表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不妊治療3年目。夫が隠した「パイプカット手術の同意書」を見つけた件。だから、私は妊娠しました。  作者: 団田図


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/20

第16話 審判の日(前編)

十二月一日。

 師走に入った途端、東京の空は鉛色の雲に覆われ、骨まで凍みるような寒気が舞い降りていた。

 権蔵ごんぐら家の屋敷は、重苦しい静寂に包まれていた。

 庭の木々は完全に葉を落とし、枯れ枝が寒風に震えている。その様子はまるで、これからこの屋敷で繰り広げられる惨劇を予感し、怯えているかのようだった。


 大広間。

 かつて源造げんぞうが君臨し、数々の宴や密談が行われた場所。

 今日はそこに、権蔵家に関わる主要な人間が集められていた。


 上座には、源造の遺影が飾られたままだ。その冷徹な眼差しは、眼下の人間たちの醜い欲望を見下ろしている。

 遺影の前に置かれた長机を挟み、二つの陣営――というよりは、被告人と審判者たちが対峙していた。


 美咲は、下座に用意された椅子に静かに座っていた。

 臨月近いお腹は大きくせり出し、黒のゆったりとしたワンピースを着ていてもその膨らみは隠せない。彼女は両手をお腹に当て、伏し目がちに時が来るのを待っていた。

 その表情は、怯えているようにも、諦観しているようにも見えた。


 対面に座るのは、夫の貴之。

 彼は落ち着きなく貧乏ゆすりをし、時折、隣に座る叔父の伝次郎でんじろうに視線を送っていた。その顔には、隠しきれない興奮と、サディスティックな愉悦の色が浮かんでいる。


(やっとだ……やっとこの時が来た)


 貴之は、ジャケットの内ポケットに入っている「ある写真」の感触を確かめた。

 今日、美咲を追い出す。

 そして、この広間の主となるのは自分だ。


 伝次郎の隣には、その息子の仁斗じんとが苦渋の表情で座っている。

 さらにその横には、顧問弁護士と、立会人として招かれた医師・神田かんだ恭介きょうすけの姿があった。神田は神妙な顔つきを作っているが、その目の奥は獲物を狙うハイエナのようにギラギラと輝いていた。


「……皆様、お集まりいただきありがとうございます」


 正午を告げる古時計の鐘が鳴り止むと同時に、伝次郎が重々しく口を開いた。

 彼は一瞥いちべつもせず、ただ前を見据えたまま言葉を紡ぐ。


「亡き兄・源造の初七日の席で取り決められた通り、本日、美咲さんのお腹の子に関するDNA鑑定の結果を開示します」


 室内の空気が、一気に張り詰めた。

 親族たちの視線が、美咲に集中する。


「この鑑定は、権蔵家の血統の正当性を証明し、無用な憶測を払拭するために行うものです。……貴之君、君も覚悟はいいかね?」


 伝次郎が問いかけると、貴之は勢いよく立ち上がった。


「もちろんです、叔父さん! 僕は……僕は妻を信じています。ですが、会社の未来のため、そして生まれてくる子供自身のためにも、真実を明らかにすべきだと決断しました!」


 貴之の声は、広間の高い天井に反響した。

 よく通る、芝居がかった声だ。

 彼は美咲の方を向き、悲痛な面持ちを作って見せた。


「美咲、怖がることはない。君が潔白なら、堂々としていればいいんだ」


 美咲は顔を上げず、小さな声で答えた。


「……はい、貴之さん」


 その震える声を聞いて、貴之は心の中で舌を出した。

 (今さら殊勝なふりをしても遅いんだよ。お前が妊娠したころ、俺はパイプカットしていたから、お前の腹の中にいるガキが、俺の子である確率はゼロなんだよ!)


 貴之にとって、このDNA鑑定は出来レースだった。

 彼は「自分は種なしだった(過去形)」という事実を伏せたまま、「妻の不貞」を科学的に証明できる。

 そして、自分は最近受けた(と思っている)再建手術で復活し(たと思っている)、レナという新しい母体との間に子を成している(と思っている)。

 完璧だ。あまりにも完璧なシナリオだ。


 ふと、伝次郎の視線が美咲に向いた。

 美咲も顔を上げる。

 二人の視線が交錯する。

 ほんの一瞬。瞬きするほどの短い時間。

 美咲が微かに顎を引き、伝次郎がまぶたを閉じた。

 誰も気づかない、共犯者同士の無言の合図。


 伝次郎はすぐに厳しい表情に戻り、弁護士に顎でしゃくった。


「では、先生。開封をお願いします」


 年配の顧問弁護士が、厳粛な手つきで茶封筒を手に取った。

 『親展』『重要』の赤文字が押された封筒。

 ペーパーナイフが紙を切り裂く乾いた音が、静まり返った広間に響き渡る。

 貴之がごくりと喉を鳴らした。

 神田がニヤリと口角を上げた。

 仁斗が息を詰めた。


 弁護士は書類を取り出し、眼鏡の位置を直してから、その文面を目で追った。

 そして、無感情な事務的な声で読み上げた。


「……鑑定結果を報告いたします。検体A(胎児の羊水細胞)と、検体B(権蔵貴之氏の口腔粘膜細胞)のDNA配列を照合した結果……」


 全員が息を飲む。


「親子関係が存在する確率は、〇パーセント。……両者の間に、生物学的な親子関係は認められません。不一致です」


 ドッ、と会場がどよめいた。

 親族たちが顔を見合わせ、ひそひそと囁き合う。

 「やっぱり」「まさか」「なんて女だ」


 その喧騒を切り裂くように、貴之が大声で叫んだ。


「見たか!!」


 彼は椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がり、美咲を指差した。

 その顔は、もはや悲劇の夫ではない。鬼の首を取ったような、醜悪な勝利者の顔だった。


「やっぱりだ! 俺の直感は間違っていなかった! このふしだら女め!」


 貴之はテーブルを叩きながら、美咲に罵声を浴びせかけた。


「よくも……よくも俺を騙したな! 俺の子だ、愛の結晶だなどと抜かしやがって! その腹の中身は、どこの馬の骨とも知れない男の種じゃないか!」


 美咲は動じなかった。

 ただ静かに、罵倒の嵐を受け止めていた。

 その沈黙が、貴之をさらに増長させる。


「誰だ! 相手は誰なんだ!? 不妊治療に通うふりをして、どこで男と会っていた!? 汚らわしい! 権蔵家の敷居を跨ぐ資格もない!」


 ここで、今まで沈黙を守っていた神田が、わざとらしく溜息をついて立ち上がった。

 彼は「やれやれ」といった表情で、美咲に歩み寄った。


「……美咲さん。医師として、非常に残念です」


 神田はカルテのようなバインダーを開き、親族たちに見えるように掲げた。


「実は、主治医である私も薄々感じていたのです。貴之君と美咲さんの治療経過を見る限り、自然妊娠はおろか、人工授精でも成功率は極めて低かった。……医学的に見て、貴之君の数値は正常範囲内でしたが、相性の問題もあったのかもしれません。しかし、他人のDNAが入ったとなれば話は別だ」


 神田はもっともらしい嘘を並べ立てた。

 貴之の数値が正常? 嘘だ。四年前のパイプカットでゼロだったのだから。

 だが、この場において神田の証言は「貴之は正常=生殖能力はある」という証明作りであり、同時に「美咲の不貞」を確定させる決定打だった。


「先生……あなたまで……」


 美咲が涙ぐんだ声を出した。

 神田は心の中で嘲笑った。(可愛いねぇ、美咲ちゃん。でも金のためだ。悪いな)


「科学は嘘をつきません。……この結果が出た以上、貴之君の怒りはもっともだ」


 神田の言葉が、貴之の正当性を後押しする。

 貴之は胸を張り、勝ち誇った顔で伝次郎を見た。


「叔父さん! これではっきりしましたね。この女は、権蔵家を乗っ取るために托卵を企てた詐欺師だ! 即刻、離婚と勘当を要求します!」


 伝次郎は腕を組んだまま、静かに頷いた。


「……確かに、鑑定結果は重い。美咲さん、君に弁解の余地はあるかね?」


 美咲はゆっくりと立ち上がった。

 その動作は優雅で、追い詰められた罪人のそれとは程遠かった。

 彼女は涙を拭うこともなく、真っ直ぐに貴之を見た。


「……ありません」


 彼女が短く答えると、貴之は「ハッ!」と鼻で笑った。


「認めたな! ようやく本性を現したか! さあ、今すぐ荷物をまとめて出て行け! その汚れた腹を抱えて、路頭に迷うがいい!」


 貴之の興奮は最高潮に達していた。

 彼はこの瞬間のために生きてきたような気がした。

 自分を見下していた(ような気をしていた)美咲を、足元にひれ伏させる快感。

 全能感。


「だがな、美咲。……安心しろ」


 貴之はニヤリと笑い、広間の入り口の方を向いた。

 ここからが、彼の描いた最高のクライマックスだ。


「権蔵家の未来は、安泰だ。お前のような偽物がいなくなっても、俺には『本物』がいるからな!」


 親族たちがざわめく。

 「本物?」「どういうことだ?」


 貴之は両手を広げ、高らかに宣言した。


「俺には、新しい妻がいる! そして、彼女のお腹には、正真正銘、俺の血を引いた子供がいるんだ!」


 貴之が合図を送ると、広間の襖が音を立てて開いた。

 そこには、場違いなほど華やかなピンク色のマタニティドレスを着た若い女――レナが立っていた。

 彼女はブランド物のバッグを提げ、勝ち気な笑みを浮かべていた。


「おいでおいで、レナ!」


 貴之が手招きをする。

 レナは持参した高級ブランドのサンダルの音を響かせ、畳の上を歩いてきた。厳粛な広間に、甘ったるい香水の匂いが広がる。

 親族たちは唖然として言葉を失った。


「紹介しよう! 彼女こそが、俺の新しいパートナー、レナだ! そして彼女のお腹にいる子こそが、権蔵家の正当な後継者だ!」


 貴之はレナの肩を抱き、美咲に見せつけるようにキスをした。

 レナは美咲に向かって、侮蔑と優越感の入り混じった視線を投げかけた。


「初めましてぇ、お姉さん。……あ、もう他人か。残念でしたねぇ、嘘っていつかバレるものですよ?」


 クスクスと笑うレナ。

 勝ち誇る貴之。

 彼らの背後で、神田が満足げに頷いている。


 会場は混乱の坩堝るつぼと化した。

 「愛人?」「妊娠?」「どうなっているんだ」

 親族たちの困惑の声が飛び交う。


 だが、貴之は気にしなかった。

 源造が死んだ今、力を持つのは「次期社長」である自分と、「後継者」を持つ自分だ。

 文句など言わせない。


「さあ、美咲! この神聖な場所から消え失せろ! この家は今日から、俺とレナと、俺たちの子供の城だ!」


 貴之の怒号が響く。

 彼は美咲が泣き崩れ、許しを請う姿を期待していた。

 あるいは、怒って掴みかかってくるか。


 しかし。

 美咲は動かなかった。

 彼女は、貴之とレナ、そして神田の三人を見つめたまま、微動だにしなかった。

 その表情から、怯えの色が消えていた。

 悲しみも、悔しさも、すべてが消え失せていた。


 代わりにそこに現れたのは、凍てつくような「無」と、その奥底でゆらりと揺れる、青白い鬼火のような笑みだった。


「……終わりですか? 貴之さん」


 美咲の声は、驚くほど冷静で、よく通った。

 広間の喧騒が一瞬で止んだ。

 貴之の笑顔が凍りつく。


「な……なんだその態度は。負け惜しみか?」


「いいえ。……ただ、確認したかったのです。あなたが吐くべき毒を、すべて吐き出したかどうかを」


 美咲はゆっくりと、懐からボイスレコーダーを取り出した。

 小さな黒い機械。

 それを見た瞬間、神田の顔色がさっと変わった。

 貴之はまだ事態を飲み込めていない。


「DNA鑑定の結果。……不一致。ええ、当然ですわ」


 美咲は艶然と微笑んだ。

 その美しさは、この世のものとは思えないほど禍々しく、そして神々しかった。


「だって、あなたは『種なし』なのですから」


 貴之が息を呑む。

「なっ……何を……!」


「そして、そこにいるレナさんのお腹の子も……あなたの子供ではありません」


 美咲の指が、再生ボタンにかかった。

 

 審判の日は、まだ終わっていない。

 ここまでは、美咲が書いた脚本の「前座」に過ぎない。

 本当の地獄は、ここから始まるのだ。


 美咲は冷酷な瞳で、三人の「敗者」たちを見据えた。


「さあ、答え合わせをしましょうか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ