第7話 愛人の野望
「レナさん、今日はもう上がっていいよ」
更衣室に戻った直後、ボーイが事務的な口調で告げた。
時計の針はまだ十一時を回ったばかり。これからが稼ぎ時だというのに、事実上の早退勧告だ。
「……はぁ? ちょっと待ってよ。私、まだ自分の客呼べるし」
「いや、今日は指名客の予約入ってないでしょ。フロアも暇だし、人件費削減しろって店長がうるさくてさ。悪いね」
ボーイは私の抗議など聞く耳持たず、さっさと背を向けた。
私は舌打ちを一つ落とし、ロッカーの扉を乱暴に開けた。
鏡に映る自分の顔を見る。
二十四歳。肌のハリも、メイクのノリも完璧だ。胸だって自信がある。
なのに、なんで私がこんな扱いを受けなきゃならないのよ。
ここは六本木の高級キャバクラ『ヴォルサイユ』。
数年前、北関東の地方都市でナンバーワンだった私は、スカウトの甘い言葉に乗せられて上京した。
『君なら東京でも絶対にトップになれる』
その言葉を信じていた。いや、最初は悪くなかったのだ。田舎仕込みの「純朴な可愛さ」がウケて、そこそこ指名も取れていた。
けれど、東京の夜は残酷だ。
次から次へと若くて可愛い子が入ってくる。モデル崩れ、アイドル崩れ、現役女子大生。
彼女たちの洗練された会話術や、パパ活で鍛えたおねだりテクニックの前では、私の武器なんて錆びついたおもちゃ同然だった。
気づけば、私のポジションは「ヘルプ要員」。
人気キャストが席を外している間の場繋ぎか、数合わせの置物。
そして今夜のように、客が少なければ真っ先に切られる「お荷物」。
「ふざけんじゃないわよ……」
バッグからスマートフォンを取り出し、銀行アプリを開く。
残高の数字を見て、胃がキリキリと痛んだ。
港区のマンションの家賃、ブランド品のローンの支払い、美容代。
出ていく金は一流なのに、入ってくる金は三流以下。
このままじゃ、田舎に舞い戻る羽目になる。あの古臭い街で、地味なヤンキーと結婚して、所帯じみた主婦になるなんて死んでも御免だ。
私の頼みの綱は、ただ一本。
タカ君――権蔵貴之だけだった。
タカ君と出会ったのは、私がまだこの店でそこそこ売れていた頃だ。
彼は典型的な「ウェー組」だった。
ブランドのスーツに着られている感じ。高級時計をこれ見よがしに見せつける仕草。そして、女慣れしすぎたぎこちない会話。
最初はただの「成金サラリーマン」だと思った。適当に煽てて、ボトルを入れさせて、小遣いを稼げればいいと。
けれど、彼の名刺を見て考えが変わった。
『権蔵不動産株式会社 広報宣伝部長』。
そして彼が、あの不動産王・権蔵源造の婿養子だと知った瞬間、私の目の色が変わった。
――大当たりだ。
こいつは、歩くATMだ。
私は全力で彼を落としにかかった。
彼の自尊心をくすぐり、「奥さんより私の方がタカ君を理解してる」と囁き、体の相性の良さを刷り込んだ。
タカ君は単純だった。「君みたいな子は初めてだ」なんてありきたりなセリフと共に、私に溺れていった。
何より最高だったのは、彼が「パイプカット」済みだったことだ。
妊娠のリスクがない。避妊の手間もいらない。
ただ快楽だけを貪って、対価として金を毟り取れる。
彼との関係は、私にとって理想的なビジネスだった。
……はずだったのに。
「なんで連絡つかないのよ」
LINEの画面を睨みつける。
タカ君へのメッセージは、ここ数日既読にすらならない。
『ねえ、新しいバッグ欲しいな♡』
『家賃の更新月なんだけど、ちょっとピンチで……』
今までなら即レスで「分かった、振り込んでおくよ」と返ってきたはずの内容だ。
最近、彼の羽振りが目に見えて悪くなっていた。
以前なら迷わず開けていた高級シャンパンを渋るようになり、ホテルのランクも下がった。
問い詰めると「仕事でトラブルがあって」「義父がうるさくて」と逃げるばかり。
もしかして、捨てられる?
他に若い女ができた?
焦りが募る。もしタカ君という太客を失えば、私は東京で生きていけない。
その時、スマホが震えた。
タカ君かと思って飛びついたが、画面に表示された名前に眉をひそめた。
『神田恭介』
タカ君の大学時代の友人で、医者だという男。
何度かタカ君に連れられて店に来たことがあるけれど、正直、苦手なタイプだった。
タカ君のような分かりやすい馬鹿じゃない。
いつも薄ら笑いを浮かべていて、私の胸元や脚を舐めるように見てくるくせに、決して本心を見せない。
目の奥が笑っていないのだ。まるで、爬虫類みたいに。
でも、無視するわけにはいかない。彼はタカ君の唯一の理解者であり、金持ちだ。
私は愛想よく電話に出た。
「もしもしぃ、神田先生? お久しぶりですぅ」
『やあ、レナちゃん。今、仕事中かな?』
「いえ、ちょうど上がったところです。どうしたんですか?」
『ちょっと話があってね。タカ君のことなんだけど』
ドキリとした。
タカ君のこと? 別れ話の仲介とかじゃないでしょうね。
『大事な話だ。これからの君の生活に関わることだよ。……近くのバーにいるから、来てくれないか?』
断る理由はなかった。
私はメイクを直し、香水を振り撒いてから、店を出た。
*
指定されたのは、会員制のオーセンティックバーだった。
重厚な扉を開けると、紫煙の向こうに神田が座っていた。
彼は私に気づくと、手招きをして隣の席を勧めた。
「お疲れ様。相変わらず綺麗だね」
「もう、先生ったらお上手なんだから。……で、話って?」
私はマティーニを一口飲み、単刀直入に切り出した。
神田はグラスを揺らしながら、氷の音を楽しんだ後、さらりと言った。
「タカ君の奥さんが、妊娠したんだよ」
私はマティーニを吹き出しそうになった。
「はあ!? 妊娠? だってタカ君、パイプカットしてるんでしょ? 種なしなんでしょ?」
「そうだよ。四年前、俺が執刀したんだから間違いない」
「じゃあ、浮気? 他の男ってこと?」
「十中八九そうだろうね。でも、問題はそこじゃないんだ」
神田は声を潜めた。
「タカ君は今、完全にパニックになってる。もし『俺の子じゃない』と騒げば、自分がパイプカットをしていたことがバレる。そうなれば、あの恐ろしい義父・源造会長に殺される。だから彼は、他人の子を自分の子として認めざるを得ない状況なんだ」
私は口を開けたまま固まった。
なんて間抜けな話だ。妻に浮気され、托卵され、それでもニコニコと父親のフリをしなきゃいけないなんて。
「で、ここからが君にとっての問題だ。……源造会長に孫ができたとなれば、遺産はすべてその子に行く。タカ君の取り分は激減する。つまり、君に貢ぐ金もなくなるってことだ」
「え……」
血の気が引いた。
やっぱり。だから最近、金払いが悪かったんだ。
冗談じゃない。タカ君が貧乏になったら、私にとっては何の価値もないただのオッサンだ。
「困るでしょ? このままだと、タカ君は君を切るしかない」
「そ、そんな……! どうにかならないんですか? 先生、友達でしょ?」
「俺も困ってるんだよ。タカ君には色々と世話になってるからね。……だから、考えたんだ。起死回生の一発逆転プランを」
神田の目が、怪しく光った。
それはまるで、獲物を罠に誘い込む悪魔の目のようだった。
「逆転プラン?」
「ああ。レナちゃん、君が欲しいのは金だろ? それも、小銭じゃなくて、一生遊んで暮らせるだけの大金」
「も、もちろんよ」
「だったら、場所を変えようか。ここでは少し、喋りづらい」
神田は伝票を掴んで立ち上がった。
私は迷わず彼について行った。
この男が何を考えているのかは分からない。でも、金になる匂いがプンプンしたからだ。
連れて行かれたのは、近くの高級ホテルのスイートルームだった。
夜景が一望できる窓辺で、神田は私にシャンパンを注いだ。
「単刀直入に言おう。……レナちゃん、君も妊娠すればいいんだ」
私はグラスを取り落としそうになった。
「は? 何言ってんの? だからタカ君は種なしなんでしょ?」
「治したんだよ」
神田はニヤリと笑った。
「先日、俺が再建手術をした。今はもう、彼の機能は正常に戻っている。いつでも子供が作れる状態だ」
「えっ、そうなの!?」
「ああ。そこでだ。もし君がタカ君の子供を産めば、どうなると思う?」
神田は私の肩に手を回し、耳元で囁いた。
「奥さんの腹の子は、DNA鑑定をすれば赤の他人だと分かる。でも、君の腹の子は、間違いなくタカ君の血を引いた実子だ。源造会長が死んだ後、タカ君は不貞を働いた妻を追い出し、実子を産んだ君を迎え入れるだろう。……そうすれば、君は権蔵家の正妻だ。数百億の遺産は、君と君の子供のものになる」
――数百億。
その言葉の響きに、私の脳みそが痺れた。
ただの愛人から、資産家の妻へ。
ヘルプ扱いの惨めなキャバ嬢から、六本木ヒルズの住人へ。
それは、私が夢見ていたシンデレラストーリーそのものだった。
「本気……なの?」
「本気だよ。タカ君もそれを望んでいる。自分の血を引いた子供を、後継者にしたいってね」
神田の手が、私の背中を這い回る。
普段なら気持ち悪くて払いのけるところだが、今の私には、その手が黄金へのチケットに見えた。
「でも、妊娠なんて……すぐできるか分からないし」
「大丈夫。俺は産婦人科医だぞ? 妊娠しやすいタイミング、体作り、すべて俺が指導してやる」
神田は私をベッドへと押し倒した。
抵抗する気はなかった。
タカ君が元の羽振りに戻るどころか、私がその財布の紐を握れるようになるなら、この男に体を開くくらい安い投資だ。
「指導って……こういうこと?」
「ああ。ホルモンバランスを整えるには、適度な刺激が必要なんだよ」
神田の唇が重なる。
タカ君とは違う、手慣れた、それでいてどこか冷徹な愛撫。
私は目を閉じて、未来の栄光を思い描いた。
見てなさいよ、店長。私を馬鹿にした他の女たち。
そして、顔も知らないタカ君の奥さん。
あんたの席、私が奪ってやるから。
*
それから数週間、私は奇妙な二重生活を送ることになった。
まずはタカ君。
彼は手術で本来のオスに戻ったため、精力的に私を求めてきた。
「レナ、愛してる。お前との子供が欲しいんだ」
必死な形相で腰を振る彼を見ていると、少し哀れに思えたけれど、それ以上に「遺産」という二文字が頭をよぎって、私も熱心に応じた。
「うん、ちょうだい。タカ君の赤ちゃん、私のお腹に入れて……!」
そう囁くだけで、彼は獣のように果てた。チョロいものだ。
そして、神田。
彼もまた、「治療の一環だ」「着床を助けるマッサージだ」と言って、頻繁に私を呼び出した。
時には診察室で、時にはホテルで。
神田との行為は、タカ君のような情熱的なものではなく、どこか実験的で淡々としていた。けれど、彼が私の中に注ぎ込むたびに、「これで妊娠の確率が上がるなら」と受け入れた。
誰の種かなんて、どうでもよかった。
重要なのは、私が「妊娠する」という事実だけ。
タカ君は自分が正常に戻ったと思っているんだから、私が妊娠すれば、無条件で自分の子だと信じ込む。
そうすれば、計画通りだ。
そして、十月下旬。
生理が遅れていることに気づいた私は、薬局で妊娠検査薬を買った。
自宅のトイレ。震える手でスティックを握る。
一分、二分。
判定窓に、くっきりと赤い陽性のラインが浮かび上がった。
「……やった」
歓喜の声が漏れた。
できた。妊娠した!
これはただの受精卵じゃない。権蔵家の金庫を開ける鍵だ。
私のお腹の中に、数百億の価値がある命が宿ったのだ。
「あはっ、あはははは!」
笑いが止まらなかった。
ざまぁみろ。私は勝ったんだ。
あの田舎から出てきて、東京でゴミのように扱われそうになった私が、最後に一番大きな魚を釣り上げた。
私はすぐにスマホを手に取った。
連絡するのはタカ君……ではない。
まずは作戦参謀である神田に報告だ。
「もしもし、先生? ……できたよ、赤ちゃん!」
『おっ、本当か! 流石レナちゃん、仕事が早いね』
神田の声も弾んでいる。
『体調はどうだ? 変わりはないか?』
「全然平気。つわりもまだないし。……ねえ、すぐタカ君に言っていい?」
『いや、待て。焦るな』
神田が制した。
『タカ君は今、奥さんの親族たちに監視されてピリピリしてる。報告するなら、もっと劇的で、効果的なタイミングがいい』
「いつよ?」
『来月、源造会長の容態が山場を迎えるだろう。……葬儀の前後、タカ君が一番心細くなっている時がベストだ。そこで「希望」を見せてやるんだよ』
「なるほどね。流石先生、悪知恵が働くぅ」
『褒め言葉として受け取っておくよ。それまでは、体に気をつけて。大事な「商品」なんだからな』
通話を切り、私はお腹を優しく撫でた。
ここにいるのは、タカ君の子。
……まあ、神田との回数も多かったから、もしかしたら神田の子かもしれないけど。
でも、神田が再建手術を成功させたって言ってるんだから、確率的にはタカ君の子でしょう。
どっちでもいいわ。DNAなんて目に見えないし、生まれた赤ん坊の顔なんて最初はみんな猿みたいなんだから、区別なんてつかない。
タカ君が「俺の子だ」と認めて、認知さえしてくれれば、それで勝ちなのだ。
私は鏡の前でポーズを取った。
まだぺたんこのお腹。でも、ここには未来が詰まっている。
これからは、私が主役だ。
権蔵レナ。うん、悪くない響きだわ。
ふと、タカ君の奥さん――美咲という女の顔を想像してみる。会ったことはないけれど、きっと地味で、つまらない女に違いない。
可哀想に。夫には裏切られ、お腹の子は托卵だとバレて追い出され、最後は無一文になるなんて。
世の中、賢くて美しい女が勝つのよ。
私はクローゼットから一番高いワンピースを取り出し、体に当てた。
これからはマタニティウェアもブランド物で揃えなきゃ。
ああ、忙しくなりそう。
私は勝利の予感に酔いしれながら、まだ見ぬ我が子に話しかけた。
「いい子ね、ママを大金持ちにしてね」
私はただ、目の前にぶら下がった極彩色の餌に、思い切りかぶりついたのだった。




