第18話 審判の日(後編)
広間を支配していたのは、もはや混乱を通り越した、真空のような静寂だった。
畳の上には、取っ組み合いの末に崩れ落ちた男たちが転がっている。
鼻血を出し、呆然と天井を見上げる夫・貴之。
その横で、悪びれもせず服の埃を払う元凶の医師・神田。
そして、信じていた「玉の輿」の夢が幻だと知らされ、へたり込む愛人・レナ。
三人の敗北者を見下ろしながら、美咲は静かに口を開いた。
「……私の子供の父親。それは、神田でも、他の誰でもありません」
美咲は自身の大きく膨らんだ腹部を、両手で愛おしげに包み込んだ。
その瞳は、深淵のように暗く、どこまでも澄んでいた。
「この子の父親は……権蔵、源造。そう、あなたたちがハイエナのように群がり、その死を待ちわびていた、あのお父様です」
時が止まった。
貴之の目が限界まで見開かれ、痙攣したように喉を鳴らした。
「は……? げ、源造……義父さん……だと?」
理解が追いつかない。
養父と養女。親子として暮らしていた二人だ。
倫理的にも、生理的にも、貴之の思考回路はその事実を拒絶しようとした。
「ば、馬鹿なことを言うな! 気でも狂ったか!?」
貴之は半狂乱で叫んだ。
「お義父さんはもう還暦を過ぎていたんだぞ! それに、親子だぞ!? そんな……そんなおぞましいことがあってたまるか!」
「おぞましい?」
美咲は冷ややかに微笑んだ。
「ええ、そうね。おぞましいわ。でも、あなたたちのしてきたことと、どちらがより醜悪かしら?」
「嘘だ……嘘だッ!」
貴之は這いつくばりながら首を振った。
「そうだ、証拠だ! 証拠を出せ! お義父さんはもう死んで、遺体は荼毘に付された! 骨になった人間とDNA鑑定なんてできるわけがない! お前の妄想だ、でまかせだ!」
貴之の叫びは、溺れる者が掴んだ最後の藁だった。
死人に口なし。死体なきあとにDNAなし。
美咲の主張がどれほど衝撃的でも、科学的に証明できなければ、それはただの戯言として処理できる。
「そ、そうだな……証明できなきゃ、ただの不貞だ」
神田も横から口を挟んだ。彼もまた、この状況をひっくり返す糸口を探していた。
だが、その一縷の望みを断ち切ったのは、上座で沈黙を守っていた叔父・伝次郎だった。
「……証明なら、ここにある」
伝次郎が懐から、新たな封筒を取り出した。
その手つきは厳かであり、同時に、獲物を仕留める猟師のような容赦のなさを帯びていた。
「な、叔父さん……?」
「貴之君。君は知らなかっただろうが、DNA鑑定には『血縁鑑定』というものがあるのだよ」
伝次郎は封筒から書類を取り出し、貴之の目の前に放った。
ひらりと舞い落ちた紙面には、複雑な数列と解析グラフ、そして決定的な数値が記されていた。
「これは、美咲さんのお腹の子と、私・伝次郎との『叔父・甥(姪)鑑定』の結果だ。肯定確率は九十九パーセント」
さらに伝次郎は、隣に控えていた息子・仁斗を指し示した。
「そしてこちらは、仁斗と胎児との『いとこ鑑定』の結果だ。こちらも九十九パーセントで血縁関係が認められた」
仁斗が冷徹な眼差しで貴之を見下ろし、言った。
「父と源造会長は兄弟です。そして僕と社長も血が繋がっている。……貴之、お前のような余所者と違い、我々の血はこの子の出自を雄弁に語っているんだよ」
貴之は書類を拾い上げ、震える手で文字を追った。
数字は嘘をつかない。
美咲の腹の子は、間違いなく権蔵家の血を引いている。そして、貴之が「種なし」であり、神田とも無関係である以上、父親となり得るのは……源造しかいない。
「な、なぜ……いつの間に……」
貴之は力なく呟いた。
「先月の羊水検査の日だ」
伝次郎が淡々と答えた。
「あの時、美咲さんは私に全てを打ち明けてくれたのだよ。……君のパイプカットの事実も、不穏なヤブ医者の件も、さらには会社の金の横領の件もすべてな」
――回想。
あの病院の個室で、美咲と交わした密約。
『会社の実権は、あなたと仁斗さんにお譲りします』
『私が欲しいのは、復讐と、この子の平穏だけ』
伝次郎にとって、それは悪魔的なまでに魅力的な提案だった。
無能な貴之を排除し、自身の血統である仁斗を社長に据える。そのためなら、美咲の「復讐劇」に加担することなど、安い代償だった。
「叔父さん……! 裏切ったのか! 俺を騙していたのか!?」
貴之が絶叫する。
「人聞きの悪いことを言うな」
伝次郎は冷たく言い放った。
「私は権蔵家を守るために動いただけだ。会社を食い物にしていた寄生虫を駆除する。……当然の判断だろう?」
貴之は言葉を失った。
味方だと思っていた叔父が、実は途中から美咲の手駒だった。
四面楚歌。完全包囲。
そこで、今まで空気のように佇んでいた顧問弁護士が進み出た。
彼は眼鏡の位置を直し、厳粛な声で告げた。
「では、源造会長の遺言書の『特記事項』を読み上げます」
弁護士が開いたのは、封蝋された特別な書面だった。
「『もし、私の死後、生物学上の実子が確認された場合、その子に全財産および全株式を譲渡するものとする』」
全財産。
数百億にのぼる資産。不動産、株、預金。
その全てが、今、美咲のお腹の中にいる赤ん坊のものとなった。
「そ、そんな……」
レナが呻く。彼女の夢見た「玉の輿」は、粉々に砕け散った。彼女のお腹にいる神田の子には、一円の価値もないことが確定したのだ。
「認めない……認めないぞ!」
貴之が床を叩いて喚いた。
「遺留分があるはずだ! 俺は配偶者だぞ! 半分は俺のものだ!」
「残念ですが」
弁護士が事務的に切り返した。
「貴之様には、源造会長に対する『著しい背信行為』が認められます。会社の金の横領、および……」
弁護士は言葉を濁し、美咲を見た。
美咲は一歩前に出た。
貴之を見下ろすその目は、かつて源造が貴之に向けていた目――「羽虫を見る目」と同じだった。
「貴之さん。あなたは、どうして私がお父様の子供を身籠ったと思いますか?」
「知るか! この変態女! 金のために爺さんに股を開いたんだろう!」
「……ふふ」
美咲は乾いた笑いを漏らした。
「ええ、そう見えますよね。でも、事実は少し違います」
美咲は遠い目をした。
脳裏に浮かぶのは、死の床にあった源造との会話。そして、それ以前から続いていた、支配と服従の日々。
「病気が発覚した直後お父様は、死期を悟って焦っていました。自分の血を残すことに執着しだし、私に強要したのです。『俺の子を産め』と」
会場が静まり返る。
それは、権力者の醜悪なエゴの極みだった。
「私は拒絶しました。気持ち悪かった。逃げ出したかった。……だから、私はあなたに縋ったのですよ、貴之さん」
美咲の声に、微かな熱が帯びる。
「あなたとの子供ができれば、お父様も諦めると思った。だから必死で不妊治療に耐えた。痛い検査も、副作用も、全て我慢した。……あなたと、『普通の家族』になりたかったから」
貴之は息を呑んだ。
美咲の治療に対する執念。その裏には、源造からの歪んだプレッシャーと、夫への純粋な期待があったのだ。
「なのに、あなたは……裏でパイプカットをして、私を笑っていた」
美咲の表情から感情が消え、再び能面のような冷徹さが戻る。
「私の希望を、あなたは踏みにじった。私の逃げ道を、あなたが塞いだのよ」
パイプカットの事実を知ったあの日。
美咲の中で何かが壊れ、そして再構築された。
「だから、私は受け入れました。お父様の提案を。……凍結保存されていた精子を用いて、体外受精を行ったのです」
愛などない。快楽もない。
それは純然たる「契約」であり、そして「復讐のための受胎」だった。
「だから、私は妊娠しました。……あなたたち全員を、地獄へ道連れにするために」
貴之はガタガタと震え出した。
目の前にいるのは人間ではない。
源造という怪物が作り上げ、貴之という愚者が完成させた、復讐の化身だ。
「さあ、幕引きの時間です」
美咲が言い放った瞬間、広間の襖が乱暴に開け放たれた。
冷たい風と共に飛び込んできたのは、数名の男たち。
先頭に立つのは、よれよれのコートを着た刑事――三浦だった。
「……お話し中、失礼しますよ」
三浦は鋭い眼光で室内を見回し、貴之と神田に焦点を合わせた。
その後ろから、制服警官たちが雪崩れ込んでくる。
「け、警察……!? なんで……」
貴之が後ずさる。
三浦は懐から逮捕状を取り出し、突きつけた。
「権蔵貴之。業務上横領、および……権蔵源造氏に対する殺人容疑で逮捕状が出ています」
「は……? さ、殺人……!?」
貴之の顔から血の気が完全に引いた。
「現場から検出された指紋、薬品の入っていた小瓶。状況証拠は揃ってるんですよ。……横領の発覚を恐れて、義父を殺した。違いますか?」
「ち、違う! 俺じゃない! 俺はやってない!」
貴之は泣き叫んだ。
「あの晩、俺は寝ていたんだ! 指紋なんて知らない! 小瓶なんて見たこともない!」
「言い訳は署で聞きます」
三浦は冷たく言い放ち、次に神田を向いた。
「神田恭介。あんたには医師法違反、詐欺、そして殺人幇助の容疑だ。筋弛緩剤を横流しした証拠、きっちり上がってるぞ」
「ま、待てよ刑事さん! 俺はそんなことをしていない! そうだとしたら盗まれたんだ!」
神田も必死で喚くが、警官たちに腕を掴まれ、ねじ上げられる。
「レナさん、あんたもだ。横領金の受取人として、事情を聞かせてもらう」
「いやぁ! 離して! 私は関係ない!」
広間は修羅場と化した。
泣き叫ぶレナ、暴れる神田、そして腰を抜かして動けない貴之。
手錠がかけられ、一人ずつ連行されていく。
貴之は引きずられながら、美咲の方を振り返った。
「美咲ッ! 美咲、助けてくれ! 俺はやってない! お前だろ!? お前がやったんだろ!?」
貴之は気づいたのだ。
あの完璧すぎる現場。あからさまな証拠。
すべては美咲が仕組んだ罠だったのだと。
「おい刑事! こいつだ! こいつが真犯人だ! 俺はハメられたんだよおおおお!!」
貴之の絶叫が虚しく響く。
だが、三浦は振り返らなかった。
信用を失い、数々の嘘で塗り固められた詐欺師の言葉など、誰も信じない。
美咲は、連行されていく夫を見つめながら、静かに佇んでいた。
その表情には、同情も、憐憫も、達成感さえも浮かんでいなかった。
ただ、ゴミが片付けられていくのを眺めるような、無機質な眼差し。
貴之の姿が視界から消え、広間に再び静寂が戻った。
残されたのは、美咲と、伝次郎、仁斗、そして弁護士たちだけ。
三浦刑事が、去り際に立ち止まり、美咲の方を振り返った。
二人の視線が交差する。
三浦の目は、「お前の仕業だと分かっている」と語っていた。
美咲の目は、「証拠はどこにもありません」と微笑んでいた。
三浦は帽子を深く被り直し、無言で出て行った。
法は、証拠がなければ人を裁けない。
美咲が作り上げた「完全犯罪」の城壁は、あまりにも高く、堅牢だった。
「……終わりましたね」
伝次郎が、ふう、と息を吐いた。
「ええ、叔父様。……この後は、よろしくお願いしますね」
美咲は深々と頭を下げた。
伝次郎と仁斗も、緊張が解けたように肩の力を抜き、そして美咲に対して畏敬の念を込めた一礼を返した。
彼らは知ったのだ。
このか弱そうに見える妊婦こそが、源造をも超える怪物であることを。
美咲は窓辺に歩み寄った。
外は、白い雪が降りしきっている。
すべての罪を、汚れを、嘘を、白く覆い隠していく雪。
お腹の子が、ドン、と強く蹴った。
「いい子ね」
美咲は腹を撫でた。
「邪魔なものは全部消えたわ。この世界は、もうあなたのものよ」
彼女の唇に浮かんだ笑みは、冬の寒さよりも冷たく、そして美しかった。
美咲の復讐劇は、ここに完結した。
だが、そのお腹に宿る新たな「怪物」の物語は、まだ始まったばかりだった。




