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不妊治療3年目。夫が隠した「パイプカット手術の同意書」を見つけた件。だから、私は妊娠しました。  作者: 団田図


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第19話 敗者たちの檻

 コンクリートの壁に囲まれた取調室は、底冷えがするほど寒かった。

 無機質な蛍光灯がジジと音を立てて明滅し、パイプ椅子に座らされた権蔵ごんぐら貴之たかゆきの蒼白な顔を照らし出している。

 数時間前まで、彼は権蔵家の屋敷で王のように振る舞っていた。だが今、彼の手首には冷たい手錠が食い込み、目の前には所轄の刑事・三浦みうらが座っている。


「だから! 言ってるだろう! 俺はやってない!」


 貴之は机を叩いて叫んだ。喉が裂けそうなほどの絶叫だった。


「俺は義父さんを殺してない! あれは美咲みさきの罠だ! あいつがやったんだよ!」

「落ち着きなさい、権蔵さん」


 三浦は淡々とした口調で、手元の資料をめくった。その態度の冷静さが、貴之の神経を逆撫でする。


「罠だと言うがね、現場の証拠はあまりにも雄弁なんですよ。被害者の枕元にあったウイスキーのグラス。そこから検出された指紋は、あなたのものと完全に一致しました」

「あ、あれは……! 夕食の時に使ったやつを、美咲が盗んで置いたんだ!」

「ほう。では、あなたが使っていたパソコンの検索履歴は? 『完全犯罪』『毒物』『筋弛緩剤』……これらも奥さんが検索したと言うんですか?」

「そうだ! あいつは俺のパスワードを知っていたんだ!」


 貴之は必死に弁明するが、言葉にすればするほど、それは見苦しい言い逃れにしか聞こえなかった。

 三浦は小さく溜息をつき、憐れむような目で貴之を見た。


「権蔵さん。客観的に見てください。あなたは会社の金を横領し、穴埋めに困っていた。義父である源造氏にそれがバレれば破滅する。動機は十分すぎるほどにある」

「ち、違う……俺は……」

「それに、共犯者の証言もありますよ」


 三浦の言葉に、貴之が顔を上げた。


神田かんだ恭介きょうすけ容疑者が、一部を認め始めています。『貴之に頼まれて筋弛緩剤を横流しした』とね」


 貴之の脳内で、何かが切れる音がした。


          *


 別の取調室では、神田恭介が力なく椅子に沈み込んでいた。

 高級スーツはヨレヨレになり、整えられていた髪は乱れ、かつての自信に満ちた医師の面影はない。


「……罪が軽くなるのなら横流しは認めるよ。だが、殺人の指示なんてしてない」


 神田は乾いた唇を舐めた。

 彼は貴之よりも事態を冷静に――そして絶望的に理解していた。


「俺はただ、貴之に『眠れる薬はないか』と頼まれたから、期限切れの筋弛緩剤を渡しただけだ。まさか殺しに使うとは思わなかった」


 それは嘘だ。渡してすらいない。あの薬瓶は、クリニックの廃棄物から美咲が勝手に持ち出したものに違いない。だが、管理責任を問われれば逃げられない。

 何より、彼の首を絞めているのは、貴之への詐欺手術と、レナと共謀した遺産乗っ取り計画の露見だった。


「ハハ……。完敗だな」


 神田は自嘲気味に笑った。

 彼は気づいていた。

 美咲という女の恐ろしさに。


「あいつ、全部知ってたんだな。俺の手術がインチキだったことも、レナの腹の子が俺の種だってことも」


 神田は天井を見上げた。

 カモだと思っていた貴之。金づるだと思っていた権蔵家。

 だが、実際にカモにされていたのは自分たちだった。

 美咲は、彼らの欲望を利用し、犯罪の証拠を積み上げさせ、最後の一手でまとめて「殺人犯」という檻に放り込んだのだ。


「とんだ悪女だぜ……。いや、怪物の娘は、やっぱり怪物だったってことか」


 神田は悔しさよりも、ある種の戦慄を覚えていた。

 医師免許は剥奪され、借金取りに追われる人生が終わった。これからは塀の中で、一生を終えることになるだろう。


          *


 廊下のベンチでは、レナが女性警官に挟まれて泣きじゃくっていた。

 化粧は崩れ、ブランド物のドレスは皺だらけになっている。


「私は知らない! 何もやってない! ただタカ君にお金を貰ってただけよ!」


 レナはヒステリックに叫んでいた。


「横領した金だなんて知らなかったの! 私は被害者よ! 騙されてたの!」


 だが、彼女の訴えを聞く者はいない。

 彼女の口座には、貴之が横領した会社資金が直接振り込まれていた記録がある。言い逃れようのない「収益移転防止法違反」、そして横領の共犯だ。

 何より、彼女にとっての最大の絶望は、お腹の子にあった。


 玉の輿に乗るための切り札だったはずの子供。

 それが今や、犯罪者・神田の子供であり、彼女自身が犯罪者となったことで、ただの重荷に変わってしまった。

 権蔵家の遺産など、一円も入ってこない。

 華やかな六本木での生活も、タワーマンションも、すべてが泡と消えた。


「嘘よ……こんなの嘘……私は幸せになるはずだったのに……」


 レナの嗚咽が、冷たい廊下に虚しく響いた。


          *


 留置所の独房。

 夜が更け、貴之は一人、冷たい床に座り込んでいた。

 隣の房からは、泥酔者のうめき声が聞こえる。


 貴之は膝を抱え、震えていた。

 怒りは通り過ぎ、今はただ、底知れぬ虚無と恐怖だけがあった。


 数時間前の出来事が、走馬灯のように頭を駆け巡る。

 DNA鑑定の結果。

 神田の裏切り。

 レナの正体。

 そして、美咲の冷酷な微笑み。


『あなたは種なしなのですから』


 美咲の声が耳にこびりついて離れない。

 貴之は自分の股間を握りしめた。

 ここには何もない。機能もしない、命も生み出せない、無価値な肉塊。

 彼は男としての尊厳を、徹底的に踏みにじられたのだ。

 それも、自分が一番見下していたはずの妻によって。


「……あいつは、知っていたのか」


 貴之は独り言ちた。

 自分がパイプカットをしたことを、美咲はいつから知っていたのだろうか。

 不妊治療に苦しむふりをしながら、心の中では俺を恨んでいたのだろうか。

 そして、源造の精子を受け入れ、虎視眈々とこの復讐の舞台を準備していたのだ。


 貴之は思い出した。

 源造がよく口にしていた言葉を。


『食うか、食われるかだ』


 貴之は、自分こそが捕食者だと思っていた。

 源造の財産を食い、美咲の人生を食い、甘い汁を吸い続ける賢い寄生虫だと。

 だが違った。

 彼は、巨大な蜘蛛の巣にかかった、ただの羽虫だったのだ。


「う……ううっ……」


 涙がこぼれ落ちた。

 後悔の涙ではない。自分の愚かさと、これから訪れる地獄への恐怖の涙だ。

 余命わずかではあったが源造殺しの罪は重い。横領の額も莫大だ。

 彼は全ての社会的地位を失い、財産を没収され、長い懲役刑に服することになる。

 出所したとしても、待っているのは孤独と貧困だけだ。


 鉄格子の向こう、小さな窓から月が見えた。

 その月は、美咲の瞳のように冷たく、貴之を見下ろしていた。


 彼は檻の中で、獣のように丸まり、声を殺して泣いた。

 自分が誰かを騙しているつもりで、実は誰よりも深く騙されていた道化の末路。

 その背中には、もう「権蔵」という名の威光は欠片も残っていなかった。

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