最終話 継承
四月の陽光が、権蔵家の広大な庭園に降り注いでいた。
老木である枝垂れ桜が、その命を誇るように満開の花を咲かせている。時折吹く春の風が、薄紅色の花びらを散らし、池の水面に波紋を描いていた。
私は、縁側に腰を下ろし、腕の中の小さな重みを感じていた。
おくるみに包まれた、生後一ヶ月の男の子。
透き通るような白い肌と、驚くほど整った顔立ち。
この屋敷に満ちていた淀んだ空気は消え失せ、今はただ、穏やかな春の光だけがある。
「……よく眠っているわね」
私は指先で、赤子の柔らかな頬を撫でた。
あの騒がしい冬の日――「審判の日」から、四ヶ月が過ぎていた。
屋敷の主は変わった。
権蔵不動産の経営権は、約束通り叔父の伝次郎と従兄の仁斗に譲渡された。彼らは優秀だ。貴之が作った負の遺産を清算し、傾きかけていた会社を立て直しつつあるという。
私は経営には一切口を出さず、ただ株主として、そしてこの屋敷の女主人として、静かに暮らしている。
砂利を踏む音が聞こえた。
私は顔を上げた。家政婦が案内してきたのは、見慣れた、けれどこの平和な庭には似つかわしくない、よれたコート姿の男だった。
「……ようこそ、三浦さん」
私が微笑みかけると、三浦刑事は帽子を取り、少し眩しそうに目を細めた。
「どうも。ご出産、おめでとうございます」
「ありがとうございます。……わざわざお祝いを言いに?」
「まさか。私は来週で定年なんでね。その前に、どうしてもご挨拶をしておきたくて」
三浦は私の許可も得ずに、庭石の一つに腰掛けた。その無遠慮さが、彼なりの距離の詰め方なのだろう。
彼は懐からタバコを取り出しそうになり、私の腕の中の赤子を見て、苦笑いをしてポケットに戻した。
「旦那さん……いや、貴之被告の初公判、来月に決まりましたよ」
三浦が世間話のように切り出した。
「そうですか」
「彼はまだ、無実を叫んでいますよ。『自分はハメられた』『殺したのは妻だ』とね」
「哀れな人。罪を認められずに、妄想に逃げ込むなんて」
私は表情一つ変えずに答えた。
貴之の末路は悲惨だった。横領の証拠は決定的であり、さらに現場に残された指紋と薬品が、彼を「義父殺し」の実行犯として縛り付けた。
神田もまた、医師法違反と殺人幇助で実刑は免れないだろう。レナも共犯として執行猶予付きの有罪判決が出る見込みだ。
三浦は私の目をじっと見つめた。
その目は、捜査官の目だった。
「……奥さん。私は長年、現場を見てきました。だから分かるんです。綺麗すぎる現場には、必ず作為がある」
三浦の声が低くなる。
「貴之の指紋がついたグラス。神田のクリニックのラベルが残った小瓶。そして、貴之のパソコンに残された検索履歴。……あれはまるで、『どうぞこの人を犯人にしてください』と警察に差し出された招待状のようだった」
風が吹き、桜の花びらが舞った。
私は赤子の顔に花びらがかからないよう、そっと手で庇った。
「刑事さん。警察は、証拠に基づいて捜査をするのでしょう? その証拠が彼を犯人だと指し示しているのなら、それが真実なのではありませんか?」
「法的には、そうです」
三浦は即答した。
「ですが、真実は別にあることもある。……貴之はバカだが、自分の指紋がついたグラスを現場に残すほどマヌケじゃない。誰かが彼を陥れ、彼に罪を被せるために、完璧な舞台装置を用意した。……動機があり、それを実行できるほど冷静で、賢い誰かが」
三浦の視線が、私に突き刺さる。
彼は確信している。
私が、源造を殺し、貴之に罪を着せた真犯人だと。
けれど、彼には手が出せない。
私を疑う材料は「状況証拠の不自然さ」という、刑事の勘でしかないからだ。物理的な証拠は、すべて貴之と神田を指している。
私は彼らの強欲と慢心を利用し、彼ら自身の指紋と痕跡で、彼らの首を絞めさせたのだ。
「……三浦さん」
私は穏やかに微笑み返した。
「私は、家族を守りたかっただけです。……この子と、この家を、食い物にしようとする人たちから」
それは、肯定でもあり、否定でもあった。
三浦は深いため息をついた。
彼は立ち上がり、帽子を被り直した。
「……負け惜しみを一つだけ、言わせてもらいましょうか」
「ええ、どうぞ」
「怪物は、死なない。形を変えて、生き続ける。……貴之や神田は小悪党に過ぎなかった。だが、源造という怪物を葬ったあなたは……それ以上の怪物になったのかもしれない」
三浦は一瞬、私の腕の中の赤子に視線を落とした。
その目には、恐怖と、そして奇妙な敬意のようなものが混じっていた。
「その子を、立派に育ててくださいよ。……第二の源造にならないように」
三浦は背を向け、砂利を踏みしめて去っていった。
その背中は、一つの時代が終わったことを告げるように、少し丸まって見えた。
庭に、再び静寂が戻った。
私は息を吐き出した。
勝ったのだ。
実父を殺した源造への復讐。私を道具として扱った男たちへの断罪。
すべてが終わり、私はすべてを手に入れた。
その時、腕の中でおくるみが動いた。
赤子が、目を覚ましたのだ。
「……おはよう」
私は我が子の顔を覗き込んだ。
ゆっくりと、その瞼が開かれる。
瞬間、私は息を呑んだ。
そこに現れた瞳。
それは、無垢な赤子の瞳ではなかった。
深淵のように黒く、すべてを見透かすような冷徹な光。
感情を排し、獲物を値踏みするかのような、絶対的な捕食者の眼差し。
――お父様。
源造の目が、そこにあった。
貴之や神田が束になっても敵わなかった、あの怪物の魂が、この小さな器の中に確実に継承されている。
私は震えを覚えた。
それは恐怖ではない。
武者震いにも似た、深い歓喜と覚悟だった。
私は、怪物を殺したのではない。
怪物を産み落としたのだ。
「ふふ……」
笑いが込み上げてきた。
源造の血を引き、私の復讐心という胎教を受けて育った子。
この子はきっと、私たちが想像もつかないような強大な支配者になるだろう。
私は赤子を高く抱き上げた。
春の光を浴びて、その瞳がキラリと光った。
それはまるで、これから彼が支配する世界を見下ろしているようだった。
「いい子ね。……さあ、見なさい」
私は庭園を、屋敷を、そしてその向こうに広がる街を示した。
「これがあなたのサバンナよ。……奪われる前に、奪いなさい。食われる前に、食らい尽くしなさい」
赤子は泣かなかった。
ただじっと、私を見つめ返し、微かに口元を歪めた。
まるで、ニヤリと笑ったかのように。
風が吹き抜け、桜吹雪が私たちの周りを舞い踊る。
美しくも残酷な、私の王国。
そこで私は、新たな怪物と共に生きていく。
これが、私の選んだ道。
これが、私の「継承」だ。
了
【登場人物紹介】
権蔵 美咲
本作の主人公。32歳。権蔵家の養女であり、貴之の妻。
かつて実父を自殺に追い込んだ養父・源造と、自身を「子供を産む道具」として扱いながら裏切っていた夫・貴之への復讐を誓う。
表面上は従順な妻を演じながら、源造の凍結精子を用いて妊娠。綿密な計画で夫と医師を破滅させ、源造を殺害し、その罪を彼らに被せる完全犯罪を成し遂げた。新たな「怪物」の母。
権蔵 貴之
美咲の夫であり、権蔵不動産の広報宣伝部長(婿養子)。
上昇志向が強く、外面は良いが中身は空虚な男。4年前に秘密裏にパイプカット手術を受けていながら、美咲に不妊治療を強要していた。
神田に騙されて「再建手術が成功した」と思い込み、愛人の妊娠を自分の子と信じて増長するが、最後は美咲の罠にかかり、義父殺しと横領の罪で逮捕される。哀れな道化。
権蔵 源造
権蔵不動産の会長。美咲の養父。
「食うか食われるか」を信条とする冷酷な帝王。美咲の実父を破滅させ、美咲を引き取って帝王学を教え込んだ。末期ガンで死期を悟り、自身の血を残すことに執着する。
美咲によって筋弛緩剤で殺害されるが、その「怪物の魂」は美咲が産んだ息子へと継承された。
神田 恭介
「神田レディースクリニック」院長。貴之の大学時代からの悪友。
ギャンブルによる多額の借金を抱える悪徳医師。貴之のパイプカット手術の執刀医でありながら、再建手術をしたフリをして金を騙し取り、さらに愛人レナを妊娠させて貴之の子と偽り、遺産を搾取しようと画策した。医師法違反、詐欺、殺人幇助などで逮捕される。
レナ
貴之の愛人。六本木のキャバクラ嬢。
貴之の金と権蔵家の遺産を目当てに近づく。神田と共謀し、神田の子を「貴之の子(権蔵家の跡取り)」と偽って正妻の座を狙うが、真実が暴かれ全ての夢が崩壊。横領の共犯として連行される。
権蔵 伝次郎
源造の弟。権蔵不動産専務。
兄を恐れつつも、虎視眈々と実権を狙っていた古狸。美咲から貴之の秘密(種なし・横領)と取引を持ちかけられ、協力関係を結ぶ。貴之失脚後、息子の仁斗と共に会社の実権を握る。
権蔵 仁斗
伝次郎の息子。権蔵不動産営業本部長。
無能な貴之に虐げられていたが、実務能力は高い。美咲の腹の子とのDNA鑑定(血縁鑑定)に協力し、貴之を追い詰める決定打となる。
三浦
所轄署のベテラン刑事。
貴之の横領疑惑を内偵していた。源造の死現場の不自然さから、美咲が真の黒幕であることを見抜いているが、完璧に構築された証拠(貴之を犯人とするもの)の前になす術なく、彼女を見逃すことになる。定年を間近に控えている。
赤ん坊(美咲の息子)
美咲が出産した男児。
戸籍上の父は貴之だが、生物学上の父は源造。権蔵家の遺産を全て継承する正当な後継者。生まれた瞬間から、祖父・源造と同じ冷徹な「捕食者の目」をしている。
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