第4話 種なき男のパニック
世界が反転する音が聞こえた気がした。
目の前には、満面の笑みを浮かべる妻・美咲。
そして、テーブルの上に置かれた一枚の感熱紙。
そこには、白黒の砂嵐の中に浮かぶ、小さな豆粒のような影が映っていた。
「赤ちゃんよ、貴之さん! やっと、やっと来てくれたの!」
美咲の声が、まるで水中にいる時のようにぼんやりと鼓膜を叩く。
俺の脳内は、警報音が鳴り響く工場のような騒ぎになっていた。
妊娠?
三ヶ月?
俺の子?
馬鹿な。ありえない。
だって俺は、種なしなのだから。
正確には、意図的な「種断ち」だ。
四年前、美咲との結婚生活が始まって一年が過ぎた頃、俺は神田恭介のクリニックでパイプカット手術を受けた。
精管結紮術。精子の通り道を切断し、結ぶ。物理的に妊娠を不可能にする処置。
術後の検査でも、精液中に精子が存在しないことは確認済みだ。
だから、俺の精子が奇跡的に復活して受精に至るなんてことは、天文学的な確率でも起こり得ない。ゼロだ。
つまり、結論は一つ。
――浮気だ。
このふしだらな女め。
俺の前では「子供が欲しい」だの「治療が辛い」だのと泣いて見せておきながら、裏では他の男と股を合わせていたのか。
どこのどいつだ。スポーツジムのインストラクターか? それとも宅配便の配達員か?
怒りがマグマのように腹の底から湧き上がる。今すぐこのテーブルをひっくり返し、「ふざけるな!」と怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られる。
だが、俺の喉は引きつったまま、音を発しなかった。
いや、発せなかったのだ。
もし今、俺が「それは俺の子じゃない」と叫べばどうなる?
当然、美咲は「どうしてそんなことが言えるの?」と問いただすだろう。
そこで俺が「実はパイプカットをしているからだ」と白状すれば――。
想像するだけで、背筋が凍りついた。
全てが終わる。
不妊治療を強要したこと。源造への裏切り。
あの老害・権蔵源造が、それを許すはずがない。奴は俺を社会的に抹殺するだけでは飽き足らず、文字通り消し去るかもしれない。
あの男は、そういう人間だ。
俺は詰んでいる。
美咲の浮気を指摘することもできず、かといって他人の子を自分の子として受け入れる屈辱にも耐え難い。
「……貴之さん? 嬉しくないの?」
美咲が不安げに覗き込んでくる。
その瞳には、一点の曇りもない純粋な期待が宿っている。演技か? いや、美咲に限ってそれはない。この女は単純で、愚直なまでに素直な性格だ。きっと、自分の不貞を棚に上げて、奇跡が起きたと本気で信じ込んでいる(あるいは、そう思い込もうとしている)のだろう。
俺は必死に顔面筋肉を総動員して、口角を持ち上げた。
「う、嬉しいさ! もちろんだ!」
声が裏返る。
俺は美咲を抱き寄せた。彼女の身体の温もりが、今はひどく不快だった。
見知らぬ男のDNAが、この腹の中で育っている。
俺の家で。俺の金で。
吐き気がした。だが、俺は震える手で彼女の背中を撫で続けた。
「やったな! ついに、ついにパパになれるんだ!」
自分の口から出る言葉が、あまりにも空虚で、滑稽だった。
パパ? 俺が?
托卵された雛を育てる、哀れなカラスの父親になれというのか。
「お父様にも、報告しなきゃね。きっと喜ぶわ」
美咲の言葉が、鋭いナイフとなって心臓に突き刺さる。
源造への報告。
それは、退路が断たれることを意味していた。
*
翌日、俺は逃げるように会社を出て、神田のクリニックへ向かった。
美咲には「仕事が長引く」と伝えてある。
神田恭介。
大学時代からの腐れ縁であり、俺の秘密を共有する唯一の共犯者。
俺たちの友情は、崇高な志などではなく、互いの利益と薄暗い秘密によって結ばれている。
「――で、妊娠したって?」
診察室の革張りのソファにふんぞり返り、恭介は腹を抱えて笑った。
「傑作だな! おいおい、まさかお前の種が復活したなんてオカルト、信じちゃいないだろうな?」
「笑い事じゃないぞ! どうなってるんだよ!」
俺は恭介のデスクをバンと叩いた。
「お前が手術したんだろうが! 実は失敗してました、なんてオチじゃないだろうな?」
「心外だなあ。俺の腕は確かだぜ? 術後の精液検査のデータも見せただろ。精子はゼロ。完全な無精子症状態だ」
恭介はニヤニヤしながら、カルテをペラペラとめくるふりをした。
「つまりだな、貴之。答えはシンプルだ。美咲ちゃんが、他の男とやったんだよ」
「あの堅物がか? 信じられん……」
「女なんてそんなもんだろ。お前だってレナちゃんと遊んでるし、俺だって数え切れない女と遊んできた。美咲ちゃんだけが聖女なわけがない。寂しかったんじゃないの~? 旦那が構ってくれないからさ」
恭介の軽薄な言葉に、俺は苛立ちを募らせた。
だが、事実は事実だ。俺に種がない以上、他の誰かの種であることは確定している。
「どうするんだよ、恭介。このままじゃ、俺はどこの馬の骨とも知れないガキの父親にさせられるぞ。しかも、源造が死んだら、そのガキに遺産を持っていかれる!」
そう、それが最大の問題だ。
俺が美咲と結婚した理由は、ただ一つ。
権蔵家の莫大な資産だ。
俺の実家は、地方のしがない公務員の家系だ。貧しくはなかったが、裕福でもなかった。
大学に進学して上京した俺は、そこで「格差」という現実を嫌というほど見せつけられた。
恭介のように、親が医者だというだけで高級車を乗り回し、女を侍らせる連中。努力もせずに、生まれた環境だけで勝者となる奴ら。
俺は勉強もそこそこに、コネ作りに奔走した。コンパの幹事を引き受け、金持ちの息子たちの太鼓持ちをし、おこぼれに預かる日々。
無駄に偉そうにする大学OB・OGに必死で頭を下げてコネを広げて何とか就職できた大手不動産会社で出会ったのが、美咲だった。
地味で、大人しくて、世間知らずな女。
だが、彼女の名字が「権蔵」だと知った瞬間、俺の中で彼女は女神になった。
正確には、ブルジョワへの「通行手形」だ。
俺は必死にアプローチした。誠実な男を演じ、彼女の心の隙間に入り込んだ。
結婚が決まった時、俺は人生の勝利を確信した。
源造という怪物は恐ろしかったが、彼には実子がいなかった。養子である美咲の夫になれば、次期社長の座と遺産は約束されたも同然だった。
だが、誤算があった。
源造が「孫の顔が見たい」と言い出したことだ。
子供なんて邪魔なだけだ。
夜泣きはうるさいし、金はかかるし、何より俺の自由が奪われる。
それに、もし子供ができれば、源造の関心はその子に移り、俺の立場が危うくなる可能性もあった。
だから俺は、先手を打った。
パイプカットをしてしまえばいい。「子供ができない身体」を装い、不妊治療に励むふりをして時間を稼げば、そのうち源造は寿命で死ぬ。そうすれば、遺産の半分は俺のものだ。
完璧な計画だったはずだ。
美咲が、見知らぬ男の種を宿すまでは。
「……なぁ、DNA鑑定を要求するのはどうだ?」
俺は縋るように言った。
「生まれた後に鑑定して、親子関係がないと証明すれば、離婚事由になるだろ。慰謝料も取れる」
「バカかお前は」
恭介は冷たく吐き捨てた。
「今それをやってみろ。『じゃあ誰の子だ』って話になる。『俺の子じゃない』と主張するなら、お前の生殖能力が正常であることを証明しなきゃならん。精液検査を求められたら一発アウトだぞ。パイプカットがバレて、源造に殺されるのがオチだ」
俺は頭を抱えた。
八方塞がりだ。
「じゃあ、どうすればいいんだよ! 指をくわえて見てろって言うのか!」
「落ち着けよ、貴之。……手はある」
恭介が身を乗り出し、声を潜めた。
その目は、獲物を狙う爬虫類のように細められていた。
「逆転の発想だ。美咲ちゃんが妊娠した事実、これはもう変えられない。だったら、お前も作ればいいんだよ」
「は? 何言ってんだ。俺は種なしだぞ」
「だから、治せばいい。『パイプカット再建手術』を受けるんだ」
再建手術。
切断した精管を再び繋ぎ合わせ、精子の通り道を復活させる手術。
「そんなことができるのか?」
「ああ。顕微鏡を使った繊細な手術だが、俺ならできる。成功率は高い」
「でも、治したところでどうなる。美咲の腹の子は消えないぞ」
「そこじゃない。お前の切り札を作るんだよ」
恭介はニヤリと笑った。
「レナちゃんがいるだろ」
レナ。俺の可愛い愛人。
若くて、肌に張りがあって、美咲のような陰気さがない、最高の遊び相手。
「機能を回復させて、レナちゃんを妊娠させるんだ。そうすれば、お前には『確実に自分の血を引いた子供』ができる」
「そ、それで?」
「美咲ちゃんの子供が生まれた時に、DNA鑑定をねじ込むんだ。当然、結果はクロだ。お前は被害者面して叫べばいい。『信じていた妻に裏切られた! 俺はショックだ!』とな。そして、こう続ける。『だが、俺にはレナとの間にできた本当の子供がいる。この子こそが権蔵家を継ぐべきだ』と」
俺は呆然と恭介の話を聞いていた。
なんて……なんて滅茶苦茶な理論だ。
不倫相手との子供を後継者に? 常識で考えれば通るはずがない。
「おいおい、そんなの源造が認めるわけないだろ」
「源造が生きていればな。だが、奴の寿命はもう長くない。半年もつかどうかだろ?」
恭介の声が低くなる。
「源造が死んだ後の混乱に乗じるんだよ。美咲ちゃんを不貞の罪で追い出し、権蔵家を支配したお前の実子として、レナちゃんの子を据える。そうすれば、遺産はお前の総取りだ。レナちゃんも、日陰の身より本妻の座を喜ぶだろうしな」
俺の脳内で、パズルのピースがカチリと音を立てて嵌まった。
悪くない。
いや、それしかない。
美咲の腹の子は、どこの誰とも知れない雑種だ。そんなものに俺の財産を渡すわけにはいかない。
だが、レナとの子なら、俺の血を引いている。
源造さえいなくなれば、こちらのものだ。
「……いくらかかる?」
「友達価格でいいぜ。再建手術と、術後のフォロー、それにレナちゃんのケアも含めて……まあ、三百万ってところか」
「高いな……」
「お前の将来がかかってるんだ。安いもんだろ? それに、今のお前なら会社の金を少しくらい動かせるんじゃないか?」
恭介は俺の弱みを知り尽くしている。
俺はここ数年、会社の宣伝費や交際費を水増しし、裏金をプールしていた。その金でレナにブランド物を買い与え、恭介との豪遊に使っていたのだ。
「……分かった。頼む」
「商談成立だな。手術は来週の休診日にやろう。誰にも言うなよ」
俺たちは握手を交わした。
恭介の手は冷たく、湿っていた。
*
数日後。
俺は会社の応接室にいた。
目の前には、くたびれたスーツを着た中年の男が座っている。
三浦という刑事だ。
「――それで、部長の権蔵貴之さんでお間違いないですね?」
三浦は名刺をじっと見つめながら言った。
その視線には、粘着質な不快さがある。
「ええ、そうですが。今日はどういったご用件で? 私も忙しいので、手短にお願いしたいのですが」
俺は極力、尊大な態度を崩さなかった。
内心では心臓が早鐘を打っている。
警察? なぜだ。横領がバレたのか? いや、帳簿の操作は完璧なはずだ。
「いえいえ、大したことじゃないんです。ちょっと近隣で詐欺グループの動きがありましてね。この辺りの企業の口座が悪用されているという情報があったもので、注意喚起に回りまして」
三浦は人の良さそうな笑顔を浮かべた。
だが、その目は笑っていない。俺の表情筋の微細な動きを観察しているようだった。
「そうですか。ウチは顧問弁護士もしっかりしていますし、セキュリティも万全です。ご心配には及びませんよ」
「それは頼もしい。さすが権蔵不動産だ。……ああ、そういえば」
三浦が帰り支度をしながら、思い出したように言った。
「最近、個人的に大きな出費のご予定などは? 詐欺グループは、金回りのいい個人を狙うこともありますからね」
「……特にありませんが」
「そうですか。いやあ、失礼しました。奥様はお身体、大事な時期だと伺っています。どうぞご自愛ください」
三浦は深々と頭を下げ、部屋を出て行った。
ドアが閉まった瞬間、俺はソファに崩れ落ちた。
シャツの背中がびっしょりと濡れている。
あいつ、知っているのか?
俺が横領していることを。それとも、これから恭介に大金を払って手術を受けようとしていることを?
「大事な時期」という言葉も、単なる妊娠への労りなのか、それとも別の意味を含んでいるのか。
恐怖と疑心暗鬼が、黒い霧となって俺を包み込む。
いや、大丈夫だ。
俺には恭介がついている。
来週の手術さえ成功すれば、俺は「完全な男」に戻れる。
そうすれば、レナとの間に子供を作り、美咲とその不義の子を地獄へ突き落とすことができるのだ。
俺は立ち上がり、窓ガラスに映る自分を見つめた。
そこに映る男の顔色は悪かったが、瞳には狂気じみた光が宿っていた。
負けるものか。
俺はこの物語の主人公だ。
質素な公務員の息子から、不動産王の後継者へと成り上がった、選ばれし男だ。
美咲ごときの裏切りや、刑事の嗅ぎ回りなどに潰されてたまるか。
俺はスマホを取り出し、レナにメッセージを送った。
『来週、すごいプレゼントがある。楽しみにしててくれ』
送信ボタンを押すと、少しだけ気分が晴れた。
そうだ、俺は勝つ。
勝って、全てを手に入れるのだ。
俺が美咲へ費やした労力と時間は、遺産という形で必ず返してもらうからな。絶対にあきらめない。
反転していた音が元通りに進みだすのが聞こえた。




