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不妊治療3年目。夫が隠した「パイプカット手術の同意書」を見つけた件。だから、私は妊娠しました。  作者: 団田図


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第9話 高望みの代償

 カーテンの隙間から差し込む昼下がりの日差しが、ホテルの豪奢なカーペットに鋭いラインを描いていた。

 都内の高級ホテル、スイートルーム。

 乱れたベッドシーツの白さが、ここで行われていた情事の激しさを無言で物語っている。


 権蔵ごんぐら貴之たかゆきは、シャワールームから響く水音を聞きながら、サイドテーブルの上のミネラルウォーターを煽った。

 身体の芯に残るけだるい疲労感が、心地よい。

 それは、自分が「男」としての機能を取り戻したという、何よりの証明のように感じられたからだ。


(俺は、生きている。死んでいた俺の細胞は、恭介の手によって蘇ったんだ)


 貴之は自身の股間を無意識に撫でた。

 先月、神田恭介のクリニックで受けたパイプカット再建手術。

 術後の痛みはすでに引いている。恭介は「成功率は高い」と言っていたが、貴之には確信があった。今の自分の身体には、生命力がみなぎっている。これならば、確実に「種」を植え付けることができるはずだ。


「タカくぅん、まだいたの?」


 バスタオル一枚を身体に巻いたレナが、湯気をまとってバスルームから出てきた。

 濡れた髪、上気した肌、甘ったるい香水の匂い。

 妻の美咲にはない、若さと生命力の塊だ。


「ああ。これからの会議まで、まだ少し時間があるからな」

「もぉ、タカ君ったら精力的。……ねえ、お腹空かない? ルームサービス頼んでいい?」

「好きなものを頼めばいいさ。君には栄養をつけてもらわないといけないからな」


 貴之はベッドサイドに置いてあったビジネスバッグを引き寄せ、中から茶封筒を取り出した。

 分厚いその封筒を、無造作にベッドの上に放る。


「はい、これ。今月の手当だ」


 レナの目が輝いた。彼女はタオルの裾を押さえながら駆け寄り、封筒の中身を確認する。

 一〇〇万円の札束。帯封がついたままのピン札だ。


「わあ、すごい! ありがとうタカ君! 大好き!」

「来月はもっと弾むよ。だから……頼むぞ、レナ。俺たちの子を」


 貴之が真剣な眼差しで告げると、レナは一瞬だけ瞳の奥に奇妙な光を宿し、すぐに愛くるしい笑顔を作って頷いた。


「分かってるってばぁ。私も頑張ってるよ。基礎体温だってつけてるし、サプリも飲んでるんだから」

「そうか、偉いぞ」


 貴之は安堵の息をついた。

 レナの胎内に、自分の血を引く子供が宿る。それこそが、美咲への復讐であり、権蔵家を完全に掌握するための切り札となる。

 美咲の腹の中にいる「どこの誰とも知れぬガキ」に、遺産を渡すわけにはいかないのだ。


 だが、その希望の対価は安くない。

 貴之はバッグの底に沈む裏帳簿のコピーを思い浮かべ、微かに眉を寄せた。

 恭介への手術費用三〇〇万円。そして、この一〇〇万円。

 個人の貯蓄はすでに底をついている。今日のこの金も、会社の宣伝広告費の架空発注によって捻出したものだ。


(大丈夫だ。バレやしない。俺は広報宣伝部長だぞ。金の流れなんてどうとでも操作できる)


 自分に言い聞かせる。

 これは一時的な借用だ。源造が死に、遺産が転がり込めば、こんな端金すぐに補填できる。

 そう、ほんの少しの間の辛抱だ。


「じゃあね、タカ君。お仕事頑張って♡」


 レナの投げキッスを背に、貴之は部屋を出た。

 エレベーターの鏡に映る自分の顔は、疲労の色が滲みながらも、どこか狂気じみた高揚感を湛えていた。


 俺はこの物語の主人公だ。最後には必ず勝つ。


          *


 権蔵不動産本社ビル、一五階。

 広報宣伝部長室の重厚なドアを閉めた瞬間、貴之の表情から甘美な余韻は消え失せた。

 代わりに張り付いたのは、焦燥と恐怖だ。


 彼はデスクのパソコンを立ち上げ、会計ソフトにログインした。

 画面上に並ぶ数字の羅列。

 それは会社の血液であり、今の貴之にとっては時限爆弾のカウントダウンに見えた。


「……くそっ、足りない」


 今月支払わなければならない外注費、メディア掲載料、イベント運営費。

 それらの隙間から金を抜き取り、裏金を作ってきたが、限界が近づいていた。

 架空の領収書を作るのも、幽霊会社への発注をでっち上げるのも、自転車操業だ。どこか一つでも綻びが出れば、全てが崩壊する。


 特に、恭介への三〇〇万円の支払いが痛かった。

 あれを埋めるために、かなり無理な帳簿操作をしてしまった。

 もし監査が入れば、言い逃れはできないレベルだ。


 その時、内線電話が鳴った。

 ビクリと肩を震わせ、受話器を取る。


「はい、権蔵です」

『部長、受付にお客様です。アポイントはないそうですが……』

「アポなし? 誰だ。忙しいと言って断れ」

『それが……警察の方だそうで』


 心臓が早鐘を打った。

 警察? なぜだ。

 まさか、横領がバレたのか? いや、そんなはずはない。まだ誰にも気づかれていないはずだ。美咲だって、家計の財布は握っていても、会社の経理までは見えていないはずだ。


「……通せ」


 声を絞り出す。

 逃げれば余計に怪しまれる。ここは堂々と対応するしかない。


 数分後、ドアがノックされ、くたびれたスーツを着た男が入ってきた。

 所轄の刑事、三浦みうらだ。

 以前、詐欺グループへの注意喚起と称してやってきた、あの掴みどころのない男。


「やあ、権蔵部長。お忙しいところ申し訳ありません」


 三浦は愛想よく頭を下げた。手にはコンビニの袋を持っている。中には菓子パンと牛乳が見えた。まるで昼休憩のついでに立ち寄ったかのような気安さだ。


「またあなたですか。今日は一体何のご用で?」


 貴之は書類から目を離さず、尊大な態度を崩さなかった。

 指先が微かに震えているのを悟られないように、万年筆を強く握りしめる。


「いやあ、実は先日お話しした詐欺グループの件でしてね。どうも、大きな企業の休眠口座が、マネーロンダリングに使われている形跡がありまして」

「ウチには関係ないと言ったはずですが」

「ええ、ええ。そう信じたいんですがね。……ただ、少し気になる動きがありまして」


 三浦は懐から一枚のメモを取り出した。

 そこには、銀行名と口座番号、そして日付が記されていた。


「これ、御社がイベント運営費として振り込んだ先の口座なんですがね。……受け取り人が、実在しない会社のようなんですわ」


 貴之の背筋に冷たいものが走った。

 それは、先月レナへの手当を捻出するために使った、ペーパーカンパニーの口座だ。

 なぜ警察がそこまで掴んでいる?


「まさか。何かの間違いでしょう。ウチは審査を通った業者としか取引しませんよ」

「そうですよねえ。天下の権蔵不動産が、そんなヘマをするはずがない。……でも、部長。この振込承認印、あなたのものですよね?」


 三浦の目が、細められた。

 笑っているようで、笑っていない。

 その瞳の奥には、獲物を追い詰める狩人の冷徹な光が宿っている。


「部下が持ってきた書類に判を押しただけです。いちいち全ての業者の登記簿を確認する暇なんて、私にはありませんから」

「なるほど、部下のミスだと。……しかし、三〇〇万円もの大金です。決裁権を持つあなたの責任は免れないんじゃないですか?」


 三〇〇万円。

 その数字に、貴之の喉がひきつった。

 偶然か? それとも、こいつは何もかも知っていて、俺をなぶっているのか?


「調査させます。後日、担当者から報告させましょう。……今は会議の準備がありますので、お引き取り願えますか」


 貴之は立ち上がり、ドアを指し示した。

 これ以上、この男と同じ空気を吸っていたら、ボロが出る。


「分かりました。……ああ、そういえば」


 三浦は帰り際、ふと思い出したように振り返った。


「奥様、もうすぐ臨月でしたっけ? いやあ、おめでたい。生まれてくるお子さんのためにも、父親として恥じない仕事をしたいものですなあ」


 その言葉は、まるで呪いのように響いた。

 ドアが閉まる。

 貴之はソファに崩れ落ちた。

 脂汗が滝のように流れ落ち、高級シャツを濡らす。


 バレている。

 いや、確証がないだけだ。だが、時間の問題だ。

 警察が動き出した以上、悠長なことは言っていられない。

 あの口座の履歴を洗われれば、金が最終的に現金化され、俺の懐に入ったことまで辿り着かれるかもしれない。


「金だ……。穴を埋める金がいる」


 架空発注の穴を埋めるには、正規の取引に見せかけた入金が必要だ。

 しかし、そんな大金をどこから用意する?

 レナへの手当、恭介への追加謝礼金、そして生活費。

 出ていく金は増える一方なのに、蛇口は閉められようとしている。


 貴之の視線が、デスクの上の重要書類ファイルに止まった。

 そこには、『港区・湾岸エリア開発計画用地』と記されたファイルがあった。

 会社が極秘に進めている、大規模再開発プロジェクトの用地買収リストだ。


 その中に、まだ登記移転が完了していない、権利関係が複雑な土地があった。

 老朽化した雑居ビル。所有者は高齢で、管理を放棄している。


(この土地を……)


 悪魔の囁きが聞こえた。

 この土地を、会社を通さずに第三者に売却し、その手付金を一時的に会社の口座に入れて「穴埋め」にする。

 そして、源造が死んで遺産が入ったら、すぐに買い戻して帳尻を合わせる。

 完全な違法行為だ。特別背任、横領、詐欺。

 バレれば懲戒解雇どころか、刑務所行きだ。


 だが、今の貴之に選択肢はなかった。

 警察の追求を逃れるには、帳簿上の数字を合わせるしかない。

 そのためには、数千万円単位の現金が必要なのだ。


「やるしかない……」


 貴之は震える手でファイルを掴んだ。

 これは破滅への片道切符かもしれない。

 けれど、彼には「自分は選ばれた人間だ」「最後にはうまくいく」という根拠のない自信があった。

 レナとの間に生まれる(はずの)子供。

 再建手術で取り戻した男としての誇り。

 それらが、彼の判断力を狂わせていた。


 彼は電話を取り、懇意にしている不動産ブローカーの番号を押した。

 闇社会とも繋がりのある、危険な男だ。


「……もしもし、権蔵だ。少し、急ぎで動かしたい物件があるんだが」


 窓の外では、黒い雲が空を覆い始めていた。

 東京の街に、冷たい雨が降り出そうとしていた。


          *


 その日の夜。

 権蔵家の屋敷は、重苦しい静寂に包まれていた。

 一階の和室では、死の淵にある源造が、点滴の滴る音だけを聞きながら眠っている。


 二階の書斎。

 美咲は、貴之が風呂に入っている隙に、彼のノートパソコンを開いていた。

 画面の明かりだけが、彼女の冷ややかな美貌を照らし出す。


「……バカな人」


 美咲の指先が、キーボードの上を滑る。

 彼女は、貴之が作成した「土地売買契約書」のドラフトデータを見つめていた。

 削除されたはずのファイルだが、復元するなど彼女にとっては朝飯前だ。


 港区の雑居ビルの売却計画。

 相手先は、反社会的勢力のフロント企業として有名な不動産会社。

 売却額は相場の半値以下。即金での支払いを条件にしている。


「これだけの資産を、こんな安値で……。焦っている証拠ね」


 美咲はため息をついた。

 会社の金を横領し、その穴埋めのために会社の資産を売り飛ばす。

 もはや引き返せないところまで来ている。

 泥沼に足を取られた獣が、もがけばもがくほど沈んでいく様そのものだ。


 美咲はUSBメモリを差し込み、そのデータをコピーした。

 すでに確保してある裏帳簿のデータ、架空発注の証拠、そして今回の不正売却の計画書。

 これらが揃えば、貴之を社会的に抹殺するには十分すぎる。


「三浦さん……喜ぶかしら」


 美咲は以前、自宅を訪ねてきた三浦刑事の顔を思い浮かべた。

 あの刑事は優秀だ。

 貴之の横領に感づきながら、決定的な証拠が出るのをじっと待っている。

 あるいは、貴之がさらに大きな罪を犯すよう、わざと泳がせているのかもしれない。


(ええ、泳がせましょう。もっと沖まで遠洋まで)


 美咲はデータを保存し、パソコンを閉じた。

 まだだ。まだ警察には渡さない。

 貴之が契約を完了し、その汚れた金を手にし、一時の安堵を得た瞬間――それが最高のタイミングだ。


 ふと、お腹の子が動いた気がした。

 安定気に入ってお腹が少し目立ち始めた

 私のかわいい子。

 この子は知っているのだろうか。自分の父親(生物学上の父ではないが)が、今まさに地獄への階段を転げ落ちていることを。


「いい子ね。パパが悪いことをしている証拠、しっかりママが握ったわよ」


 美咲は慈愛に満ちた手つきで腹を撫でた。

 その瞳は、深海のように暗く、どこまでも冷たかった。


 バスルームから貴之が出てくる音がした。

 美咲は素早く書斎を出て、寝室へと戻った。

 ベッドに入り、読書灯の下で編み物を始める。

 生まれてくる子のための、真っ白な帽子。

 その白さは、これから訪れる血塗られた未来との対比のように、痛々しいほど純粋だった。


「ただいま、美咲。起きてたのか」


 貴之が入ってきた。

 風呂上がりだというのに、彼の顔色は悪い。目の下の隈は濃くなり、視線は定まらない。

 土地売却の件で頭がいっぱいなのだろう。


「お疲れ様、貴之さん。……顔色が悪いわ。大丈夫?」

「ああ、ちょっと仕事が立て込んでてな。……心配するな、大きな山を越えれば、すべて上手くいく」


 貴之は自分に言い聞かせるように呟いた。

 美咲は微笑んだ。


「そうね。貴之さんなら大丈夫。信じているわ」


 その言葉が、彼にとって最大の皮肉であることを、貴之は知る由もない。

 彼は美咲の膨らんだお腹に視線を落とし、複雑な表情を一瞬だけ浮かべ、すぐに目を逸らした。

 自分の子ではない子供。

 けれど、辻褄を合わせるためには一時的に愛さなければならない子供。


「……もう寝るよ。明日も早いんだ」

「ええ、おやすみなさい」


 貴之がベッドに潜り込み、背中を向ける。

 美咲は編み棒を動かし続けた。

 カチャ、カチャ、と規則的な音が、静寂な部屋に響く。

 それは、貴之の飛び込み台を編み上げる音のようだった。


          *


 その頃、深夜の神田レディースクリニック。

 院長室の明かりだけが、ポツンと灯っていた。


 神田恭介は、散乱した書類の山の中で、スマートフォンを耳に押し当てていた。


「ですから、もう少し待ってくださいよ。月末には必ず入りますから!」


 相手は裏カジノの取り立て屋だ。

 丁寧な言葉遣いだが、その要求は日に日に苛烈になっている。

 利息だけで毎月数百万。元金は一向に減らない。


『先生、もう待てませんねぇ。これ以上遅れるなら、あんたの病院に若い衆を行かせますよ。患者さんの前で大騒ぎされたら困るでしょ?』

「それは勘弁してください! ……あてはあるんです。本当です! デカい金が入るんです!」


 恭介は悲鳴に近い声で懇願した。

 電話の向こうで舌打ちが聞こえ、通話が切れた。


「……クソッ、どいつもこいつも」


 恭介はスマホをデスクに投げ出し、頭を抱えた。

 貴之から巻き上げた三〇〇万円など、焼け石に水だった。

 右から左へ、借金の返済に消えただけだ。


 だが、彼には希望があった。

 引き出しを開け、一枚のエコー写真を取り出す。

 レナの胎内の写真だ。


 昨日、レナが診察に来た際に撮ったものだ。

 順調に育っている。俺の種が。


「フフッ……傑作だよな」


 恭介は薄ら笑いを浮かべた。

 貴之の奴、自分が再建手術に成功したと信じ込んで、レナにせっせと貢いでいる。

 レナの腹の子が、実は俺の子だとも知らずに。


 計画は順調だ。

 源造が死ねば、貴之は美咲を追い出し、レナを正妻に迎えるだろう。

 そうすれば、権蔵家の莫大な遺産は、形式上は貴之のものだが、実質的にはレナとその子供――つまり俺の子のものになる。

 俺はレナを操り、貴之から金を吸い上げ続けることができる。

 いや、貴之が邪魔になれば、何らかの医療事故に見せかけて消してしまえばいい。そうすれば、全てが俺のものだ。


「南の島……いいな」


 恭介は椅子に深く身を沈め、天井を見上げた。

 借金を完済し、クリニックを畳んで、常夏の島へ移住する。

 青い海、白い砂浜。カクテルを片手に、異国の女を囲って暮らす日々。

 女の股を覗き込んで、機嫌を取るだけの毎日はもう御免だ。


「あと少しだ。源造さえくたばれば……」


 恭介はウイスキーのボトルをラッパ飲みした。

 喉を焼くアルコールが、不安を麻痺させ、野望を燃え上がらせる。


 彼もまた、知らなかった。

 自分が描いている「完璧な絵図」が、美咲という真の支配者の掌の上で踊らされているだけの、滑稽な落書きに過ぎないことを。

 

 夜の静寂の中、三人の欲望と計算が交錯する。

 貴之の焦燥。

 恭介の妄想。

 そして、美咲の冷徹な殺意。


 雨音が強くなってきた。

 全てを洗い流す雨ではなく、泥沼をさらに深く、重くする雨。

 破滅へのカウントダウンは、確実にゼロへと近づいていた。

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