第8話 老獪なる叔父の嗅覚
権蔵不動産株式会社、専務取締役室。
革張りの椅子に深く身を沈めながら、私は窓の外に広がる灰色の空を見上げていた。秋の長雨が、東京の街を濡らしている。ガラスを叩く雨粒が、まるでカウントダウンの秒針のように私の焦燥感を煽り立てていた。
兄・源造の死期が近い。
その事実は、社内では極秘事項とされているが、人の口に戸は立てられない。株価は不安定に揺れ動き、銀行団は融資の継続を渋り、ハゲタカのようなファンド連中が水面下で蠢き始めている。
帝国の崩壊前夜。
まさにそんな空気が、今の権蔵不動産には漂っていた。
「……専務、調査報告書です」
秘書が音もなく入室し、デスクの上に厚い封筒を置いた。
私は葉巻の煙を吐き出しながら、顎で退出を促した。
静寂が戻る。私は震える指を隠すように拳を握りしめ、封筒を睨みつけた。
ここに入っているのは、私の未来そのものだ。
いや、権蔵家の正当なる血統を守るための、最後の切り札だ。
兄の養女・美咲の妊娠。
あの報せを聞いた時、私は耳を疑った。そして次に、どす黒い疑惑が胸の内に広がった。
貴之ごとき軟弱な男に、子供など作れるはずがない。
私の直感がそう告げていた。
私は封筒を開ける前に、一旦目を閉じ、遠い記憶の底へと意識を沈めた。
私がなぜ、ここまで兄・源造に執着し、この会社を守ろうとするのか。その原点は、半世紀以上も前の幼少期にある。
*
兄・源造は、怪物だった。
十歳も離れた私にとって、彼は血を分けた兄というよりも、理解の範疇を超えた別次元の生き物に見えた。
鮮烈に覚えているのは、私が小学校に入学した頃の光景だ。
兄は高校生だった。新学期、真新しい教科書が配られると、兄はそれを部屋に持ち込み、わずか数日で全て読み終えてしまった。
「兄さん、もう全部読んじゃったの?」
「ああ。中身をすべて頭に入れた。退屈な内容だ」
兄は表情一つ変えずにそう言い放ち、その後は図書館で借りてきた難解な専門書――経済学や心理学、法律の書物を読み漁っていた。
私たちが遊んでいる間に、彼は知識という名の武器を黙々と研いでいたのだ。
兄とキャッチボールをした記憶もなければ、一緒にテレビを見て笑った記憶もない。兄の周りだけ、常に重力が違うかのような静寂が支配していた。
幼い私は、そんな兄が怖かった。
何を考えているのか分からない。感情があるのかさえ疑わしい。
だが、その恐怖が「畏敬」へと変わる出来事が起きた。
私が小学三年生の時だ。
近所のガキ大将グループに目をつけられ、路地裏で囲まれたことがあった。
「おい、金を出せよ。お前の家、金持ちなんだろ?」
小突き回され、泣きじゃくる私。抵抗する力もなく、ただうずくまって嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
そこに、兄が通りかかった。
夕暮れの路地裏。逆光を背負って立つ兄の姿は、ひどく長く伸びた影を引き連れていた。
「……何をしている」
低い声だった。
いじめっ子たちは、高校生の兄を見ても動じなかった。「なんだよ、やんのか?」とイキがって、ナイフのようなものをちらつかせた奴もいた。
その時だ。
兄が、笑ったのだ。
今まで見たこともないような、狂気を孕んだ満面の笑みを。
「いいな。すごくいい。ちょうど試してみたいことがあったんだ」
兄はカバンから何かを取り出したわけでも、拳を構えたわけでもない。ただ、ゆっくりといじめっ子たちに歩み寄った。
その瞳孔は開ききり、口元からは涎が垂れんばかりの恍惚とした表情が張り付いている。
焦点が合っていない。まるで、目の前の人間を「人間」として見ていないかのような目。
「眼球をね、生きたまま抉り出すとどうなるか知ってる? 神経が繋がったままだと、自分のくり抜かれた目玉穴を見ることができるんだってさ」
兄は楽しそうに、歌うように言った。
一歩、また一歩。
その異様な迫力に、いじめっ子たちの顔色が青ざめていく。
喧嘩が強いとか、腕力があるとか、そういう次元の話ではない。
「こいつはヤバイ」「関わってはいけない」という生物学的な警報が、その場の全員の脳内で鳴り響いたのだ。
「誰からにする? お前か? それともお前?」
兄がリーダー格の少年の肩に手を置いた瞬間、少年は悲鳴を上げて逃げ出した。
つられて他の連中も蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
路地裏には、私と兄だけが残された。
私は震えていた。助かったという安堵よりも、兄への恐怖が勝っていた。
兄は、本当におかしくなってしまったのではないか。
そう思った時、兄はふっといつもの無表情に戻り、私を見下ろした。
「……立つぞ、伝次郎」
「あ、兄さん……今の……」
「今読んでる海外の推理小説に出てくる殺人鬼のセリフだ。一度言ってみたかっただけだ」
兄は私の服についた土を払いながら、淡々と言った。
「暴力には二種類ある。肉体的な暴力と、精神的な暴力だ。相手の想像力を刺激し、恐怖を植え付ければ、指一本触れずに勝てる」
その時、私は理解した。
この人は怪物だ。けれど、私の兄だ。
この圧倒的な力と知性の庇護下にある限り、私は安全なのだ、と。
それ以来、私は兄の影となり、手足となることを誓った。兄の背中を追いかけることが、私の人生の指針となった。
*
大人になった私は、兄の支援を受けて食品会社の社長を務めていた。
経営は順調だった。堅実な商品を開発し、販路を拡大し、黒字を出し続けていた。私は私なりに、経営者としての自信をつけていたつもりだった。
だがある日、兄から呼び出された。
権蔵不動産の本社、最上階の社長室。
「その会社は売却しろ」
兄はいきなりそう言った。
「え……? どういうことだ、兄さん。業績は悪くないぞ」
「小銭稼ぎはもういい。権蔵不動産を、デベロッパーとしてさらに巨大化させる。お前の手腕が必要だ。俺の元へ戻ってこい」
命令だった。
だが、私の心は打ち震えた。
あの天才・源造が、私を必要としている。「お前の手腕が必要だ」と言ってくれた。
私は二つ返事で承諾した。自分が育てた会社を手放すことに未練はあったが、兄の覇道の一部になれる喜びの方が遥かに大きかった。
それから私は、権蔵不動産の専務として、兄の汚れ仕事を一手に引き受けてきた。
地上げ、立ち退き交渉、政治家への根回し。
兄が描く「地図」を実現するために、私は泥を被り、手を汚した。
全ては、権蔵という名を日本の歴史に刻むためだ。
……だというのに。
今の現状は何だ。
私は封筒から視線を外し、部屋の隅にあるカレンダーを見た。
兄が築き上げたこの城を継ぐべき人間は、誰だ?
私には息子がいる。現在、営業本部長を務める優秀な男だ。私の背中を見て育ち、権蔵の帝王学も叩き込んである。彼こそが、次期社長にふさわしい。
だが、兄はなぜか婿養子の貴之を重用した。
いや、重用ではない。美咲の婿として迎えた彼を、あくまで「つなぎ」として置いていただけだろう。
権蔵貴之。
あの男は無能だ。
顔と外面だけは良いが、中身は空っぽだ。
会議での発言は的を射ていないし、決断力もない。部下の手柄を自分のものにし、失敗は他人のせいにする。典型的な小役人根性の持ち主だ。
あんな男に社長の椅子が務まるわけがない。もし彼が社長になれば、数年で会社は傾く。私の息子が継ぐべき椅子が、灰になって消えてしまう。
だからこそ、私は焦っていた。
兄の死後、株主総会で貴之を追い落とし、私の息子を社長に据えるシナリオを描いていた。
だが、そこに降って湧いた「美咲の妊娠」というイレギュラー。
源造の直系の孫。
もしその子が生まれれば、遺言により全株式と資産はその子に――ひいては、後見人となる貴之と美咲に渡る。
私の計画は水泡に帰す。
私の息子は、一生貴之のような無能の下で頭を下げ続けなければならないのか?
そんな屈辱、耐えられるわけがない。
「……さて」
私は覚悟を決め、封筒の中身を取り出した。
私が個人的に雇った私立探偵からの報告書だ。
ターゲットは権蔵美咲。
彼女の周辺に、不貞の影がないかを探らせていた。
もし浮気の証拠があれば、それをネタに彼女を脅し、相続権を放棄させることができる。
報告書をめくる。
『対象者の行動に不審な点は見られない』
『家と病院、スーパーの往復のみ』
『男性との接触は皆無』
チッ、と舌打ちが出る。
美咲は賢い女だ。ガードが堅い。それとも、本当に清廉潔白なのか?
いや、貴之との間に子供ができること自体が不自然なのだ。あの夫婦には、どこか冷めきった空気が漂っていた。
さらにページをめくる。
探偵が別ルートで入手したという、「ある証言」の記録が出てきた。
『情報提供者:神田レディースクリニック・元看護師』
神田レディースクリニック。貴之の友人が経営する病院だ。美咲が不妊治療に通っていたとされる場所でもある。
探偵は、給与未払いで解雇された元スタッフに接触し、金と引き換えに内部情報を聞き出したらしい。
そこに記されていた一文を読んだ瞬間、私の時が止まった。
『四年前、院長の神田恭介が、権蔵貴之氏のパイプカット手術を執刀しました。カルテは院長が保管していますが、私は術後の器具の洗浄を担当したので間違いありません』
「…………は?」
パイプカット?
貴之が?
私は思わず椅子から立ち上がった。
意味が分からなかった。
不妊治療をしている夫婦の夫が、その一年前に避妊手術を受けていた?
それでは、妊娠などするはずがないではないか。
いや、待て。
ということは――。
脳内で、バラバラだったピースがカチリと嵌まった。
貴之は種なしだ。
ならば、美咲の腹の中にいる子供は、貴之の子ではない。
一〇〇パーセント、不義の子だ。
「クックッ……ハハハハ!」
乾いた笑いが込み上げてきた。
傑作だ。あまりにも傑作だ。
貴之の奴、自分が種なしであることを隠して不妊治療のフリをしていたのか。兄へのポーズのために。
そして美咲は、そんな夫を裏切り、どこかの男と寝て子供を作った。
そして今、二人揃って「奇跡の妊娠だ」と世間を欺こうとしている。
なんて愚かで、醜悪な喜劇だろう。
これが兄の作った「家族」の正体か。
私は報告書をデスクに叩きつけた。
これは爆弾だ。
使い方を間違えれば自分も吹き飛ぶが、うまく使えば敵を一掃できる核兵器だ。
この事実を公表すれば、美咲は終わる。不貞行為で離婚、慰謝料請求、相続権剥奪。
だが、貴之はどうなる?
彼がパイプカットをしていたことがバレれば、兄・源造を騙していたことになる。あの兄がそれを許すはずがない。貴之もまた、破滅だ。
待てよ。
……そうか。
二人とも消えてくれれば、一番都合がいいのではないか?
私の頭の中で、冷徹な計算式が弾き出される。
まずは貴之を取り込む。
彼に、美咲の不義を暴かせるのだ。
彼自身も薄々勘付いているはずだ。「自分は種なしなのに、なぜ妊娠した?」と。だが、それを口にすれば自分の嘘がバレるため、言い出せずにいるのだろう。
なんて哀れな道化だ。
私が彼に「協力」してやればいい。
DNA鑑定という舞台を用意してやるのだ。
「君の無実(本当は種なしだが)を証明し、美咲の嘘を暴こう」と囁けば、彼は必ず乗ってくる。
そして鑑定の結果、親子関係がないと証明されれば、美咲は追放される。
その直後に、私が貴之のパイプカットの証拠を兄に差し出せばいい。
そうすれば貴之もまた、兄の怒りを買って追放される。
ライバルは全滅。
残るのは、私と、私の息子だけだ。
完璧だ。
兄さん、あなたの言った通りだ。
『奪われたくなければ、奪う側に回れ』
私は今、あなたの教えを忠実に実行しようとしている。
私は受話器を取り上げ、内線番号を押した。
広報宣伝部長室。貴之の部屋だ。
「……あー、貴之君かね。伝次郎だ」
私は努めて穏やかな、親身な叔父の声色を作った。
「少し、話があるんだがね。……いや、仕事の話じゃない。君と、これから生まれてくる子供の将来についての、大事な話だ」
電話の向こうで、貴之が息を呑む気配がした。
「今夜、空いているかな? いつものバーで待っているよ」
私は一方的に通話を切り、窓の外を再び見やった。
雨はまだ降り続いている。
だが、私の目には、雨雲の切れ間から差し込む一筋の光が見えていた。
老いた獣にも、嗅覚はある。
腐肉の匂いと、勝利の匂い。
今夜の酒は、最高に美味くなりそうだ。
*
西麻布の隠れ家バー。
個室の重い扉が開き、貴之が入ってきた。
顔色が悪い。目の下には隈があり、挙動不審だ。
典型的な「追い詰められた人間」の顔だ。
「お、叔父さん。急にどうしたんですか?」
「まあ、座りたまえ。一杯どうだ?」
私はマッカランのボトルを彼の方へ押した。
貴之は震える手でグラスに注ぎ、一気に煽った。アルコールの力を借りなければ、私と対峙することもできないらしい。
「単刀直入に言おう、貴之君」
私は前置きを省いた。時間をかける価値もない。
「美咲さんの妊娠についてだ」
「っ……! な、何ですか。順調ですよ。僕も楽しみに……」
「芝居はやめろ」
低い声で制すると、貴之はビクリと肩を震わせた。
私は氷の入ったグラスをゆっくりと回しながら、彼を射抜くように見つめた。
「私は君の味方だ。だからこそ忠告する。……あの子供は、本当に君の子かね?」
貴之の顔から、さっと血の気が引いた。
図星だ。分かりやすすぎる。
「そ、そんなの、僕の子に決まってるじゃないですか! 失礼ですよ叔父さん!」
「そうかな? 最近、社内で妙な噂を聞いてね。美咲さんが別の男と会っていたとか、君たちが実はレスだったとか……。まあ、噂は噂だ」
嘘だ。そんな噂はない。私が今作った。
だが、疑心暗鬼に陥っている今の彼には、その嘘が真実味を帯びて響くはずだ。
「貴之君。君は権蔵家の婿だ。もし万が一、美咲さんが不貞を働いて作った子供が後継者になったらどうする? 君の立場はないぞ。権蔵の血統を守るためにも、ここははっきりさせておくべきじゃないか?」
「は、はっきりって……」
「DNA鑑定だよ」
私がその単語を口にした瞬間、貴之の瞳に希望の光が宿るのを、私は見逃さなかった。
彼はずっと、それをやりたかったのだ。
だが、自分から言い出せば「なぜ疑うんだ」と怪しまれる。
しかし、権威ある叔父である私が「親族として要求する」形にすれば、彼は「仕方なく従う被害者」として、堂々と鑑定を行える。
貴之の脳内で高速計算が行われているのが手に取るように分かる。
『これならいける』
『叔父さんに言われたことにすれば、美咲を追い詰められる』
『鑑定でクロが出れば、俺のパイプカットもバレずに済む』
浅はかだ。
その鑑定が、自分自身の首を絞めるロープになるとも知らずに。
「……叔父さんがそこまでおっしゃるなら、僕も考えなきゃいけませんね」
貴之は神妙な顔つきを作って言った。
「実は、僕も少し不安だったんです。美咲の様子が最近おかしくて……。もしかしたら、僕を騙しているんじゃないかと」
「そうか。やはりか」
私は大袈裟に頷いてみせた。
「許せないことだ。権蔵家を愚弄している。貴之君、私が協力しよう。親族会議の場で、私が鑑定を提案する。君はそれに『苦渋の決断』として同意すればいい」
「あ、ありがとうございます! 叔父さんだけが頼りです!」
貴之は私の手を握りしめてきた。その手は湿っぽく、不快だった。
私は心の中で舌を出しながら、表面上は力強く握り返した。
「ああ、任せておけ。我々は家族じゃないか。悪いようにはしない」
そう、悪いようにはしないさ。
君にとっても、美咲にとっても、最悪の結末を用意してやるだけだ。
店を出ると、雨は上がっていた。
私はタクシーに乗り込み、夜の街を眺めた。
兄さん。
あなたの息子でもない男と、あなたの血を引かない赤子。
そんな紛い物たちに、あなたの会社は渡さない。
私が掃除をしておくよ。
それが、あの日の路地裏であなたに救われた、弟としての恩返しだ。
私は懐の報告書を撫でた。
獲物は網にかかった。あとはタイミングを見計らって、引き上げるだけだ。
老獪な狩人の嗅覚が、血の匂いを確かに捉えていた。




