第5話 マッドドクターの計算
スマートフォンが振動する。
ディスプレイに表示された『非通知』の文字を見た瞬間、俺の胃袋は鉛を飲み込んだように重くなった。
無視するわけにはいかない。俺は診察室のブラインドを下ろし、震える指で通話ボタンを押した。
「……はい」
『先生、期限は昨日まででしたよねぇ?』
耳元で響くのは、舐めるような猫撫で声だ。だが、その裏に隠された暴力的な響きを、俺は痛いほど知っている。
裏カジノの元締めだ。
「わ、分かってる。分かってるよ。少し手違いがあって、送金が遅れているだけだ」
『手違いねぇ。先生、あんた社会的地位のあるお医者様なんでしょ? 週刊誌にネタ売られたり、病院の前で騒がれたりしたら困るんじゃないの?』
「待ってくれ! あてはあるんだ。デカい金が入る。あと一週間……いや、三日待ってくれ!」
『三日ね。……利子、分かってるよね?』
通話が切れる。
俺はスマホをデスクに叩きつけ、革張りの椅子に深く沈み込んだ。
額から冷たい脂汗が流れ落ちる。
不調だ。実に不調だ。
借金総額、五千万円。
裏カジノでの負け分に加え、過去に起こした医療過誤の揉み消しのために借りた闇金が、雪だるま式に膨れ上がっていた。
神田恭介。三十五歳。
都内の一等地に『神田レディースクリニック』を構える院長。独身、イケメン、高収入。
世間から見れば、俺は人生の勝ち組だ。
だがその実態は、いつ破裂するか分からない時限爆弾を抱えた、火の車に追われる哀れな道化だ。
「金だ……。金が要る」
俺は引き出しを開け、鎮静剤の錠剤をシートから押し出し、水なしで飲み込んだ。
苦味が喉に広がる。少しだけ、動悸が治まる。
俺の人生は、いつだって綱渡りだった。
だが、落ちたことはない。これからも落ちるつもりはない。
俺には「カモ」がいるからだ。
金を持っていて、頭が悪くて、俺のことを信じ切っている最高のカモが。
*
俺と権蔵貴之の出会いは、大学時代に遡る。
俺は私立医大、奴は三流私大。本来なら接点などないはずだが、とある合同コンパで俺たちは意気投合した。
共通点は「クズ」であることだ。
俺は親のコネと裏口入学に近い形で医大に入った。勉強なんてする気はなかった。医師免許なんてものは、金儲けのためのパスポートに過ぎない。
貴之も似たようなものだった。地方公務員の息子という平凡な出自を呪い、上昇志向と劣等感の塊だった奴は、金持ちの学生に取り入る才能だけは秀でていた。
「おい恭介、あの子、もう呂律回ってないぞ。いけるんじゃないか?」
薄暗いバーの片隅で、貴之が下卑た笑みを浮かべて耳打ちしてくる。
ターゲットは女子大生。飲み物に強い酒を混ぜ、酩酊状態にするのが俺たちの手口だった。
「よし、お持ち帰りだ。タクシー呼べ」
「了解。……で、万が一騒がれたらどうする?」
「心配すんな。親父の知り合いの弁護士がいる。それに、こいつらだって自分の傷には触れられたくない。金で黙らせればいい」
俺たちは共犯者だった。
女を食い物にし、遊ぶ金欲しさに危ないバイトにも手を出した。
俺が知恵を出し、貴之が実行する。
危ない橋を渡るたびに、俺たちの絆――というよりは、互いの弱みを握り合う鎖は太くなっていった。
貴之が権蔵不動産の令嬢・美咲に狙いを定めた時も、俺は相談に乗った。
『源造とかいう怪物の娘だろ? やめとけよ』と忠告したが、奴は『遺産が手に入れば人生上がりだ』と聞かなかった。
結果、奴は見事に美咲を落とし、婿養子の座に収まった。
そして、その結婚は俺にとっても「ドル箱」となった。
不妊治療。
貴之がパイプカット(精管結紮術)を希望した時、俺は笑いが止まらなかった。
子供なんて欲しくない。でも、義父の手前、妊活をしているフリはしたい。だから種を絶ってくれ。
こんな都合のいい依頼があるだろうか。
四年前、俺は貴之に手術を施した。
そして、その一年後から、美咲が俺のクリニックに通い始めた。
内診台に乗せられた美咲の脚が開く。
俺はゴム手袋をはめた指で、彼女の中を探る。
そこに性的な興奮はない。
俺が感じていたのは、巨大な金脈を掘り当てるトレジャーハンターのそれだ。
そして見つけた。
子宮。卵巣。
それらは俺にとって、ただの集金システムだった。
エコー検査、ホルモン注射、採卵手術。
本来なら妊娠するはずのない身体(貴之のせいだが)に対して、俺はもっともらしい顔で高額な医療行為を繰り返す。
「美咲さん、今回は卵の状態がすごくいいですよ。期待できますね」
「本当ですか……! ありがとうございます、神田先生」
美咲の瞳が希望に輝く。
バカな女だ。
その希望は、俺が作り出した幻影だ。
彼女が痛みに耐え、涙を流し、感謝の言葉を述べるたびに、俺の懐には万札が唸りを上げて飛び込んでくる。
まさに、地下鉱山だ。
俺はただ、椅子に座っているだけで、権蔵家の資産を吸い上げることができるのだから。
だが、そんな蜜月も長くは続かなかった。
俺の浪費癖とギャンブル依存が、稼ぎのスピードを上回ってしまったからだ。
もっとだ。もっと金がいる。
そんな矢先に起きたのが、今回の「美咲妊娠騒動」だった。
*
「どうするんだよ、恭介! このままじゃ、俺はどこの馬の骨とも知れないガキの父親にさせられるぞ!」
診察室で頭を抱える貴之を見下ろしながら、俺は必死で笑いを噛み殺していた。
滑稽だ。あまりにも滑稽だ。
種なしのくせに妻の妊娠に狼狽し、かといって真実を話すこともできない。
詰んでいる。完全に。
だが、俺にとってこれはチャンスだった。
溺れる者は藁をも掴む。
藁を高値で売りつける絶好の機会だ。
「落ち着けよ、貴之。……手はある」
俺は声を潜め、彼に顔を近づけた。
「逆転の発想だ。美咲ちゃんが妊娠した事実、これはもう変えられない。だったら、お前も作ればいいんだよ」
「は? 何言ってんだ。俺は種なしだぞ」
「だから、治せばいい。『パイプカット再建手術』を受けるんだ」
貴之が顔を上げる。その瞳に、縋るような光が宿る。
単純な男だ。
「そんなことができるのか?」
「ああ。顕微鏡を使った繊細な手術だが、俺ならできる。成功率は高い」
嘘だ。
パイプカット再建術は、術後の経過年数が経てば経つほど成功率は下がる。四年も経過していれば、精管が癒着している可能性も高く、妊娠に至るほどの精子が戻る確率は著しく低い。
ましてや、俺のようなヤブ医者が、そんな高度なマイクロサージャリーを成功させられるわけがない。
俺がやろうとしているのは、手術のフリだ。
陰嚢の皮膚をメスで切り、中を少し弄って、それらしく縫合するだけ。
中身(精管)は繋がない。繋げるわけがない。
だが、貴之には分からない。麻酔で眠っている間に終わるのだから。
「機能を回復させて、レナちゃんを妊娠させるんだ。そうすれば、お前には『確実に自分の血を引いた子供』ができる」
「そ、それで?」
「美咲ちゃんの子供が生まれた時に、DNA鑑定をねじ込むんだ。当然、結果はクロだ。お前は被害者面して美咲ちゃんを追い出せばいい。そして、レナちゃんとの間にできた本当の子供こそが、権蔵家を継ぐべきだと主張するんだ」
滅茶苦茶な論理だ。
不倫相手の子を正妻の子より優先させるなんて、法的には通りにくい。ましてや相手はあの源造の子だ。
だが、貴之は冷静な判断力を失っている。
「自分の種が戻る」「自分の子が継ぐ」という甘い夢に、コロリと騙される。
「……いくらかかる?」
「友達価格でいいぜ。再建手術と、術後のフォロー、それにレナちゃんのケアも含めて……まあ、三百万ってところか」
三百万。
これだけあれば、とりあえず裏カジノの利息と、一部の元金は返せる。急場は凌げる。
「……分かった。頼む」
「商談成立だな。手術は来週の休診日にやろう。誰にも言うなよ」
俺たちは握手をした。
貴之の手は汗ばんでいて、小刻みに震えていた。
ああ、可哀想な貴之。
お前はこれから金を払い、身体を切り刻まれ、痛い思いをして……それでも種なしのままなんだ。
だが、俺の計算はこれだけでは終わらない。
三百万では足りないのだ。
俺の借金を完済するには、もっと大きな「一手」が必要だ。
その鍵を握るのが、貴之の愛人・レナだ。
*
パイプカット再建手術当日。
『神田レディースクリニック』の手術室。
休診日を利用した、誰にも知られない極秘手術だ。
手術台の上で、貴之が点滴の麻酔によって昏倒している。
「……始めますか」
俺はマスクの下で薄ら笑いを浮かべ、メスを握った。
助手も看護師もいない。俺一人だけのオペだ。
これで証人はいない。
俺は貴之の陰嚢にメスを入れた。
赤い血が滲む。
皮膚を数センチ切開する。
そして、中を適当にかき回し、精管を探すフリをして、何もしないまま縫合糸を手に取った。
「痛かったろ? ごめんな、貴之」
俺は口笛を吹きながら、傷口を縫い合わせていく。
所要時間、わずか十五分。
本物の再建術なら数時間はかかる精密作業だが、ただの切り傷を作るだけならこんなものだ。
パチン。
最後の糸を切る。
これで、貴之の股間には「手術をした証」としての傷跡が残った。
中身は空っぽのまま、外見だけ取り繕った傷跡。
まさに、貴之という人間そのものだ。
「お疲れさん。これで三百万だ」
俺は手袋を脱ぎ、ゴミ箱に捨てた。
麻酔から覚めた貴之は、股間の痛みを感じて、きっとこういうだろう。
『ありがとう、恭介。これで俺は男として戦場に行く』と。
ああ、楽しみだ。
こいつがレナの妊娠を知って狂喜乱舞する姿が。
そして、その子が実は俺の種だと知らずに、一生懸命育てる姿が。
俺は手術室を出て、更衣室で白衣を脱いだ。
鏡に映る自分を見る。
そこには、友人を騙し、患者を食い物にする悪魔の顔があった。
だが、俺はそれを「優秀な医師の顔」だと認識し、髪を整えた。
この世は、騙すか騙されるかだ。
源造の帝王学ではないが、俺もそのルールに従って生きているだけだ。
俺は絶対に「食われる側」には回らない。
美咲が妊娠しようが、貴之が種アリに戻ろうが、関係ない。
最後に笑うのは、一番賢く立ち回った奴――つまり、俺だ。
スマホを取り出し、貴之の口座から入金があったことを確認する。
三百万。
これでとりあえず、今日の命は繋がった。
そして数ヶ月後には、レナという新たな金脈が芽吹く。
「順調、順調」
俺は鼻歌交じりにクリニックを後にした。
外は秋晴れの空が広がっていたが、俺にはそれが、俺の前途を祝う黄金色に見えていた。




