い方。
「普通ならば、手にした時点でこの手をねじ切るところだが、迷い無く手にとった君に純潔さに敬意を表して、今日はこのまま立ち去るとしよう」
言ってザンビディスは僕から手を放すと、貴族じみた大げさなお辞儀をした後に、僕に背を向けて一仕事を片付けたような軽い足取りで、鼻歌交じりにこの場を去ろうとした。
しかし、そのザンビディスの前に般若が立ちはだかる。
「ふむ、君はノコギリ刃の彼女の連れかな? 彼女が彼とはちあわせしたのは事故だよ、申し訳ないとは思うが、彼女にこれといった怪我はないようだし、このまま帰らせてはくれないかな、君には今のところこれといった思い入れはないので、どうしてもというのなら上の二人と共にお相手する事になるが」
ザンビディスはそういって僕の後ろの通風孔の上に視線を送る。
いつからそこにいたのか、屋根に備え付けられた貯水タンクの前に、いつからそこにいたのか、姿はトレンチコート姿で顔にガスマスクを装着した、あからさまに怪しい大柄な男と、小柄で純朴そうなワンピース姿の眼鏡をかけた小柄な女の子が僕達を見下ろすように立っていた。
このザンビディスが目をかける二人、それだけで只者ではないとわかる。
仮に般若がザンビディスに飛びかかったとして、僕達がどういうふうに出て、どんな戦局になるかは、自分でもわからないけれど。
僕達四人とザンビディス達三人では、甘く見ても僕達の方が戦力不足な気がする。
正宗の顔を見る限り、このままザンビディスを行かせてしまう事に納得がいっていないようだけど、動かない般若を見て正宗もしぶしぶ納得せざるを得ないのだろう。
ザンビディスは悠々と般若の脇を通り抜け、現れた時と違い普通にこの場から出口を使って立ち去っていった。
残されたのは僕達と般若とホッケーマスク。
全員がキツネに摘まれた感覚で、今からまた戦おうっていう気が起きるわけもない。
ホッケーマスクが落ちたマスクを拾うと、トボトボと歩いて般若の隣へと立ち、般若とマスク越しに僕達を見つめる。
睨んでいるのか何なのか、長かったのか短かったのか。
その得も言えぬ中で、不意に般若とホッケーマスクの姿が朧になる。
目の錯覚ではなく、描いた絵を部分的に消しゴムで消しているように二人の体が見えなくなっていき、最終的には、その気配さえも感じられなくなってしまい。
消えた。
「いなくなっちまった」
その光景を見て正宗は呆然としていて、僕ももっとそういったリアクションをしなければいけないのだろうけど、何かザンビディスの持つ圧倒的な気配のおかげで、僕はかえって冷静だった。
「そうだね、帰ろうか」
素っ気無く返す僕に正宗はキョトンとした顔を見せると、呆れた様子で一言。
「お前は気楽だな」
「だっていなくなっちゃったし難しく考えても仕方がないよ」
自分で言ってその通りだと思う。
ふと空を見上げれば月にはいつのまにか雲がかかり大きな笠ができていた。
思えば僕が正宗に胸を刺されたのもこんな感じの夜だった気がする。
あの時に僕の運命が大きく変わったとするなら、その変化した運命が日常として消化されてしまった現状を打破するように。
今日、この夜から僕の運命が再開するのだろうと感じていた。