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不妊治療3年目。夫が隠した「パイプカット手術の同意書」を見つけた件。だから、私は妊娠しました。  作者: 団田図


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第14話 開戦の合図

 初七日の法要は、冷たい雨が雪へと変わる中で執り行われた。

 権蔵ごんぐら家の広間には、重厚な読経の声が低く響き渡っている。

 祭壇に飾られた源造げんぞうの遺影は、集まった親族たちの腹の底を見透かすように、冷徹な眼差しを向けていた。


 喪主の席に座る貴之は、黒の喪服に身を包み、数珠を握りしめていた。

 その横に座る美咲の腹部は、喪服の上からでもはっきりと分かるほどに膨らんでいる。時折、周囲の親族たち――特に、源造の弟である伝次郎からの視線が、その腹部に突き刺さるのを肌で感じていた。


(ええ、気になるでしょうね。叔父様)


 美咲は伏し目がちに、心の中で冷ややかな笑みを浮かべた。

 源造という絶対的な重石おもしが取れた今、この場にいる全員が、欲望という名の牙を剥き出しにしようとうずうずしている。

 特に夫の貴之は、落ち着きなく身体を揺すり、時折、スマホを気にする素振りを見せていた。愛人レナの妊娠を知って以来、彼は万能感に酔いしれている。今の彼は、自分が「種アリ」であることを誇り(本当は無しだが)、正当な後継者を作った英雄気取りでいるのだ。


 読経が終わり、住職が退席すると、張り詰めていた空気が一変した。

 親族たちが茶菓子を手に雑談を始める中、伝次郎が咳払いを一つして立ち上がった。


「……さて。皆様、少しよろしいかな」


 その声は低く、しかし広間の隅々まで届くようによく通った。

 ざわめきが波が引くように収まる。

 伝次郎はゆっくりと美咲と貴之の前に歩み出た。その背後には、彼の息子であり、権蔵不動産の営業部長を務める仁斗じんとが、苦渋の表情で控えている。


「兄貴……いや、源造社長が亡くなり、我々は深い悲しみの中にある。だが、権蔵家という巨大な船を止めるわけにはいかない。今後のことについて、親族として明確にしておきたいことがある」


 伝次郎の視線が、美咲のお腹に固定された。


「美咲さん。君のお腹の子についてだ」


 美咲は顔を上げ、怯えたような表情を作って見せた。

「……私の子が、何か?」


「単刀直入に言わせてもらおう。……その子は、本当に貴之君の子なのかね?」


 会場がどよめいた。

 親族たちの間で、「まさか」「このタイミングで」という囁きが交わされる。

 美咲は口元を手で覆い、ショックを受けたように身を震わせた。


「叔父様……! なんてことをおっしゃるのですか。この子は、私と貴之さんの愛の結晶です。疑うなんて、あまりに酷すぎます!」


「疑いたくはないさ。だがね、美咲さん。会社の内外で妙な噂を耳にするんだよ。君たち夫婦が長い間不妊治療に苦しんでいたこと、そして……最近、君が別の男性と親しげにしていたという目撃談もね」


 嘘だ。そんな目撃談などあるはずがない。美咲の行動は潔白そのものだ。

 これは伝次郎が仕掛けたブラフであり、言いがかりだ。

 だが、その言いがかりこそが、貴之にとっては「渡りに船」だった。


 貴之が、バン! と畳を叩いて立ち上がった。

 その顔には、練習してきたであろう「苦悩と怒り」の表情が張り付いている。


「叔父さん! いくらなんでも失礼だ! 美咲は僕の妻だぞ!」


 貴之は大声で怒鳴った。だが、すぐに声をトーンダウンさせ、今度は美咲の方を向いて、縋るような目をした。


「……でも、美咲。叔父さんがここまで言うんだ。僕も……正直、不安がないわけじゃないんだ」


 来た。

 美咲は心の中で喝采を送った。

 貴之は、自分が当時は「種なし」であったと知っているからこそ、この子の父親が自分ではないと確信している。だが、それを言えば自分のパイプカットがバレる。だから、「叔父に言われたから仕方なく疑う」という形をとって、責任を転嫁しようとしているのだ。


「貴之さん……あなたまで……」


 美咲は涙を浮かべて貴之を見つめた。

 貴之は視線を逸らし、苦渋の決断を演じる。


「僕たちのためなんだ、美咲。これから生まれてくる子が、変な噂を立てられたままじゃ可哀想だろう? 権蔵家の跡取りとして胸を張って生きるためにも、ここは潔白を証明すべきだ」


 そして、伝次郎の方を向き、力強く頷いた。


「叔父さん。僕は美咲を信じています。ですが、親族の皆さんの不安を取り除くためにも……DNA鑑定を行うことに同意します」


 伝次郎が満足げに口角を上げた。

「賢明な判断だ、貴之君。……美咲さん、君も異存はないね?」


 美咲は俯き、震える肩を抱いた。

 会場の空気は、完全に「美咲の不貞」を疑う方向へと傾いている。

 ここで拒否すれば、それは「クロ」だと認めるようなものだ。


 数秒の沈黙の後、美咲は顔を上げた。

 濡れた瞳で、しかし毅然と、全員を見回した。


「……分かりました。そこまでおっしゃるなら、白黒つけましょう」


 美咲の声は凛としていた。

 それは、身の潔白を信じる妻の声にも聞こえたし、売られた喧嘩を買う女の声にも聞こえた。


「羊水DNA鑑定でよろしいですか? それならば、出産を待たずにDNA鑑定が可能ですわ。……ただし、結果が出た時、私を疑ったことを後悔なさらないでくださいね」


 その言葉に、伝次郎が一瞬だけ眉をひそめた。

 美咲のあまりの自信に、違和感を覚えたからだろう。

 だが、貴之は勝ち誇った顔を隠そうともしていなかった。


(後悔するのはお前の方だ、美咲。俺は当時、種なしだったんだ。結果は必ず『不一致』になる。そうすればお前は終わりだ!)


 貴之の心の声が聞こえてくるようだ。

 美咲はハンカチで涙を拭うふりをして、口元の笑みを隠した。


 そうよ、貴之さん。

 結果は『不一致』になるわ。

 でも、それが意味するのは、あなたの勝利ではない。

 あなたという人間が、根底から否定される地獄の始まりなのよ。


          *


 初七日から数日後。

 権蔵不動産の本社ビル、最上階の大会議室。

 定例の役員会議が開かれていた。

 上座――かつて源造が座っていた「社長席」には、当然のように貴之が座っていた。

 まだ正式な社長就任は決まっていない。だが、彼はその椅子にふんぞり返り、まるで王のような態度で役員たちを見下ろしていた。


「――で、今月の営業成績はどうなってるんだ? 仁斗じんと


 貴之は資料をパラパラとめくりながら、不機嫌そうに声を上げた。

 指名された権蔵仁斗――伝次郎の息子であり、営業本部長を務める男――が、静かに立ち上がった。

 仁斗は三十七歳。貴之より二歳年上であり、実務能力においては社内でも随一と評価されている男だ。

 だが、貴之にとって彼は目の上のたんこぶであり、劣等感を刺激する存在でしかなかった。


「はい。先月の売上は前年比九十五パーセント。主要因としては、湾岸エリアの開発遅延による販売スケジュールの後ろ倒しと、市場の冷え込みが……」


「言い訳はいいんだよ、言い訳は!」


 貴之は持っていたボールペンを机に叩きつけた。

 乾いた音が会議室に響き、役員たちがビクリと肩をすくめる。


「市場がどうとか、遅延がどうとか、そんなのは無能な奴の常套句だ。源造社長が生きていらした頃は、そんな数字で許されることはなかったぞ!」


 仁斗は唇を噛み締め、頭を下げた。

 

「申し訳ありません。……ですが、無理な営業攻勢はブランドイメージを損なう恐れがあります。今は地盤を固める時期かと」


「口答えするな!」


 貴之が立ち上がり、仁斗を指差した。


「お前はいつもそうだ。慎重だの堅実だのと言って、チャンスを逃している。だから営業部がたるんでるんだよ! 俺が社長になった暁には、営業部の体制を根本から見直させてもらうからな。……分かってるのか、従兄さん?」


 『社長になった暁には』。

 その言葉に、その場にいた伝次郎の目が鋭く光った。

 貴之は有頂天になっている。

 DNA鑑定の話が決まってから、彼は「美咲を排除し、自分が権蔵家を完全に掌握する未来」しか見えていない。

 仁斗のような優秀な血縁者を今のうちに叩いておき、マウントを取りたいのだ。


 仁斗は拳を握りしめ、震えていた。

 彼の方が、会社のこと、社員のことを深く考えている。貴之のような、横領と女遊びにうつつを抜かす男に、なぜこれほど侮辱されなければならないのか。

 だが、今の貴之には「源造の後継者(仮)」という威光がある。


「……承知いたしました。挽回できるよう、尽力します」


 仁斗は深々と頭を下げた。

 貴之は鼻を鳴らし、満足げに椅子に座り直した。


「分かればいいんだ。……ああ、それと。来週予定している広報イベントだが、予算を倍増しておけ。俺の社長就任の布石として、派手にやる必要がある」


「倍増……ですか? しかし、すでに予算は……」


「誰がやれと言ってると思ってるんだ? 次期社長の命令だぞ」


 貴之は仁斗の言葉を遮り、冷たく言い放った。

 その予算が、実際にはイベントのためではなく、彼の個人的な「穴埋め」や、愛人レナへの貢ぎ物に使われることを、この場にいる誰も知らない。

 ただ一人、伝次郎を除いては。


(……愚かな)


 伝次郎は手元の資料に目を落としたまま、内心で嘲笑した。

 貴之は自ら墓穴を掘っている。

 公私混同、パワハラ、そして能力の欠如。

 DNA鑑定の結果が出て、美咲が失脚したその瞬間、貴之の利用価値もなくなる。

 その時、この無能な男を玉座から引きずり下ろし、代わりに我が息子・仁斗を据える。

 そのための「ヘイト」を、今は十分に溜め込ませておけばいい。


「……では、次の議題ですが」


 会議は、貴之の独壇場のまま進んでいった。

 誰も彼に意見できない。

 裸の王様が、沈みゆく船の舵を握って、高笑いをしている。

 その滑稽で醜悪な光景を、会議室の壁に飾られた源造の肖像画だけが、無言で見下ろしていた。


          *


 その日の夕暮れ時。

 権蔵家の屋敷に、一人の訪問者があった。

 神田かんだ恭介きょうすけだ。

 高級ブランドのスーツを着こなし、手には立派な供物を持っているが、その目には隠しきれない卑しさが宿っている。


「奥様、この度は誠にご愁傷様です。……源造会長には、私のクリニックの開業時にも大変お世話になりまして……」


 神田は仏間に入ると、大袈裟にハンカチで目元を拭いながら焼香した。

 美咲は祭壇の脇に座り、静かに頭を下げた。


「ありがとうございます、神田先生。お父様も、先生のような優秀なお医者様に来ていただいて、喜んでいると思います」


「いやいや、私など……。貴之君の友人として、少しでもお力になれればと」


 神田は線香を上げ終わると、美咲の方に向き直った。

 その視線が、美咲のお腹にねっとりと絡みつく。

 

「……聞きましたよ、奥さん。DNA鑑定を行うことになったとか」


「ええ。親族の方々が、どうしても納得されないようで」


 美咲は困ったように眉を下げた。

 神田は心の中で「しめしめ」と舌なめずりをした。

 貴之から全て聞いている。これから行われる鑑定は、美咲を追い詰めるための茶番劇だ。神田自身も、その脚本の一枚を噛んでいる。


「それは心外でしょう。……実は、貴之君から相談を受けましてね。私が主治医として、その場に立ち会うべきではないかと」


「立ち会い、ですか?」


「ええ。羊水検査の結果は医学的な専門知識が必要です。それに、万が一の結果が出た場合……いえ、失礼。もし親族の方々が納得しない場合、私が医師として科学的な見地から説明をすれば、美咲さんの潔白も証明しやすくなるでしょう」


 神田の狙いは明白だ。

 彼は「審判の日」の特等席に座り、美咲が絶望する顔を拝みたいのだ。

 そして、混乱に乗じて貴之とレナの子供(実は神田の子)を売り込み、権蔵家への影響力を強固にするつもりなのだ。


 美咲は、神田の瞳の奥にあるどす黒い欲望を、正確に読み取っていた。

 この男は、ハイエナだ。

 死肉の匂いを嗅ぎつけて、のこのことやってきた。


(いいえ、あなたはハイエナですらないわ。餌よ)


 美咲はふわりと微笑んだ。

 それは、毒の花が咲くような、妖艶で危険な笑みだった。


「まあ、なんて心強い……。ぜひ、お願いしますわ、先生。私一人では、叔父様や貴之さんに言い負かされてしまいそうで、不安だったのです」


 美咲は神田の手を取り、縋るように握りしめた。

 神田はデレデレと鼻の下を伸ばし、美咲の手を撫で回した。


「任せてください。私が必ず、正しい結果を皆さんに知らしめてみせますよ」


 『正しい結果』。

 それは神田にとっては「不一致(美咲の不貞)」という意味だ。

 だが美咲にとっては、「真実の暴露」という意味だった。


「検査の結果が出るのは、十二月一日になります。……その日に、親族を集めて結果を開示することになっています」


「十二月一日ですね。予定を空けておきます」


 神田は満足げに頷き、屋敷を後にした。

 彼の背中を見送りながら、美咲は握られた手を強く拭った。

 まるで汚物を触ったかのように。


          *


 夜。

 美咲は自身の寝室で、編み棒を動かしていた。

 生まれてくる子供のための、白いベビーシューズ。

 羊毛の柔らかな感触が、指先を通して伝わってくる。


 十二月一日。

 審判の日が決まった。

 その日、この屋敷の広間で、全ての嘘と真実が暴かれる。


 貴之は、自分が勝つと思っている。

 伝次郎も、自分が勝つと思っている。

 神田も、レナも。

 全員が、自分こそがこのゲームの勝者だと信じて疑わない。


 美咲は編みかけの靴をお腹に当てた。

 ポコ、と内側から小さな衝撃が返ってくる。

 この子は、まるで出番を待ちきれないかのように、力強く胎動していた。


「……準備はいい?」


 美咲は誰にともなく問いかけた。

 部屋の隅に置かれたサイドテーブルには、一冊の分厚いファイルが置かれている。

 そこには、貴之の横領の証拠、神田との癒着の記録、パイプカット手術の同意書、そして……数日前に入手した、貴之とレナの密会写真も挟まれている。


 三浦刑事も動いている。

 彼が貴之の周りを嗅ぎ回るたびに、貴之は焦り、ボロを出している。

 今日の会議での仁斗への暴言も、その現れだ。

 恐怖心が彼を傲慢にさせ、視野を狭くさせている。


 嵐の前の静けさ。

 屋敷は静まり返っているが、その地下水脈では、マグマのような悪意が煮えたぎっている。


 美咲は立ち上がり、窓を開けた。

 冷たい夜風が吹き込んでくる。

 庭の木々は葉を落とし、冬の到来を告げていた。


 かつて、源造は言った。

 『情けは敗者の戯言だ』と。

 『奪われたくなければ、奪え』と。


 美咲の瞳が、月明かりを受けて鋭く光った。


「見ていて、お父様。……私が、全部片づけてあげる」


 彼女は窓を閉めた。

 ガラスに映った自分の顔は、もはや「従順な妻」のものではなかった。

 獲物の喉笛を食いちぎる瞬間を待ちわびる、美しき怪物の顔だった。


 審判の日まで、あと三週間。

 地獄へのカウントダウンは、誰にも止められない。

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