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不妊治療3年目。夫が隠した「パイプカット手術の同意書」を見つけた件。だから、私は妊娠しました。  作者: 団田図


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第15話 嵐の前の静けさ

 11月中旬。

 空は低く垂れ込め、冷たい雨が都内のアスファルトを濡らしていた。

 権蔵ごんぐら美咲を乗せた黒塗りのハイヤーは、首都高速を降り、都内の大学病院へと向かっていた。


 隣の席には、叔父の伝次郎でんじろうが座っている。

 彼は腕を組み、窓の外を流れる景色を睨みつけていたが、時折、探るような視線を美咲の膨らんだ腹部に向けてきた。


「……貴之たかゆき君は、来ないのかね」


 沈黙に耐えかねたように、伝次郎が口を開いた。


「ええ。今日はどうしても外せない接待があるそうで。『叔父さんに任せておけば安心だ』と」


 美咲は膝の上で手を組み、静かに答えた。

 嘘だ。

 貴之は今頃、愛人のレナと会い、これから手に入るはずの(と彼が思い込んでいる)勝利の果実について語り合っているに違いない。彼はこのDNA鑑定を「美咲を追い詰めるための儀式」だと信じている。自分が立ち会わずとも、結果は「不一致クロ」になると確信しているからこそ、余裕を決め込んでいるのだ。


「フン、相変わらず危機感のない男だ」


 伝次郎は鼻を鳴らした。

 病院の車寄せに車が滑り込む。

 今日行われるのは、羊水検査だ。母体の腹部に針を刺し、羊水を採取して胎児のDNAを解析する。

 流産のリスクもゼロではない検査だが、美咲は迷わず同意した。

 全ては、この先の思惑のためだ。


          *


 検査は、無機質な処置室で行われた。

 エコー画面に映る胎児の姿。元気に動いている。

 医師が長細い穿刺針を美咲の腹部に突き立てる。鋭い痛みが走ったが、美咲は眉一つ動かさなかった。

 不妊治療で味わった地獄のような日々に比べれば、この程度の痛みは蚊に刺されたようなものだ。


 処置が終わり、しばらく安静にするために個室のベッドに通された。

 伝次郎もまた、監視役として部屋に残った。

 医師や看護師が退出し、二人きりになる。

 加湿器の蒸気が吹き出す音だけが響く密室で、美咲は口を開いた。


「叔父様」

「なんだね」

「取引をしませんか」


 伝次郎の目が細められた。

 彼は椅子に深く座り直し、値踏みするように美咲を見た。


「取引? 取引ということは、認めるのかね? それに、……今の君に、何か切れるカードがあるのかね。この検査結果が出れば、君は不貞の罪でこの家を追われる身だぞ」


「いいえ。追われるのは私ではありません」


 美咲はサイドテーブルに置いていた自身のバッグから、一通の封筒を取り出した。

 そして、中に入っていた数枚の書類を伝次郎に差し出した。


「これをご覧になっても、そうおっしゃいますか?」


 伝次郎は怪訝な顔で書類を受け取った。

 一枚目。四年前に発行された、あるクリニックの同意書と領収書のコピー。

 『患者氏名:権蔵貴之』『術式:精管結紮術パイプカット


 伝次郎の目が驚愕に見開かれた。


「これは……! 貴之君は、種なしだったのか!?」


「ええ。彼は四年前、お父様に『孫を作る努力をする』と嘘をつき、裏でこっそりと避妊手術を受けていました。そして私には不妊治療を強要し、三年間も地獄を味わわせたのです」


 美咲の声は冷徹だった。

 伝次郎は書類を持つ手を震わせながら、次のページをめくった。

 そこにあったのは、膨大な横領の証拠データ。架空発注、裏帳簿のコピー、そして反社会的勢力との土地売買契約のドラフト。


「バカな……ここまで腐っていたとは……」


 伝次郎が呻いた。

 彼は貴之が無能だとは思っていたが、ここまで会社に損害を与える害虫だとは想像していなかったのだ。

 美咲はベッドの上で身を起こし、伝次郎を真っ直ぐに見据えた。


「叔父様。貴之さんは、自分が九月に受けた『パイプカットの再建手術』が成功したと信じています。だから強気なのです。でも、それも嘘。執刀医の神田恭介が金を巻き上げるために行った偽装手術です」

「なんと……」

「つまり、貴之さんには生殖能力はありません。……では、私のお腹の子は誰の子だと思いますか?」


 伝次郎はゴクリと唾を飲み込んだ。

 パイプカットをした夫。不妊治療の末に妊娠した妻。

 常識で考えれば不倫だ。

 だが、美咲の瞳には一点の曇りもない。そして、彼女が用意周到に集めたこの証拠の数々。

 彼女は、ただの被害者ではない。


「それはですね……」


 美咲から明かされた真実を知った伝次郎。


 室内が凍りついたような静寂に包まれた。

 伝次郎の脳内で、高速の計算が行われているのが分かった。

 貴之は偽物。美咲の子は…

 だが、美咲が全権を握れば、伝次郎の息子・仁斗じんとの出番はなくなる。


「叔父様。私は、社長の椅子には興味がありません」


 美咲は、伝次郎が最も欲しがっている餌を投げた。


「私が欲しいのは、私を騙し、弄んだ貴之さんと神田への復讐。そして、この子を静かに育てられる環境だけです。……会社の実権は、あなたと仁斗さんにお譲りします」


「……本気か?」

「ええ。貴之さんが社長になれば、会社は潰れます。それは困りますの。この子の将来のためにも、会社は有能なあなた方に守っていただきたい」


 美咲は微笑んだ。

 伝次郎は深いため息をついた。そして、ニヤリと笑い返した。


「……君は、兄さんに似てきたな」

「光栄ですわ」


 伝次郎は書類を封筒に戻し、懐にしまった。


「分かった。この検査、私が責任を持って管理しよう。

 12月1日の親族会議、楽しみにしておくよ」

「ええ、叔父様。最高のショーをお見せします」


 二人の間で、密約が成立した。

 貴之の知らぬ間に、彼の足場は完全に崩れ去ったのだ。


          *


 数日後。

 かつて美咲の実家があった場所――今は寂れたコインパーキングになっている土地の周辺を、一人の男が歩き回っていた。

 所轄署の刑事、三浦だ。


 彼は古びた手帳を片手に、近所の商店街や、古いアパートを一軒ずつ訪ね歩いていた。

 11月の冷たい風が、彼のよれたコートの裾を揺らす。


「ああ、建設会社をやっていた社長さんねぇ。覚えてるよ、もう二十年以上も前になるけど」


 小さなタバコ屋の店先で、白髪の老婆が遠い目をして語り出した。


「本当にいい人だったよ。真面目で、職人さんたちを大事にしててね。……でも、あの大きな会社に仕事を干されて、あっという間に借金まみれになっちまって」


 老婆の話によると、美咲の父は、近所でも評判の人格者だったという。

 だが、権蔵不動産の強引な再開発計画の犠牲となり、最後は首を吊った。


「娘さんがいたんだよ。美咲ちゃんって言ってね、本当にかわいい子で……。お父さんが亡くなった後、その仇みたいな権蔵不動産の社長に引き取られていったって聞いた時は、みんなで涙したもんだよ」


 三浦は手帳にペンを走らせながら、胸の奥で燻っていた確信が、炎となって燃え上がるのを感じた。


「仇の家に引き取られた、か……」


 その境遇は、どれほどの地獄だっただろうか。

 親を殺した男に「お父様」と呼び、媚びへつらい、従順な娘を演じ続ける日々。

 心が壊れてもおかしくない。あるいは、心を凍らせて「怪物」になるか。


 三浦は次に、当時その建設会社で働いていたという元従業員の男性に会いに行った。

 六十代後半のその男は、今は警備員のアルバイトをしていた。


「社長の葬儀の日……忘れもしねえ」


 男は焼酎のカップを握りしめ、憎々しげに語った。


「権蔵の野郎が焼香に来やがったんだ。まるでゴミでも見るような目で社長の遺影を見てやがった。……その横に立たされていた美咲ちゃんの顔、今でも夢に見るよ」


「どんな顔をしていたんですか?」

「泣いてなかった。小学生の女の子がだよ? ただじっと、権蔵の背中を睨みつけていた。……あの目は、子供の目じゃなかった。殺し屋の目だ」


 三浦は礼を言って、男のアパートを出た。

 空には一番星が光っていた。


 動機は、完璧だ。

 復讐。

 二十年越しの、人生を賭けた壮大な復讐劇。

 彼女は源造を殺し、そして今、夫である貴之を破滅させようとしている。

 源造の殺害現場に残された、貴之の指紋がついたコップ。神田クリニックの薬瓶。

 あれは、美咲からのメッセージだ。「私がやりました。でも、あなたたちには捕まえられない」という挑発だ。


「……参ったな」


 三浦はタバコに火をつけた。

 美咲が源造を殺したという直接的な証拠は、何一つ残っていない。実行犯としての彼女を挙げることは、今の警察の捜査能力では不可能に近い。彼女のアリバイは鉄壁であり、現場の証拠はすべて貴之と神田を指し示している。


 だが、貴之と神田の罪――横領、詐欺、薬物譲渡――は明白だ。

 美咲のシナリオ通りに動けば、警察は「悪」を裁くことができる。だがそれは、真の黒幕である美咲を見逃すことと同義だ。


「正義ってのは、何なんだろうな」


 三浦は紫煙を吐き出した。

 法で裁けない悪を、別の悪が裁く。

 美咲はそれを実行しているだけなのかもしれない。


 三浦は携帯を取り出し、部下に連絡を入れた。

「……ああ、三浦だ。捜査の方針を固める。ターゲットは権蔵貴之と神田恭介。横領と殺人容疑でフダを取れ。……美咲夫人については、引き続き監視だ。だが、手出しはするな」


 彼は電話を切り、夜の闇に消えていく煙を見つめた。

 12月1日。

 美咲が指定した「審判の日」に、警察もまた、動くことになるだろう。


          *


 検査から数週間が経ち、11月も終わりに近づいていた。

 権蔵家の屋敷では、奇妙な均衡が保たれていた。


 貴之は、勝利を確信していた。

 伝次郎が手配したDNA鑑定。その結果がもうすぐ出る。

 彼は毎晩のように飲み歩き、さらにレナとの密会を重ねていた。


「おい、美咲。お茶」


 リビングのソファにふんぞり返り、貴之がぞんざいに命じる。

 以前のような、腫れ物に触るような態度は消え失せていた。

 どうせあと数日で追い出す女だ。気を使う必要などない。


「はい、ただいま」


 美咲は従順に頭を下げ、お茶を淹れた。

 その背中に向かって、貴之は嘲るように言った。


「お前も可哀想な奴だな。一生懸命編み物なんかして。……そのベビー服、無駄になるかもしれないのにな」

「……どういう意味ですか?」

「いや? なんでもないさ。ただ、DNA鑑定の結果次第では、お前はこの家にはいられなくなるってことだ」


 露骨。

 貴之はニヤニヤと笑いながら、スマホの画面を見た。

 そこには、神田からのメッセージが表示されている。

 『準備万端だ。12月1日、楽しみにしてろ』


 神田もまた、夢を見ていた。

 借金の取り立てに追われながらも、「あと少しで逆転できる」という妄想にしがみついていた。

 貴之から巻き上げた金で一時的に利息を払い、首の皮一枚で繋がっている状態だ。

 彼にとって、この「審判の日」は、貴之を完全に支配下に置き、権蔵家の金庫の鍵を手に入れるための重要なイベントだった。


 レナもまた、自分の腹をさすりながら、ブランドショップのカタログを眺めていた。

 「私が正妻よ」

 根拠のない自信が、彼女を増長させていた。


 全員が、浮かれていた。

 美咲一人が、静かに時を待っていることに気づかずに。


          *


 美咲は寝室の窓辺に座り、編み棒を動かしていた。

 カチャ、カチャ。

 白い毛糸が、小さな帽子へと形を変えていく。


 お腹の子は、もうかなり大きい。

 時折、激しく足を蹴り出し、存在を主張してくる。


「もう少しよ。……あと少しで、あなたは奇麗になった世界へ出てくるの」


 美咲は窓の外を見た。

 庭の木々は葉を落とし、寒々とした枝を夜空に伸ばしている。

 嵐の前の静けさ。

 空気は張り詰め、重く淀んでいる。


 カードは揃った。

 貴之の横領証拠。

 神田の医療詐欺の証拠。

 レナとの不貞の証拠。

 そして、この子の証明。


 貴之がリビングで大声で電話している声が聞こえる。

 「ああ、来月には新しい車を買うぞ! ポルシェか、フェラーリか!」

 能天気な声。


 美咲は編み棒を置いた。

 白い帽子が完成した。

 それは、これから生まれてくる我が子への最初の贈り物であり、同時に、夫たちへの手向けの白装束のようでもあった。


「さようなら、貴之さん」


 美咲は電気を消した。

 闇の中で、彼女の瞳だけが冷たく光っていた。

 明日、12月1日。

 審判の日がやってくる。

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