第6話 美咲の支配
季節は秋へと移ろおうとしていた。
庭の木々が僅かに色づき始め、風には乾いた冷たさが混じる。
けれど、権蔵家の屋敷の中だけは、異様な熱気と、張り詰めた緊張感に満ちていた。
「――美咲、大丈夫か? 水、持ってこようか?」
リビングのソファで私が小さく咳き込んだだけで、夫の貴之が反射的に飛んできた。
その顔には、心配の色というよりは、焦燥と恐怖が張り付いている。
「ありがとう、貴之さん。少し喉が渇いただけよ」
「そうか、よかった。……いや、よくないな。乾燥は大敵だ。すぐに加湿器を用意させるよ」
貴之は慌ただしく家政婦に指示を飛ばし、私の背中にクッションをあてがった。
その甲斐甲斐しさは、側から見れば愛妻家のそれだろう。
けれど、私は知っている。
それは演技だということを。ひいては彼自身の保身のためだということを。
私は、お腹に手を当てて、困ったように眉を下げてみせた。
「ごめんなさいね、貴之さん。なんだか最近、情緒が不安定で……。少しでも強い言葉を聞いたり、嫌な予感がしたりすると、お腹がキュッとなるの」
「なっ……! い、痛むのか?」
「ええ、少し。……お医者様が言っていたわ。母親のストレスは、ダイレクトに胎児に影響するって。もし、この子に何かあったら……お父様、なんておっしゃるかしら」
『お父様』。
その単語を出した瞬間、貴之の顔色がさっと青ざめるのが分かった。
効果は覿面だ。
父・源造にとって、この子は悲願の孫。もし流産などという事態になれば、その原因を作った人間は、文字通りこの世から抹消されかねない。
貴之はそれを誰よりも理解している。
だからこそ、今の私は無敵なのだ。
「す、ストレスはいけない! 絶対にいけない!」
貴之は首を激しく振った。脂汗が滲んでいる。
「僕にできることがあったら何でも言ってくれ。君と赤ちゃんのためなら、僕はなんだってする」
「本当に?」
「ああ、もちろんだとも!」
私はふわりと微笑んだ。
聖母のような慈愛を湛えながら、瞳の奥だけは氷点下の冷たさを保つ。
「じゃあ、お願いがあるの。……最近、貴之さんの帰りが遅いのが心配で。夜、一人で待っていると、悪い想像ばかりしてしまうのよ」
貴之の目が泳いだ。
ここ数日、彼は「接待」や「残業」と称して、頻繁に外泊や深夜帰宅を繰り返していた。行き先が愛人・レナの元であることは明白だ。
「そ、それは……仕事が忙しくてだな……」
「お仕事なのは分かっているわ。でも、お父様に相談してみようかしら。『貴之さんが激務で、私が不安を感じているから、少し仕事を減らしてあげてほしい』って」
それは、貴之にとっての死刑宣告に等しい。
源造に「嫁のケアもできず、仕事を理由に家庭を疎かにしている」と判断されれば、彼の社内での立場は危うくなる。次期社長の椅子など夢のまた夢だ。
「い、いや! お義父さんに心配をかけるわけにはいかない!」
貴之は悲鳴のような声を上げた。
「分かった、帰るよ。これからは定時で……いや、できるだけ早く帰る」
「嬉しい。約束よ?」
「ああ、約束する」
貴之は項垂れた。
私は優越感に浸りながら、あたたかいハーブティーを口に含んだ。
かつて、この男の顔色を伺い、機嫌を取り、奴隷のように尽くしていたのは私の方だった。
けれど今、首輪を握っているのは私だ。
私はゆっくりと鎖を引く。
窒息しない程度に。けれど、逃げられないように、確実に。
*
その日の午後、私はかつてない静寂に包まれた書斎にいた。
貴之は会社へ行き、家政婦たちは買い物に出ている。
私はクローゼットに目をやった。
そこには、貴之が昨日着ていたダークグレーのスーツが掛けられている。彼が「重要な接待がある」と言って着ていき、帰宅後すぐにベッドに倒れ込んだため、私がハンガーに掛けたものだ。
私はスーツの内ポケットに手を滑り込ませた。
仕立ての良い裏地の奥に、指先に触れる硬質な異物感。
私はあらかじめ糸を解いておいた裏地の隙間から、親指大の黒いスティックを取り出した。
超小型ボイスレコーダー。
最大録音時間は四十八時間。昨日の朝、彼が出勤する前に忍ばせておいたものだ。
私はパソコンにレコーダーを接続し、音声データを再生した。
カサカサという衣擦れの音。電車の走行音。部下への横柄な指示。
そして、数時間の空白の後――聞き覚えのある、粘着質な男の声が響いた。
『……始めますか』
神田恭介の声だ。
続いて、金属音が響く。何かの作業をしている音。
貴之の声はしない。眠っている?手術を受けている?
私は再生時間を早送りしようとして、指を止めた。
妙だ。
開始から、わずか十五分しか経過していないのに、もう片付けの音がし始めたのだ。
こんな短時間で何の手術だ?
その時、レコーダーから神田の独り言が漏れ聞こえてきた。
『痛かったろ? ごめんな、貴之』
口笛交じりの、軽い声。
『再建の振りして皮膚を切って縫うだけ……中身は空っぽのままだが、見た目は立派な手術痕だ。これで三百万……チョロいもんだな』
――そういう事ね。
私は思わず、画面の前で声を出して笑ってしまった。
貴之はパイプカットの再建手術を受けていた。それも嘘のだ。
神田は貴之を騙し、手術をしたフリをして金を巻き上げたのだ。
そして貴之は、自分が「種あり」に戻ったと信じ込み、滑稽にもレナの元へ通っている。
「……救いようがないわね、あなたたち」
さらに私は貴之のデスクの前に座り、彼のノートパソコンを開いた。
パスワードは単純だ。私の誕生日ではない。彼自身の誕生日と、車のナンバーの組み合わせ。自己愛の強い彼らしい。
画面が立ち上がる。私は手慣れた手つきで、家計簿ソフトと、彼が隠している裏帳簿のデータにアクセスした。
結婚前、私は権蔵不動産の経理部で働いていた。
金の流れを追うことにかけては、プロフェッショナルだ。数字は嘘をつかない。そこには、人間の欲望と焦燥が、生々しいほど正直に刻まれている。
「……やっぱりね」
画面上の数字を目で追いながら、私は独り言ちた。
大きな支出がいくつもある。
特に目立つのは、先日の三〇〇万円の出金だ。
日付は九月十日。
神田のクリニックで、彼がパイプカット再建手術を受けた日と一致する。
「三〇〇万……。あの神田のことだもの、ただ皮膚を切って縫うだけの処置に、よくもまあそんな金額を」
呆れを通り越して、感心すら覚える。
さらに遡ると、使途不明金が山のように出てくる。
『接待交際費』という名目の、高級ブランド店での決済。
『出張旅費』という名目の、都内高級ホテルの宿泊費。
すべて、愛人レナへの貢ぎ物だ。
だが、ここ最近のデータを見ると、その流れに変化が生じていることが分かる。
レナへの支出が、露骨に減っているのだ。
今月に入ってからは、ブランド品の購入履歴はゼロ。ホテル代もビジネスホテル並みの金額に落ちている。
理由は明白だ。
手術費用の三〇〇万を捻出するために、貴之の手持ちの現金が枯渇したのだ。
それに加えて、私が家計の財布の紐を締めたことも効いている。「子供のために教育費を貯めましょう」という正論には、彼も反論できなかった。
「ふふ……」
想像できる。
金払いの悪くなった貴之に対して、レナがどれほど不満を募らせているか。
彼女のような女は、愛情で繋がっているわけではない。金の切れ目が縁の切れ目だ。
貴之は今、必死で言い訳をしていることだろう。「もう少し待ってくれ」「遺産が入れば」と。
だが、待てないのが人間だ。
特に、神田のようなハイエナと、レナのような寄生虫は。
私はキーボードを叩き、会社の経理データの続きに目を通した。
深刻だ。
広報宣伝費の水増し請求。架空のイベント会社への発注。
その穴埋めのために、別のプロジェクトの予算を流用している形跡がある。
「雑だわ……」
かつての経理部員としての血が騒ぐほど、お粗末な隠蔽工作だった。
これなら、少し調べればすぐにバレる。
おそらく、近いうちに監査が入るだろう。あるいは、すでに鼻の利く人間が嗅ぎ回っているのかもしれない。
私はその証拠データをUSBメモリにコピーした。
このカードを切るのは、まだ先だ。
貴之を社会的に抹殺するのは簡単だが、それでは面白くない。
彼が「全てうまくいった」と絶頂に達した瞬間に、足元を崩さなければ意味がないのだ。
USBメモリを抜き取り、ペンダントトップの中に隠す。
冷たい金属の感触が、胸元で微かに熱を帯びた。
その時、玄関の方で重々しい音が響いた。
多数の足音。指示を飛ばす低い声。そして、機械が擦れるような駆動音。
空気が一変する気配を感じ、私はリビングへと向かった。
*
広々とした玄関ホールが、黒服の男たちと医療スタッフで埋め尽くされていた。
その中心で、ストレッチャーに乗せられた老人が運ばれてくる。
権蔵源造。
私の養父であり、この家の絶対君主。
そして、私の実父を死に追いやった仇敵。
末期ガンに侵された彼の容態が悪化し、病院での治療も限界を迎えたため、今日から自宅療養に切り替えられたのだ。
「病院の天井を見上げて死ぬのは御免だ。俺の城で死ぬ」
それが彼が出した、最後のわがままだった。
「お父様……」
私は駆け寄るフリをして、彼の顔を覗き込んだ。
酸素マスクの下の顔は、髑髏のように痩せこけていた。かつて私を威圧し、支配していた強大なエネルギーは見る影もない。
だが、閉じられた瞼の下にある眼球が動いた瞬間、私は背筋が粟立つのを感じた。
腐っても鯛、死にかけても猛獣だ。
その魂の芯にある冷酷さは、死神さえも手こずらせているようだった。
「……美咲か」
マスク越しに、掠れた声が漏れる。
「はい、お帰りなさいませ」
「腹は……どうだ」
「順調です。よく動きますわ」
嘘だ。まだ胎動など感じない。
けれど、そう告げると、源造の口元が微かに歪んだ。笑ったのか、痛みに耐えたのかは分からない。
「そうか。……産めよ。必ずだ」
「はい。命に代えても」
ストレッチャーは、一階の最も日当たりの良い、そして庭園を一望できる和室へと運ばれていった。
そこにはすでに最新の医療機器が搬入され、無機質な電子音が古式ゆかしい屋敷の静寂を侵食し始めていた。
彼がこの家に戻ってきた。
それは、私の復讐劇がいよいよ最終幕へと向かう合図でもあった。
この屋敷は今日から、彼の陵墓となる。
「……やあ、美咲さん。大変そうだね」
背後から声をかけられ、私は振り返った。
そこに立っていたのは、小柄だが眼光の鋭い初老の男だった。
権蔵伝次郎。
源造の実弟であり、権蔵不動産の専務を務める男だ。
「叔父様。わざわざお運びいただいて、ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
伝次郎は昔から、私に対して「怖いくらいに親切」だった。
だが、その笑顔の裏には、常に計算高い商人の目が光っている。彼は、実の兄である源造を恐れながらも、その座を虎視眈々と狙い続けてきた男だ。
「いやいや、兄貴の最後……いや、療養だからね。弟として当然だよ」
伝次郎は言い直したが、その目は笑っていなかった。
彼は私のお腹に視線を落とした。
「それにしても、おめでたいことだ。貴之君との間に子供ができるとはね。正直、驚いたよ」
「ええ、私たちも奇跡だと思っています」
「奇跡、か。……そうだね。貴之君は、昔から少し線が細いというか、そういうことには淡白そうに見えたから」
伝次郎の言葉には、棘があった。
彼は何かを嗅ぎつけている。
私たちが不妊治療に通っていたこと、あるいは、種なしである可能性を疑っているのかもしれない。
社長の座を狙う彼にとって、突如として現れた「直系の孫(後継者)」は、邪魔以外の何物でもないのだ。
「貴之さんは優しい人ですわ。それに、とても情熱的なところもあるんです」
「ほう、そうかい。それは意外だ」
伝次郎は鼻を鳴らした。
そして、一歩私に近づき、声を潜めた。
「だが、美咲さん。権蔵の血というのは、重いものだよ。もし万が一、その子が……いや、なんでもない」
「何をおっしゃりたいのですか?」
私はあえて問い返した。
伝次郎は私の目をじっと見つめ返し、探るような視線を送った。
「いやね、最近、貴之君の周りで妙な噂を聞くんだ。……金の使い方が荒いとか、付き合いの悪い医者がいるとか。美咲さん、君は賢い女性だ。夫の手綱は、しっかり握っておいた方がいい」
それは忠告というより、牽制だった。
『俺は貴之の弱みを握りつつあるぞ』というアピールだ。
私は内心で舌を出した。
この男もまた、私を利用しようとしている。
貴之を追い落とすために、私の妊娠に疑義を挟んでくる可能性が高い。
望むところだ。
伝次郎叔父様、あなたが動けば動くほど、私のシナリオは完璧なものになる。
貴之を追い詰める猟犬役は、あなたにお任せしましょう。
「肝に銘じます。……でも、私は貴之さんを信じていますから」
「ハハッ、それは殊勝なことだ。ま、何かあったら相談に乗るよ。私たちは親族なんだからね」
伝次郎は私の肩をポンと叩き、湿っぽい掌の感触を残して去っていった。
その背中を見送りながら、私はハンカチで肩を払った。
敵だらけだ。
この屋敷には、私の味方など一人もいない。
夫は私を騙して遺産を狙い、医師は私を金づるにし、義理の叔父は私ごと貴之を潰そうとし、養父は私を道具として扱う。
結構よ。
全員、まとめて地獄へお送りして差し上げるわ。
*
夜。
屋敷は静寂に包まれていた。
和室の方からは、源造の生命維持装置の規則的な電子音が微かに響いてくる。それはまるで、この屋敷全体の心拍音のようだった。
私は寝室のベッドに入り、読書をするフリをして耳を澄ませていた。
隣の部屋――貴之の書斎から、押し殺したような話し声が聞こえる。
「……だから、もう少し待ってくれって言ってるだろ!」
貴之の声だ。苛立ちが隠せない様子だ。
壁に耳を当てなくても、会話の内容は想像がつく。
「今、お義父さんが戻ってきて家の中がピリピリしてるんだ。金だって自由には動かせない。美咲の目も厳しくてな……」
電話の相手はレナだろう。
彼女はきっと、「そんなの関係ない、今すぐ会いたい、あれが欲しい」と喚いているに違いない。恭介あたりに入れ知恵されて、わざと貴之を追い詰めているのかもしれない。
「分かった、分かったよ! なんとかする。……ああ、愛してるよ。お前だけだ」
通話が切れる気配がした。
私は本を閉じ、天井を見上げた。
『お前だけだ』。
よくもまあ、そんなセリフが吐けるものだ。
数時間前には、私に向かって「君と赤ちゃんのためなら何でもする」と言っていた口で。
貴之が寝室に入ってきた。
私はとっさに寝たふりをした。
彼はベッドの脇に立ち、私の寝顔を覗き込んでいるようだった。
「……くそっ」
小さく、吐き捨てるような声が聞こえた。
続いて、ため息。
そして彼は、自分のベッドに潜り込み、背中を向けて寝息を立て始めた。
暗闇の中で、私は目を開けた。
腹の底から、どす黒い笑いが込み上げてくるのを抑えるのに必死だった。
苦しいでしょう、貴之さん。
源造への恐怖。レナからのプレッシャー。金策の行き詰まり。
四方八方から締め付けられる感覚はどう?
でも、まだ序の口よ。
あなたが味わう絶望は、こんなものじゃない。
あなたが「自分は男に戻った」「レナとの間に子供ができるはずだ」という希望にすがっている限り、その梯子を外された時の衝撃は計り知れない。
私はそっとお腹を撫でた。
(いい子ね。もう少し静かにしていて)
私の中の怪物が、呼応するように脈打った。
私の憎しみを栄養にして育つ、美しき復讐者。
源造がこの家に死に場所を求めて戻ってきたことで、役者は揃った。
舞台装置も整いつつある。
あとは、私が指揮棒を振るだけだ。
翌朝、私はいつもより早く起きた。
キッチンに立ち、包丁を握る。
トントン、トントン。
野菜を刻む音が、軽快なリズムを刻む。
貴之のために、栄養たっぷりの朝食を作ろう。
ストレスに負けないように。
最後まで、私のシナリオ通りに踊り続けてもらうために。
私の支配する王国で、彼にはまだ、道化としての役割が残っているのだから。




