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不妊治療3年目。夫が隠した「パイプカット手術の同意書」を見つけた件。だから、私は妊娠しました。  作者: 団田図


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20/20

最終話 継承

 四月の陽光が、権蔵ごんぐら家の広大な庭園に降り注いでいた。

 老木である枝垂れ桜が、その命を誇るように満開の花を咲かせている。時折吹く春の風が、薄紅色の花びらを散らし、池の水面みなもに波紋を描いていた。


 私は、縁側に腰を下ろし、腕の中の小さな重みを感じていた。

 おくるみに包まれた、生後一ヶ月の男の子。

 透き通るような白い肌と、驚くほど整った顔立ち。

 この屋敷に満ちていた淀んだ空気は消え失せ、今はただ、穏やかな春の光だけがある。


「……よく眠っているわね」


 私は指先で、赤子の柔らかな頬を撫でた。

 あの騒がしい冬の日――「審判の日」から、四ヶ月が過ぎていた。


 屋敷の主は変わった。

 権蔵不動産の経営権は、約束通り叔父の伝次郎でんじろうと従兄の仁斗じんとに譲渡された。彼らは優秀だ。貴之たかゆきが作った負の遺産を清算し、傾きかけていた会社を立て直しつつあるという。

 私は経営には一切口を出さず、ただ株主として、そしてこの屋敷の女主人として、静かに暮らしている。


 砂利を踏む音が聞こえた。

 私は顔を上げた。家政婦が案内してきたのは、見慣れた、けれどこの平和な庭には似つかわしくない、よれたコート姿の男だった。


「……ようこそ、三浦みうらさん」


 私が微笑みかけると、三浦刑事は帽子を取り、少し眩しそうに目を細めた。


「どうも。ご出産、おめでとうございます」

「ありがとうございます。……わざわざお祝いを言いに?」

「まさか。私は来週で定年なんでね。その前に、どうしてもご挨拶をしておきたくて」


 三浦は私の許可も得ずに、庭石の一つに腰掛けた。その無遠慮さが、彼なりの距離の詰め方なのだろう。

 彼は懐からタバコを取り出しそうになり、私の腕の中の赤子を見て、苦笑いをしてポケットに戻した。


「旦那さん……いや、貴之被告の初公判、来月に決まりましたよ」


 三浦が世間話のように切り出した。


「そうですか」

「彼はまだ、無実を叫んでいますよ。『自分はハメられた』『殺したのは妻だ』とね」

「哀れな人。罪を認められずに、妄想に逃げ込むなんて」


 私は表情一つ変えずに答えた。

 貴之の末路は悲惨だった。横領の証拠は決定的であり、さらに現場に残された指紋と薬品が、彼を「義父殺し」の実行犯として縛り付けた。

 神田かんだもまた、医師法違反と殺人幇助で実刑は免れないだろう。レナも共犯として執行猶予付きの有罪判決が出る見込みだ。


 三浦は私の目をじっと見つめた。

 その目は、捜査官の目だった。


「……奥さん。私は長年、現場を見てきました。だから分かるんです。綺麗すぎる現場には、必ず作為がある」


 三浦の声が低くなる。


「貴之の指紋がついたグラス。神田のクリニックのラベルが残った小瓶。そして、貴之のパソコンに残された検索履歴。……あれはまるで、『どうぞこの人を犯人にしてください』と警察に差し出された招待状のようだった」


 風が吹き、桜の花びらが舞った。

 私は赤子の顔に花びらがかからないよう、そっと手で庇った。


「刑事さん。警察は、証拠に基づいて捜査をするのでしょう? その証拠が彼を犯人だと指し示しているのなら、それが真実なのではありませんか?」


「法的には、そうです」


 三浦は即答した。


「ですが、真実は別にあることもある。……貴之はバカだが、自分の指紋がついたグラスを現場に残すほどマヌケじゃない。誰かが彼を陥れ、彼に罪を被せるために、完璧な舞台装置を用意した。……動機があり、それを実行できるほど冷静で、賢い誰かが」


 三浦の視線が、私に突き刺さる。

 彼は確信している。

 私が、源造げんぞうを殺し、貴之に罪を着せた真犯人だと。


 けれど、彼には手が出せない。

 私を疑う材料は「状況証拠の不自然さ」という、刑事の勘でしかないからだ。物理的な証拠は、すべて貴之と神田を指している。

 私は彼らの強欲と慢心を利用し、彼ら自身の指紋と痕跡で、彼らの首を絞めさせたのだ。


「……三浦さん」


 私は穏やかに微笑み返した。


「私は、家族を守りたかっただけです。……この子と、この家を、食い物にしようとする人たちから」


 それは、肯定でもあり、否定でもあった。

 三浦は深いため息をついた。

 彼は立ち上がり、帽子を被り直した。


「……負け惜しみを一つだけ、言わせてもらいましょうか」

「ええ、どうぞ」

「怪物は、死なない。形を変えて、生き続ける。……貴之や神田は小悪党に過ぎなかった。だが、源造という怪物を葬ったあなたは……それ以上の怪物になったのかもしれない」


 三浦は一瞬、私の腕の中の赤子に視線を落とした。

 その目には、恐怖と、そして奇妙な敬意のようなものが混じっていた。


「その子を、立派に育ててくださいよ。……第二の源造にならないように」


 三浦は背を向け、砂利を踏みしめて去っていった。

 その背中は、一つの時代が終わったことを告げるように、少し丸まって見えた。


 庭に、再び静寂が戻った。

 私は息を吐き出した。

 勝ったのだ。

 実父を殺した源造への復讐。私を道具として扱った男たちへの断罪。

 すべてが終わり、私はすべてを手に入れた。


 その時、腕の中でおくるみが動いた。

 赤子が、目を覚ましたのだ。


「……おはよう」


 私は我が子の顔を覗き込んだ。

 ゆっくりと、その瞼が開かれる。


 瞬間、私は息を呑んだ。


 そこに現れた瞳。

 それは、無垢な赤子の瞳ではなかった。

 深淵のように黒く、すべてを見透かすような冷徹な光。

 感情を排し、獲物を値踏みするかのような、絶対的な捕食者の眼差し。


 ――お父様。


 源造の目が、そこにあった。

 貴之や神田が束になっても敵わなかった、あの怪物の魂が、この小さな器の中に確実に継承されている。


 私は震えを覚えた。

 それは恐怖ではない。

 武者震いにも似た、深い歓喜と覚悟だった。


 私は、怪物を殺したのではない。

 怪物を産み落としたのだ。


「ふふ……」


 笑いが込み上げてきた。

 源造の血を引き、私の復讐心という胎教を受けて育った子。

 この子はきっと、私たちが想像もつかないような強大な支配者になるだろう。


 私は赤子を高く抱き上げた。

 春の光を浴びて、その瞳がキラリと光った。

 それはまるで、これから彼が支配する世界を見下ろしているようだった。


「いい子ね。……さあ、見なさい」


 私は庭園を、屋敷を、そしてその向こうに広がる街を示した。


「これがあなたのサバンナよ。……奪われる前に、奪いなさい。食われる前に、食らい尽くしなさい」


 赤子は泣かなかった。

 ただじっと、私を見つめ返し、微かに口元を歪めた。

 まるで、ニヤリと笑ったかのように。


 風が吹き抜け、桜吹雪が私たちの周りを舞い踊る。

 美しくも残酷な、私の王国。

 そこで私は、新たな怪物と共に生きていく。


 これが、私の選んだ道。

 これが、私の「継承」だ。


 了


【登場人物紹介】


権蔵ごんぐら 美咲みさき

本作の主人公。32歳。権蔵家の養女であり、貴之の妻。

かつて実父を自殺に追い込んだ養父・源造と、自身を「子供を産む道具」として扱いながら裏切っていた夫・貴之への復讐を誓う。

表面上は従順な妻を演じながら、源造の凍結精子を用いて妊娠。綿密な計画で夫と医師を破滅させ、源造を殺害し、その罪を彼らに被せる完全犯罪を成し遂げた。新たな「怪物」の母。


権蔵ごんぐら 貴之たかゆき

美咲の夫であり、権蔵不動産の広報宣伝部長(婿養子)。

上昇志向が強く、外面は良いが中身は空虚な男。4年前に秘密裏にパイプカット手術を受けていながら、美咲に不妊治療を強要していた。

神田に騙されて「再建手術が成功した」と思い込み、愛人の妊娠を自分の子と信じて増長するが、最後は美咲の罠にかかり、義父殺しと横領の罪で逮捕される。哀れな道化。


権蔵ごんぐら 源造げんぞう

権蔵不動産の会長。美咲の養父。

「食うか食われるか」を信条とする冷酷な帝王。美咲の実父を破滅させ、美咲を引き取って帝王学を教え込んだ。末期ガンで死期を悟り、自身の血を残すことに執着する。

美咲によって筋弛緩剤で殺害されるが、その「怪物の魂」は美咲が産んだ息子へと継承された。


神田かんだ 恭介きょうすけ

「神田レディースクリニック」院長。貴之の大学時代からの悪友。

ギャンブルによる多額の借金を抱える悪徳医師。貴之のパイプカット手術の執刀医でありながら、再建手術をしたフリをして金を騙し取り、さらに愛人レナを妊娠させて貴之の子と偽り、遺産を搾取しようと画策した。医師法違反、詐欺、殺人幇助などで逮捕される。


レナ

貴之の愛人。六本木のキャバクラ嬢。

貴之の金と権蔵家の遺産を目当てに近づく。神田と共謀し、神田の子を「貴之の子(権蔵家の跡取り)」と偽って正妻の座を狙うが、真実が暴かれ全ての夢が崩壊。横領の共犯として連行される。


権蔵ごんぐら 伝次郎でんじろう

源造の弟。権蔵不動産専務。

兄を恐れつつも、虎視眈々と実権を狙っていた古狸。美咲から貴之の秘密(種なし・横領)と取引を持ちかけられ、協力関係を結ぶ。貴之失脚後、息子の仁斗と共に会社の実権を握る。


権蔵ごんぐら 仁斗じんと

伝次郎の息子。権蔵不動産営業本部長。

無能な貴之に虐げられていたが、実務能力は高い。美咲の腹の子とのDNA鑑定(血縁鑑定)に協力し、貴之を追い詰める決定打となる。


三浦みうら

所轄署のベテラン刑事。

貴之の横領疑惑を内偵していた。源造の死現場の不自然さから、美咲が真の黒幕であることを見抜いているが、完璧に構築された証拠(貴之を犯人とするもの)の前になす術なく、彼女を見逃すことになる。定年を間近に控えている。


赤ん坊(美咲の息子)

美咲が出産した男児。

戸籍上の父は貴之だが、生物学上の父は源造。権蔵家の遺産を全て継承する正当な後継者。生まれた瞬間から、祖父・源造と同じ冷徹な「捕食者の目」をしている。




最後までお読みいただきありがとうございました。感想や評価☆いただけると励みになります。続きを思案中です。

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― 新着の感想 ―
おもしろかったです! 良い意味でなろうぽくなかったと思いました。 私の読解力不足だったのかもしれませんが、源造が無くなった時に万が一美咲に子どもが出来ていなかったとしても、源造の養子の配偶者である貴之…
そう、綺麗すぎる犯行現場は疑いを招く。 だから、抵抗した痕跡を遺したい。 けれど、被害者の意識が無かったのなら? 綺麗すぎる犯行現場でも自然じゃないけれど不自然じゃない 君の望む死にかたと同じ読後感。…
温かな「従順で優しい妻」という羊膜の中で眠っていた怪物を引きずり出した 愚かものが哀れでした。 ああでもその「怪物」を目覚めさせる道具として、愚物な夫が選ばれたのかな とも思いました。怖いわー。 …
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