第16話 審判の日(前編)
十二月一日。
師走に入った途端、東京の空は鉛色の雲に覆われ、骨まで凍みるような寒気が舞い降りていた。
権蔵家の屋敷は、重苦しい静寂に包まれていた。
庭の木々は完全に葉を落とし、枯れ枝が寒風に震えている。その様子はまるで、これからこの屋敷で繰り広げられる惨劇を予感し、怯えているかのようだった。
大広間。
かつて源造が君臨し、数々の宴や密談が行われた場所。
今日はそこに、権蔵家に関わる主要な人間が集められていた。
上座には、源造の遺影が飾られたままだ。その冷徹な眼差しは、眼下の人間たちの醜い欲望を見下ろしている。
遺影の前に置かれた長机を挟み、二つの陣営――というよりは、被告人と審判者たちが対峙していた。
美咲は、下座に用意された椅子に静かに座っていた。
臨月近いお腹は大きくせり出し、黒のゆったりとしたワンピースを着ていてもその膨らみは隠せない。彼女は両手をお腹に当て、伏し目がちに時が来るのを待っていた。
その表情は、怯えているようにも、諦観しているようにも見えた。
対面に座るのは、夫の貴之。
彼は落ち着きなく貧乏ゆすりをし、時折、隣に座る叔父の伝次郎に視線を送っていた。その顔には、隠しきれない興奮と、サディスティックな愉悦の色が浮かんでいる。
(やっとだ……やっとこの時が来た)
貴之は、ジャケットの内ポケットに入っている「ある写真」の感触を確かめた。
今日、美咲を追い出す。
そして、この広間の主となるのは自分だ。
伝次郎の隣には、その息子の仁斗が苦渋の表情で座っている。
さらにその横には、顧問弁護士と、立会人として招かれた医師・神田恭介の姿があった。神田は神妙な顔つきを作っているが、その目の奥は獲物を狙うハイエナのようにギラギラと輝いていた。
「……皆様、お集まりいただきありがとうございます」
正午を告げる古時計の鐘が鳴り止むと同時に、伝次郎が重々しく口を開いた。
彼は一瞥もせず、ただ前を見据えたまま言葉を紡ぐ。
「亡き兄・源造の初七日の席で取り決められた通り、本日、美咲さんのお腹の子に関するDNA鑑定の結果を開示します」
室内の空気が、一気に張り詰めた。
親族たちの視線が、美咲に集中する。
「この鑑定は、権蔵家の血統の正当性を証明し、無用な憶測を払拭するために行うものです。……貴之君、君も覚悟はいいかね?」
伝次郎が問いかけると、貴之は勢いよく立ち上がった。
「もちろんです、叔父さん! 僕は……僕は妻を信じています。ですが、会社の未来のため、そして生まれてくる子供自身のためにも、真実を明らかにすべきだと決断しました!」
貴之の声は、広間の高い天井に反響した。
よく通る、芝居がかった声だ。
彼は美咲の方を向き、悲痛な面持ちを作って見せた。
「美咲、怖がることはない。君が潔白なら、堂々としていればいいんだ」
美咲は顔を上げず、小さな声で答えた。
「……はい、貴之さん」
その震える声を聞いて、貴之は心の中で舌を出した。
(今さら殊勝なふりをしても遅いんだよ。お前が妊娠したころ、俺はパイプカットしていたから、お前の腹の中にいるガキが、俺の子である確率はゼロなんだよ!)
貴之にとって、このDNA鑑定は出来レースだった。
彼は「自分は種なしだった(過去形)」という事実を伏せたまま、「妻の不貞」を科学的に証明できる。
そして、自分は最近受けた(と思っている)再建手術で復活し(たと思っている)、レナという新しい母体との間に子を成している(と思っている)。
完璧だ。あまりにも完璧なシナリオだ。
ふと、伝次郎の視線が美咲に向いた。
美咲も顔を上げる。
二人の視線が交錯する。
ほんの一瞬。瞬きするほどの短い時間。
美咲が微かに顎を引き、伝次郎がまぶたを閉じた。
誰も気づかない、共犯者同士の無言の合図。
伝次郎はすぐに厳しい表情に戻り、弁護士に顎でしゃくった。
「では、先生。開封をお願いします」
年配の顧問弁護士が、厳粛な手つきで茶封筒を手に取った。
『親展』『重要』の赤文字が押された封筒。
ペーパーナイフが紙を切り裂く乾いた音が、静まり返った広間に響き渡る。
貴之がごくりと喉を鳴らした。
神田がニヤリと口角を上げた。
仁斗が息を詰めた。
弁護士は書類を取り出し、眼鏡の位置を直してから、その文面を目で追った。
そして、無感情な事務的な声で読み上げた。
「……鑑定結果を報告いたします。検体A(胎児の羊水細胞)と、検体B(権蔵貴之氏の口腔粘膜細胞)のDNA配列を照合した結果……」
全員が息を飲む。
「親子関係が存在する確率は、〇パーセント。……両者の間に、生物学的な親子関係は認められません。不一致です」
ドッ、と会場がどよめいた。
親族たちが顔を見合わせ、ひそひそと囁き合う。
「やっぱり」「まさか」「なんて女だ」
その喧騒を切り裂くように、貴之が大声で叫んだ。
「見たか!!」
彼は椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がり、美咲を指差した。
その顔は、もはや悲劇の夫ではない。鬼の首を取ったような、醜悪な勝利者の顔だった。
「やっぱりだ! 俺の直感は間違っていなかった! このふしだら女め!」
貴之はテーブルを叩きながら、美咲に罵声を浴びせかけた。
「よくも……よくも俺を騙したな! 俺の子だ、愛の結晶だなどと抜かしやがって! その腹の中身は、どこの馬の骨とも知れない男の種じゃないか!」
美咲は動じなかった。
ただ静かに、罵倒の嵐を受け止めていた。
その沈黙が、貴之をさらに増長させる。
「誰だ! 相手は誰なんだ!? 不妊治療に通うふりをして、どこで男と会っていた!? 汚らわしい! 権蔵家の敷居を跨ぐ資格もない!」
ここで、今まで沈黙を守っていた神田が、わざとらしく溜息をついて立ち上がった。
彼は「やれやれ」といった表情で、美咲に歩み寄った。
「……美咲さん。医師として、非常に残念です」
神田はカルテのようなバインダーを開き、親族たちに見えるように掲げた。
「実は、主治医である私も薄々感じていたのです。貴之君と美咲さんの治療経過を見る限り、自然妊娠はおろか、人工授精でも成功率は極めて低かった。……医学的に見て、貴之君の数値は正常範囲内でしたが、相性の問題もあったのかもしれません。しかし、他人のDNAが入ったとなれば話は別だ」
神田はもっともらしい嘘を並べ立てた。
貴之の数値が正常? 嘘だ。四年前のパイプカットでゼロだったのだから。
だが、この場において神田の証言は「貴之は正常=生殖能力はある」という証明作りであり、同時に「美咲の不貞」を確定させる決定打だった。
「先生……あなたまで……」
美咲が涙ぐんだ声を出した。
神田は心の中で嘲笑った。(可愛いねぇ、美咲ちゃん。でも金のためだ。悪いな)
「科学は嘘をつきません。……この結果が出た以上、貴之君の怒りはもっともだ」
神田の言葉が、貴之の正当性を後押しする。
貴之は胸を張り、勝ち誇った顔で伝次郎を見た。
「叔父さん! これではっきりしましたね。この女は、権蔵家を乗っ取るために托卵を企てた詐欺師だ! 即刻、離婚と勘当を要求します!」
伝次郎は腕を組んだまま、静かに頷いた。
「……確かに、鑑定結果は重い。美咲さん、君に弁解の余地はあるかね?」
美咲はゆっくりと立ち上がった。
その動作は優雅で、追い詰められた罪人のそれとは程遠かった。
彼女は涙を拭うこともなく、真っ直ぐに貴之を見た。
「……ありません」
彼女が短く答えると、貴之は「ハッ!」と鼻で笑った。
「認めたな! ようやく本性を現したか! さあ、今すぐ荷物をまとめて出て行け! その汚れた腹を抱えて、路頭に迷うがいい!」
貴之の興奮は最高潮に達していた。
彼はこの瞬間のために生きてきたような気がした。
自分を見下していた(ような気をしていた)美咲を、足元にひれ伏させる快感。
全能感。
「だがな、美咲。……安心しろ」
貴之はニヤリと笑い、広間の入り口の方を向いた。
ここからが、彼の描いた最高のクライマックスだ。
「権蔵家の未来は、安泰だ。お前のような偽物がいなくなっても、俺には『本物』がいるからな!」
親族たちがざわめく。
「本物?」「どういうことだ?」
貴之は両手を広げ、高らかに宣言した。
「俺には、新しい妻がいる! そして、彼女のお腹には、正真正銘、俺の血を引いた子供がいるんだ!」
貴之が合図を送ると、広間の襖が音を立てて開いた。
そこには、場違いなほど華やかなピンク色のマタニティドレスを着た若い女――レナが立っていた。
彼女はブランド物のバッグを提げ、勝ち気な笑みを浮かべていた。
「おいでおいで、レナ!」
貴之が手招きをする。
レナは持参した高級ブランドのサンダルの音を響かせ、畳の上を歩いてきた。厳粛な広間に、甘ったるい香水の匂いが広がる。
親族たちは唖然として言葉を失った。
「紹介しよう! 彼女こそが、俺の新しいパートナー、レナだ! そして彼女のお腹にいる子こそが、権蔵家の正当な後継者だ!」
貴之はレナの肩を抱き、美咲に見せつけるようにキスをした。
レナは美咲に向かって、侮蔑と優越感の入り混じった視線を投げかけた。
「初めましてぇ、お姉さん。……あ、もう他人か。残念でしたねぇ、嘘っていつかバレるものですよ?」
クスクスと笑うレナ。
勝ち誇る貴之。
彼らの背後で、神田が満足げに頷いている。
会場は混乱の坩堝と化した。
「愛人?」「妊娠?」「どうなっているんだ」
親族たちの困惑の声が飛び交う。
だが、貴之は気にしなかった。
源造が死んだ今、力を持つのは「次期社長」である自分と、「後継者」を持つ自分だ。
文句など言わせない。
「さあ、美咲! この神聖な場所から消え失せろ! この家は今日から、俺とレナと、俺たちの子供の城だ!」
貴之の怒号が響く。
彼は美咲が泣き崩れ、許しを請う姿を期待していた。
あるいは、怒って掴みかかってくるか。
しかし。
美咲は動かなかった。
彼女は、貴之とレナ、そして神田の三人を見つめたまま、微動だにしなかった。
その表情から、怯えの色が消えていた。
悲しみも、悔しさも、すべてが消え失せていた。
代わりにそこに現れたのは、凍てつくような「無」と、その奥底でゆらりと揺れる、青白い鬼火のような笑みだった。
「……終わりですか? 貴之さん」
美咲の声は、驚くほど冷静で、よく通った。
広間の喧騒が一瞬で止んだ。
貴之の笑顔が凍りつく。
「な……なんだその態度は。負け惜しみか?」
「いいえ。……ただ、確認したかったのです。あなたが吐くべき毒を、すべて吐き出したかどうかを」
美咲はゆっくりと、懐からボイスレコーダーを取り出した。
小さな黒い機械。
それを見た瞬間、神田の顔色がさっと変わった。
貴之はまだ事態を飲み込めていない。
「DNA鑑定の結果。……不一致。ええ、当然ですわ」
美咲は艶然と微笑んだ。
その美しさは、この世のものとは思えないほど禍々しく、そして神々しかった。
「だって、あなたは『種なし』なのですから」
貴之が息を呑む。
「なっ……何を……!」
「そして、そこにいるレナさんのお腹の子も……あなたの子供ではありません」
美咲の指が、再生ボタンにかかった。
審判の日は、まだ終わっていない。
ここまでは、美咲が書いた脚本の「前座」に過ぎない。
本当の地獄は、ここから始まるのだ。
美咲は冷酷な瞳で、三人の「敗者」たちを見据えた。
「さあ、答え合わせをしましょうか」




