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不妊治療3年目。夫が隠した「パイプカット手術の同意書」を見つけた件。だから、私は妊娠しました。  作者: 団田図


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第6話 美咲の支配

 季節は秋へと移ろおうとしていた。

 庭の木々が僅かに色づき始め、風には乾いた冷たさが混じる。

 けれど、権蔵ごんぐら家の屋敷の中だけは、異様な熱気と、張り詰めた緊張感に満ちていた。


「――美咲、大丈夫か? 水、持ってこようか?」


 リビングのソファで私が小さく咳き込んだだけで、夫の貴之が反射的に飛んできた。

 その顔には、心配の色というよりは、焦燥と恐怖が張り付いている。


「ありがとう、貴之さん。少し喉が渇いただけよ」

「そうか、よかった。……いや、よくないな。乾燥は大敵だ。すぐに加湿器を用意させるよ」


 貴之は慌ただしく家政婦に指示を飛ばし、私の背中にクッションをあてがった。

 その甲斐甲斐しさは、側から見れば愛妻家のそれだろう。

 けれど、私は知っている。

 それは演技だということを。ひいては彼自身の保身のためだということを。


 私は、お腹に手を当てて、困ったように眉を下げてみせた。


「ごめんなさいね、貴之さん。なんだか最近、情緒が不安定で……。少しでも強い言葉を聞いたり、嫌な予感がしたりすると、お腹がキュッとなるの」

「なっ……! い、痛むのか?」

「ええ、少し。……お医者様が言っていたわ。母親のストレスは、ダイレクトに胎児に影響するって。もし、この子に何かあったら……お父様、なんておっしゃるかしら」


 『お父様』。

 その単語を出した瞬間、貴之の顔色がさっと青ざめるのが分かった。

 効果は覿面てきめんだ。


 父・源造げんぞうにとって、この子は悲願の孫。もし流産などという事態になれば、その原因を作った人間は、文字通りこの世から抹消されかねない。

 貴之はそれを誰よりも理解している。

 だからこそ、今の私は無敵なのだ。


「す、ストレスはいけない! 絶対にいけない!」

 貴之は首を激しく振った。脂汗が滲んでいる。

「僕にできることがあったら何でも言ってくれ。君と赤ちゃんのためなら、僕はなんだってする」


「本当に?」

「ああ、もちろんだとも!」


 私はふわりと微笑んだ。

 聖母のような慈愛を湛えながら、瞳の奥だけは氷点下の冷たさを保つ。


「じゃあ、お願いがあるの。……最近、貴之さんの帰りが遅いのが心配で。夜、一人で待っていると、悪い想像ばかりしてしまうのよ」


 貴之の目が泳いだ。

 ここ数日、彼は「接待」や「残業」と称して、頻繁に外泊や深夜帰宅を繰り返していた。行き先が愛人・レナの元であることは明白だ。


「そ、それは……仕事が忙しくてだな……」

「お仕事なのは分かっているわ。でも、お父様に相談してみようかしら。『貴之さんが激務で、私が不安を感じているから、少し仕事を減らしてあげてほしい』って」


 それは、貴之にとっての死刑宣告に等しい。

 源造に「嫁のケアもできず、仕事を理由に家庭を疎かにしている」と判断されれば、彼の社内での立場は危うくなる。次期社長の椅子など夢のまた夢だ。


「い、いや! お義父さんに心配をかけるわけにはいかない!」

 貴之は悲鳴のような声を上げた。

「分かった、帰るよ。これからは定時で……いや、できるだけ早く帰る」


「嬉しい。約束よ?」

「ああ、約束する」


 貴之は項垂うなだれた。

 私は優越感に浸りながら、あたたかいハーブティーを口に含んだ。

 かつて、この男の顔色を伺い、機嫌を取り、奴隷のように尽くしていたのは私の方だった。

 けれど今、首輪を握っているのは私だ。

 

 私はゆっくりと鎖を引く。

 窒息しない程度に。けれど、逃げられないように、確実に。


          *


 その日の午後、私はかつてない静寂に包まれた書斎にいた。

 貴之は会社へ行き、家政婦たちは買い物に出ている。


 私はクローゼットに目をやった。

 そこには、貴之が昨日着ていたダークグレーのスーツが掛けられている。彼が「重要な接待がある」と言って着ていき、帰宅後すぐにベッドに倒れ込んだため、私がハンガーに掛けたものだ。

 私はスーツの内ポケットに手を滑り込ませた。

 仕立ての良い裏地の奥に、指先に触れる硬質な異物感。

 私はあらかじめ糸を解いておいた裏地の隙間から、親指大の黒いスティックを取り出した。


 超小型ボイスレコーダー。

 最大録音時間は四十八時間。昨日の朝、彼が出勤する前に忍ばせておいたものだ。

 私はパソコンにレコーダーを接続し、音声データを再生した。


 カサカサという衣擦れの音。電車の走行音。部下への横柄な指示。

 そして、数時間の空白の後――聞き覚えのある、粘着質な男の声が響いた。


『……始めますか』


 神田恭介の声だ。

 続いて、金属音が響く。何かの作業をしている音。

 貴之の声はしない。眠っている?手術を受けている?


 私は再生時間を早送りしようとして、指を止めた。

 妙だ。

 開始から、わずか十五分しか経過していないのに、もう片付けの音がし始めたのだ。

 こんな短時間で何の手術だ?


 その時、レコーダーから神田の独り言が漏れ聞こえてきた。


『痛かったろ? ごめんな、貴之』


 口笛交じりの、軽い声。


『再建の振りして皮膚を切って縫うだけ……中身は空っぽのままだが、見た目は立派な手術痕だ。これで三百万……チョロいもんだな』


 ――そういう事ね。


 私は思わず、画面の前で声を出して笑ってしまった。

 貴之はパイプカットの再建手術を受けていた。それも嘘のだ。

 神田は貴之を騙し、手術をしたフリをして金を巻き上げたのだ。

 そして貴之は、自分が「種あり」に戻ったと信じ込み、滑稽にもレナの元へ通っている。


「……救いようがないわね、あなたたち」


 さらに私は貴之のデスクの前に座り、彼のノートパソコンを開いた。

 パスワードは単純だ。私の誕生日ではない。彼自身の誕生日と、車のナンバーの組み合わせ。自己愛の強い彼らしい。


 画面が立ち上がる。私は手慣れた手つきで、家計簿ソフトと、彼が隠している裏帳簿のデータにアクセスした。

 結婚前、私は権蔵不動産の経理部で働いていた。

 金の流れを追うことにかけては、プロフェッショナルだ。数字は嘘をつかない。そこには、人間の欲望と焦燥が、生々しいほど正直に刻まれている。


「……やっぱりね」


 画面上の数字を目で追いながら、私は独り言ちた。

 大きな支出がいくつもある。

 特に目立つのは、先日の三〇〇万円の出金だ。

 日付は九月十日。

 神田のクリニックで、彼がパイプカット再建手術を受けた日と一致する。


「三〇〇万……。あの神田のことだもの、ただ皮膚を切って縫うだけの処置に、よくもまあそんな金額を」


 呆れを通り越して、感心すら覚える。

 さらに遡ると、使途不明金が山のように出てくる。

 『接待交際費』という名目の、高級ブランド店での決済。

 『出張旅費』という名目の、都内高級ホテルの宿泊費。

 すべて、愛人レナへの貢ぎ物だ。


 だが、ここ最近のデータを見ると、その流れに変化が生じていることが分かる。

 レナへの支出が、露骨に減っているのだ。

 今月に入ってからは、ブランド品の購入履歴はゼロ。ホテル代もビジネスホテル並みの金額に落ちている。


 理由は明白だ。

 手術費用の三〇〇万を捻出するために、貴之の手持ちの現金が枯渇したのだ。

 それに加えて、私が家計の財布の紐を締めたことも効いている。「子供のために教育費を貯めましょう」という正論には、彼も反論できなかった。


「ふふ……」


 想像できる。

 金払いの悪くなった貴之に対して、レナがどれほど不満を募らせているか。

 彼女のような女は、愛情で繋がっているわけではない。金の切れ目が縁の切れ目だ。

 貴之は今、必死で言い訳をしていることだろう。「もう少し待ってくれ」「遺産が入れば」と。


 だが、待てないのが人間だ。

 特に、神田のようなハイエナと、レナのような寄生虫は。


 私はキーボードを叩き、会社の経理データの続きに目を通した。

 深刻だ。

 広報宣伝費の水増し請求。架空のイベント会社への発注。

 その穴埋めのために、別のプロジェクトの予算を流用している形跡がある。


「雑だわ……」


 かつての経理部員としての血が騒ぐほど、お粗末な隠蔽工作だった。

 これなら、少し調べればすぐにバレる。

 おそらく、近いうちに監査が入るだろう。あるいは、すでに鼻の利く人間が嗅ぎ回っているのかもしれない。


 私はその証拠データをUSBメモリにコピーした。

 このカードを切るのは、まだ先だ。

 貴之を社会的に抹殺するのは簡単だが、それでは面白くない。

 彼が「全てうまくいった」と絶頂に達した瞬間に、足元を崩さなければ意味がないのだ。


 USBメモリを抜き取り、ペンダントトップの中に隠す。

 冷たい金属の感触が、胸元で微かに熱を帯びた。


 その時、玄関の方で重々しい音が響いた。

 多数の足音。指示を飛ばす低い声。そして、機械が擦れるような駆動音。

 空気が一変する気配を感じ、私はリビングへと向かった。


          *


 広々とした玄関ホールが、黒服の男たちと医療スタッフで埋め尽くされていた。

 その中心で、ストレッチャーに乗せられた老人が運ばれてくる。


 権蔵ごんぐら源造げんぞう

 私の養父であり、この家の絶対君主。

 そして、私の実父を死に追いやった仇敵。


 末期ガンに侵された彼の容態が悪化し、病院での治療も限界を迎えたため、今日から自宅療養に切り替えられたのだ。

 「病院の天井を見上げて死ぬのは御免だ。俺の城で死ぬ」

 それが彼が出した、最後のわがままだった。


「お父様……」


 私は駆け寄るフリをして、彼の顔を覗き込んだ。

 酸素マスクの下の顔は、髑髏ドクロのように痩せこけていた。かつて私を威圧し、支配していた強大なエネルギーは見る影もない。

 だが、閉じられた瞼の下にある眼球が動いた瞬間、私は背筋が粟立つのを感じた。

 腐っても鯛、死にかけても猛獣だ。

 その魂の芯にある冷酷さは、死神さえも手こずらせているようだった。


「……美咲か」


 マスク越しに、掠れた声が漏れる。


「はい、お帰りなさいませ」

「腹は……どうだ」

「順調です。よく動きますわ」


 嘘だ。まだ胎動など感じない。

 けれど、そう告げると、源造の口元が微かに歪んだ。笑ったのか、痛みに耐えたのかは分からない。


「そうか。……産めよ。必ずだ」

「はい。命に代えても」


 ストレッチャーは、一階の最も日当たりの良い、そして庭園を一望できる和室へと運ばれていった。

 そこにはすでに最新の医療機器が搬入され、無機質な電子音が古式ゆかしい屋敷の静寂を侵食し始めていた。


 彼がこの家に戻ってきた。

 それは、私の復讐劇がいよいよ最終幕へと向かう合図でもあった。

 この屋敷は今日から、彼の陵墓となる。


「……やあ、美咲さん。大変そうだね」


 背後から声をかけられ、私は振り返った。

 そこに立っていたのは、小柄だが眼光の鋭い初老の男だった。

 権蔵伝次郎(でんじろう)

 源造の実弟であり、権蔵不動産の専務を務める男だ。


「叔父様。わざわざお運びいただいて、ありがとうございます」


 私は深く頭を下げた。

 伝次郎は昔から、私に対して「怖いくらいに親切」だった。

 だが、その笑顔の裏には、常に計算高い商人の目が光っている。彼は、実の兄である源造を恐れながらも、その座を虎視眈々と狙い続けてきた男だ。


「いやいや、兄貴の最後……いや、療養だからね。弟として当然だよ」


 伝次郎は言い直したが、その目は笑っていなかった。

 彼は私のお腹に視線を落とした。


「それにしても、おめでたいことだ。貴之君との間に子供ができるとはね。正直、驚いたよ」

「ええ、私たちも奇跡だと思っています」

「奇跡、か。……そうだね。貴之君は、昔から少し線が細いというか、そういうことには淡白そうに見えたから」


 伝次郎の言葉には、棘があった。

 彼は何かを嗅ぎつけている。

 私たちが不妊治療に通っていたこと、あるいは、種なしである可能性を疑っているのかもしれない。

 社長の座を狙う彼にとって、突如として現れた「直系の孫(後継者)」は、邪魔以外の何物でもないのだ。


「貴之さんは優しい人ですわ。それに、とても情熱的なところもあるんです」

「ほう、そうかい。それは意外だ」


 伝次郎は鼻を鳴らした。

 そして、一歩私に近づき、声を潜めた。


「だが、美咲さん。権蔵の血というのは、重いものだよ。もし万が一、その子が……いや、なんでもない」

「何をおっしゃりたいのですか?」


 私はあえて問い返した。

 伝次郎は私の目をじっと見つめ返し、探るような視線を送った。


「いやね、最近、貴之君の周りで妙な噂を聞くんだ。……金の使い方が荒いとか、付き合いの悪い医者がいるとか。美咲さん、君は賢い女性だ。夫の手綱は、しっかり握っておいた方がいい」


 それは忠告というより、牽制だった。

 『俺は貴之の弱みを握りつつあるぞ』というアピールだ。


 私は内心で舌を出した。

 この男もまた、私を利用しようとしている。

 貴之を追い落とすために、私の妊娠に疑義を挟んでくる可能性が高い。

 

 望むところだ。

 伝次郎叔父様、あなたが動けば動くほど、私のシナリオは完璧なものになる。

 貴之を追い詰める猟犬役は、あなたにお任せしましょう。


「肝に銘じます。……でも、私は貴之さんを信じていますから」

「ハハッ、それは殊勝なことだ。ま、何かあったら相談に乗るよ。私たちは親族なんだからね」


 伝次郎は私の肩をポンと叩き、湿っぽい掌の感触を残して去っていった。

 その背中を見送りながら、私はハンカチで肩を払った。

 

 敵だらけだ。

 この屋敷には、私の味方など一人もいない。

 夫は私を騙して遺産を狙い、医師は私を金づるにし、義理の叔父は私ごと貴之を潰そうとし、養父は私を道具として扱う。


 結構よ。

 全員、まとめて地獄へお送りして差し上げるわ。


          *


 夜。

 屋敷は静寂に包まれていた。

 和室の方からは、源造の生命維持装置の規則的な電子音が微かに響いてくる。それはまるで、この屋敷全体の心拍音のようだった。


 私は寝室のベッドに入り、読書をするフリをして耳を澄ませていた。

 隣の部屋――貴之の書斎から、押し殺したような話し声が聞こえる。


「……だから、もう少し待ってくれって言ってるだろ!」


 貴之の声だ。苛立ちが隠せない様子だ。

 壁に耳を当てなくても、会話の内容は想像がつく。


「今、お義父さんが戻ってきて家の中がピリピリしてるんだ。金だって自由には動かせない。美咲の目も厳しくてな……」


 電話の相手はレナだろう。

 彼女はきっと、「そんなの関係ない、今すぐ会いたい、あれが欲しい」と喚いているに違いない。恭介あたりに入れ知恵されて、わざと貴之を追い詰めているのかもしれない。


「分かった、分かったよ! なんとかする。……ああ、愛してるよ。お前だけだ」


 通話が切れる気配がした。

 私は本を閉じ、天井を見上げた。


 『お前だけだ』。

 よくもまあ、そんなセリフが吐けるものだ。

 数時間前には、私に向かって「君と赤ちゃんのためなら何でもする」と言っていた口で。


 貴之が寝室に入ってきた。

 私はとっさに寝たふりをした。

 彼はベッドの脇に立ち、私の寝顔を覗き込んでいるようだった。


「……くそっ」


 小さく、吐き捨てるような声が聞こえた。

 続いて、ため息。

 そして彼は、自分のベッドに潜り込み、背中を向けて寝息を立て始めた。


 暗闇の中で、私は目を開けた。

 腹の底から、どす黒い笑いが込み上げてくるのを抑えるのに必死だった。


 苦しいでしょう、貴之さん。

 源造への恐怖。レナからのプレッシャー。金策の行き詰まり。

 四方八方から締め付けられる感覚はどう?

 

 でも、まだ序の口よ。

 あなたが味わう絶望は、こんなものじゃない。

 あなたが「自分は男に戻った」「レナとの間に子供ができるはずだ」という希望にすがっている限り、その梯子を外された時の衝撃は計り知れない。


 私はそっとお腹を撫でた。


(いい子ね。もう少し静かにしていて)


 私の中の怪物が、呼応するように脈打った。

 私の憎しみを栄養にして育つ、美しき復讐者。


 源造がこの家に死に場所を求めて戻ってきたことで、役者は揃った。

 舞台装置も整いつつある。

 あとは、私が指揮棒を振るだけだ。


 翌朝、私はいつもより早く起きた。

 キッチンに立ち、包丁を握る。

 トントン、トントン。

 野菜を刻む音が、軽快なリズムを刻む。


 貴之のために、栄養たっぷりの朝食を作ろう。

 ストレスに負けないように。

 最後まで、私のシナリオ通りに踊り続けてもらうために。


 私の支配する王国で、彼にはまだ、道化としての役割が残っているのだから。


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